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GO!GO!L'ATALANTE!!

ゴー!ゴー!アタラント号!! 映画☆おにいさんのBlog

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.19「マルグリット・デュラス」

 本日はお集まりいただき、ありがとうございます。
 今回はテーマに沿った映画を抜粋でご覧いただくのではなく、映画をまるごと一本ご覧いただいたのち感想を話し合うというかたちで進めていきたいと思います。今回取り上げる映画は、マルグリット・デュラス監督の『アガタ』です。この女性監督は、世界的なベストセラーである小説『愛人/ラマン』で知られる、カミュと並んで20世紀を代表するフランスの小説家でもあります。

 デュラス監督は、アラン・レネ監督から依頼されて『二十四時間の情事』(1959)の脚本を執筆したのをきっかけに映画に携わるようになり、67年に撮られた『ラ・ミュジカ』から映画監督もするようになりました。今回ご覧いただく『アガタ』は、ジャン=リュック・ゴダール監督との共同企画ののち書かれた小説を原作とし、1981年に撮られた映画です。
 それでは、マルグリット・デュラス監督の『アガタ』をご覧いただきます。

 

 

 

 木洩れ陽が照らすテクストが映し出され始まった『アガタ』は、数年ぶりに再会した二人の兄妹が昔日の思い出を語り合い、愛しあったまま別れる話だと、とりあえずは語ることができるのかもしれません。こうした「物語」だけ取り上げればTVドラマにもありそうですが、それらとは異なった印象をご覧になられて感じられたかと思います。ご感想を伺った際に多くの方がご指摘されていたように、画面と音声の関係が、私たちの生活を取り囲む映像とは異なるためです。
 普段接する機会の多いTV等の映像は、視聴者に映像の世界に浸って楽しんでもらおうと作られているので、安心して観ることができるように、音声は画面にそって構成されています。そのため、映っていないものが鳴らす音によって視聴者が混乱するようなことはありません。例えばロベール・ブレッソン監督の映画のように、もし画面外の音が登場人物に何かしらの反応を与えるような作りになっていると、観客は画面外の世界を想像せねばならず、画面から音声へ意識を切り替えることが要求され、映像の世界に没入することができなくなってしまいます。それを避けるため、TV等の映像は、常に音声が画面に従属する関係性となっています。さらに、そうした映像は、事前にはっきりとした語るべき「情報」や「物語」があり、それらを効率よく伝えるために文字情報等が駆使されています。

 しかし『アガタ』は、先ほど要約したような「物語」を巧みに伝えるような映像にはなってはいません。むしろある決まった「情報」によって捉えようとするとたちまちそれを拒まれ、つねに映像の本質を取り逃がしたような気にさせるものです。なぜなら、先ほどの要約は音声から受け取った「情報」をまとめたにすぎず、画面は音声とはまったく別の「物語」を語っているからです。
 画面は、主に海辺や廃墟となったホテル、人のいない街並を端正な構図で映し出します。窓枠越しの風景が人称を感じさせ、撮影スタッフが鏡越しに映りはするものの、登場人物と思しき人物は一組の男女のみです。彼らは映画の始めに提示されたテクストの内容とは異なり、リュックやコートは見当たらないですし、女性は書かれていた年齢よりだいぶ上にみえます。二人は数えられる程のカットしか同じ画面に登場せず、言葉を交わす様子もありません。互いを知ってはいるのかもしれませんが、なぜその場にいて、なにをしようとしているのかはわかりません。むしろ画面に頻繁に登場する波の方が、曇天のなか孤独にどんよりと、また、雲の切れ目から差し込む光を受けて荒々しく、感情を表現しているようにみえます。
 一方、音声は監督・脚本のマルグリット・デュラスと画面にも登場しているヤン・アンドレアの朗読によって構成されており、それ以外に私たちが聴き取れるのは時折流れるブラームスのワルツだけで、画面を撮影した時に鳴っていたであろう音を聴くことはできません。
 『ガンジスの女』(1972)についてデュラス監督が語っているように、まるで「二本の映画、イメージの映画と声の映画」が「完全に自律的にそこにある」ように思えます。しかし二本の映画を一本の映画にしたからといって、私たちは、”1+1=2”と足し算のように、それぞれを別々に感じ、組み合わせて、考えているわけではありません。イメージと声がそれぞれが自律的であるかのように振る舞うことによって、一つの映像が様々な「物語」を内包し、私たちはそこから多様な「物語」を感じ取っています。多様な「物語」を内包させようとする試みが『アガタ』でもなされています。

 私たちが普段接しているような映像は、視聴者を「混乱」させないように文字情報を使用して「分かりやすく」されてはいるものの、映像が持つ可能性は狭められているといえます。一方、『アガタ』は、「物語」を巧みに説明するために俳優が「リアル」に「再現」するわけではなく一見「分かりやすい」ものではないかもしれませんが、その分けっして画一的な印象を持つことはない、「物語」の過剰さを携えた映画です。このような開放された「映像」を観ると、まるで山で遭難した時のような不安を覚えますが、同時に「物語」の無限の可能性と付き合うことができる「自由」を感じます。

 このような「物語」の過剰さ、「自由」は、デュラス監督作品のような、「実験的」で「前衛的」な映画しか持ちえないものではありません。「古典的」「名作」と評される映画の中にも多々存在します。その例として、小津安二郎監督の『晩春』から幾つかの場面をご覧いただきます。

 

 

 三つの場面をご覧いただきました。
 一つ目は、鎌倉の自宅での笠智衆三島雅夫が方角についてやりとりをする場面をご覧いただきました。小気味よいテンポで会話がすすめられるのが面白くて個人的にとても好きな場面ですので、話の流れとはあまり関係ないのですが、ご覧いただきました。
 二つ目の場面では、能を父娘で観に行った帰り、原節子笠智衆と別れて友人の月丘夢路の家を訪ねます。バツイチの月丘夢路から「さっさと嫁に行くべきだ」と言われ、父親の再婚について悩んでもいた原節子は自暴自棄になり、月丘夢路が拵えたケーキを食べることもなく帰宅してしまいました。
 三つ目の場面では、見合いの返事を保留のままにしていた原節子が、おばの杉村春子に問いただされ不機嫌な沈黙によって了承の返事をするところから、笠智衆と三島雅也が龍安寺で会話をしているところまでご覧いただきました。
 ご覧いただいた崩れ落ちる雑誌、月夜に浮かぶ壷は、ご覧いただいた場面にしか出てきません。そのため、単にこれらの画面を時間経過を示すものと説明することもできますが、それだけでは到底言い表すことができないなにか、過剰な「物語」が感じられます。
 打ち寄せる波や、ただ座ったり歩く姿、なにかをじっと見つめる横顔、崩れ落ちる雑誌、壷。映っているものは何も特別な「出来事」を映しているわけではありません。日常の中にありふれているものばかりです。とはいえ、日常的なものを映したからといって「映像」が必ず過剰な「物語」を感じさせるわけでもありません。どうしてこれらの「映像」は、映っている対象自体の意味を超えて、「物語」の過剰さを私たちに感じさせるのでしょうか。それは、「映像」が貧しく〈ある〉からなのだと思います。

 ここでいう「貧しさ」とは、ハイデガーヘルダーリンの詩的断片についての講演で語っているような〈貧しさ〉です。その講演でハイデガーは「私たちは貧しさのうちで、貧しさによって豊かになる」という言葉を手がかりに〈貧しさ〉に関して考察しています。一般的に〈貧しさ〉とは、経済的に貧窮している、いわば「持っていない」ことを意味しますが、ここでいう〈貧しさ〉はすこし違います。ハイデガーのいう「貧しさ」とは「何も欠いていないで〈存在する〉こと」です。なくてもすむようなもの、不必要なものを欲しがることではありません。「必要であるもの」とは、必要にもとづき、必要を通じてやってくるもの、つまり諸々の欲求を引き出し充足させようとする強制からくるものです。したがって、「不必要なもの」はそうした強制からくるものではなく、「自由な開かれ」からくるものです。「自由な開かれ」とは、無傷なもの、いたわられたもの、利用に共されないものです。自由にすることは本質をやすらわせることであり、そうして解放されたものは必要の強制から守られたものです。ところが、自由な状態における自由にするものが、必要を反転させます。自由によって解放されたものは、自らの本質へ身を委ねるため必然性をもつものとなります。このとき、それは必要なものとなります。自由はそれ自体で「必要を転じる必然性」です。自由によって解放されたもののみ必要なものであるため、必要によって強要されるものは不必要なのです。したがって、貧しく〈ある〉ことは、「自由な開かれで」あり「自由にするもの」に身を委ねることです。そうして初めて、不必要なものを除いては何も欠いていない在り方で、貧しく〈ある〉ことができるのです。
 このとき、ヘルダーリンが「我々においては、すべてが精神的なものに集中する。我々は豊かにならんがために貧しくなった」と言っていたように、貧しく〈ある〉ことはそれ自体において、豊かであるといえます。

 先ほど私は、映像が過剰な「物語」を感じさせるのは映像が〈貧しい〉からだといいました。では、映像が〈貧しい〉とはどういうことなのでしょうか。
 映像の〈貧しさ〉は、予算の多寡・スケジュールとは関係なさそうです。もっといえば、「脚本」とも関係がないのかもしれません。それは、何が映っていて、何が聴こえているかという、徹頭徹尾、映像の連鎖に関わるものなのではないでしょうか。貧しい映像とは、画面が、音が、あらゆる細部がそれぞれの意味を超えて、豊かにならんがために各々が「自由」な関係のなかにある映像なのだと思います。
 しかしながら、「自由」な関係であるとは、ご覧頂いた映像からも分かるとおり、なんでもよい関係ではありません。「自由」な関係のうちにあることとは、画面に映る一一つの息づかい、聴こえてくる音色の一音一音、それらがもつ「物語」を最大限に活かすことによってもたらされる「物語」の過剰さです。そうした過剰はある細部から溢れ出て、なおかつその細部自身を凌駕するような過剰です。また、自身を凌駕しつつ、逃れた過剰なものが自身へと再び流れ込み、細部が飽くことなく語る「物語」の源泉となることです。この豊かでありながらも荒々しい「生」としての映像は、青山真治監督が「野性」と評し、「それは映画にはならない」と周りからいわれながらも己の「自由」な映画表現を押し進めたデュラス監督作品の軌跡からうかがえます。

 そして、そうした映像の在り方は、2014年に同志社大学で行われた回顧上映でのトークでジャン=クロード・ルソー監督が"accord"について次のように述べていたことを思い出させます。

そうして集められたイメージは他のイメージと出会うことができます。他のイメージと出会うことで、そこから、物語を予想することができるようになるのです。わたしはその出会いを"accord"と呼びます。
 一般には、つなぎ・つなぎのカットは
"raccord"と言いますが、私は"再び、つなぎ直す"という意味の"r"を取り、"accord(調和、和音)"という言葉を使いたいのです。"raccord(つなぎ、つなぎのカット)"では、何かを語るために映像があり、そこで映像は語られるものになってしまい、映像は見えないのです。"accord(調和、和音)"では、映像同士のつながりあいが起きることで、そこで厚み"volume"のようなものが作り出されるのです。

 ルソー監督がいうような"accord"を模索する映像こそが、貧しい映像なのではないでしょうか。
 『アガタ』でも、画面と音声がそれぞれ異なる映画のようにつくられていたそれらが合わさったとき、各々が内包していた「物語」が映像として調和し、廃墟や街並を通してヴィラ・アガタが浮かび上がり、またあなたの目が欲しいという台詞によって曇った窓ガラスが二人の距離を現前させてもいました。また、こまかな声の抑揚やニュアンスが、波のしぶきが、雲間からの陽の移ろいが、もしかするとデュラス監督の思惑をも超えて、"accord"するとき、映像は豊かな「物語」を語り始めます。

 それでは、ここまでルソー監督の言葉を引用してきましたが、実際にルソー監督の映画をご覧いただきましょう。『彼の部屋から』をご覧いただきます。『彼の部屋から』は、マルセイユ国際映画祭でグランプリを取った作品で、ルソー監督自身が登場人物である映画作家を演じています。全体は5つのパートに別れており、本日は一番始めのパートのみご覧いただきます。

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 Ⅰ.

 男はカーテンの隙間から玄関を閉める。
 『ベレニス』の朗読をしている男の声が聴こえる。廊下は暗く、部屋から洩れる日の光で輪郭をかろうじて把握できる。男は葉巻を燻らせながら椅子に腰掛ける。肘掛けに置かれたトレーに当たり、がしゃんと音をたてる。トレーにはグラス、コーヒーカップ、灰皿が載っている。男は黙ったままページをめくり、朗読を再開する。壁に掛けられた絵。ベルの音。
 弦楽器の演奏が聴こえてくる。屋外で演奏する人たち。男の部屋。窓から差し込む光は白い。男は窓際に立ち、外を眺める。
 男はドアを閉め、廊下を歩く。壁にかけられた絵を観たあと、奥にある鏡の前で立ち止まる。電話が鳴る。留守番電話に切り替わる。男は画面から消え、電話にでる。男の影が廊下に移ろい、消えてゆく。
 手紙と重しを移動させピアノの蓋を開ける。鍵盤カバーをとった拍子に何音か鳴る。
 グラスに酒を注ぐ。酒を持って椅子に座る。男は深呼吸をしている。一口大きく呑み込む。三分の一ほどになったグラスを肘掛けの端におく。端は傾斜がついている。喉の皺がおおきく動く。グラスは落ちない。外から発声練習の声が聞こえる。もう一口酒を呑む。男はグラスを置いたまま席を立つ。

 グラスが割れる音がする。
 白い光を遮るカーテン。ハンガーにかけられたシャツが揺れている。
 白いセーターを着た男が立っている。ピアノ脇の配水管に寄りかかる。
 男の朗読が聴こえる。無人のカフェ。
 自分の部屋で、男は座って朗読をしている。薄暗い部屋に差し込む光は赤い。
 男は一つずつ電気を消していく。
 ベッドに座り込む。車の走行音、クラクションが聞こえる。男は反応する。

 ベルの音が響く。

 

 ご覧いただいたように、「切断」や「余韻」というよりも「前進」のニュアンスに近い黒画面を交えながら、ルソー監督の映画は、「実験的」「前衛的」のように見えながらも映像は具体で満ちています。それも特別な出来事によって構成されているのではなく、日々の生活を切り取ったかのような「出来事」で構成されており、過ぎ去る日常がこの上なくかけがえのない一瞬一瞬で成り立っているというあたりまえのことを思い出させます。そこではすべてが正しさでつながっている映像というよりは、むしろたんなる映像として佇んでいるかのようです。映像は少しも「物語」など語ってみせようとする素振りなどみせずに、寡黙に流れつづけます。

 アントナン・アルトーは映画には「密かな動きとイメージの素材とに固有の力がある」とし、「ごく取るに足りない細部、ごく無意味な対象も、それらに固有に属する意味と生命を獲得する。しかも、イメージそれ自体の意味作用による効果、イメージが翻訳する思考、イメージが形成する象徴とは無関係にである。映画は対象を孤立させることによって、それに個別の生命を与える。」と語っていました。そして映画は「幻想的」なものに近づくだろうと預言していました。その預言通り、デュラス監督らの〈貧しい〉映画は、現実に限りなく近づきながら、現実を解放させるような映像の豊かさによって、私たちをトランスさせるのです。

 最後に、アルトーと同時代に、本日上映したルソー監督のように道化た映画を、撮り続けたバスター・キートン監督の映画をご覧いただき、本日のシネマ・カフェを終わりたいと思います。
本日はどうもありがとうございました。