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映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.10「椅子」

本日はお集まりいただきありがとうございます。

今回のテーマは「椅子」です。最初に自己紹介と椅子に対するイメージを参加者の皆様に伺った際、椅子は”座る”ものであり、それが長時間に渡ると”腰痛を引き起こし”たり、そこから”身体を拘束するもの”といったイメージあるといった意見まで出ました。これらのイメージは本日の上映作品にも関係してくる重要なものではないかと思います。

●『ウィンダミア夫人の扇』、エルンスト・ルビッチ、1925

 水曜文庫さんで行ったシネマ・カフェvol.8「並ぶこと」のときには、ルビッチ監督の『結婚哲学』をご覧頂きましたが、この映画はその翌年に撮られた作品(ルビッチ監督はその二年間だけで他に3作品撮影しています)で、オスカー・ワイルドの戯曲が原作となっています。


(実際に観た動画とはバージョンが異なります)

 映画の始めからドアベルの押し方の違いを描いた場面までご覧頂きました。ドアベルの押し方が、初めは紳士的であったのに親密になるに連れどんどん乱暴になっていくのが面白いですね。

 夕食の席順に悩むウィンダミア夫人から始まり、ウィンダミア夫人がソファに座っていた痕跡である扇を、アーリア夫人が取りにいくというクライマックスを持つこの映画は、ご覧頂いたように、至るところに「椅子」と”座ること”が出てきます。とくに競馬場のシーンではそれが表れていると思います。
 観衆はアーリア夫人へあらゆる角度から視線をそそぎ、そこから得た情報が集約され、噂が形成されていく恐ろしい場面です。この場面では、椅子が、初めに参加者の方からのご意見にあったように、「身体を拘束するもの」として登場します。それは、観衆から好奇の目で見られながらも競馬場を自在に移動していたアーリア夫人も例外ではありません。一旦椅子に腰を落ち着けた人々はそこから動く権利は与えられず、移動するためには競馬場から退出しなければなりません。
 ご覧いただいた場面では、椅子に座った人々は首を傾けたり双眼鏡を使っていましたが、近づかなかったのでしょうか。つまり、どうして登場人物の面々は動かなかったのでしょうか。

 それは「椅子に拘束されていたから」と言えるのではないでしょうか。
 ふつう、対象が見えなければ椅子から立ったり移動すればいいわけで、なぜ彼らはそうしなかったか? ルビッチ監督はどうして人を椅子に座らせ、縛り付けていたのでしょうか? この映画の中盤で、アーリア夫人が社交界に復帰すべくウィンダミア夫人の誕生日パーティーに潜り込んだ際、多くの男性によって人垣を作らせ、アーリア夫人の人気を”かたち”で表し、逆にクライマックスでは、扇を取り来たアーリア夫人の周りから次々に人物を退けることで、あれほど固執していた社交界での人気を失っていくさまを、人物移動によって見事な”かたち”で表していました。そのルビッチ監督が、とくに理由もなく人を動かさないのはおかしいように思えます。
 おそらく、ルビッチ監督は、各々の登場人物の視線を限定・固定し、観ている対象をわかりやすくしたかったのではないでしょうか。つまり、椅子に座らせ身体を拘束することで、ルビッチ監督は登場人物の関係性を変化させず、なおかつ関係性を明示したかったのではないでしょうか。人物の位置と視線が固定されているため、誰が、何に興味を持っているか観客はわかりやすい。例えばウィンダミア夫人は、勝手な噂をされるアーリア夫人をかばった夫ウィンダミア卿に不信感を持ちます。そのアーリア夫人とはいったいどういう人なのだろうと、ウィンダミア夫人は彼女へ視線を向けますが、人垣が邪魔で見えません。そのためよりいっそう夫への不信感が強まります。だが、席を立つと彼女への関心を示すことにつながってしまう。ここでウィンダミア夫人が抱くアーリア夫人のイメージは、自分の目で見た印象によるものではなく、隣に座る貴婦人達によって語られる印象によって形成されていきます。
 いよいよ競馬が始まり、馬たちが走り出します。それまで椅子に拘束されていたため生じていた停滞感が一掃され、映画へ爽快な運動がもたらされます。短いカットですが、開放的で印象に残るカットです。しかし主要な登場人物たちは、立ち上がって盛り上がる周囲とはうってかわり、椅子から立ち上がりもせず、じっとパンフレットを読む”振り”をしています。それまで画面によって示された関係性のため競馬どころではなくなっていることが、”かたち”として表されています。そして、その”かたち”に「椅子」が深く関与しています。

●『赤線地帯』、溝口健二、1956

 椅子はもともと西洋の家具です。日本間で座るとなると、床(畳)に直接座ります。おなじ「座る」という動作であっても、部屋の種類が異なってきますとアクションや画面構成、編集も変わってくるのではないでしょうか。そこで、日本間と洋間のどちらも出てきて「椅子」が重要な舞台装置となる映画、溝口健二監督の『赤線地帯』をご覧頂きます。

 この映画は溝口監督の遺作であり、売春禁止法が取り沙汰された1950年代、吉原の「夢の里」という売春宿で働く娼婦たちの話です。

 一度は恋人である下駄屋と結婚するため夢の里を出て行ったより江(町田博子)が、嫁ぎ先でろくに眠ることもできないほど働かされるのに耐えきれず戻って来る場面から、ゆめ子(三益愛子)が狂ってしまう場面までご覧頂きました。
 売春禁止法の報道について娼婦に対し店の主人が、「自分たちのしていることは社会事業だ、政府の目が届かないところを自分たちがやっているんだ。政治家なんて演説ぶっているだけで食いっぱぐれねえ奴らよりも自分たちの方が心配しているんだ」といった旨の演説をするとき、まさにその政治家と彼らの関係性が、娼婦に身体を売らせ金で縛り付ける主人と娼婦たちの関係性と大差ないことに皮肉を感じますが、売春禁止法の成立不成立といった作品の背景とともに、『赤線地帯』においては「椅子」に座ることが物語上重要な契機となっています。
 『赤線地帯』において、日本間は事務所や生活空間といった内部空間として、一方、洋間は夢の里といった人の往来する外部空間として存在します。主要な登場人物を除いてお客が一人も出てこない夜の中華ソバ屋に置かれる椅子は、ときに低いポジションから見つめられ、娼婦と彼女たちの家族が直面する過酷な現実を描く舞台となります。
 そして、物語の上で”断絶”とも呼びうる出来事が起こるとき、そこに「椅子」が絡んできます。ご覧頂いた場面でいえば、ミッキー(京マチ子)のところへ父親が訪ねて追い返されたときも、父親は始め椅子に座っていました。やり取りの中で、二人は床やベッドの端に座っていきます。さらに、ゆめ子が息子の修一から縁を切られるときも、ゆめ子は人目に付かないであろう空き地に置いてあった廃材のようなものに腰をかけました。どちらも、今後ふたりは二度と会うことはないだろうと思えるほど決定的な”断絶”が起こったシーンでした。溝口監督は、移動しやすい「立つ」状態よりも、移動がしにくい「座ること」をはさむことで関係性の変化をわかりやすく顕していったのではないでしょうか。
 椅子が断絶するのは人物の関係性だけではありません。息子の修一から縁を切られたゆめ子が店内の丸椅子に座っていると、馴染みの客が声をかけます。それに対し、ゆめ子は馴染み客の頭を叩いて急に唄いだし、狂ってしまいます。夢の里が騒然となり多くの人が駆けつけるも状況をうまく飲み込めず、呆然と立ち尽くすしかない中、ゆめ子はひとり欄干に腰を下ろします。ただたんに「座っている」だけですが、だからこそ余計に恐ろしい場面となっています。
 ゆめ子に代わり次に丸椅子へ腰を下ろすのが、新入りのしづ子であるのも印象的です。娼婦となって初めて客を取る晩、しづ子は、他に手だてもないのだからと客を取るようにミッキーから促されるまで丸椅子に座っていました。このとき丸椅子に座っていたからこそ、しづ子は貧乏ながらも楽しく過ごしただろう九州での暮らしを思い切り、娼婦として客を取るために立ち上がります。

 逆に、男たちから金を騙して奪い取った、若尾文子演じるやすみは夢の里では椅子に座らずにいたため、騙した炭屋の青木から首を絞められながらも、意識がなくなるという代償だけで済み、無事に娼婦から足を洗うことができたとも言えるのかもしれません。
 さまざまなかたちの座ることが出てくる中で、不吉な、断絶を引き起こす「椅子」へ「座ること」をご覧いただきました。

 

●『季節のはざまで』、ダニエル・シュミット、1992

 椅子に座ることが身体を固定するのではなく、逆に、椅子に座ることで時空間を自在に移動する、ダニエル・シュミット監督の『季節のはざまで』を観ましょう。
 監督のダニエル・シュミットは1941年スイス生まれ、幼少期から映画やオペラ等に親しみ、1962年にベルリン自由大学に入学します。1966年、ライナー・ベルナー・ファスビンダーと出会い、彼らとファスビンダーの妻で女優イングリッド・カーフェンの三人で1972年に「タンゴ・フィルム」を設立しました。映画以外にもオペラ演出家として活躍もしており世界的に評価されています。1995年、日本で歌舞伎役者の坂東玉三郎や舞踏家の大野一雄のドキュメンタリー映画『書かれた顔』『KAZUO OHNO』を監督しました。2006年、癌のため逝去されました。
 『季節のはざまで』は、主人公が幼い頃住んでいたが取り壊しされることになったホテルへ、ミッキーマウスのコミックを取りに赴き、ホテル内を探索しながら過去の記憶と戯れる映画です。仏語題では『HOR SAISON』、英語題では『OFF SEASON』となっています。タイトルには、たんにホテルにおける観光の”オフシーズン”というのではなく、季節と季節のあいまで何かが起こるといったニュアンスが込められているそうです。

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 祖母が主人公にアナーキストの話を語る場面から、仮装パーティーで記念撮影をする場面までご覧頂きました。
 蓮實重彦氏との対談でシュミット監督が答えているように、シュミット監督作品の女性は、「完全に横たわるのでもなければ、完全に立っているのでもなく、たえずその中間の姿勢」を取ります。その中間の姿勢を支えるものは主に「椅子」であり、それはときに枕や手すり、樹木と姿を変えます。「体重を預けて、身体を支えるもの」としての「椅子」が、『赤線地帯』での工場近くの空き地で三益愛子が腰を下ろした廃材がそうであったように、「座ること」を契機として様々な場所に浮かび上がってきます。
 『季節のはざまで』には、特にそうした中間の姿勢を支える「椅子」が出てきます。この映画は主人公がバスの椅子に座っている場面から始まりますし、祖父が大女優サラ・ベルナールのキスで目覚めるときも眠っている祖父の中間的な姿勢を椅子が支えています。そして、祖母からこのような話を聞く幼き主人公もまた座っています。つまり、『季節のはざまで』において、椅子は、現実・記憶・物語を自在に行き来きする、時間も空間もトリップできる舞台装置となっています。現在の主人公が回想している中で、さらに物語の世界が描き出されるとき、そこには三つの時間軸が表れていますが、観客がその複雑さに戸惑うことなく展開を追うことができるのは、登場人物が「椅子」に座りタイムスリップのためのポーズを取っているからではないでしょうか。
 今回、「椅子」とは少し異なるため上映しませんでしたが、この映画の最も感動的な場面の一つに、「座ること」が深く関わっているカットがあります。それは、季節が変わり家族とともに階段を上っていく少年時代の自分から、現在の主人公へ貝殻が手渡され「海の見える部屋」へと向かうラストシーンの直前にあります。悪夢によって起きてしまった主人公がホテルを徘徊していると、それを見つけたイングリッド・カーフェン演じるリロは、部屋へ戻るのを嫌がる主人公へ身の上話を聞かせます。画面には映らないもののバーの”椅子”に座ってスコッチを飲んでいるマックスも恋人として登場する、真偽のほどはよくわからないお話です。このお話の内容は物語上ある程度は重要なのかもしれませんが、しかしここでより惹き付けられることは、手を引かれ階段を上がりかけた主人公がそれを拒んで一旦座り込むも、リロのお話を聞いたあと、手を引かれながら再び階段を上っていく一連の様です。そして階段を上がって行った先で、また新たな夢や物語へと還っていくであろうことが予測できる点において感動的なのです。この、二人が上昇し、一旦「座ること」によって下降するも、再び上昇するという「感情の方向性」とも呼べる運動に「座ること」が関わっているのです。ここでは「椅子」ではなく、「階段」によって「座ること」が行われています。

 

●『秘密の子供』、フィリップ・ガレル、1979

  様々な場所やシチュエーションに椅子が置かれ、また、椅子に座ることで物語が展開されていく映画を観てきましたが、カップルがテーブルをはさんで椅子に座り、それを固定カメラ、さらに長回しで撮られた場面がある映画『秘密の子供』を観てみましょう。
 監督のフィリップ・ガレルは、監督本人も仰っているように「ゴダールが前に、カラックスが後ろにいる」世代で、ヌーヴェルヴァーグの弟子のような存在と自認しています。『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』のニコと結婚していた時期があり、彼女をモチーフとした映画を数多く撮っています。この『秘密の子供』もその内の一つで、ニコと破局直後に撮られた自伝色の濃い作品と言われています。とても内省的な映画ですが、主観的な撮り方はされておらず、恋人二人の心的距離が変化する模様が痛いくらい感じとれる作品です。

(『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』)

 

(54分頃から流れる抜粋映像を含む箇所を上映)

 映画監督のジャン=バチスト(アンリ・ド・モブラン)がエリー(アンヌ・ヴィアゼムスキー)という女性と恋に落ちますが、エリーには父親に認知されていない息子(秘密の子供)がいました。クスリ漬となっての入院、エリーの母の死等を経て、浮気が原因で別れた二人が復縁した場面から最後までご覧頂きました。
 息子について二人が話しているところから、エリーが売人からクスリを買って来て、弁明するところまで、ほぼ同じ構図で2カット撮られています。
 席を立ったエリーがクスリを売人から買う様子が手前のガラスに写っています。ジャン=バチストの視線がエリーを追っているようにも感じられます。しかし実際には、視線の先は外の景色でしかないはずであり、それは錯覚です。母が亡くなり、葬儀へと向かっていた列車でかけていたサングラスをかけて、エリーが戻ってきます。寒いと震えるエリーが何を視ているかわかりません。彼女とジャン=バチストの視線は二度と交わることはないのではないかと不安になってきます。
 椅子は身体の向きと位置を固定しています。予算の問題も当然あったでしょうが、そういった邪推を超えて、ガラスによって一つのカットの中で複数の構図が顕われ、私たちの胸に強く訴えかけてきます。なぜ、カットを割っての切り返しではなく、半透明を利用したのでしょうか。この映画には再三、ガラス、鏡、サングラスといった半透明が出てきます。この場面の前には、ジャン=バチストがガラスを割り、錯覚をみます。その錯覚では、彼の部屋を訪れたエリーが窓を開けて窓枠に座ります。その安寧とした表情は、それまでの情緒不安定な彼女とはいささかも似ておらず、わたしたちの心を打ちます。窓を開けることによって部屋を開放し外気にさらしたことでもたらされたこの表情を観ることができないまま、唐突に映画は終わります。窓ガラスは外部と内部を可視化するも、空間を分断したままジャン=バチストを内部にとどまらせます。さらに同時録音と思われる室内音が大小に変化していき、ジャン=バチストが内部にある状態が強調され、いっそう悲劇的な印象を受けます。エリーが「クスリをいっしょにやらない?」と誘ったときも、ジャン=バチストを支える椅子は、微動だにせず、ジャン=バチストを室内から飛び出たせも、立ち上がらせもしませんでした。そのため、彼にできたのは彼女の髪にやさしく触れることだけだったのかもしれません。「椅子」によって、その場所にいるということが強く意識づけられながら、移動しなかったことで受動的な存在であることが強調されもする「座ること」でした。

 

●『PINA / ピナ・バウシュ 踊り続ける命』、ヴィム・ヴェンダース、2011

 これまで「椅子」と「座ること」に注目してきましたが、そうでない椅子の使い方をしている映画を最後にご覧頂いて終わりたいと思います。ヴィム・ヴェンダース監督の『PINA / ピナ・バウシュ 踊り続ける命』から、『カフェ・ミュラー』の演目を観てみましょう。
 椅子を使ったアクションというと、追いかけの時にチャップリンが椅子の背もたれを持って振り回す
ためにつかっているのだったり、ジャッキー・チェンがカンフー・アクションによく椅子を用いているのを思い浮かべる方も多いと思われますが、この映画では、「椅子」が愛の表現として使われます。
 ヴェンダース監督はピナ・バウシュと長く交友があり、いつかピナの映画を撮ると約束していましたが、どのように撮ればピナのダンスをそのまま映画で表現できるか悩んでいたそうです。そして、あるとき映画祭で3D映画のドキュメンタリーをご覧になって、これならピナの舞台をそのまま表現できると撮影を決心します。ところが撮影の直前にピナが急逝してしまい、ヴェンダース監督は撮影の中止を考えます。しかし、ピナのヴッパタール劇団員の勧めもあって、やっとのことで撮影された作品が本日ご覧頂く『PINA / ピナ・バウシュ 踊り続ける命』です。そのため、本来は3Dの作品なのですが、本日は2Dで上映します。
 タイトルにもなっている振付家のピナ・バウシュは、1940年ドイツ生まれ。1973年、ヴッパタール・バレエ団の芸術監督に就任し、名称をヴッパタール舞踊団に変更します。当初は独特の表現方法が受けいられませんでしたが、徐々に国内外で評価を高めていきます。映画では、フェデリコ・フェリーニの『そして船は行く』(1983)、ペドロ・アルモドバルの『トーク・トゥ・ハー』(2002)に出演しています。2006年、癌により亡くなってしまいます。参加者の中にもピナ・バウシュの公演をご覧になったことがある方がいるとのことで、とても羨ましく思います。
 ピナ・バウシュのドキュメンタリー映画で、他にアクセスしやすいものでは、『ピナ・バウシュ 夢の教室』があります。ヴェンダース監督のものがピナ・バウシュのダンス表現の"ように"撮られたドキュメンタリーであるならば、『夢の教室』はピナ・バウシュの作品を少年少女が演じることによって人として成長していくのが感動的な映画です。こちらもとても面白いので是非ご覧になって下さい。

 ご覧いただいた場面では、目を閉じて踊る女性ダンサーの邪魔にならないよう男性のダンサーが椅子を退かしたり、ダンサーたちが積み上げられた椅子をくぐったりしています。椅子が座るためのものではなく、障害物や建造物として活躍しています。積み上げられた椅子が建造物となり、それを壊さないようにくぐりぬけれるかという緊迫した場面となっていました。

以上で、シネマ・カフェ第10回「椅子」を終えたいと思います。これから映画をご覧になるときは、これまで以上に「椅子」を舞台に繰り広げられる物語のニュアンスに触れ、楽しんで下さればと思います。

本日はありがとうございました。
(シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った)