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GO!GO!L'ATALANTE!!

ゴー!ゴー!アタラント号!! 映画☆おにいさんのBlog

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.11「傘」

本日はお集まりいただきありがとうございます。

今回のテーマは「傘」です。雨具としての傘は、梅雨のこの時期はよく使いますね。女性の方は春夏にかけて日傘を使われる方もおおいのではないでしょうか。このような身近な道具の傘が映画ではどのように用いられているのでしょうか。傘が印象的な映画をご覧頂きながら、考えてみましょう。

 

●『鏡の女たち』(吉田喜重、2002)

 吉田喜重監督は、大島渚監督、篠田正浩監督らとともに松竹ヌーヴェルヴァーグの一員とされています。吉田監督は松竹で木下惠介監督や大庭秀雄監督の助監督を経て監督になったのですが、映画監督になりたくて松竹に入社したわけではなく、生活のため、たんなる就職口としてだと仰っています。そのためでしょうか。吉田喜重監督の映画は、映画が自明に在るものとしてではなく、その存在を疑うようなものとして作られているように思えます。吉田監督がよく仰っている問い、「映画とは何か?」という問いが1カットごとになされつつ作られているように感じられます。
 吉田監督は映画に関する批評やエッセイも多く執筆されており、センター試験にも出題された『小津安二郎の反映画』という名著があります。会場である水曜文庫さんにも吉田監督が書かれた『自己否定の論理・想像力による変身』が置かれていました。

 『鏡の女たち』は、エミリ・ブロンテ原作の『嵐が丘』以来、13年ぶりの新作であり、今のところ吉田監督の最新作でもあります。『鏡の女たち』主演の岡田茉莉子は、吉田監督の奥様でもあり、シネマ・カフェvol.8「並ぶこと」のとき上映した『東京の合唱』で主演していた岡田時彦さんのご息女です。では、冒頭からご覧頂きましょう。

 (動画は映画の予告編)

 岡田茉莉子らが田中好子のアパートに入るまでの場面をご覧頂きました。閑静な住宅街から始まるこの映画では、冒頭からしばらく岡田茉莉子の顔が傘に隠れて見えません。どこかへ向かっている彼女からは、とくべつ急いでいるようには見えないものの、追い立てられる印象を受けます。そこへ、不審な車からの視線も絡んでくることでより一層緊迫した雰囲気をかたちづくっていきます。役所へ着くと失踪した娘がみつかったと説明をされ、警察へと向かう場面がつづきます。取り立てて何かが起こっているわけではないこの一連の流れの中でさえ、1カット毎どこかちぐはぐな、異様な印象を受けます。そもそも役所の受付で説明を受ける岡田茉莉子に「奥さん!」と声をかけて近よる室田日出男は、この2カットの間で瞬間移動しているようにも見えます。通常であれば違和感なく見せられるはずであるのに、吉田監督は若干の”ずれ”を映画に残すことによって、一連の動きを「自然」に見せるという映画の技法に疑いの眼差しを向けているようにも思えます。

 さて、「傘」ですが、冒頭から岡田茉莉子の顔へ視線が注がれるのを妨げ、サスペンスをかたちづくります。そして私がもっとも印象的だと感じる「傘」は、予告編にもあるように、田中好子を傘の縁でいったん隠したあと、失踪した娘かどうか確かめるように縁を再度上げていくカットです。視線そのものを映すことは映画にはできないけれど、傘の縁を上下させることによって視線が表されています。同時に、ほんとうに自分の娘かどうか確信を持てない岡田茉莉子の自信の無さも感じさせます。傘によって、私たちの眼差しと岡田茉莉子の眼差しが不意に一致してしまう瞬間が顕われるカットだと思います。

 

●『百年恋歌』(ホウ・シャオシェン、2005)

 日本にフランスのヌーヴェルヴァーグに対応するような運動があったように、台湾にもヌーヴェルヴァーグに対応する運動がありました。それは「台湾ニューシネマ」と呼ばれるものです。それは主に80年代から90年代にかけて展開されました。台湾ニューシネマに代表される監督は、先日シネマイーラで『恐怖分子』が上映されましたエドワード・ヤン監督や、本日ご覧頂くホウ・シャオシェン監督です。

『百年恋歌』は三編のオムニバス映画からなっています。それらのエピソードは1966年が舞台の「恋愛の夢」、1911年の「自由の夢」、2005年の「青春の夢」と、それぞれに年と名前が与えられており、三編に主演しているカップルはすべて同じ俳優によって演じられています。本日は第一話「恋愛の夢」から、スー・チーチャン・チェンから送られた恋文を読む場面から第一話の最後までご覧頂きましょう。

やっとのことで再会を果たし、スー・チーの仕事終わりに朦々とたつ湯気の向こうで食事を済ませた二人は、電車に乗ろうと駅を訪れるもすでに電車はなくバスを待つことにします。バス停には屋根がないため、二人は相合い傘をして待ちます。男性が傘を持つ手を変えたかと思うと、カメラは初めて人物の反対側へ周り、繋がれる手をクローズアップで収めます。女性が傘から少しはみ出て濡れていますが、バッグをパタパタさせて嬉しそうなのがいいですね。空間を限定したため、二人の距離が近しくなる。それが心的距離の変化とも反響しあい、より感動的である場面です。

 

●『秋津温泉』(吉田喜重、1962)

初めに吉田監督の『鏡の女たち』をご覧頂きましたが、次にご覧いただく映画は、ちょうど「松竹ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれていた頃の作品『秋津温泉』です。この映画で吉田監督と岡田茉莉子は初めてタッグを組みました。岡田茉莉子の映画出演百本記念作品として企画されたこの映画において、岡田茉莉子は企画・プロデューサー・衣装・主演を務めています。

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 戦争が終わり長門裕之の体調が良くなった場面から岡田茉莉子の入浴シーンまでご覧頂きました。「傘」は、バーから飛び出していった岡田を長門が追いかけていった場面で登場します。岡田が雨に濡れないように長門の傘へ入れようとしますが、岡田は長門の傘の下に入らず距離をとります。長門は何度も傘に入れようとしますが、岡田も繰り返し離れていく。『百年恋歌』では傘によって限定された空間を共有することで二人の距離が縮まったことが表現されていましたが、『秋津温泉』はその逆で、傘によって限定された空間を二人は共有せず、追いかけが行われます。訴えかける長門と拒む岡田の関係性が、二人の会話だけでなく、傘によっても表現されています。

 

●『海外特派員』(アルフレッド・ヒッチコック、1940)

 映画における傘がつねにカップルのためにあるわけではありません。傘そのものに目を凝らすことによってはっと驚くことがあります。『シェルブールの雨傘』のような色彩豊かな映画に出てくる、色とりどりの傘に魅了されるということもありますが、今回ご覧頂くヒッチコック監督の『海外特派員』には地味というか、没個性的なこうもり傘しか登場しません。そのような傘が、ヒッチコック監督にかかると途端に映画的な、新鮮な驚きを観客に与えてくれる舞台装置となります。

 『レベッカ』につづく渡米二作目の『海外特派員』は、前作に比べれば低予算でありながら、化かしあいの応酬がなされ、その中で不意に露わになる人間性に心を強く動かされる映画です。物語は、クビになりかけていた新聞記者である、ジョエル・マクリー演じるジョン・ジョーンズが、海外特派員に任命され戦争勃発間近のヨーロッパに派遣されるというように始まります。 ロンドンへ赴き、現地の先輩特派員と出会う場面からご覧頂きましょう。

 

  ヨーロッパの平和の鍵を握る人物アルバート・バッサーマン演じるヴァン・メアが撃たれてしまい、その犯人を追いかける場面までご覧頂きました。
 雨の中、現れたヴァン・メアの写真を撮影しようとカメラマンが近づきます。カメラマンの機材がクローズアップされると、拳銃が握られています。ここから物語が一気に加速するぞと観客に予告するような、目の覚めるクローズアップです。発砲するカメラマンと、階段を転げ落ちるヴァン・メア。犯人は人混みに紛れて逃げます。ここで逃げていく犯人のすがたは一切見えませんが、私たちはどこに犯人がいるのかはっきりと確認できます。それは弾む傘によってです。ご覧頂いた先の二作品の「傘」とは異なり、パーソナルスペースを表す傘ではありません。傘という”モノ”が持つ性質を活かし、人を押しのけていく犯人の運動が、魚が湖の水面を泳ぐときにおきる波紋のように、可視化されています。傘の持つ「役割」を扱ったのではなく、傘の「しなり」に注目したカットであり、画家が絵の具の物質性を活かした絵を描くように、ヒッチコックは「傘」の持つ性質を活かした表現をしています。

 

●『鴛鴦歌合戦』(マキノ正博、1939)

  『海外特派員』と同時期の日本では、1938年には国家総動員法が制定され、39年には映画製作が政府の管轄下におかれる映画法が施行されています。その1939年に撮られた映画『鴛鴦歌合戦』をご覧頂きます。と言っても堅苦しい映画ではなく、時代劇でしかもミュージカルという、とても楽しい映画です。
 監督のマキノ正博は「日本映画の父」と言われるマキノ省三の息子で、幼い頃から映画が身近にあったので子役として幼い頃から映画製作に関わり、監督になった方です。生涯に監督した本数は260本あまりと今では考えられないような本数です。扱ったジャンルも幅広く、喜劇からメロドラマ、時代劇、任侠、ミュージカルと様々なものを監督しています。早撮りが得意でかつ面白いものをなんでも撮るマキノ監督の映画は「早い、安い、当たる」と、いま聞くと牛丼のコピーのようですが、簡単に撮っているように見えるのに人気があったゆえか、そのように揶揄されてもいました。
 高倉健が主演していた『昭和残侠伝 死んで貰います』や、我等が次郎長親分を描いた『次郎長三国志』等が今でもレンタルビデオ店でご覧になることができます。

 なお、この映画の撮影監督は、マキノ監督と小学校の同級生でもあった宮川一夫です。小津安二郎監督の『浮草』や、『雨月物語』『山椒大夫』『近松物語』など溝口健二監督の作品の多くを撮影しています。

  映画の冒頭から、雨が降ってきたため急いで傘をしまおうとする場面までご覧頂きました。「ちぇ!」という市川春代がとても可愛らしいですね。片岡千恵蔵が出ているシーンは、片岡千恵蔵の体調が悪かったために数時間で撮り上げたというから驚きです。
 志村喬演じる貧しい武士の職業が、「絵日傘」作りでした。それによって社会的な階級をある程度説明するという役割をこの映画の「傘」は持っているのかもしれません。しかし、この映画で乾かしている傘の量はそれにしても多すぎます。乾かされている傘も影の方向や俳優の立ち位置から考えると、かならずしも南向きに置いてあるわけではないようです。むしろ傘はきれいにカメラの方向へ向けられており、あふれんばかりに画面を覆い尽くしています。それは最後には乱闘騒ぎが起きる家の前の広場だけでなく、建物の外観や室内にまで浸食しています。カメラが室内に入っても、傘は画面の多くに登場します。この過剰さはたんに階級の説明というだけでは不自然です。広場では、画面の手前に置かれた傘は固定されていますが、画面奥の傘は風に吹かれて時折揺れて画面を活性化させもし、傘がなくなれば同一の空間とは思えないほどすっきりして見えます。室内においては傘が置いてあることで貧乏人の簡素な長屋に奥行きをもたらします。「撮影の効率」と「画面の充実」を両立させるための「傘」なのではないでしょうか。

 以上で、映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.11「傘」を終了したいと思います。傘が持つ表現の一部分を観てきましたが、そこには収まらない「意味」は、ご覧いただいた映画、映像の一部分でさえ、溢れております。むしろ傘以外に惹かれた方も多くいらっしゃったように、映像の持つ多様性吉田喜重監督の言葉でいえば「限りなく開かれた映像」)の様々なニュアンスを、これからも傘に注目しつつ、楽しんでご覧頂ければ幸いです。本日はご来場いただきありがとうございました。

(シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った)

 

〈おまけ〉