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ゴー!ゴー!アタラント号!! 映画☆おにいさんのBlog

映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.13 『帽子』

本日はお集まりいただきありがとうございます。

本日のテーマは「帽子」です。まず、帽子のイメージを皆さんに伺ったところ「出かける時に被る」、しかし、「出先で忘れてしまう」といった意見が多くでました。中には、「母がシャンソン歌手のような派手な格好をいつもしていたので、遠くから帽子しか見えてないけれど母親だと認識できた」といったエピソードも伺えました。帽子は、直射日光などから頭を守るといった役割もありますが、それより「ファッション」として頭に被る装身具としてのイメージをお持ちの方が多かったです。

 

●『THOSE AWFUL HATS(迷惑帽子)』、D・W・グリフィス、アメリカ、1909年
 『THE NEW YORK HAT(ニューヨークの帽子)』、D/W・グリフィス、アメリカ、1912年

 最初に二本続けてご覧いただきます。どちらも帽子が「都市の流行の象徴」として描かれています。監督はクローズアップや並行モンタージュ等の映画技法を確立したことから”映画の父”と呼ばれるD・W・グリフィス監督です。1909年に撮られた『THOSE AWFUL HATS』は、シルクハットの男性と派手な大きい帽子を被った婦人らが映画館に入って来ますが、彼女らが帽子を取らないために強制的に排除されてしまうというとても可笑しい映画です。もうひとつの1912年に撮られた『THE NEW YORK HAT』は、ハーディング夫人が亡くなったとき、牧師へ「夫はケチだから娘が欲しいものがあるようだった買ってあげてほしい」といった内容の手紙とお金を送ります。地味な帽子しか持っていない娘は陳列窓に飾られたニューヨークの最新の帽子を欲しがります。それを見た牧師は買ってあげるのですが、それがゴシップとなって村中に広がり大騒ぎとなってしまう一巻物の映画です。主演は”アメリカの恋人”と謳われたメアリー・ピックフォードです。

 

『THOSE AWFUL HATS』は豪華絢爛な帽子を取らない女性をクレーンで強制的に排除する様子が面白いですね。映画館のスクリーンに映画がしっかりと映っており画面の奥行きが無いためのっぺりとした印象を受けますが、女性の帽子が登場し出すと画面に奥行きと運動がもたらされます。最後に、UFOキャッチャーのようにクレーンが上から降りてくることで、それまで弛緩していた空間が熱狂に包まれ映画は終わります。
 『THE NEW YORK HAT』は、蓮實重彦氏によると、帽子を通して初めて「都市と地方」を明確に主題にした作品とのことです。ご覧頂いたとおり、田舎娘がショーウインドウに飾られた帽子がお洒落な都会のイメージと結びついています。

 

●『その夜の妻』、小津安二郎、日本、1930

 メアリー・ピックフォードが都会の帽子に憧れたように、アメリカ映画に憧れた映画監督が日本にもたくさんいました。例えば、小津安二郎監督です。小津監督というと「カメラは固定」「ローアングル」「静か」「日本的」「様式美」といったワードで語られることもありますが、良い意味でそのようなイメージが覆す映画を撮っています。まるでギャング映画であって、それはヌーヴェル・ヴァーグよりもおよそ30年早い、アメリカ映画の真似、模倣となっております。
 主演の岡田時彦さんは、「並ぶ」で紹介した小津安二郎監督の『東京の合唱』でも主演していました。「傘」でご紹介した『秋津温泉』に、岡田時彦さんのご息女である岡田茉莉子さんが主演していましたが、抜粋でご覧いただいたシーンにも印象的な帽子がありました。
 『その夜の妻』は、病気である娘の治療費を捻出するため、強盗をしてしまうサラリーマンの話です。強盗を働いたあと、娘の元へ帰ろうとタクシーに乗ります。しかし、そのタクシーの運転手が刑事だったため、夫婦の住む家が見つかってしまう場面からご覧いただきます。

 八雲恵美子がベッドから銃を取り出し、刑事の背中に突きつけます。一度離してから再度突きつけ銃を奪い、2丁拳銃を構える八雲さんには鳥肌が立ちますね。刑事に銃を奪われたところまでご覧いただきました。八雲さんが「しまった!」とエプロンを握りしめたように、私たちも手に汗握る展開がこの後も続きますので、是非お時間あるときにご覧いただきたく思います。
 帽子についてですが、刑事は岡田時彦の帽子によって部屋にいることを突き止め、それを和服姿の八雲恵美子の頭に載せます。和服に白いエプロン姿の八雲恵美子がソフト帽を被せられた姿は、蓮實重彦氏が指摘しているように、『勝手にしやがれ』でジーン・セバーグがベルモンドのソフト帽を被った際に感じる魅力的なアンバランスさに似ています。ゴダールは『その夜の妻』を観ていないと思われますが、ゴダールが小津を真似したと言いたくなりますね。
 1930年の日本で、和服姿の女性が洋装の装身具であるソフト帽を被せられる。文化的には決してありえない組み合わせだからこそ、その不均衡さが刑事に追いつめられる八雲恵美子の感情とが相俟って、激しく動揺させられてしまいます。
 帽子という文化的な象徴を帯びたものが異なる文脈に置かれたときに起こる不均衡さをご覧いただきました。

 『その夜の妻』と同じく、小津監督は『非常線の女』というフィルム・ノワールを撮っています。こちらにも印象的な帽子が出てきますので、是非ご覧ください。

 

●『いぬ』、メルヴィル、フランス、1962

 先ほど話に挙がった『勝手にしやがれ』に出演しているジャン=ピエール・メルヴィル監督もアメリカ映画に強い影響を受けています。
 監督の本名は、メルヴィルではなく、グランバックといいます。当時のフランスは激しい反ユダヤ主義が政治的背景にあり、ユダヤ人である監督は名前を隠す必要があったそうです。そこで、敬愛していた、『白鯨』等で有名な作家ハーマン・メルヴィルから名前を頂き、メルヴィルと名乗ったそうです。
 メルヴィル監督は自主製作で多くの映画を撮りました。親族の遺産を用いるのでなく、加えて助監督の経験もなく、自主製作で商業的に成功した最初の監督ではないでしょうか。なおその後インディペンデントで映画を制作を行う監督は、例えば、シャブロル、トリュフォーゴダールキューブリック、カサヴェテス、スコセッシ等がいます。
 ご覧いただく場面は、ギャングであるセルジュ・レジアニはジル殺しとヌイイでの強盗を起こしますがその後、仕事仲間で友人のジャン=ポール・ベルモンドの密告によって捕まってしまいます。レジアニはなぜか裁判にかけられることなく釈放されるのですが、それは裏切ったと思われたベルモンドが裏で彼を助けるために尽力したおかげでした。その種明かしをベルモンドがレジアニへ説明する場面からご覧いただきましょう。

 ジャン=ポール・ベルモンドの帽子がころころと転がって終わります。登場する男たちはアウトサイダーとしてスーツにハットを恰好良く被っています。帽子は斜めに被られたり顔をすっぽりと覆ったりと、登場人物の表情に彩りを加えてきました。そのような帽子を被った男たちは、「この仕事は最後が悲惨だ」というベルモンドの言葉どおり一人の例外も許さず、死ぬなり捕まってしまいます。
 引退後気ままに暮らすため、ベルモンドが揃えていたであろう豪華な調度品が飾られた部屋を、帽子が転がって終わる。アウトサイダーを象徴してきた帽子が、頭から離れ、転がることを終えたとき映画も終わりを告げるのは、当然のようにも、終わりとしてこれ以外無いようにも思えます。

 

●『夕陽のガンマン』、セルジオ・レオーネ、イタリア、1965

 日本やフランスにアメリカ映画の信奉者がいたように、イタリアにもアメリカ映画の信奉者がいます。中でもレオーネ監督はイタリアで西部劇を撮ってしまいます。『夕陽のガンマン』の前作である『荒野の用心棒』はマカロニ・ウエスタンの大ブームを引き起こし、ヨーロッパで大スターとなったクリント・イーストウッドのギャラは、1.5万ドルから5万ドルまで3倍以上に跳ね上がったそうです。
 監督のセルジオ・レオーネは、映画監督の父を持ち、ラオール・ウォルシュウィリアム・ワイラー等アメリカ人監督のイタリアでの映画製作に関わっていました。クレジットが付かない映画を何本か監督した後、1961年に処女作を撮り上げると、1964年に『荒野の用心棒』、1964年に『夕陽のガンマン』、1966年に『続・夕陽のガンマン』を撮り上げます。
 ご覧いただく場面は、賞金稼ぎのイーストウッド演じるモンコとリー・ヴァン・クリーフ演じるモーティマー大佐はそれぞれ殺人鬼のエル・インディオを追いかけ街にやってきます。インディオの動向を探っている最中にお互いの存在に気付く場面からご覧いただきます。

 ジョン・フォードの映画に出てきそうな情報通の老人と中国人のウェイターが面白かったですね。そこから二人のやり取りが始まります。
 リー・ヴァン・クリーフ帽子を拾おうとすると、イーストウッドが帽子を撃って吹き飛ばす。帽子に近寄り拾おうとすると、また吹き飛ばす。次第にお互いの距離がどんどん離れていきます。これまでの衣装としての帽子とは異なり、帽子が力の誇示に使われています。帽子の本来の使い方とはまったく関係がありません。本当に帽子があのように吹き飛ぶのかわかりませんが、銃で撃った帽子が舞う様子はなぜか説得力があります。これがスカーフやブーツでは成立しない。帽子だから面白いシーンではないでしょうか。

 

●『天才スピヴェット』、ジャン=ピエール・ジュネ、フランス=カナダ、2013

 グリフィス監督が扱った、「都市と地方」を象徴する帽子が出てくる最近の映画をご覧いただいて終わりたいと思います。
 ジャン=ピエール・ジュネ監督の『天才スピヴェット』です。フランスと日本でヒットした『アメリ』で有名なこの監督が初めて3Dで撮影した作品です。
 予告編にあるように、モンタナの牧場に住む10歳の天才科学者スピヴェットが、ワシントンで行われる授賞式に出席するために家出をするお話です。無事に授賞式に出席しスピーチを終えたスピヴェットは、賞を与えたスミソニアン学術教会にコマーシャルに利用されメディアに頻繁に露出します。TV出演する場面からご覧いただきます。

 本日ご覧いただいたグリフィス監督や小津監督と比べてどちらが映画として3Dかわかり兼ねますが、観客を楽しませようとする想いが伝わる映画です。
 両親と和解し、父親におんぶされたスピヴェットは父の帽子を自分の頭に乗せます。現代において未だにカウボーイの恰好をしている父から帽子を取り、被ることで、弟の死を乗り越えつつ父の想いを継承するというシーンでした。

 今回ご覧いただいた映画は、グリフィス監督の作品以外はすべてアメリカ以外の国で撮られた作品です。日本やフランス、イタリア等で撮られています。ある場所で撮られているけれども、映画には「無国籍性」と呼べるようなものが宿っています。もちろん実際には「東京」なり「パリ」なりで撮られてたことは分かりますが、厳密に特定することはでき兼ねます。ある種、誰でも、どの場所でも成立するように思えます。映画の中では、時代も空間も抽象化されてしまっているということができるのかもしれません。しかし、「抽象化されている」とはどういうことなのでしょうか。映画であるからには、画面には具体的な「なにか」が映っているはずです。当たり前ですが、抽象化した概念はカメラで撮ることができないからです。抽象化された顔は撮れません。つねに具体的な俳優の顔しか撮ることができません。では、今回ご覧いただいた映画が私たちに与える「抽象化された」という印象はどこからくるのでしょうか?
 それは、監督たちが影響を受けたと述べる、グリフィスを始めとするアメリカ映画を根源とした「映画術」にあるように思えます。現在においても世界の多くの国でアメリカ映画は観られていますが、その根底にあることは「動き」や「かたち」でみせることではないでしょうか。そのイメージに影響を受けた各国の映画監督は、「椅子に座る」「物を拾う」「走る」といったありふれた動作を抽出し、自分なりに映画の中で表現している。西部劇なりフィルム・ノワールといった「ジャンル」の枠組みがありながら、またはそれがあるゆえに、「無国籍性」を宿した映画になってしまうのは、そういった「動き」でみせることをアメリカ映画から学んだからだと思われます。
 そして、「帽子」といった風俗性の指標となりうるようなものだからこそ、逆にそれを消すこともありえ、こうした「無国籍性」と強く結びついていると考えられるのではないでしょうか。

 以上で、映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.13「帽子」を終了したいと思います。これからも「無国籍性」に留まらない「帽子」の様々なニュアンスを感じながら、映画を楽しんでご覧頂ければ幸いです。本日はご来場いただきありがとうございました。

(シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った)

【告知】映画おにいさんのシネマ・カフェ vol.13「帽子」

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日射しを防ぐために頭に被る装身具として以上に、

お洒落であったり、個性を強調するためのものである帽子。

映画の中にも帽子はたくさん出てきます。

象徴的な意味を帯びてしまうものであるゆえに、

本来の用途でない使われ方をされたとき、

つよく印象に残ります。

なぜこれほど帽子によって心が乱されるのか。

この不思議な、艶めかしい体験を

映画の抜粋を観ながら考えてみましょう。

ファシリテーター:映画☆おにいさん(内山丈史)

時間:9月26日(土)18:30~

場所:水曜文庫

   〒420-0839
   静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F

料金:800円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-266-5376、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.11「傘」

本日はお集まりいただきありがとうございます。

今回のテーマは「傘」です。雨具としての傘は、梅雨のこの時期はよく使いますね。女性の方は春夏にかけて日傘を使われる方もおおいのではないでしょうか。このような身近な道具の傘が映画ではどのように用いられているのでしょうか。傘が印象的な映画をご覧頂きながら、考えてみましょう。

 

●『鏡の女たち』(吉田喜重、2002)

 吉田喜重監督は、大島渚監督、篠田正浩監督らとともに松竹ヌーヴェルヴァーグの一員とされています。吉田監督は松竹で木下惠介監督や大庭秀雄監督の助監督を経て監督になったのですが、映画監督になりたくて松竹に入社したわけではなく、生活のため、たんなる就職口としてだと仰っています。そのためでしょうか。吉田喜重監督の映画は、映画が自明に在るものとしてではなく、その存在を疑うようなものとして作られているように思えます。吉田監督がよく仰っている問い、「映画とは何か?」という問いが1カットごとになされつつ作られているように感じられます。
 吉田監督は映画に関する批評やエッセイも多く執筆されており、センター試験にも出題された『小津安二郎の反映画』という名著があります。会場である水曜文庫さんにも吉田監督が書かれた『自己否定の論理・想像力による変身』が置かれていました。

 『鏡の女たち』は、エミリ・ブロンテ原作の『嵐が丘』以来、13年ぶりの新作であり、今のところ吉田監督の最新作でもあります。『鏡の女たち』主演の岡田茉莉子は、吉田監督の奥様でもあり、シネマ・カフェvol.8「並ぶこと」のとき上映した『東京の合唱』で主演していた岡田時彦さんのご息女です。では、冒頭からご覧頂きましょう。

 (動画は映画の予告編)

 岡田茉莉子らが田中好子のアパートに入るまでの場面をご覧頂きました。閑静な住宅街から始まるこの映画では、冒頭からしばらく岡田茉莉子の顔が傘に隠れて見えません。どこかへ向かっている彼女からは、とくべつ急いでいるようには見えないものの、追い立てられる印象を受けます。そこへ、不審な車からの視線も絡んでくることでより一層緊迫した雰囲気をかたちづくっていきます。役所へ着くと失踪した娘がみつかったと説明をされ、警察へと向かう場面がつづきます。取り立てて何かが起こっているわけではないこの一連の流れの中でさえ、1カット毎どこかちぐはぐな、異様な印象を受けます。そもそも役所の受付で説明を受ける岡田茉莉子に「奥さん!」と声をかけて近よる室田日出男は、この2カットの間で瞬間移動しているようにも見えます。通常であれば違和感なく見せられるはずであるのに、吉田監督は若干の”ずれ”を映画に残すことによって、一連の動きを「自然」に見せるという映画の技法に疑いの眼差しを向けているようにも思えます。

 さて、「傘」ですが、冒頭から岡田茉莉子の顔へ視線が注がれるのを妨げ、サスペンスをかたちづくります。そして私がもっとも印象的だと感じる「傘」は、予告編にもあるように、田中好子を傘の縁でいったん隠したあと、失踪した娘かどうか確かめるように縁を再度上げていくカットです。視線そのものを映すことは映画にはできないけれど、傘の縁を上下させることによって視線が表されています。同時に、ほんとうに自分の娘かどうか確信を持てない岡田茉莉子の自信の無さも感じさせます。傘によって、私たちの眼差しと岡田茉莉子の眼差しが不意に一致してしまう瞬間が顕われるカットだと思います。

 

●『百年恋歌』(ホウ・シャオシェン、2005)

 日本にフランスのヌーヴェルヴァーグに対応するような運動があったように、台湾にもヌーヴェルヴァーグに対応する運動がありました。それは「台湾ニューシネマ」と呼ばれるものです。それは主に80年代から90年代にかけて展開されました。台湾ニューシネマに代表される監督は、先日シネマイーラで『恐怖分子』が上映されましたエドワード・ヤン監督や、本日ご覧頂くホウ・シャオシェン監督です。

『百年恋歌』は三編のオムニバス映画からなっています。それらのエピソードは1966年が舞台の「恋愛の夢」、1911年の「自由の夢」、2005年の「青春の夢」と、それぞれに年と名前が与えられており、三編に主演しているカップルはすべて同じ俳優によって演じられています。本日は第一話「恋愛の夢」から、スー・チーチャン・チェンから送られた恋文を読む場面から第一話の最後までご覧頂きましょう。

やっとのことで再会を果たし、スー・チーの仕事終わりに朦々とたつ湯気の向こうで食事を済ませた二人は、電車に乗ろうと駅を訪れるもすでに電車はなくバスを待つことにします。バス停には屋根がないため、二人は相合い傘をして待ちます。男性が傘を持つ手を変えたかと思うと、カメラは初めて人物の反対側へ周り、繋がれる手をクローズアップで収めます。女性が傘から少しはみ出て濡れていますが、バッグをパタパタさせて嬉しそうなのがいいですね。空間を限定したため、二人の距離が近しくなる。それが心的距離の変化とも反響しあい、より感動的である場面です。

 

●『秋津温泉』(吉田喜重、1962)

初めに吉田監督の『鏡の女たち』をご覧頂きましたが、次にご覧いただく映画は、ちょうど「松竹ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれていた頃の作品『秋津温泉』です。この映画で吉田監督と岡田茉莉子は初めてタッグを組みました。岡田茉莉子の映画出演百本記念作品として企画されたこの映画において、岡田茉莉子は企画・プロデューサー・衣装・主演を務めています。

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 戦争が終わり長門裕之の体調が良くなった場面から岡田茉莉子の入浴シーンまでご覧頂きました。「傘」は、バーから飛び出していった岡田を長門が追いかけていった場面で登場します。岡田が雨に濡れないように長門の傘へ入れようとしますが、岡田は長門の傘の下に入らず距離をとります。長門は何度も傘に入れようとしますが、岡田も繰り返し離れていく。『百年恋歌』では傘によって限定された空間を共有することで二人の距離が縮まったことが表現されていましたが、『秋津温泉』はその逆で、傘によって限定された空間を二人は共有せず、追いかけが行われます。訴えかける長門と拒む岡田の関係性が、二人の会話だけでなく、傘によっても表現されています。

 

●『海外特派員』(アルフレッド・ヒッチコック、1940)

 映画における傘がつねにカップルのためにあるわけではありません。傘そのものに目を凝らすことによってはっと驚くことがあります。『シェルブールの雨傘』のような色彩豊かな映画に出てくる、色とりどりの傘に魅了されるということもありますが、今回ご覧頂くヒッチコック監督の『海外特派員』には地味というか、没個性的なこうもり傘しか登場しません。そのような傘が、ヒッチコック監督にかかると途端に映画的な、新鮮な驚きを観客に与えてくれる舞台装置となります。

 『レベッカ』につづく渡米二作目の『海外特派員』は、前作に比べれば低予算でありながら、化かしあいの応酬がなされ、その中で不意に露わになる人間性に心を強く動かされる映画です。物語は、クビになりかけていた新聞記者である、ジョエル・マクリー演じるジョン・ジョーンズが、海外特派員に任命され戦争勃発間近のヨーロッパに派遣されるというように始まります。 ロンドンへ赴き、現地の先輩特派員と出会う場面からご覧頂きましょう。

 

  ヨーロッパの平和の鍵を握る人物アルバート・バッサーマン演じるヴァン・メアが撃たれてしまい、その犯人を追いかける場面までご覧頂きました。
 雨の中、現れたヴァン・メアの写真を撮影しようとカメラマンが近づきます。カメラマンの機材がクローズアップされると、拳銃が握られています。ここから物語が一気に加速するぞと観客に予告するような、目の覚めるクローズアップです。発砲するカメラマンと、階段を転げ落ちるヴァン・メア。犯人は人混みに紛れて逃げます。ここで逃げていく犯人のすがたは一切見えませんが、私たちはどこに犯人がいるのかはっきりと確認できます。それは弾む傘によってです。ご覧頂いた先の二作品の「傘」とは異なり、パーソナルスペースを表す傘ではありません。傘という”モノ”が持つ性質を活かし、人を押しのけていく犯人の運動が、魚が湖の水面を泳ぐときにおきる波紋のように、可視化されています。傘の持つ「役割」を扱ったのではなく、傘の「しなり」に注目したカットであり、画家が絵の具の物質性を活かした絵を描くように、ヒッチコックは「傘」の持つ性質を活かした表現をしています。

 

●『鴛鴦歌合戦』(マキノ正博、1939)

  『海外特派員』と同時期の日本では、1938年には国家総動員法が制定され、39年には映画製作が政府の管轄下におかれる映画法が施行されています。その1939年に撮られた映画『鴛鴦歌合戦』をご覧頂きます。と言っても堅苦しい映画ではなく、時代劇でしかもミュージカルという、とても楽しい映画です。
 監督のマキノ正博は「日本映画の父」と言われるマキノ省三の息子で、幼い頃から映画が身近にあったので子役として幼い頃から映画製作に関わり、監督になった方です。生涯に監督した本数は260本あまりと今では考えられないような本数です。扱ったジャンルも幅広く、喜劇からメロドラマ、時代劇、任侠、ミュージカルと様々なものを監督しています。早撮りが得意でかつ面白いものをなんでも撮るマキノ監督の映画は「早い、安い、当たる」と、いま聞くと牛丼のコピーのようですが、簡単に撮っているように見えるのに人気があったゆえか、そのように揶揄されてもいました。
 高倉健が主演していた『昭和残侠伝 死んで貰います』や、我等が次郎長親分を描いた『次郎長三国志』等が今でもレンタルビデオ店でご覧になることができます。

 なお、この映画の撮影監督は、マキノ監督と小学校の同級生でもあった宮川一夫です。小津安二郎監督の『浮草』や、『雨月物語』『山椒大夫』『近松物語』など溝口健二監督の作品の多くを撮影しています。

  映画の冒頭から、雨が降ってきたため急いで傘をしまおうとする場面までご覧頂きました。「ちぇ!」という市川春代がとても可愛らしいですね。片岡千恵蔵が出ているシーンは、片岡千恵蔵の体調が悪かったために数時間で撮り上げたというから驚きです。
 志村喬演じる貧しい武士の職業が、「絵日傘」作りでした。それによって社会的な階級をある程度説明するという役割をこの映画の「傘」は持っているのかもしれません。しかし、この映画で乾かしている傘の量はそれにしても多すぎます。乾かされている傘も影の方向や俳優の立ち位置から考えると、かならずしも南向きに置いてあるわけではないようです。むしろ傘はきれいにカメラの方向へ向けられており、あふれんばかりに画面を覆い尽くしています。それは最後には乱闘騒ぎが起きる家の前の広場だけでなく、建物の外観や室内にまで浸食しています。カメラが室内に入っても、傘は画面の多くに登場します。この過剰さはたんに階級の説明というだけでは不自然です。広場では、画面の手前に置かれた傘は固定されていますが、画面奥の傘は風に吹かれて時折揺れて画面を活性化させもし、傘がなくなれば同一の空間とは思えないほどすっきりして見えます。室内においては傘が置いてあることで貧乏人の簡素な長屋に奥行きをもたらします。「撮影の効率」と「画面の充実」を両立させるための「傘」なのではないでしょうか。

 以上で、映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.11「傘」を終了したいと思います。傘が持つ表現の一部分を観てきましたが、そこには収まらない「意味」は、ご覧いただいた映画、映像の一部分でさえ、溢れております。むしろ傘以外に惹かれた方も多くいらっしゃったように、映像の持つ多様性吉田喜重監督の言葉でいえば「限りなく開かれた映像」)の様々なニュアンスを、これからも傘に注目しつつ、楽しんでご覧頂ければ幸いです。本日はご来場いただきありがとうございました。

(シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った)

 

〈おまけ〉

【告知】映画おにいさんのシネマ・カフェ vol.12「平手撃ち」

「平手撃ち」。
つまり、ビンタです。
通常ビンタすること、されることは滅多にありません。
それが為されるときは感情が昂ったときが多く、
ビンタのあと、関係性ががらりと変わってしまうことがしばしばです。
このように、強いインパクトをもつ「平手打ち」。
映画ではどのように描かれているのでしょうか。
参考映像をご覧頂きながら話し合います。

(三島で行った第9回「平手打ち」を改変して行います。)

●日時:8月1日 19:30〜21:30

●会場:どまんなかセンター 地図

●お問い合わせ(★→@)

takeyama.drifters★gmail.com (内山)

映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.10「椅子」

本日はお集まりいただきありがとうございます。

今回のテーマは「椅子」です。最初に自己紹介と椅子に対するイメージを参加者の皆様に伺った際、椅子は”座る”ものであり、それが長時間に渡ると”腰痛を引き起こし”たり、そこから”身体を拘束するもの”といったイメージあるといった意見まで出ました。これらのイメージは本日の上映作品にも関係してくる重要なものではないかと思います。

●『ウィンダミア夫人の扇』、エルンスト・ルビッチ、1925

 水曜文庫さんで行ったシネマ・カフェvol.8「並ぶこと」のときには、ルビッチ監督の『結婚哲学』をご覧頂きましたが、この映画はその翌年に撮られた作品(ルビッチ監督はその二年間だけで他に3作品撮影しています)で、オスカー・ワイルドの戯曲が原作となっています。


(実際に観た動画とはバージョンが異なります)

 映画の始めからドアベルの押し方の違いを描いた場面までご覧頂きました。ドアベルの押し方が、初めは紳士的であったのに親密になるに連れどんどん乱暴になっていくのが面白いですね。

 夕食の席順に悩むウィンダミア夫人から始まり、ウィンダミア夫人がソファに座っていた痕跡である扇を、アーリア夫人が取りにいくというクライマックスを持つこの映画は、ご覧頂いたように、至るところに「椅子」と”座ること”が出てきます。とくに競馬場のシーンではそれが表れていると思います。
 観衆はアーリア夫人へあらゆる角度から視線をそそぎ、そこから得た情報が集約され、噂が形成されていく恐ろしい場面です。この場面では、椅子が、初めに参加者の方からのご意見にあったように、「身体を拘束するもの」として登場します。それは、観衆から好奇の目で見られながらも競馬場を自在に移動していたアーリア夫人も例外ではありません。一旦椅子に腰を落ち着けた人々はそこから動く権利は与えられず、移動するためには競馬場から退出しなければなりません。
 ご覧いただいた場面では、椅子に座った人々は首を傾けたり双眼鏡を使っていましたが、近づかなかったのでしょうか。つまり、どうして登場人物の面々は動かなかったのでしょうか。

 それは「椅子に拘束されていたから」と言えるのではないでしょうか。
 ふつう、対象が見えなければ椅子から立ったり移動すればいいわけで、なぜ彼らはそうしなかったか? ルビッチ監督はどうして人を椅子に座らせ、縛り付けていたのでしょうか? この映画の中盤で、アーリア夫人が社交界に復帰すべくウィンダミア夫人の誕生日パーティーに潜り込んだ際、多くの男性によって人垣を作らせ、アーリア夫人の人気を”かたち”で表し、逆にクライマックスでは、扇を取り来たアーリア夫人の周りから次々に人物を退けることで、あれほど固執していた社交界での人気を失っていくさまを、人物移動によって見事な”かたち”で表していました。そのルビッチ監督が、とくに理由もなく人を動かさないのはおかしいように思えます。
 おそらく、ルビッチ監督は、各々の登場人物の視線を限定・固定し、観ている対象をわかりやすくしたかったのではないでしょうか。つまり、椅子に座らせ身体を拘束することで、ルビッチ監督は登場人物の関係性を変化させず、なおかつ関係性を明示したかったのではないでしょうか。人物の位置と視線が固定されているため、誰が、何に興味を持っているか観客はわかりやすい。例えばウィンダミア夫人は、勝手な噂をされるアーリア夫人をかばった夫ウィンダミア卿に不信感を持ちます。そのアーリア夫人とはいったいどういう人なのだろうと、ウィンダミア夫人は彼女へ視線を向けますが、人垣が邪魔で見えません。そのためよりいっそう夫への不信感が強まります。だが、席を立つと彼女への関心を示すことにつながってしまう。ここでウィンダミア夫人が抱くアーリア夫人のイメージは、自分の目で見た印象によるものではなく、隣に座る貴婦人達によって語られる印象によって形成されていきます。
 いよいよ競馬が始まり、馬たちが走り出します。それまで椅子に拘束されていたため生じていた停滞感が一掃され、映画へ爽快な運動がもたらされます。短いカットですが、開放的で印象に残るカットです。しかし主要な登場人物たちは、立ち上がって盛り上がる周囲とはうってかわり、椅子から立ち上がりもせず、じっとパンフレットを読む”振り”をしています。それまで画面によって示された関係性のため競馬どころではなくなっていることが、”かたち”として表されています。そして、その”かたち”に「椅子」が深く関与しています。

●『赤線地帯』、溝口健二、1956

 椅子はもともと西洋の家具です。日本間で座るとなると、床(畳)に直接座ります。おなじ「座る」という動作であっても、部屋の種類が異なってきますとアクションや画面構成、編集も変わってくるのではないでしょうか。そこで、日本間と洋間のどちらも出てきて「椅子」が重要な舞台装置となる映画、溝口健二監督の『赤線地帯』をご覧頂きます。

 この映画は溝口監督の遺作であり、売春禁止法が取り沙汰された1950年代、吉原の「夢の里」という売春宿で働く娼婦たちの話です。

 一度は恋人である下駄屋と結婚するため夢の里を出て行ったより江(町田博子)が、嫁ぎ先でろくに眠ることもできないほど働かされるのに耐えきれず戻って来る場面から、ゆめ子(三益愛子)が狂ってしまう場面までご覧頂きました。
 売春禁止法の報道について娼婦に対し店の主人が、「自分たちのしていることは社会事業だ、政府の目が届かないところを自分たちがやっているんだ。政治家なんて演説ぶっているだけで食いっぱぐれねえ奴らよりも自分たちの方が心配しているんだ」といった旨の演説をするとき、まさにその政治家と彼らの関係性が、娼婦に身体を売らせ金で縛り付ける主人と娼婦たちの関係性と大差ないことに皮肉を感じますが、売春禁止法の成立不成立といった作品の背景とともに、『赤線地帯』においては「椅子」に座ることが物語上重要な契機となっています。
 『赤線地帯』において、日本間は事務所や生活空間といった内部空間として、一方、洋間は夢の里といった人の往来する外部空間として存在します。主要な登場人物を除いてお客が一人も出てこない夜の中華ソバ屋に置かれる椅子は、ときに低いポジションから見つめられ、娼婦と彼女たちの家族が直面する過酷な現実を描く舞台となります。
 そして、物語の上で”断絶”とも呼びうる出来事が起こるとき、そこに「椅子」が絡んできます。ご覧頂いた場面でいえば、ミッキー(京マチ子)のところへ父親が訪ねて追い返されたときも、父親は始め椅子に座っていました。やり取りの中で、二人は床やベッドの端に座っていきます。さらに、ゆめ子が息子の修一から縁を切られるときも、ゆめ子は人目に付かないであろう空き地に置いてあった廃材のようなものに腰をかけました。どちらも、今後ふたりは二度と会うことはないだろうと思えるほど決定的な”断絶”が起こったシーンでした。溝口監督は、移動しやすい「立つ」状態よりも、移動がしにくい「座ること」をはさむことで関係性の変化をわかりやすく顕していったのではないでしょうか。
 椅子が断絶するのは人物の関係性だけではありません。息子の修一から縁を切られたゆめ子が店内の丸椅子に座っていると、馴染みの客が声をかけます。それに対し、ゆめ子は馴染み客の頭を叩いて急に唄いだし、狂ってしまいます。夢の里が騒然となり多くの人が駆けつけるも状況をうまく飲み込めず、呆然と立ち尽くすしかない中、ゆめ子はひとり欄干に腰を下ろします。ただたんに「座っている」だけですが、だからこそ余計に恐ろしい場面となっています。
 ゆめ子に代わり次に丸椅子へ腰を下ろすのが、新入りのしづ子であるのも印象的です。娼婦となって初めて客を取る晩、しづ子は、他に手だてもないのだからと客を取るようにミッキーから促されるまで丸椅子に座っていました。このとき丸椅子に座っていたからこそ、しづ子は貧乏ながらも楽しく過ごしただろう九州での暮らしを思い切り、娼婦として客を取るために立ち上がります。

 逆に、男たちから金を騙して奪い取った、若尾文子演じるやすみは夢の里では椅子に座らずにいたため、騙した炭屋の青木から首を絞められながらも、意識がなくなるという代償だけで済み、無事に娼婦から足を洗うことができたとも言えるのかもしれません。
 さまざまなかたちの座ることが出てくる中で、不吉な、断絶を引き起こす「椅子」へ「座ること」をご覧いただきました。

 

●『季節のはざまで』、ダニエル・シュミット、1992

 椅子に座ることが身体を固定するのではなく、逆に、椅子に座ることで時空間を自在に移動する、ダニエル・シュミット監督の『季節のはざまで』を観ましょう。
 監督のダニエル・シュミットは1941年スイス生まれ、幼少期から映画やオペラ等に親しみ、1962年にベルリン自由大学に入学します。1966年、ライナー・ベルナー・ファスビンダーと出会い、彼らとファスビンダーの妻で女優イングリッド・カーフェンの三人で1972年に「タンゴ・フィルム」を設立しました。映画以外にもオペラ演出家として活躍もしており世界的に評価されています。1995年、日本で歌舞伎役者の坂東玉三郎や舞踏家の大野一雄のドキュメンタリー映画『書かれた顔』『KAZUO OHNO』を監督しました。2006年、癌のため逝去されました。
 『季節のはざまで』は、主人公が幼い頃住んでいたが取り壊しされることになったホテルへ、ミッキーマウスのコミックを取りに赴き、ホテル内を探索しながら過去の記憶と戯れる映画です。仏語題では『HOR SAISON』、英語題では『OFF SEASON』となっています。タイトルには、たんにホテルにおける観光の”オフシーズン”というのではなく、季節と季節のあいまで何かが起こるといったニュアンスが込められているそうです。

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 祖母が主人公にアナーキストの話を語る場面から、仮装パーティーで記念撮影をする場面までご覧頂きました。
 蓮實重彦氏との対談でシュミット監督が答えているように、シュミット監督作品の女性は、「完全に横たわるのでもなければ、完全に立っているのでもなく、たえずその中間の姿勢」を取ります。その中間の姿勢を支えるものは主に「椅子」であり、それはときに枕や手すり、樹木と姿を変えます。「体重を預けて、身体を支えるもの」としての「椅子」が、『赤線地帯』での工場近くの空き地で三益愛子が腰を下ろした廃材がそうであったように、「座ること」を契機として様々な場所に浮かび上がってきます。
 『季節のはざまで』には、特にそうした中間の姿勢を支える「椅子」が出てきます。この映画は主人公がバスの椅子に座っている場面から始まりますし、祖父が大女優サラ・ベルナールのキスで目覚めるときも眠っている祖父の中間的な姿勢を椅子が支えています。そして、祖母からこのような話を聞く幼き主人公もまた座っています。つまり、『季節のはざまで』において、椅子は、現実・記憶・物語を自在に行き来きする、時間も空間もトリップできる舞台装置となっています。現在の主人公が回想している中で、さらに物語の世界が描き出されるとき、そこには三つの時間軸が表れていますが、観客がその複雑さに戸惑うことなく展開を追うことができるのは、登場人物が「椅子」に座りタイムスリップのためのポーズを取っているからではないでしょうか。
 今回、「椅子」とは少し異なるため上映しませんでしたが、この映画の最も感動的な場面の一つに、「座ること」が深く関わっているカットがあります。それは、季節が変わり家族とともに階段を上っていく少年時代の自分から、現在の主人公へ貝殻が手渡され「海の見える部屋」へと向かうラストシーンの直前にあります。悪夢によって起きてしまった主人公がホテルを徘徊していると、それを見つけたイングリッド・カーフェン演じるリロは、部屋へ戻るのを嫌がる主人公へ身の上話を聞かせます。画面には映らないもののバーの”椅子”に座ってスコッチを飲んでいるマックスも恋人として登場する、真偽のほどはよくわからないお話です。このお話の内容は物語上ある程度は重要なのかもしれませんが、しかしここでより惹き付けられることは、手を引かれ階段を上がりかけた主人公がそれを拒んで一旦座り込むも、リロのお話を聞いたあと、手を引かれながら再び階段を上っていく一連の様です。そして階段を上がって行った先で、また新たな夢や物語へと還っていくであろうことが予測できる点において感動的なのです。この、二人が上昇し、一旦「座ること」によって下降するも、再び上昇するという「感情の方向性」とも呼べる運動に「座ること」が関わっているのです。ここでは「椅子」ではなく、「階段」によって「座ること」が行われています。

 

●『秘密の子供』、フィリップ・ガレル、1979

  様々な場所やシチュエーションに椅子が置かれ、また、椅子に座ることで物語が展開されていく映画を観てきましたが、カップルがテーブルをはさんで椅子に座り、それを固定カメラ、さらに長回しで撮られた場面がある映画『秘密の子供』を観てみましょう。
 監督のフィリップ・ガレルは、監督本人も仰っているように「ゴダールが前に、カラックスが後ろにいる」世代で、ヌーヴェルヴァーグの弟子のような存在と自認しています。『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』のニコと結婚していた時期があり、彼女をモチーフとした映画を数多く撮っています。この『秘密の子供』もその内の一つで、ニコと破局直後に撮られた自伝色の濃い作品と言われています。とても内省的な映画ですが、主観的な撮り方はされておらず、恋人二人の心的距離が変化する模様が痛いくらい感じとれる作品です。

(『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』)

 

(54分頃から流れる抜粋映像を含む箇所を上映)

 映画監督のジャン=バチスト(アンリ・ド・モブラン)がエリー(アンヌ・ヴィアゼムスキー)という女性と恋に落ちますが、エリーには父親に認知されていない息子(秘密の子供)がいました。クスリ漬となっての入院、エリーの母の死等を経て、浮気が原因で別れた二人が復縁した場面から最後までご覧頂きました。
 息子について二人が話しているところから、エリーが売人からクスリを買って来て、弁明するところまで、ほぼ同じ構図で2カット撮られています。
 席を立ったエリーがクスリを売人から買う様子が手前のガラスに写っています。ジャン=バチストの視線がエリーを追っているようにも感じられます。しかし実際には、視線の先は外の景色でしかないはずであり、それは錯覚です。母が亡くなり、葬儀へと向かっていた列車でかけていたサングラスをかけて、エリーが戻ってきます。寒いと震えるエリーが何を視ているかわかりません。彼女とジャン=バチストの視線は二度と交わることはないのではないかと不安になってきます。
 椅子は身体の向きと位置を固定しています。予算の問題も当然あったでしょうが、そういった邪推を超えて、ガラスによって一つのカットの中で複数の構図が顕われ、私たちの胸に強く訴えかけてきます。なぜ、カットを割っての切り返しではなく、半透明を利用したのでしょうか。この映画には再三、ガラス、鏡、サングラスといった半透明が出てきます。この場面の前には、ジャン=バチストがガラスを割り、錯覚をみます。その錯覚では、彼の部屋を訪れたエリーが窓を開けて窓枠に座ります。その安寧とした表情は、それまでの情緒不安定な彼女とはいささかも似ておらず、わたしたちの心を打ちます。窓を開けることによって部屋を開放し外気にさらしたことでもたらされたこの表情を観ることができないまま、唐突に映画は終わります。窓ガラスは外部と内部を可視化するも、空間を分断したままジャン=バチストを内部にとどまらせます。さらに同時録音と思われる室内音が大小に変化していき、ジャン=バチストが内部にある状態が強調され、いっそう悲劇的な印象を受けます。エリーが「クスリをいっしょにやらない?」と誘ったときも、ジャン=バチストを支える椅子は、微動だにせず、ジャン=バチストを室内から飛び出たせも、立ち上がらせもしませんでした。そのため、彼にできたのは彼女の髪にやさしく触れることだけだったのかもしれません。「椅子」によって、その場所にいるということが強く意識づけられながら、移動しなかったことで受動的な存在であることが強調されもする「座ること」でした。

 

●『PINA / ピナ・バウシュ 踊り続ける命』、ヴィム・ヴェンダース、2011

 これまで「椅子」と「座ること」に注目してきましたが、そうでない椅子の使い方をしている映画を最後にご覧頂いて終わりたいと思います。ヴィム・ヴェンダース監督の『PINA / ピナ・バウシュ 踊り続ける命』から、『カフェ・ミュラー』の演目を観てみましょう。
 椅子を使ったアクションというと、追いかけの時にチャップリンが椅子の背もたれを持って振り回す
ためにつかっているのだったり、ジャッキー・チェンがカンフー・アクションによく椅子を用いているのを思い浮かべる方も多いと思われますが、この映画では、「椅子」が愛の表現として使われます。
 ヴェンダース監督はピナ・バウシュと長く交友があり、いつかピナの映画を撮ると約束していましたが、どのように撮ればピナのダンスをそのまま映画で表現できるか悩んでいたそうです。そして、あるとき映画祭で3D映画のドキュメンタリーをご覧になって、これならピナの舞台をそのまま表現できると撮影を決心します。ところが撮影の直前にピナが急逝してしまい、ヴェンダース監督は撮影の中止を考えます。しかし、ピナのヴッパタール劇団員の勧めもあって、やっとのことで撮影された作品が本日ご覧頂く『PINA / ピナ・バウシュ 踊り続ける命』です。そのため、本来は3Dの作品なのですが、本日は2Dで上映します。
 タイトルにもなっている振付家のピナ・バウシュは、1940年ドイツ生まれ。1973年、ヴッパタール・バレエ団の芸術監督に就任し、名称をヴッパタール舞踊団に変更します。当初は独特の表現方法が受けいられませんでしたが、徐々に国内外で評価を高めていきます。映画では、フェデリコ・フェリーニの『そして船は行く』(1983)、ペドロ・アルモドバルの『トーク・トゥ・ハー』(2002)に出演しています。2006年、癌により亡くなってしまいます。参加者の中にもピナ・バウシュの公演をご覧になったことがある方がいるとのことで、とても羨ましく思います。
 ピナ・バウシュのドキュメンタリー映画で、他にアクセスしやすいものでは、『ピナ・バウシュ 夢の教室』があります。ヴェンダース監督のものがピナ・バウシュのダンス表現の"ように"撮られたドキュメンタリーであるならば、『夢の教室』はピナ・バウシュの作品を少年少女が演じることによって人として成長していくのが感動的な映画です。こちらもとても面白いので是非ご覧になって下さい。

 ご覧いただいた場面では、目を閉じて踊る女性ダンサーの邪魔にならないよう男性のダンサーが椅子を退かしたり、ダンサーたちが積み上げられた椅子をくぐったりしています。椅子が座るためのものではなく、障害物や建造物として活躍しています。積み上げられた椅子が建造物となり、それを壊さないようにくぐりぬけれるかという緊迫した場面となっていました。

以上で、シネマ・カフェ第10回「椅子」を終えたいと思います。これから映画をご覧になるときは、これまで以上に「椅子」を舞台に繰り広げられる物語のニュアンスに触れ、楽しんで下さればと思います。

本日はありがとうございました。
(シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った)

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.11「傘」

棒状のかたちから瞬時に空間的な膨張をみせる傘は、

日光、雨、雪などから身を防ぐだけでなく、

視界を遮るものとしての機能もあります。

たとえばミャンマーでは、恋人たちは、デートするとき、

性的に保守的な社会から隠れるため、

雨も降っていないのに傘をさすと言います。

つまり、限りなく開かれた密室を傘は演出しているのです。

では、映画作家はそのような「傘」をどのように扱っているのでしょうか?

ちょうど梅雨から日差しの強い季節にかけてわたしたちがよく使う「傘」というものに焦点をあて、映画について考えてみましょう。

 

ミャンマーで恋人たちが傘に隠れて話す様子

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ファシリテーター:映画☆おにいさん(内山丈史)

時間:6月27日(土)18:30~

場所:水曜文庫

料金:800円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-266-5376、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

 

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.10「椅子」

腰を落ちつかせ座るための台、とひとまず定義されうる「椅子」は、私たちの生活の中に当たり前のように組み込まれています。それを意識することの方が、私たちの生活においてめずらしいかもしれません。しかし「椅子」という装置にいったん眼を向けると、そこではおしゃべりが行われたり、話の一服をしたり、誰かに命令したり、取り調べを受けたり、どこかへ移動したり、あるいは庭の風景を眺めたりと、絶えずあらゆる方向へ運動と変化をもたらす舞台でもあるのだと気付きます。

それ自体は静的なものであるにもかかわらず、「椅子」は映画にどのような運動・変化を導き入れるのでしょうか。

ご一緒に考えてみましょう。


ファシリテーター:映画☆おにいさん(内山丈史)

時間:5月30日(土)18:30~

場所:水曜文庫

料金:800円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-266-5376、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)