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ゴー!ゴー!アタラント号!! 映画☆おにいさんのBlog

青い青い海(1935)

A.Sプーシキンの民話『漁師と魚の物語』の冒頭部から取られた、お伽話のような『青い青い海』というタイトルがついたボリス・バルネット監督の映画は、極めて無意識的な欲望「見ること」を可視化させてしまった作品の一つだ。

本来であれば、ただの海の映像でしかないような波が官能的に煌めき、まるで登場人物の一人であるかのように映画にリズムを与える。さらに、朝日を浴びながら空を飛ぶ鳥や溺れているようにしか見えない子犬がアクセントとなり、ススキや投網が花束よりも軽やかに風に踊る。

映像の根源に接近するリスクと対峙するため、この作品の構造は至ってシンプルに作られている。物語の情報としては、“船が難破し、救われた男二人が同じ女性を好きになり、競い合うが振られ、町へ帰る”というだけである。冒頭、主人公であるユスフとアリョーシャがマーシャと出会う。マーシャは舌をペロっと出し浜辺を歩きながら歌う。その美しいシーンのすぐあと、主人公二人はマーシャに恋をし、次の瞬間には親交を深めた状態であったとしても問題はない。都合良く、マーシャがいる漁業組合への派遣証を二人が持っていてもいい。海に落としてしまったバラバラのビーズをアリョーシャがどのように探したのか分からなくてもいい。この単純な物語は、映像の荒々しさを引き受けるための器だからだ。

その上で、片足をケガしたようにも見えるユスフが庇うように不思議なリズムでステップした瞬間に民族音楽が流れたり、マーシャを連れてコルホーズへ戻った二人の位置が急に入れ替わる自由さがある。高速カメラで撮影された涙のように零れ落ちるビーズのカットに顕われているように、この映画では始終、映像言語と映像の欲望が拮抗し、単一な語りではなく複数のイメージが映像に纏っている。それは歓喜の瞬間に鳥が魚を捕らえる映像が挿入されることだけを指すのではなく。

映画の最後、マーシャの硬直した笑顔に見送られ、美しい海から風で揺れる帆を背景とし故郷である町へ戻る二人は、もはや安定した地上にはいない。映像の臨界点を露わにしつつ映像の荒々しい原点へと還っていく。