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映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.14「コロス」

 本日はお集まりいただきありがとうございます。

 本日のテーマは「コロス」です。ギリシャ悲劇に出てくる合唱隊のことであり、コーラスの語源といわれています。コロスは、参加者の方々にイメージを伺った際に出てきたように、観客の気持ちを代弁したり状況説明をしたり、あるいは観客の視線誘導に用いられてきました。コロスによる観客の視線誘導は二通り考えられます。ひとつはコロス全員が一人の人物に注視することです。もうひとつはコロスが能の地謡のようにノイズを消す、存在を消すことで舞台上の人物に注目を集めさせることができます。片方は足すことで、もう片方は引くことによって、クローズアップのような効果をもたらし視線を誘導させます
 このような役割を持ったコロスですが、映画はどのようにコロスを取り入れていったのでしょうか? 

 先ほど述べたように、コロスの影響と思われる映画技法として、クローズアップやロングショット、ナレーション、BGMを挙げるができます。さらに、カメラポジションにまで話を拡げることができるのかもしれません。つまり「視線の誘導」がそこでは行われているのですが、しかしそこで誘導される「視線」とは登場人物や観客等誰の視線を指すのか一概に言えず、多様な意味を持ちます。ここではひとまず、参加者の方々からいただいた意見をまとめ、コロスを「観客を登場人物と同じ視点に立たせ、感情移入させながら語るもの」と考えましょう。

 そして今回は、コロスをいわゆる「ミュージカル」のような映画の語りがその瞬間にガラッと変わるものではなく、歌うことによって登場人物が”呼応”していく場面をご覧いただきながら考えていきたいと思います。

 

●『子連れじゃダメかしら?(原題:Blended)』(フランク・コラチ、2014)

 まずは、コロス的な立ち回りをする登場人物が出てくる映画をご覧いただきます。『子連れじゃダメかしら?』は、アダム・サンドラードリュー・バリモアのラブ・コメディです。
 互いに結婚したものの独り身であるアダム・サンドラー(妻とは死別)とドリュー・バリモア(夫とは離婚)はお見合い相談所の紹介でデートしたものの、最悪の印象に終わります。アダム・サンドラードリュー・バリモアの家を訪ねた際、アダム・サンドラーの上司とドリュー・バリモアの同僚が別れてアフリカ旅行のチケットが余っていることを知ります。子どもと旅行ができるとチケットを譲ってもらい旅立った南アフリカで、二家族は互いに何故いるのだと罵りあいます。当然同じ部屋に泊まることになるのですがアフリカを楽しんでいくなかで同性の親でしか分かってやれない悩み、問題を解決してゆき、互いに理解していきます。本日は、アダム・サンドラーが長女とバスケットをしている場面からご覧いただきます。

 アダム・サンドラーと長女がバスケットをしている場面から現地のダンサーたちとドリュー・バリモアや子どもたちが次々とダンスに加わる場面までご覧いただきました。
 南アフリカでの案内役である執事「ムファナ」と、客の出迎えやディナーショーで歌うコーラスグループ「タトゥー」が出てきますが、彼らはコロスの一つのかたちであるといえるのではないでしょうか。いたるところに顔を出し歌ったり踊ったりしながら、からかい茶々を入れることで盛り上がっていきます。
 ご覧いただいた、子どもたちが次々とダンサーらと踊っていく場面も、登場人物が呼応していく、最初はいがみ合っていた子どもたちが仲良くなっていく様子が観てわかる場面でした。「不在」や「欠落」を抱えた登場人物たちがお互いに助け合い、補完していくことによって乗り越えていく映画です。

 アフリカ繫がりでいえば、ハワード・ホークス監督の『ハタリ』にも登場人物が呼応していく、素晴らしいジャムセッションがあります。ジョン・ウェインは少し離れた所におり輪には加わらないのですが、彼が見せる笑顔は忘れられません。

 

 

●『アンティゴネ ソポクレスの《アンティゴネ》のヘルダーリン訳のブレヒトによる改訂版 1948年』(ストローブ=ユイレ、1991−1992)

 ポップコーン片手に二時間しっかりと楽しめるアメリカ映画をご覧いただきましたが、次にご覧いただく映画は、ただ今ご覧いただいた映画とは正反対のように思える、映画表現そのものがインディペンデントであるような映画をご覧いただきます。ストローブ=ユイレ監督の『アンティゴネ』です。ストローブ=ユイレ監督は、これまでのシネマ・カフェでも何回か取り上げています。「登山の映画史」で『セザンヌ』を、「本のある場所」で『すべての革命はのるかそるかである』『アーノルト・シェーンベルクの《映画の一場面のための伴奏音楽》入門 』をご覧いただきました。一見するとストローブ=ユイレ監督の映画はプロットや登場人物の感情よりもテクストを優先して撮影しているように思えます。しかし、文字から映像へ、作品の精神を大切にしながらもまったく異なるメディアへと産まれ変わるときに内包される「物語」を大事にして撮られています。画面を厳格な構図でおさめようとしながら、最後の最後のところでコントロールできない不決定な部分に賭けるという、製作過程そのもののドキュメンタリーであるかのような映画です。
 現代ドイツの代表的劇団であるシャウビューネ劇団の委嘱による舞台演出に基づいて映画化されたストローブ=ユイレ監督の『アンティゴネ』は、ソポクレスの戯曲をヘルダーリンが原作の精神に則ってかつ原作を凌駕することを目指しつつ、文法をある程度無視さえしつつ言葉を逐語的にはめ込み翻訳したものを、ブレヒトが戦後間もない不安定な情勢であった1948年に改作して発表した戯曲が用いられています。様々な時代的な層を持つ言葉を、いまや廃墟となっているシチリア島のセジェスタ古代円形劇場で、1991から1992年にかけて撮影された映画です。

 バッカス讃歌の第三のコロスから、アンティゴネの死出の道行きを見送る第四のコロスまでご覧いただきました。(上の動画は人間の不可思議さを歌う第一のコロス)
 長老たちがコロス役も務めることで立ち位置が明確になっています。立場がはっきりするということは、そこには偏りが生じます。そのため、コロスが普遍的、客観的ではない存在となっています。例えば、暴君を求めつつ拒み、拒みつつ求めるようなところがあり、長老らはクレオンのご機嫌取りをする権力の寄生者でありながら、都合が悪くなると手のひらを返し王を批判していました。それだけでなく、参加者の方が仰ったように、アンティゴネに批判されつつも長老らもアンティゴネを批判することで、絶対的な「英雄」がこの映画にはいないことがわかります。
 大昔にオルケストラだったと思しき場所に「現在」のコロスの声が響くことで、「不在」が結果として立ち上がってきます。そこでは、まさにアンティゴネが上演され、コロスたちが踊っていたかもしれません。姿をみせつつ画面からは身を隠す狂言回しのようなコロスは画面外からの「眼差し」を喚起します。俯瞰で捉えられた映像は、コロスの存在だけでなく、かつてそこにいた過去の人々の「眼差し」を喚び起こします。画と音を一体に記録する同時録音によって撮影当時の「現在(いま)」を記録し、同時に、画面は人物からパンしオルケストラと舞台の境を、音は肉感を伴ったコロスの声を主に捉えることによってフレームの内外を意識させます。まるで切り取られた岩石のようにカットが連なっていくことで、映画は1カット1カットが独立した音符のようでありながらも全体を通して観たときに、一つの作品として無数の調和=物語を内包しています。

 

 ●『タバコロード』(ジョン・フォード、1941)

 ストローブ=ユイレ監督によるインディペンデント映画のコロスをご覧いただきましたが、続いてはストローブ=ユイレ監督がとても影響を受けているジョン・フォード監督の映画をご覧いただきます。
 貧しい農夫が住み慣れた土地を維持するため資金繰りに奔走する話です。コールドウェルの小説『タバコロード』を、『黄金の馬車』をジャン・ルノワールとともに翻案したジャック・カークランドが戯曲化したものを基に脚本が書かれています。
 貧乏なレスター一家は空腹のあまり、訪ねてきた義理の息子からカブを強奪します。そこへ地主のティムが帰ってくることを知ったジーターは、金を借りてもう一度畑を耕すんだと意気込みます。しかし罪を犯したままではせっかく畑を耕しても収穫が少なくなると妻に促され「信心深い」ベッシーのところへ一家で告白しにいきます。そこへ、ティムが帰ってくるのですが、銀行員に日曜までに100ドル払わなければタバコロードから追い出されてしまうことが判明します。ティムから景気付けに1ダースのトウモロコシをもらうところからご覧いただきます。

 息子であるデュードに突き飛ばされた後、神に祈る場面までご覧いただきました。
 ベッシーたちが賛美歌を歌うとなぜか周りの人々までうっとりと歌い出してしまい、困難が解決されてしまうのが可笑しいですね。
 例えば「神の救済」という似たようなテーマを持つヴィンセント・ミネリ監督の『キャビン イン ザ スカイ』(1943)ほど宗教的な色合いを『タバコロード』から感じないのは、神が具体化した登場人物として出てこないということからくるのではありません。そしてそれが偶像崇拝の禁止から来るものというより、むしろフォード監督が「神」を観客へ明確に示さないことでかえって「神」の存在を感じさせ「神」が投げかける眼差しそのものが意識されるからではないでしょうか。画面には「神」を映さないことによって、「神」の「不在」が浮かび上がります。それはご覧いただいた場面の最後のところ、レスターの祈りの場面からもいえると思います。しかしわたしたちがこの映画で「不在」を最も感じるのは、反省の色をみせた途端に豪雨がおさまる瞬間でもなく、タバコロードに一陣の風が吹く瞬間でもなく、街で途方に暮れていた時、ジーターがだれかに見られているのに気付いたように振り向いて見つけたホテルにおいてです。
 デュードとベッシーが寝ている隣の部屋から車のキーが入ったオーバーオールを盗んできます。自室に戻ると、ベッドの位置が変わっていてカーテンが揺れています。明るい部屋には誰もいません。部屋の中の構図が変わっている違和感と誰にも見られていないことが「神」の存在を感じさせます。不在の眼差しに耐えきれなくなったジータは車のキーを取り出したあと、オーバーオールを元の位置に戻すのでもベッドの下に隠すのでもなく、タバコロードからの風が吹き込んでくる窓に向かって投げ捨ててしまいます。
 この場面にもコロスが登場しているように思えます。たとえばコロスがナレーションといった映画表現へとかたちを変えたように、この場合においてもコロスは映画表現へとかたちを変えています。画面目一杯に歌い上げ、神の不在を現前化させています。
 とはいえ、「不在」が「ある」ということは画面で明確に語ることができず、基本観客におもねられるものです。フォード監督が「神」をどの程度信じていたかは知る由もありませんが、映画それ自体の可能性、映画が観客に観られることによって完成する芸術だという意味において、フォード監督は観客をそして映画を限りなく信じていたのではないでしょうか。

 

●『彼岸花』(小津安二郎、1958) 

 フォード監督を好きな監督は世界中に多くいらっしゃいますが、日本でフォード監督の影響を受けている監督というとやはり小津監督ではないでしょうか。というわけで、最後に小津監督の作品をご覧いただきます。小津監督は歌う場面を多く撮っていらっしゃいますが、今回はその中から『彼岸花』をご覧いただきます。
 『彼岸花』は娘の結婚を認めない父親の話です。ある日、佐分利信演じる父親の職場に長女の同僚である佐田啓二が訪ねて来、長女の有馬稲子と結婚したいと言われます。自分なりに娘の結婚相手を考えていた父親は寝耳に水であり、自分抜きで話が進められていたことに納得がいかず、二人の結婚を認めません。しかし、行きつけの旅館の女将の娘によるトリックにひっかかり結婚を認めてしまいます。ところが、今度は結婚式に出ないと言い張ります。
 長女の結婚式の前日からご覧いただきます。

  笠智衆佐分利信が橋の上で語り合う場面までご覧いただきました。(動画は詩吟の場面のみ)
 同窓会にて、笠智衆太平記の名場面である楠木正成楠木正行が生涯の別れ場面をうたった「桜井の訣別」を吟じます。戦前の教科書には必ず載っていたそうです。
 その笠智衆の詩吟のあと、全員で唱歌を歌います。登場人物の気持ちが呼応しているようにみえます。詩吟の最中カメラは同窓会参加者のみを被写体とし、それ以外では宴会場の庭先のみです。次々と映されていく彼らが何を考えているのかはわかりません。結婚指輪をどこにしまったのか思い出しているのかもしれませんし、過去にした浮気のことを考えてるのかもしれませんし、防空壕に隠れていたときのことを思い出しているのかもしれません。結婚によって引き裂かれた親子の絆について考えていたのかもしれませんし、ただ単純に詩吟に感じ入っているのかもしれません。ある解釈を想像すれば、たちまちそれを打ち消すような新たな解釈が次々と生まれてきます。
 しかし小津監督は、画面にわかりやすく頭の中の空想を描き、意味を一つに狭めるような「再現」をしません。安易な再現の場面は観客の自由な視線を奪うことにつながると考えたにちがいありません。だから彼らのみでこのシーンを押し切ることに賭けたのだと思います。その結果、吉田喜重監督が指摘するように「意味が限りなく開かれた映像」であるかのような、「平山渉」という登場人物というよりも「佐分利信」という人間そのものの、存在そのもので成り立っているようなシーンとなっているのではないでしょうか。笠智衆が吟じるリズムや声の質感に合わせて、それ自体では
何を感じ考えているのかわからない彼らを、それぞれの映像の強度に従い結びつけ編集していくことで、観客は想像力を駆使して彼らの記憶を、そしてその記憶が移ろい変容してゆくさまをその時間の内にはっきり感じとることができます。映画は、画面は、たしかに物語っています。しかし、その声のひとつに耳を貸すとたちまち次の声が聴こえてくるような、ただ一つの映像があるだけであるのに無数のコロスが無数の物語を奏でています。
 ふと、『タバコロード』を思い出します。ジーターは明るく気は良いですが、善良な心を持っているとは言い難い農夫です。義理の息子からはカブを奪う、たまたま貰ったトウモロコシを子どもに見つからないよう『麦秋』のショートケーキのようにテーブルの下に隠す、息子の車を勝手に売ろうとする、夫婦で救貧農場へ行こうとするときも祖母と犬のことはまったく気にかけません。夫にしおらしく付いていくようにみえる妻も、カブを強奪したときはしっかり参加しており、物欲は強く、ベッシーの前で夫の罪をチクってはいたものの自分は懺悔していませんでした。救貧農場へ向かう途中、ティムの誘いに二人とも遠慮する素振りもみせません。
 しかし、救貧農場へ向かっている(と思っている)車の中で、二人をそれぞれ映すクローズアップには心を揺さぶられます。ジーターの頬の涙。彼岸を見つめるかのようなエイダの眼差し。ラブとの結婚の知らせを受けて身なりを整えるために駆けるエリー・メイをパンで捉えたカットとは、また異なる美しさです。
 ここで彼らが何を考えているのかは判りません。これが神の定めた運命なのか、もっと運命に抗えなかったのか、運のなさを悔いているのか、現実を受け入れた涙なのか、埋葬した5人の子を思っているのか、他人の方が知っているであろう存在さえも定かでない孫のことを思っているのか、それはわかりません。たとえどんなに心を入れ替えていたとしても、やさしい気持ちになっていてもそれはわかりません。それにそもそも「きもち」は見えません。残念ながらどんなに強くその人のことを思っていようと、私たちの眼には「きもち」は映りません。カメラも撮ることができません。映画にも映りません。わたしたちは行動することでしか「きもち」を表現することはできません。だからティムも車を走らせジーターたちを探しまわりました。思いを伝えるためには行動しなければ、「気持ち」は表すことができません。悲しいことですが、それが「現実」です。
 だけれども、特にものすごい出来事が画面で起こっているわけでもないのに、「世界」が劇的に変わっていく瞬間を目の当たりにしていると確信する瞬間が映画にはあります。二人が送り届けられるこの場面では、『彼岸花』の佐分利信たちのように、まさに、眼に見える彼らの映像から眼に見えない彼らの思考が可視化されるようにも思い、曖昧で儚い「現実」が劇的に、確かに、変わっていく様を目撃しているように見えます。

 『彼岸花』や『タバコロード』の不在を現前化させるコロスは、本日の始めに定めたコロスの定義「観客を登場人物と同じ視点に立たせ、感情移入させながら語ってゆく(補助的な)役割」とはすこし異なります。たしかに歌が歌われることで観客と登場人物が同化し、あたかも同一の視点を共有するように思えます。しかし、映像の意味は不確定で、一つの意味に決定するとたちまち他の意味を逃してしまいます。意味に囚われた「同調」は拒まれ、吉田喜重監督からの言葉を借りれば「意味が限りなく開かれている映像」ということでしか言い表すことができないような映像です。ひとつひとつの画面からあらゆる意味が剥奪され、登場人物としてではなく俳優の肉体がただそこに「ある」ことによって成立しているかのようです。この二本は、一見、登場人物に寄り添う契機となるようなコロス的な映像でありながら、実は意味の繋がりを拒みひとつひとつのカットが独立し浮遊している、いわば反コロス的ですらあるような、そのバリエーションのひとつなのではないでしょうか。

 今回ご紹介はできませんでしたが、「コロス」が出てくる面白い映画にウディ・アレン監督の『魅惑のアフロディーテ』や、コロスとは謳ってませんがコロスのような狂言回しが出てくる映画として、筒井武文監督の『オーバードライブ』、マックス・オフュルス監督の『輪舞』、マノエル・ド・オリヴェイラ監督の『カニバイシュ』等があります。今回扱った映画における「コロス」は限られた一部分でありますので、いろいろな映画にさまざまなコロスを感じ取られることと思います。これからも映画をご覧になる際に「コロス」のさまざまなかたち、バリエーションに注目して頂ければと思います。
 本日はありがとうございました。

(シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った)

 

・『輪舞』

・『カニバイシュ』

・『魅惑のアフロディーテ』冒頭

 

・『ザ・デッド』