GO!GO!L'ATALANTE!!

ゴー!ゴー!アタラント号!! 映画☆おにいさんのBlog

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.16「橋」

本日はお集まりいただきありがとうございます。

今回は、人間のしぐさではなく、「橋」がテーマです。

 最初に、「橋」が出てくる映画で思い出すものや橋そのものに関するイメージを参加者の方々に伺いました。レオス・カラックス監督『ポンヌフの恋人』、先日逝去されたジャック・リヴェット監督『北の橋』、クリント・イーストウッド監督の『マディソン群の橋』が複数の方から挙げられました。その他に映画でよく見る橋として、ブルックリン地区とマンハッタン島を結びスティール製のワイヤーを使った世界初の吊り橋であるブルックリン橋、マザーグースの童謡でも有名なロンドン橋がありました。「橋」のイメージは、「出会い」や「別れ」の場、その中で橋を渡るか渡らないかがサスペンスとなっている作品もあるのではという意見がありました。

では具体的に作品を見ていきながら考えていきましょう。

・ブルックリン橋

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・ロンドン橋(13世紀〜18世紀)

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・ロンドン橋 落ちた

 

●『明治俠客伝 三代目襲名』(加藤泰、日本、1965)

 日本映画の中で、「橋」を印象的に撮る監督と言えば、加藤泰監督です。まずは、先ほど参加者の方が挙げておられました『明治俠客伝 三代目襲名』をご覧いただきたく思います。
 加藤泰監督は、叔父の山中貞雄監督を頼って映画界に入ります。戦中は文化映画を作り、戦後は伊藤大輔監督の下で『王将』などの助監督を務めましたが、レッドパージ大映を追われてしまい宝プロで劇映画を撮り始めます。その後、新東宝から東映に移り、時代劇や任侠ものを数多く監督しました。代表作に『瞼の母』『緋牡丹博徒 花札勝負』『皆殺しの霊歌』『男の顔は履歴書』『炎のごとく』等があります。
 『明治俠客伝 三代目襲名』は、浜松出身である鶴田浩二さん、寺島しのぶさんのお母様の藤純子さん(現在は「富士純子(ふじすみこ)」)が出演しております。

 鶴田浩二演じる木屋辰の菊池浅次郎は、親分の息子を探して街のあちこちを探し、遊郭へ寄ります。遊郭では、藤純子演じる初栄が父親が死に目に会いたいので実家へ帰りたいと訴えています。しかし、唐沢組長の唐沢の予約が今夜入っているため帰ってはならないとお内儀に諭されています。かわいそうに思った菊池はその場で金を払い、田舎に帰らせてやります。
 その後、藤山寛美演じる渡世人の石井仙吉が木屋辰を訪ねる場面からご覧いただきましょう。
 

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 この映画は、製作上の都合によりたった18日間で撮られたそうです。加藤監督は、倉田準二監督にB班を任せて、18日を45日くらいに使って撮影したと語っています。
 ご覧いただいた舞台は、精確には橋ではありません。すぐむこうに橋が架かっていますので橋のふもとでしょうか。
 岡山から帰ってきた初栄が庭の桃を捥いできたといいます。初栄が取出した何にも包まれず素のままに手渡される桃は、藤純子の手のうえで、夕焼け空の赤さにも染まらず無垢な白さを際立たせています。
 距離を隔てた岸を繋ぐ「橋」は、この場面では、離れた二つの点を繋いでいます。出会ったばかりで、まだ相手のことをよく知らない二人の間にあった距離が、桃が手渡されることで急速に縮まっていきます。二人の気持が通じ合うことがわかるシーンです。
 眼に見えない通じ合う「気持ち」は「かたち」として映像に表される必要があります。具体的なものしかカメラは映すことができず、抽象的な「気持ち」はカメラに映らないからです。そのため、父の死に目に会うために帰った際、捥いだ桃が手渡されます。情けを掛けてくれた人へ、故郷に帰ることができた御礼として手渡しているだけではありません。このとき桃は、概念的でもなければ無口でもない初栄の「気持ち」を語っています。表現力を持った「物」として、観客がまるで「自分自身の体験」のように思い出すことのできる経験を思わせてくれる、「思考のあらわれ」となっている「物」です。

 そして同時に、画面の奥に橋が二つ存在しています。参加者の方の指摘にありましたが、この場面の画面の構図は、浮世絵を思わせます。それは、この「橋」が超越論的なものだからではないでしょうか。
 加藤泰監督は大阪にある蛸の松あたりの橋がモデルと仰っていますが、あくまでもセットであり、実在の風景をそのまま再現したのではありません。この作られた風景は、現実の風景とは少々異なった歪な印象を受けます。
 なぜ「リアル」な風景ではなくヘンテコな風景な風景にわざわざしたのでしょうか? それは、このシーンにおいて加藤監督が「風景」としての「リアリティ」を持った場ではなく、むしろ先験的な、形而上学的な「橋」を背後に備えることを求めていたからではないでしょうか。ゆえに、ある種近代的な、空間を等質的に捉える西欧の遠近法から受けるものとは異なった印象が、この画面から想起されるのではないでしょうか。
 先ほどの「気持ち」を表すための「かたち」とはまたすこし異なり、伝えたい印象、感覚を伝達するために、「リアリティ」よりも知覚における精確さを優先させた「橋」が用いられたセットなのではないでしょうか。
 どうすれば「物語」をよりよく「表す」ことができるか? 加藤監督の情熱が迸る場面でした。

 

●『車夫遊侠伝 喧嘩辰』(加藤泰、日本、1964)

 加藤泰監督の作品からもう一本、「橋」の違った一面を感じて頂ける映画をご覧いただきたく思います。『三代目襲名』の前年に撮られた『車夫遊侠伝 喧嘩辰』です。
 今回ご覧いただく箇所には出てきませんが、先ほど出演していた藤純子さんが加藤泰監督の映画に初出演した作品でもあります。
 また、サブちゃんこと北島三郎さんが主題歌を歌い、売り子役として出演しております。

 内田良平演じる流れ者の車夫中井辰吾郎は、梅田駅前で商売を始めようと車を組み立て始めます。すると、地元の車屋がよそ者に商売をさせまいと因縁を付けられる場面からご覧いただきましょう。

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 車夫が川へ女を投げ、親分に詰問されていたはずが結婚を申し込むという怒濤の展開でした。
 桜町博子さん演じる喜美奴がとても可愛らしいです。川に投げられるシーンは腰にロープを縛り宙づりになって撮影したそうです。しかし、何テイクもやるうちにだんだんロープが緩んできたそうで、桜町さんはのちに「死ぬかと思った」と語っています。

 車に乗ったら人だろうとなんだろうと荷物とみなす。荷物は口をきかない。だからお前さんは喋っちゃいけない。それでも喋る奴は川に投げ込むんだという無茶苦茶な動機で、辰は喜美奴を川へと放り投げてしまいます。

 その場所が橋でした。岸と岸を結ぶ橋は本来ならば通ることができない水平方向への移動を可能としますが、垂直方向へも同様に移動を可能とします。橋の上と下、道と川面に「高さ」が生まれるからです。

 この場面で、橋の高さがわかるカットは一つだけです。そのカットがあるのは橋から落ちたあとです。つまり、「高さ」は落下後に明らかになり、逆に言えば、落下するまで「高さ」が隠されているともいえます。さらに、落ちる喜美奴のカットが二度あります。
 親分が旅館から喜美奴が投げられたと縁側で騒ぐカットから、落ちる喜美奴へと繋がり(1回目)、橋と川を横から捉えたカットへ至るまで宙に舞っている時間は、その後の橋を横から捉えたカットで明らかにされる高さから考えると、落ちる時間が長過ぎます。それに加えて、辰が落ちる喜美奴を回想し(2回目)、落ちる喜美奴が強調されます。
 これはお荷物様の看板の意味を何度も説明して観客に「物語」を分かりやすく伝えるための反復とは異なります。
 橋から落ちる喜美奴の時間は延長され、二重化されることで、喜美奴が落ちる様子というよりもむしろ「落ちること」自体が被写体となっています。加藤監督は「落ちること」を執拗に描くことで、剛直で一本気な漢が恋に落ちたときの「気持ち」を、恋に落ちたときにだれでも感じるあの奇妙な浮遊感を表現したかったのではないでしょうか。
 また、「喜美奴をなぜ川へ放り投げた?」「商売をしたかったら身内になれ」と詰問されていたはずが、いつの間にか二人の結婚へと至る次の長い長いワンカットは、ローポジションという技術的なことよりも、むしろワンカットの中で「気持ち」の揺れ動きをつかまえるんだという気概が小津監督を、そして「コロス」や「倒れる」で紹介したジョン・フォード監督を思わせます。

 建造物としての橋の高さと本来繋がるはずのないものを結ぶ性質によって、橋は二人の「気持ち」を決定的に変容させる舞台となっていました。

 

●『洲崎パラダイス 赤信号』(川島雄三、日本、1956)

 橋は、岸と岸を結んだり、高さを生み出す装置としてだけあるのではありません。宙づりの空間として、サスペンスの舞台ともなります。そうした橋が出てくる映画『洲崎パラダイス 赤信号』をご覧いただきます。
 川島雄三監督は松竹でキャリアをスタートし、1954年に日活に移ります。『愛のお荷物』『風船』等を監督したあと、1957年に東宝系の東京映画へ。東京映画の傍ら大映でも監督していました。
 川島監督は戦時下織田作之助と意気投合し、日本軽佻派を名乗っていたそうです。井伏鱒二のファンでもあり、井伏が訳した于武陵の『勧酒』の一節「ハナニアラシノタトヘモアルゾ/「サヨナラ」ダケガ人生ダ」を好み、自身の映画にも用いていました。川島監督というと『太陽幕末伝』が最も有名ですが、監督ご本人はこの『州崎パラダイス 赤信号』が最も好きだと語っておられます。
 『洲崎パラダイス 赤信号』は芝木好子さんの『洲崎パラダイス』が原作です。舞台は戦後、売春禁止法成立間近の赤線地帯洲崎です。栃木から上京してきた三橋達也演じる義治と新珠三千代演じる蔦枝は宛てもなく東京を彷徨っていましたが、洲崎遊郭へと続く橋の手前にある呑み屋で蔦枝が仕事を見つけます。そこの女将の紹介で、義治もそば屋の出前で働くことになりました。ところが、蔦枝は呑み屋の上客である落合に付いて出て行ってしまいます。二人を捜そうと義治は神田を歩き回りますが、見つかりません。疲れて呑み屋に戻ってくると、女を作り出て行った女将の旦那が帰ってきていました。やはり自分には堅気な生活が良かろうと義治はそば屋の出前をまじめに取り組むようになり、懇意にしてくれる芦川いづみ演じるそば屋の娘と仲良くなります。そのような中、蔦枝が呑み屋へ顔を出す場面からご覧いただきます。

 

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 映画の最後までご覧いただきました。
 印象的な橋が二場面ありました。新珠さんと芦川さんがそれぞれ塞いで川面を眺めているカットです。その場所が橋となっていました。
 この映画では、橋は境界線として描かれていました。こちら側から渡りきったら赤線地帯であり異世界です。あちら側へ渡ってしまったら容易には戻って来れない、不可逆的な変容が起こってしまうであろう場所として描かれています。
 新珠三千代さん演じる蔦枝の場合では、意を決してむこう側へと歩き出してしまいますが、知り合いの男とすれ違うことで引き返してきます。この若い男は田舎から連れられてきた若い娼婦をかわいそうに思い、貯金を切り崩して他に客を取らせないように囲っていました。が、その娼婦がいなくなってしまい探しに戻ってきたところだったのです。けっきょく、その娘は見つからず連れ出すことはできなかったのですが、かわりに蔦枝とすれ違い、一人の女性が橋を渡ってしまうことを食い止めました。助けようとしていたような無垢な女性ではなく、「あの子のかわりに遊んでやろうか」と誘ってきさえもする女性でしたが、救ったことにちがいありません。そして純朴な男は、探していた女性が見つからない腹立ちとあまつさえ自分を誘ってくることに憤りを感じ、蔦枝に平手撃ちをくらわせます。蔦枝は叩かれた頬をさすりながら、男を見遣ります。こうした宙づりの空間として橋は位置し、登場人物を支えています。

 芦川いづみさん演じる玉子の場合では、好意を持っていた義治が結局蔦枝とヨリを戻してどこかへ行ってしまい、ひとりでぼんやりと川面を見つめていました。そば屋に訪ねてきた蔦枝にも親切な対応をしていたこの娘は、ひょっとしたら自分の気持ちに気付いていなかったのかもしれません。同じような姿勢で川面を見遣る蔦枝を観ていたわたしたちは、同じポーズの蔦枝が娼婦に戻ろうとしていたことを知っているため、堅気の娘がこの失恋をきっかけにどうかなってしまうのではと不安に襲われます。ここでも橋は宙づりの空間として登場人物の不安定さを増す舞台として機能していました。

●『見えざる敵』(D・W・グリフィス、アメリカ、1912)

 桁橋、トラス橋、アーチ橋、斜張橋、吊り橋など沢山の種類の構造を持った橋がありますが、今度はくるくる回る可動橋「旋回橋」が出てくる映画をご覧いただきます。橋が回ることで物語へ具体的に影響を及ぼします。
 二本目にご覧いただいた『車夫遊侠伝 喧嘩辰』では印象的な銃口が出てきていましたが、これからご覧いただくグリフィス監督の『見えざる敵』へも強烈な銃口が出てきます。
 グリフィス監督の映画は、これまで「走る」の回で『東への道』、「帽子」の回で『迷惑帽子』『ニューヨーク・ハット』を紹介してきました。
 D・W・グリフィス監督は演劇の役者から映画監督となり、1908年に『ドリーの冒険』で映画監督デビューします。クローズ・アップやクロスカッティングといった映画文法を発明し、「映画の父」といわれています。グリフィス監督に影響を受けている監督はスタンリー・キューブリック監督、スティーヴン・スピルバーグ監督、黒澤明監督等多くの映画監督がいます。というよりも逆に、影響を受けていない監督を挙げるのが難しいほど映画史において多大な影響を与えている監督です。
 例えば、『男と女のいる舗道』で、グリフィス監督の『散り行く花』へオマージュを捧げているジャン=リュック・ゴダール監督は、撮影後に、

 今日筆を執る若い作家は、モリエールシェークスピアがいることを知っている。われわれはグリフィスがいたことを承知しいた最初の映画作家なのです。

と語っています。
 また、「走る」の回でご紹介した『大人は判ってくれない』のフランソワ・トリュフォー監督は、

 グリフィスは映画が女の芸術であること、女を美しく見せる芸術であることを最初に理解した映画作家だった。

と述べ、グリフィス監督と名コンビであった女優リリアン・ギッシュに、

 リリアン・ギッシュは両極端を見事に融和させる天賦の才を持っている、チェーホフT・S・エリオットを、成熟と幼稚を、自然さと気取りを。

との言葉を捧げています。さらに、リリアン・ギッシュの魅力を「世界のすべてを見つめる二つの大きな瞳」と語り、トリュフォー監督『アメリカの夜』の冒頭で、グリフィス監督『見えざる敵』のスチールを引用しています。
 今回はその『見えざる敵』をご覧いただきます。

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 『見えざる敵』はリリアン・ギッシュ、ドロシー・ギッシュ姉妹の映画デビュー作です。この映画では、グリフィス監督が発明したとされるクローズアップとラスト・ミニッツ・レスキューをご覧いただけます。
 映画は一巻もので、全編通してで15分しかないので一本丸々ご覧いただきます。

 

 

 グリフィス監督はギッシュ姉妹が似ていたため、髪に色違いのリボンをつけさせ、「赤いの、私の方を見ろ」「青いの、君も叫べ」等と指示を出していたそうです。
 ご覧頂いたとおり、姉妹のもとへ駆けつける最中、兄たちは旋回橋で足止めを食います。橋が画面からはみ出す程ダイナミックな動きを見せ、兄の行方を阻む障害物となります。それにより、わたしたちは妹の救出が間に合わないのではないかとハラハラしてしまい、橋がラスト・ミニッツ・レスキューの一助となっています。
 しかし、橋が旋回する契機となっている船は、この映画で一度も姿を見せません。ここで、グリフィス監督は「物語に橋が姿を見せる」というもっともらしいことは必要ないと判断したためです。この場面で優先されるべきものは「妹の救出が間に合うか否か」であって、「通るからことになっているから船を描かなければいけない」といった「リアリズム」ではありません。
 もしくは、お金がなくて船が用意できなかったり、スケジュール的に無理といった単純な理由かもしれません。しかしながら、船が通る描写などなくても「映画」は成立するんだとグリフィス監督は判断した。そのことが重要であるように思えます。
 『見えざる敵』には、船の他にも「見えない」「わからない」ものが多くあります。例えば、姉妹の家と兄の事務所との距離です。実際の距離がどれくらいであるのかは画面を見ていてもよくわかりません。描かれているのはあくまでも心理的な距離であり、それは作劇する上での「都合のいい」距離なのかもしれません。しかし、だからといってシラけることはなく、むしろ実際の距離がわからないことで焦りが生まれ、映画はより盛り上がりを見せます。
 また、二点の距離が「見えない」「わからない」ことは、家政婦と姉妹の関係においても言うことができます。壁一枚を挿み、銃で狙うー狙われる関係ですが、当事者たちはそれぞれ相手がどこにいるのかわからず、誰がどこにいて、どちらを撃とうとしているのかわからないという不安定な状態が続きます。
 そこへ再度、銃が壁の穴からぬっと出てくる。発砲と同時に硝煙がはげしく舞います。手と銃しか姉妹から見えないことが、この場面の恐ろしさを倍増させています。
 家政婦たちは姿を隠しつつ威嚇しようと穴へ手を入れます。逆に姉妹たちからすると、自分たちを狙っている狙撃者を確認できるのは手と銃のみであり、ある種の不気味さが際立ちます。この不気味さは狙撃者が部屋に入ってきたとしたら、つまり家政婦が全身を露わにして姉妹を脅した場合にはありえない怖さではないでしょうか。
 撃たれるかもしれないという恐怖だけでなく、「狙撃者が見えない」恐怖が合わさることによって、生々しくどこかいかがわしい恐怖が、眼をひんむくギッシュ姉妹たちが感じたのと同じように、私たちを襲います。
 しかしながらその一方で、初期映画にみられるような心躍る躍動感もこの映画は兼ねそろえています。たとえば、屋外で話す人物の様子よりも、荒々しく揺らす風、移ろう光の清々しい健全さに眼を奪われます。ここで、背景の木々の葉が風に生き生きと揺れる様子に『赤ん坊の食事』を、舞い上がる埃や煙からリュミエール兄弟『塀の取り壊し』を思い出す方がいらっしゃるかもしれません。
 「物語」のみを効率よく語ることだけを考えるならば、これほどの風や光は不要なものです。「物語」を「効率的」に撮影するためのみでしたら、刻一刻と変化する光や風はあまりにも不安定で扱いにくものだからです。そうしたものは画面からなるべく排除した方が「効率的」です。しかし、この映画における過剰な風や光は、明らかに「リアリズム」や「心理」を超えた荒々しい表現となっています。それは、人間がコントロールできないもの、同じものは二つとない動きを見せる一回性の儚さを、あえて積極的に映画へ取り込もうとしたからではないでしょうか。直線的な物語構造を取りながらも、グリフィス監督は「映画」を「実験」しています。映画の黎明期から監督として立ち会い、本当にフィルムに映っているのか現像するまで分からないまま撮影を続けるしかなかったであろう、当時のスタッフが行った映画製作という実験、試みの有り様が、見えないことを喚起する「想像力」と深く関係しているのかもしれません。

 私たちはテクノロジーの進歩によってCGや3D映画を目にしているけれども、百年以上前のグリフィス監督の映画ですら、得体の知れない魅力で私たちを惹き付けて止みません。

 


 

●『ポンヌフの恋人』(レオス・カラックス、フランス、1991)

 次は橋が動かない、というか橋は元来動かないものですが、その橋の存在感そのものによって映画が成り立っている、まるで橋が登場人物の一人であるかのような映画をご覧いただきます。その橋は「ポンヌフ」という名前を持ち、日本語に訳せば「新しい橋」となりますが、パリの中で最も古い橋であります。ちなみに、最初に「橋」の映画で思い浮かぶ映画を伺った際に、ほとんどの方が挙げてられていました。
 監督のレオス・カラックスは、23歳で『ボーイ・ミーツ・ガール』で長編デビューをするやいなや「ヌーヴェル・ヴァーグの恐るべき子ども」「ゴダールの再来」と評価されました。
 カラックス監督の長編三作目である『ポンヌフの恋人』は、オープンロケの設営のため予算が肥大化してしまい、さらにプロダクションの倒産やドニ・ラヴァンのケガによって二度の中断を経て完成しました。当初はパリでの撮影を予定しておりましたが、撮影が延期したため許可が切れてしまい、結局実物の4/5のオープンセットを建設することになり、制作費は当初の予算の約4倍まで膨らみフランス映画最大の制作費となったそうです。この映画で扱いにくい監督のイメージが付いてしまったカラックス監督は、『ポンヌフの恋人』から次作の長編映画『ポーラX』まで8年、『ポーラX』から次の『ホーリー・モーターズ』まで13年もの時間が空いてしまっています。
 主演は『ボーイ・ミーツ・ガール』『汚れた血』に続きドニ・ラヴァンが務めております。同じ主人公の「アレックス三部作」として『ポンヌフの恋人』は、80年代を締めくくる一本となるはずでしたが、先ほど申し上げたように撮影が長引いたために91年の公開となっております。
 相手役のジュリエット・ビノシュは当時カラックス監督と付き合っていたそうですが、この映画の難航がきっかけとなり別れてしまいました。この映画の結末がハッピーエンドに変わったのは監督がビノシュへの最後のプレゼントだといわれています。
 日本では単館系ミニシアターの最長期間上映記録を持っており、本日も多くの方が挙げられるなど皆さんの心に深く残っています。
  ポンヌフそのものは老朽化に伴い改築工事中(この期間は映画の製作期間でもあります)となっています。関係者以外立ち入り禁止にされており、フェンスで覆われています。にもかかわらず、浮浪者であるアレックス(ドニ・ラヴァン)と初老の浮浪者であるハンスはポンヌフを寝床としています。そこへ新たな闖入者としてミシェルという女性が加わります。ミシェルは画家志望でしたが眼病を患い、失明する運命となります。失意のあまり浮浪者となってしまったことが、風で吹き飛ばされる画用紙などによって画面に示されます。
 電車の中で元恋人を撃った夢(?)から覚めた場面から水上スキーの場面までご覧いただきます。

 

  踊る場面はハイスピードカメラで撮影され、横移動のショットは4、5台の移動車を使って撮影されたそうです。劇中の7月14日は革命記念日のため、花火が盛大に上がっています。この舞台はセットのため花火もすべて撮影のために上げています。水上スキーのシーンも相当な量の花火がセットされており、失敗してもすぐに止めることができないため、ビノシュはとてもプレッシャーがかかっていたそうです。撮影は、NGを一回出してしまったものの二回目で成功したそうです。
 この他、実際に俳優たちにホームレスとして生活させる等して役作りしたそうです。
 この映画における橋は舞台そのものでした。橋というそれ自体が不安定な場所にある建造物とあてもなくさまよう浮浪者たちは存在の根底が似ています。
 銃を撃つリズムと台詞のリズム、花火のリズムが画面に溢れており、物語上繋がっていくのではなくむしろイメージをもって繋がっています。物語を上手に語るためではなく、音色や色感、質感、ショットの質量を優先させて画面が構成されています。
 想像力に寄与しているという意味で、グリフィス監督とカラックス監督は通ずる部分があるのではないでしょうか。
 また、画面にたびたび現れる水の主題は、同じく「橋」の映画である『素晴らしき放浪者』や『アタラント号』を思わせます。移ろいながら川の流れに身を任しつつ確かな愛を手に入れたカップルの話でした。

 

●『黒い罠』(オーソン・ウェルズ、アメリカ、1958

 カラックス監督は「呪われた映画作家」と形容されることがあります。他に「呪われた映画作家」に、「登山の映画史」の回で『アルプス颪』をご覧いただいたシュトロハイム監督、「平手撃ち」の回で『ラルジャン』をご覧いただいたロベール・ブレッソン監督、そしてこれからご覧いただくオーソン・ウェルズ監督がいます。
 オーソン・ウェルズ監督は、最初、舞台俳優、演出家として活躍しました。1938年にラジオドラマ「宇宙戦争」があまりにも「リアル」だったため、火星人が襲来したと勘違いし全米がパニックになりました。そして、1941年、25歳のときに『市民ケーン』を監督します。映画史上のベストで1位になったこともある映画です。
 今回ご覧いただくのは『黒い罠』という映画です。この映画は、3つのバージョンがあります。最初にウェルズ監督が撮影し編集した試写会版、次にウェルズ監督に無断で映画会社が勝手に編集した劇場公開版、そして、ウェルズ監督が公開当時に映画会社へ提出した嘆願書を基に監督が亡くなったあと編集した修復版です。スタジオが勝手に編集した劇場公開版は、結局、批評的にも興行的にも失敗してしまいます。このようなハリウッドのスタジオ・システムに嫌気がさしたウェルズ監督はこの映画を最後にアメリカからヨーロッパに活躍の場を移すことになります。

 とはいえ、1958年のブリュッセル万国博覧会で劇場公開版が上映された際、トリュフォー監督やゴダール監督から絶賛されました。
 アメリカーメキシコ国境付近が『黒い罠』の舞台です。メキシコの麻薬捜査官バーガスが、国境付近のアメリカ側で発生した事件の捜査に立ち会ううちに、アメリカの刑事クインランの強引な操作方法に疑問を持ち対立していきます。国境付近を縄張りに持つマフィアのグランディは、翌週に控えた弟の裁判の前にバーガスを脅そうと、バーガスの妻を眠らせて麻薬パーティーに参加させたと見せかけます。しかし、グランディは、バルガスを煙たがっており共に彼を貶めようとしていたクインランに殺されてしまい、バルガスの妻と一緒に発見されます。
 バルガスが妻の下へ駆けつける場面から映画の最後までご覧いただきます。 

 最近の映画でいえばスピルバーグ監督の『ブリッジ・オブ・スパイ』がそうであったように、この映画では様々な「境界」が問題となっています。アメリカとメキシコの国境、刑事の管轄、英語とスペイン語、天才と凡人、アイドル刑事汚職刑事という境を巡る物語の最後の舞台が、橋でした。
 妻を絞殺した犯人をいつか逮捕するため好きだった酒を断ってまで仕事に打ち込み、同僚をかばって銃弾を受けたことで獲得した特殊能力「直感」を用いて、多くの事件を解決してきたアイドル刑事のクインランは、特殊能力を持つゆえに「直感」で犯人を見抜いてしまい、本来であれば必要な「証拠品の押収」を省略し「証拠のねつ造」によって容疑者を次々と検挙してきました。今回のリネカー殺人事件も同様に容疑者のサンチェスの部屋に持参したダイナマイトを置いて、相棒のピートに証拠品として見つけさせました。
 こうした汚職に勘づいたバーガスは検事のシュヴァルツとともに真相を探ります。そんなバーガスを煩く思うクインランへ、ピートにサンチェスの部屋まで連れられてきたグランディが、協力してバーガスを懲らしめようと話を持ちかけます。どこかから鐘の音が聴こえる中、二人は具体的な話をするために場所を移します。
 バーで話をしていると、クインランはいつのまにか酒を口にしてしまっています。そこへグランディの子分から電話がかかってきます。どうやらバーガスの妻をクスリで眠らせているらしく、グランディは彼女をホテルへ連れて来させます。
 グランディに案内され誰にも見られないようにバーガスの妻がいる部屋へ着いたクインランは、ピートへ麻薬の乱痴気パーティーがあったことを風紀課に匿名で電話するよう指示したのち、バーガスの妻が眠るすぐ傍でグランディを絞殺、バーガスの妻に預けてあったバーガスのピストルを持って部屋を後にします。
 一方バーガスは、クインランのダイナマイト購入の記録や汚職の疑いをクインランや上司に伝え、妻を迎えに行ったものの部屋がもぬけの殻であり、グランディ一味の若者たちが部屋から彼女を連れ去ったことを管理人から聞き逆上します。すぐさま若者たちがいるバーへ向かい、ジュークボックスが大音量で鳴り響く店内で彼らを見つけると妻はどこにいるかと詰め寄り、殴り合いの乱闘となります。
 そこへ駆けつけた検事のシュヴァルツが麻薬所持とグランディ殺人の容疑のためバーガスの妻が逮捕されたことを伝えます。バーガスは急いで留置場の妻の元へ駆けつけます。意識が朦朧としながらも妻は「家へ連れて帰って」と話し、バーガスを抱きしめます。抱きしめ返すバーガスの衣服は、ネクタイがほどけシャツもボタンがいくつも開いています。妻を労るバーガスと彼らに冷たく当たる上司との間で、これまでも無罪の人々をこのように逮捕していたのかもしれないとピートは良心の呵責に苛まれ、バーガスを呼び殺された
グランディの傍らにクインランの杖があったことを告げます。告訴はされないものの妻の名誉を取り戻すため、バーガスはピートを連れて「ねつ造」の証言を取るためクインランの元へ行きます。
 クインランがいるターニャの店付近で、自身の服の乱れを気にかける様子もないバーガスは、ピートに盗聴器をつけ身なりを整えさせます。盗聴器が受信することを確認したピートは、ピアノーラが鳴り響くターニャの店にいるクインランを呼び出します。先ほどバーガスが様子を伺いにきたのに気付いていていたクインランは、現れたピートに「お前をバーガスと見間違えた」と語るほど酔っています。
 こうして、酔ってはいるものの類い稀な直感を持つクインランと、彼に気付かれないように証言を聞き出したいピートと盗聴器を録音しているバーガスの探り合いが始まります。酔っているとはいえ、ピートの頭の上に浮かぶ天使の輪が見えると直感を働かせるクインランに油断はできません。
 ここでカメラは、道を歩きながら会話をする二人とそれを録音するバーガスをそれぞれ追うのですが、盗聴器が受信できる範囲がどの程度の距離までなのかよく分からない上に、バーガスが掘削現場の建物内を移動するため、この2+1の位置関係が容易に判断できません。
 そこでわたしたち観客は、画面によって2+1の位置関係が宙づりにされつつ(なお、二人が盗聴器を仕込んでいるとき、ピートはクインランへの深い友情から裏切る可能性があるとバーガスは彼を完全に信用しているわけではないことが語られ、この2+1の関係は1+2の関係になりうることが示唆されている)、クインランとピートの会話を追うことになります。クインランとピートを見張りながらまるで迷宮に迷い込んでしまったかのようにバーガスが建物の中を移動していくにつれ、2+1の位置関係を判断することがますます困難になり、かつ掘削機の轟音に掻き消される二人の会話は受信機を通して語られるようになります。そのため、画面内の登場人物の動きと会話を把握するためには、視覚と聴覚をカットに合わせて交替させながら、ひとつの画面から見えていない登場人物らの言動を想像することを強います。
 こうして最後の舞台となる橋へと辿り着きます。橋へ先に辿り着いたバーガスは上着を投げ捨て、橋の下へと降り河を横断しながら二人の会話を受信します。が、受信機が再生した二人の会話が橋に反響してクインランに気付かれてしまいます。さらに、クインランは直感によってバーガスが近くにおり、かつピートが裏切っていることに気付いて激昂し、バルガスの拳銃でピートを撃ってしまいます。クインランは必死に正気を保ちながら手に付いたピートの血を洗い流すために河辺に降りてきます。工場排水によって汚れた河で血を洗い流したあと、クインランは崩れ落ち、涙を流します。
 バーガスが「もう言い逃れはできない」とクインランに詰め寄りますが、まだクインランはピートを撃った罪をバーガスに擦りつけることができると考えており拳銃で脅します。そこへ検事のシュヴァルツとバーガスの妻が車でやってきます。クインランはお前を逮捕すると発砲して脅しますが、バーガスは、銃口を向けらているにもかかわらず、もはや今のクインランでは自分に命中させることはできないだろうと意にも掛けず、河辺から車へ向かいます。クインランがもう一度撃とうとしたとき、ピートが橋の上からクインランを撃ち、そのまま事切れてしまいます。倒れたピートの帽子が風に吹かれ、意識がなくなったピートの手からは拳銃が零れ、河に落ちます。
 橋の上では、駆けつけたシュヴァルツがバーガスへ車に妻がいることを、バーガスは現場の状況を伝えます。
 河辺に置いてあった盗聴器のテープをシュヴァルツが再生し、ピートを撃つ場面の二人の会話が反復されます。それを聞いたクインランは橋で倒れているピートを見上げながら「お前のために受けた二度目の銃弾だ」と呟きます。
 描かれた場面を通してひとつの大きな物語を語る映画のように、現場の(時にはねつ造した)証拠から動機や犯行の様子を推理し「事件」という大きな物語を解明してきた刑事は、ここでも物語を作り上げてフィクションを成立させようとしています。かつて他人のためにつねに懸命であったはずの刑事は、いつしか自分に都合の良いフィクションを仕立て上げることに必死となっています。
 そこへ、再びピートの血がクインランの手に滴り落ちます。ここでようやく彼は物語に固執するあまり大事な友を失った重大さにおののき、崩壊したフィクションの裂け目に落ちるように、ゴミまみれの河へ落ちてしまいます。
 自身で作り上げる物語の心地よさに浸るあまり、友まで手にかけてしまったクインランは、手に滴る友の血の生温かさを感じることで、つまり自分にとって偽りようがなく、あくまで個人的な体験である「触覚」を刺激されることによって、自身の罪を自覚し、それまでの汚職を認めるかのようにドブ河へと身を沈めてしまいました。
 テープが再生されたのを確認し、「家へ帰ろう」と車でその場を離れたバーガス夫妻と入れ替わりに駆けつけたターニャは、死んでしまった二人の刑事について「人がなんといおうと関係ない、結果としてお互いを撃ち合って死んでしまった二人だが深い友情で結ばれていたのだ」とシュヴァルツへ語ります。「アディオス」とシュヴァルツに別れを告げたターニャは、来た道とは違う方角へと歩いていき、ピアノーラの音とともに闇へと消えてゆきます。果たして"home"とは何を指していたのでしょうか? ターニャは一体どこへ歩いていったのでしょうか?

 橋は、建造物として、声を反響させ二重化します。さらに、人の行き交う舞台を自ら降りてしまったクインランは、それまでのキャリアを断絶され、終いには工場排水とともに流されていました。

 『黒い罠』は、本日ご覧いただいた映画の舞台として橋が喚起するイメージーー境界、上下構造、宙づり、建造物、河川ーーが詰まった映画でした。

以上で、映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.16「橋」を終わりたいと思います。これからも、映画における橋のさまざまなニュアンスを楽しんで頂ければと思います。

本日はどうもありがとうございました。

(シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った。)