読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

GO!GO!L'ATALANTE!!

ゴー!ゴー!アタラント号!! 映画☆おにいさんのBlog

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.18「振り返る」

 本日はお集まりいただきまして誠にありがとうございます。
 まず、振り返ることについて参加者の方々にどのようなイメージをお持ちか伺ったところ、ホラー映画の「振り返る」が印象に強く残っており、振り向くといるはずの人がいなかったり、逆にいないはずの人がいたりと、何かの気配を感じさせて振り返ることがあり、そこでは存在と非存在が問題になっているというご指摘や、振り返る動作をきっかけとして回想シーンに入ることがあり、時間を操るきっかけとなる動作だというご指摘がありました。また、演劇をされていた方からは、振り返るタイミングで動作の意味が変わってきてしまうため、とても難しい動作だったというご意見もありました。
 具体的に挙げていただいた映画には、『百万円と苦虫女』『ニュー・シネマ・パラダイス』『シング・ストリート』等がありました。今回私が用意した映画も、参加者の方々に挙げていただいたような、動作として、そして時制が変わるきっかけとなる「振り返る」があります。

 では、映画を観ていきましょう。
 ご指摘いただいたように、「振り返る」には様々な意味がありますが、まずは運動として素晴らしい「振り返る」をご覧いただきます。

●『上海特急』(ジョセフ・フォン・スタンバーグ、アメリカ、1932)

 まずは、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『上海特急』をご覧いただきます。スタンバーグ監督は、1894年にオーストリア=ハンガリー帝国ウィーンで生まれたドイツ系ユダヤ人です。アルバイトの映写係から映画に携わるようになり、撮影助手や助監督など現場の経験を積み、1925年に自主映画『救ひを求むる人々』という長編映画を撮ります。これがチャップリン監督の目に留まり、チャップリンが当時役員だったユナイテッド・アーティスツから配給・上映されます。1927年に監督した『暗黒街』はアメリカ最古のギャング映画として有名です。女優のマレーネ・ディートリッヒとコンビを組んだドイツ映画『嘆きの天使』(1930)は大変評価され、アメリカ映画『モロッコ』『間諜X27』でもコンビを組み、今回ご覧いただく『上海特急』はディートリッヒとコンビを組んだ4作品目にあたります。
 ちなみに、王侯や貴族の称号である”フォン”を名乗っていますが、実際は貴族の出ではなく、アメリカの映画製作者が監督のイメージアップのためにつけたそうです。
 『上海特急』は、北京から上海へ向かう特急列車を舞台に、5年前に別れたカップルが再会する話です。この5年間で、クライブ・ブルック演じる医学博士ハーヴィーは医者として出世し、マレーネ・ディートリッヒ演じるマデリンは上海リリーと名乗る悪名高い娼婦となっていました。上海行きの特急列車の一等車に乗り込んだのは、彼らの他、無断で客室に犬を連れてこようとする婦人、風邪を引いているドイツ人、フランス語しか喋れない将校、ギャンブル好きの男、神学博士、中国人の女性、中国人と白人のハーフの紳士等がいます。
 登場人物たちが夕食をとるために食堂車に集まる場面からご覧いただきます。

 

 ハーヴィーと上海リリーが列車のデッキで会話する場面までご覧いただきました。
ディートリッヒが『東京物語』や『麦秋』の原節子さん並にキレキレでした。
 列車のデッキで物思いに耽るハーヴィーのところへマデリンが訪ねます。時間を尋ねたマデリンはハーヴィーが自身の写真を入れてプレゼントした時計を使っていることに気付きます。時計をきっかけに、話題は付き合っていたときの話になります。二人とも相手を愛していたはずなのに、別れた原因が些細なきっかけだったことを悔やみます。ハーヴィーは立ち上がって二人が座っていた椅子の周りを歩きながら、煙草を投げます。ポケットに手を突っ込み「君を手放すなんてバカだった」と呟く彼を、マデリンは椅子にもたれたまま、彼の上着を掴み抱き寄せます。椅子の手すりに腰掛けたハーヴィーは、マデリンを見つめます。ゆっくりとハーヴィーの帽子を取ったマデリンは、右手を軽く動かしてハーヴィーを促し、しかし、互いが互いに引き寄せられるかのようにして二人は唇を重ねます。二人の気持に呼応するかのように汽笛が鳴り響き、何者かが列車にロープを仕掛ける映像が挿入された後、ハーヴィーは身体を起こし、この5年間、他に男がいなかったかと尋ねます。マデリンは立ち上がってハーヴィーの帽子を被りながら振り向き、何もないと言えたらいいが中国の5年は長いのよと溢れ出す感情を堪えながら答えます。
 ここでは、5年前の二人の別れを巡って話が進みつつ、ディートリッヒが振り向きます。その動作は大部分が省略されています。振り返る動作は、その始まりがわずかに残されているのみで、途中の運動は編集によって切り落とされており、カットが変わりディートリッヒのアップに切り替わったときはすでに振り返る動作は終わっていました。ということは、ディートリッヒが振り返る動作を私たちはすべて観ているわけではないのです。
 彼女の演技が素晴らしいとはいえ、彼女の振り返る動作がすべて描かれていたらこれほどの「速さ」を私たちは感じることはなかったのでないでしょうか。もちろん編集を考慮に入れた上での演出もであろうこの「速さ」は、中途の動作がカットされ時間が省略されながらも連続性が保たれており、演劇とは異なった映画固有の時間を形成していることから来ています。
 この映画において、この「速さ」は、5年前の出来事から現在まで彼女が駆け巡ってきた時間を回想した「速さ」であったかもしれず、彼とのことを忘れるのだという過去にした決断の力強さの「速さ」なのかもしれません。ともあれ、この振り返る動作から彼女は5年前のハーヴィーと恋に落ちていたマデリンではなく、再びこの5年間を生きてきた「上海リリー」として彼と接するようになっていました。この後、革命軍に列車が乗っ取られ、物語は本格的に展開されていきます。

 過去を振り返る行為でもあり、過去を断ち切る行為でもあった「振り返る」でした。

 

●『砂丘』(ミケランジェロ・アントニオーニ、アメリカ、1970)

 単純に身体的な運動として素晴らしい「振り返る」をご覧いただきましたが、次は視線の転換としての「振り返る」をご覧いただきます。ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『砂丘』です。
 アントニオーニ監督は、大学在学中から新聞に映画批評を書いており、1942年にロッセリーニ監督の『ギリシャからの帰還』に脚本、マルセル・カルネの『悪魔が夜来る』に助監督で参加しております。その後、ドキュメンタリーの監督をするようになり、1950年に長編劇映画『愛と殺意』を監督します。1955年に『女ともだち』でヴェネツィア映画祭で銀獅子賞、1966年には『欲望』でカンヌ映画祭パルム・ドールを受賞しております。カンヌ、ヴェネツィア、ベルリンの世界三大映画祭で最高賞を受賞しており、これはアントニオーニ監督の他にアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督とロバート・アルトマン監督の二人しかいません。ちなみに達成した順番は、クルーゾー監督、アントニオーニ監督、アルトマン監督です。
 黒人と白人の学生が交じってストライキについて討論している様子がドキュメンタリーのように映し出されて始まる『砂丘』は、学生運動が盛んな時代に撮られた背景を反映しつつも、二人の若い男女が出会い、自分自身を見つけるお話です。
 男子学生マークは学生運動に関心があるものの議論が苦手で集会に馴染めません。ある日、大学での抗争の様子を伺いに行き、警察官が撃たれる場面に出くわします。持っていた銃で警官を撃とうとしていた彼は、撃っていないにもかかわらず、気が動転して街を飛び出します。手持ちの金もなくなり腹を空かした彼は、飛行場から飛行機を拝借することを思い立ち、あっけなく成功します。
 一方、秘書のアルバイトをしているダリアは、上司から会議を行う邸宅へ来るよう言われるも、道程の途中にあるという瞑想に適した場所を求めて車を走らせます。ラジエーターの水を汲んでいた彼女を見つけたマークが低空飛行をして彼女の車をからかったことがきっかけで、二人は出会います。飛行機を停留していたマークはダリアに砂丘に連れて行ってもらいます。かつて湖底であったらしい砂丘で、二人はおしゃべりをしながら砂丘を探検したり砂まみれになりながらセックスをしたりと濃密な時間を過ごします。
 そのままいっしょにどこかへ逃げる選択肢もあったにもかかわらず、マークは「危険を冒したい」と飛行機を返しに飛行場へと飛び立ちます。飛行場では、盗難騒ぎが大きくなっており、多くの警官やメディアがつめかけていました。飛行場へ戻ったマークは、飛行機を止めようとした警官に射殺され、死んでしまいます。
 ダリアがそのニュースをラジオで知った場面からご覧いただきます。

 

 

 映画の終わりまでご覧いただきました。凄い爆発シーンでしたね。
 参加者の方の感想にもあったように、爆発のカットが続いていき、再びダリアが映し出されると辺りはすでに夕暮れとなっており、爆破前からかなりの時間が経過したようです。彼女が浮かべる薄ら笑いから、物語上爆発は起こっていないように、あくまでも未確定ですが、推察できます。
 しかし、観客側から観たとき、爆発の映像群は、彼女の夢でも回想でもなく、実際に「ある」ものです。もちろん爆破風景はCGではありませんから、実際に爆破をして、その風景を撮影しています。それらを物語上の彼女の「妄想」だと言ってしまうことができるのかもしれませんが、そうした言葉でただ片付けるよりも、まずはその映像が「ある」ことに驚かされます。
 広大な砂漠をリゾート化するための会議が行われている邸宅が爆破され、10台以上のカメラの映像によって描き出されます。爆破の時間は反復され、延長されてゆきます。それらは次第にブランド品やTVといった、過剰にイメージをまとったものへと横すべりしていきます。
 実際に「ある」ものしか映すことができない映画にとって、人間の内面を描くことはできません。できることは「ある」ものをただ繫げていくことだけです。むしろこれらはマークとの恋愛と死別を通して、それまで彼女が身を染めてきたものに対する彼女の内に起こった”自己変革”が描かれています。これをささやかに”革命”と呼んでも差し支えはないのかもしれません。
 それまでの誰が何をしているのか分かりにくい未確定な画面の繋がれ方や、出来事のみが淡々と画かれていく様子とはうってかわり、あからさまに破壊され飛び散る対象がずらされていく過程そのものが、ピンクフロイドの音楽と合わさって既成の価値観に揺さぶりをかけているように感じられます。
 単純に「物語」のみを追うだけならば、ここまでの爆破シーンは必要ないように思えます。アントニオーニ監督はなぜここまで爆破シーンを反復、延長し、別荘から異なったイメージのものまで次々と爆破させていったのでしょうか。
 わたしたちが実際に眼にした映像群を純粋に「画面」の物語としてみるとき、やはり別荘は爆破されたと答えることができるのかもしれません。それは、アントニオーニ監督が実際には見えない、ダリアの中で起こった「価値観の変化」を可視化させようとしたイメージを、わたしたちの想像力が感じ取ったからではないでしょうか。一つ一つは確かに目に見えながらもそれらの総体としての未確定な「映像」には、実際に何が見えていて、何が映っていなかったのでしょうか? 映像には何が起こっていたのでしょうか? 映像の最小単位がワンカットであるのが疑わしいように、矩形の画と音で成り立っている「映像」は物語に奉仕するためだけのものではありません。物語に還元できえない過剰さがあり、そういった「映像の可視性」を拡張するような表現を、アントニオーニ監督は模索していた結果なのではないでしょうか。
 そのため、この爆破シーンは、現代消費社会のシミュラークルに関するものというよりも、むしろ映像の過剰な暴力性に触れるようなものであると思います。それは、別の過激な映像言語を模索していったために撮ることはありませんでしたが、小津監督が一兵士として戦場に行ったときに撮りたいと思ったという、杏の実が落ちる音や散り行く白い花の様子に似ているのかもしれません。

 この爆破シーンの他にも、砂丘でのセックスシーンが有名です。砂丘でダリアはあるゲームを提案します。砂丘の端にそれぞれが立ち、お互いが出会うまでにトカゲ、ヘビ、ネズミと目についた生き物を殺していく、出会ったときに多くの生き物を殺していた方が勝ち、勝った方が負けた方を殺すというゲームです。警官が撃たれた場面を目撃していたマークはナイーヴにそれを断ります。
 その後描かれる二人のセックスシーンでは、だんだんと砂丘でセックスをする恋人たちが増えていき、しまいに砂丘はセックスをする恋人たちで埋め尽くされます。それはまるで生きている物などいないかのように見えた砂丘で細々と生命を維持していた生き物らが擬人化されたように、数多くのカップルがまるでコンテンポラリーダンスを踊っているかのように、生と死のあわいで戯れるかのように、砂丘でセックスをする恋人たちが描かれます。
 そのほか、砂丘で、くるくる腕をのばしてヘリコプターのように回ったダリア・ハルプリンがカメラ横まで全力で走り抜けたときに彼女の息切れが残されており、それが急に肉体性を感じさせて思わずドキッとするカットがあります。
 今回は時間の都合でマークが出てきませんでしたが、マークとダリアが出会って過ごした時間を体感した上で、彼女が振り返って観たものをもう一度ご覧いただくと、より面白くご覧いただけるかと思います。

 振り返って、視線が移動する。しかし、そうして視たものが何なのかはあくまでも未確定である「振り返る」でした。

 

●『オルフェ』(ジャン・コクトー、フランス、1949)

 3本目は、「振り返ってはいけない」映画をご覧いただきます。ジャン・コクトー監督の『オルフェ』です。
 ジャン・コクトー監督は、詩人、小説家、劇作家、評論家、画家とたくさんの顔をもっており、それぞれの分野で刺激的な創作活動をなさっています。小説では『恐るべき親たち』、映画では『美女と野獣』等が有名です。日本では、坂口安吾三島由紀夫澁澤龍彦等がコクトーを愛好していたことで知られています。
 「オルフェ」はギリシャ神話のオルフェウスのことです。ギリシャ神話では、オルフェウスは死んだ妻ユーリディウスを求めて冥界まで赴き妻を連れて帰るのですが、冥界を出るまで妻を見ることが禁じられていたのにもかかわらず、振り返ってしまい妻を失う話です。この神話を題材とし、コクトー監督は『オルフェ』を撮ります。コクトー監督はこのお話に思い入れがあるようで、遺作の映画『オルフェの遺言』でも取り上げています。
 コクトー監督の愛人でもあったジャン・マレーが主演を務める『オルフェ』は、詩人のオルフェが芸術家や青年たちが集まるカフェ「フロール」から始まります。カフェで乱闘騒ぎが起こり、騒ぎの中、若き詩人セジェストはオートバイに轢かれてしまいます。セジェストのパトロンであった女王と呼ばれる女性に、詩人として高名なオルフェは証人として同行を求められます。しかし着いたのは女王の屋敷でした。そこで、彼はセジェストが生き返り女王とともに鏡の正解へ消えてしまうのを目撃します。彼は後を追おうとするも気を失ってしまいます。目を覚ますとそこは荒野で、彼は女王の運転手であったウルトビーズとともに帰宅します。
 家に着くと、妻ユーリディウスは警察署長や友達を呼んでおり、事が大事になりかけていました。女王の美しさに魅せられてしまったオルフェの枕元に、実は死神であった女王は現れるようになります。
 オルフェは車のラジオから流れる謎のメッセージに夢中になり、妻を蔑ろにするようになります。ユーリディウスは自分から夫の心が離れてしまったことを悲しみ、友達に相談しにいく途中、セジェストを轢いたオートバイに轢かれて死んでしまいます。
 オルフェは妻を生き返らせるため、そして女王に会うため、ウルトビーズに導かれ鏡の世界に入っていきます。鏡=死の世界では、死神によって女王の裁判が行われていました。裁判の結果、女王がオルフェに、ウルトビーズがユーリディウスに恋をしてしまったゆえに殺す必要もない人まで殺したと判決され、オルフェはこの件を口外しないこと、妻を見ないことを条件に妻と一緒に現実の世界へ戻ることが許されます。この条件は難しいからとウルトビーズが付き添って三人で元の世界へと戻る場面からご覧いただきます。

  映画の最後までご覧いただきました。逆再生によって不思議な浮遊感が映像にもたらされていて面白かったですね。
 妻を見ることができなくなったオルフェ、見られてはいけない妻ユーリディウス、気を回すウルトビーズ三人が一つの画面に収められ、それまでより息苦しさが強調されています。そのような中でも、怒って振り向くオルフェと屈むユーリディウスがコメディのように描かれていたり、相手を見ずにどこにいるかを感じ取りながら芝居がなされており物語が進むことで喧嘩をしながらも夫婦が共有してきた時間の長さ、尊さを感じさせます。
 しかしながらユーリディウスは、積極的にオルフェとスキンシップを取ろうとするも冷たく接されることに耐えられず、もう一度消えてしまった方が良かろうと寝ているオルフェを起こし自分の姿を見させようとします。ところが、幸か不幸かちょうど停電が起きてしまい試みは失敗します。
 再びラジオにオルフェは夢中になり車でメモを取りながら聴いていると、ユーリディウスがウルトビーズとともにやってきて後部座席に陣取ります。ユーリディウスに後ろから愛撫されていた彼は、ふとバックミラーを見遣ります。すると、オルフェの目線にカメラが置かれ、バックミラーに映っていた彼女は一瞬で消えてしまいました。
 車の座席によって位置関係が固定されていたため、オルフェは妻を見るためには身体をねじって振り返る必要があったはずでしたが、鏡によって視線が反射したことで、結果的に、「振り返って」しまいました。
 鏡は、画面の外も写してしまうため撮影しているスタッフも写してしまうことがあり、映画撮影にあたって気を配らなければなりませんが、画面に異なった奥行きをもたらしもします。コクトー監督は映画撮影を「鍵穴から覗く行為」に例えていますが、鏡を画面の中に置くことは鍵穴の中にさらに鍵穴を置くことに近いのかもしれず、そうした観点から映画内にある「鏡は思考力を増大する」という台詞は語られうるのかもしれません。また、穴からさらに穴の中へと視線を漂わせたときに重要なのは、そこに見える主体が外部から刺激を受ける生きた存在であることです。そのため、イメージとして既に定着してしまっている妻の姿が写した写真は、視線を漂わせても問題ないのかもしれません。写真自体は外部から刺激を受けることは決してなく、静的な存在、いわば死んだ存在であるためです。
 妻が消えてしまったあとは、ご覧いただいたように、死神と運転手が、オルフェとユーリディウスのために禁じられた時間の逆再生を行います。そうして、死神らと出会う前の夫婦に戻ったオルフェとユーリディウスは視線を等方向に向け、抱き合いながら愛を語ります。死の世界では、死神と運転手が連れられていき映画は幕を閉じます。

 「振り返る」が身体の動きだけでなく、視線の動きによってなされた映画でした。そこでは、鏡が重要なモチーフとなっていました。

 

●『黄金の馬車』(ジャン・ルノワール、フランス/イタリア、1952)

 最後に、ご覧いただくのは、身体的というよりも記憶にまつわる、思い出す「振り返る」です。ジャン・ルノワール監督の『黄金の馬車』をご覧いただきます。
 ジャン・ルノワール監督は、印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワールの次男として1894年に生まれます。
 映画批評家アンドレ・バザンーーヌーヴェル・ヴァーグの精神的父親と呼ばれた映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」の初代編集長ーーは、ルノワール監督のことを「世界最大の映画作家」と述べていますし、フランソワ・トリュフォールキノ・ヴィスコンティジャック・ベッケル等多くの映画監督がルノワール監督から影響を受けています。

 ご覧いただく『黄金の馬車』は、『カルメン』で有名なメリメの戯曲『サン・サクルマンの四輪馬車』に基づいて撮られた映画で、原住民と戦争状態にある南米のとある国へ巡業に来たイタリアの劇団の一座のお話です。
 国の象徴として作られた「黄金の馬車」と同じ船でやってきた一座は、宮殿近くの劇場で居を構え公演をします。舞台の上では「コロンビーナ」と名乗るアンナ・マニャーニ演じる女優カミーラは、宮殿での公演をきっかけに総督と仲良くなり、黄金の馬車を贈られます。しかし、馬車を自分のものにしたい貴族たちはそれをやっかみ、戦費の寄付と交換条件に馬車をカミーラから取り上げ、自分たちが使えるように公用のものとしようと企みます。さらに、寄付に関する契約書のサインを拒めば、司教の許可を得て、総督を罷免にすると脅します。総督は観念してサインしようとしますが、カミーラから意気地なしと罵られます。カミーラが怒って立ち去った後、総督は発憤し契約書へのサインを拒みます。総督は彼女のせいで地位を失うのだと逆恨みし、夜に訪ねることに決め彼女に伝令を送り知らせます。
 この映画で、カミーラは総督の他、二人の男から想いを寄せられています。
 一人は、剣豪のフェリペです。彼はカミーラの元恋人でしたが、彼女の心に一定の距離以上近づけないことを悟り、原住民との戦争へ参加することで彼女と距離を置くことにします。旅立ちの日、フェリペは、総督から贈られた金の首飾りを巡って、カミーラと喧嘩し、そのまま発ってしまいました。
 もう一人は、闘牛士のラモンです。街一番の人気者で、街での公演を見たときから彼女を気に入ります。マッチョな性格で、カミーラの下宿の前で愛の歌をよく歌います。フェリペとカミーラを巡り喧嘩したことがあり、フェリペと因縁があります。
 それでは、総督が一座の下宿を訪ねる場面からご覧いただきます。

  映画の最後までご覧いただきました。

 舞台のフレームが提示され、舞台上の〈現実〉へカメラが入っていくことで始まり、そして逆に〈現実〉が上演であったことが再度示されて終わる『黄金の馬車』は、徹頭徹尾「フィクションとしての現実」を前面に押し出しながら物語ります。
 カメラは主に空間を正面から捉え、俳優たちが演じる空間を映し出し、時に切り返しで登場人物の対立が示されつつ物語が進むことは、参加者の方の意見にあったように、抜粋のみでも感じていただけたかと思います。
 全体を通してみても、まるで第四の壁が存在しているかのように、ある空間像が提示された後は空間の手前側が映し出されることは滅多になく、なおかつ空間はそれ自体のみで存在しているかのように撮られていながら、それらが組合わさった大きな空間が映されることはありません。いわば、〈現実〉は、閉じられた一つの空間が団子の串刺し状態のように、それぞれの空間と数珠つながりに存在しています。
 そのため、諸空間を貫く位置にカメラが置かれたとき、物語に風が吹いたような印象を受けます。例えば、フェリペが兵隊長に志願することにしたと団長に別れを告げる場面です。一旦舞台から捌けたカミーラが楽屋に戻ると総督の秘書から黄金の首飾りが贈られます。それを見たフェリペは腹を立て、首飾りを送り返すから寄こせと取り上げようとします。当然カミーラは拒み、取っ組み合いの騒動となります。
 舞台ではカミーラの出番になっていますが、彼女は現れません。それでも”The show must go on”ですから、話の筋がめちゃくちゃになってもとにかく場を持たせようと、子どもたちが舞台上に出ていきます。ここで、フィックスの画面が急に捨てられて、子どもたちがはしゃいだり前転する様子が小刻みにパンをしながら撮られます。そのため、映画を観ている人をドキッとさせ、ルノワール監督はドキュメンタリーとフィクションの区別をしていなかったのではないかという疑いを感じさせる場面にもなっています。
 最終的にカミーラとフェリペは互いに平手撃ちを食らわせ、カミーラは尻餅をついて倒れ、フェリペは去ってしまいます。騒ぎを心配してして駆けつけた総督とラモンが傍らにいることに気付いたカミーラが二人へ挨拶したところで暗転して終わる、笑えながらも悲しいこの場面ですが、ことの始まりは、黄金の首飾りではなくカメラ位置によって予告されていました。
 画面手前にフェリペと団長の二人が、画面奥で今まさに舞台上で演じているカミーラが映し出されます。原住民と戦う方がカミーラの愛を勝ち取るよりも楽だと団長に慰められ去りかけたフェリペがふと振り向くと、画面奥で演技を終えたカミーラが一旦捌け、舞台から布で仕切られた楽屋へ向かいます。二つの空間を貫いていた構図から楽屋がある劇場裏の空間までを溝口健二監督ばりのパンで撮られています。
 このように『黄金の馬車』では、閉じられた空間が外部の空間と通底するとき物語は変容を来します。
 ご覧いただいた場面でいえば、高度に洗練された人間は嫉妬の感情がないのだと気取っていた総督がカミーラへの嫉妬に狂い、一人の男として貴女を愛するとカミーラに告白するシーンです。総督はそう言ってくれるが私は本物の女として愛せるのかと自問するカミーラは目の前の小道具を叩きます。画面外へと転がっていく音を私たちが聴いたとき、物語は結末へと一気に加速していきました。
 そして、映画全体においても、画面外の音や台詞をマニャーニが聞くときを、彼女のリアクションをカメラは丁寧に拾っています。他者からの刺激を受けたマニャーニがどのような反応をしていたか、演技でありながら「体験」とでも呼びうるような生理反応の連鎖を映画の優先順位の第一として『黄金の馬車』は撮影され編集されています。そうしたリアクションとアクションの連続性ゆえ、最後にこれまでの人生を振り返るカミーラ=マニャーニは、映画の運動と「生」とが近接しており、映像として美しくあります。
 映画の最後に幕が下りて行われる団長とマニャーニのやり取りにある、皆が消え客席と一体になってしまったとは、たんに「舞台」で演じることではなく、連続された「体験」がフィクションとして、また映像として一体となってしまったことを指すものです。カミーラの最後の言葉は、自身の演技論をぶったとか女優の性なるものを語ったのではありません。『黄金の馬車』全体を通して表現されている連続性によって、最後に「少し」と答えて何かを振り返る彼女は、「現実」「上演」「映画」を横断して存在しています。彼女自身の物語と映画の在り方とが一致した瞬間を私たちはいま目の当たりにしています。そのため、彼女は、ゴッホのひまわりやセザンヌの静物画が絵画として美しいように、映像としてこの上なく美しいのです。
 それは『キートンの探偵学入門』で、「現実」「夢」「映画」と戯れたキートンに近いのかもしれません。〈現実〉との距離をとることができないで没入するかたちでスクリーンに向かって走るキートンと『黄金の馬車』の振り返るマニャーニの姿は、映像として美しいという点で似ていると思います。

 『黄金の馬車』でご覧いただいた「振り返る」は、『上海特急』のように「速く」、『砂丘』のように「幻」で、『オルフェ』のように「反射」によって成り立っている、映画の内容と形式が一致した「振り返る」でした。


以上で、映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.18「振り返る」を終わりたいと思います。これからも「振り返る」の多様なニュアンスを楽しんで映画をご覧いただければと思います。
本日はどうもありがとうございました。

 

(シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った。)

 

 

 

●おまけ

・『暗黒街』