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ゴー!ゴー!アタラント号!! 映画☆おにいさんのBlog

ブロンド少女は過激に美しく

 女性が恋人からの手紙を読み上げている。しかし、声が聴こえるのみで姿は見えない。窓の外の、通りの向こうの建物では、手紙の差出人であるマカリオの代わりに雇われた会計士が仕事をしている。しかし、カーテンが輪郭を曖昧なものとしているため、その朧げな姿は綴られた言葉からしか想起できないマカリオを喚起させる。手紙が読み終わり鐘が鳴り響く。先ほど手紙を読み上げていた女性ルイザが姿を現し、カーテンをめくる。姿が鮮明となった男はやはりマカリオではなく、別の男だ。手に持つ手紙に視線を落としたルイザは俯き、やがて画面から姿を消す。
 結婚の許可を得ることができず叔父の家から飛び出したマカリオは、仕事のため北アフリカ大陸部から西へ約375kmほど離れ、かつて奴隷貿易で栄えた島国カーボベルデへ行くことになった。その島に着きホテルでしたためたという彼氏からの手紙を女性が自室で読み上げる、はなればなれとなった恋人たちの距離を描いた印象的なワンシーン・ワンカットである。
 彼女の写真を見て心を慰めているというマカリオからの手紙を読み、かつての彼の職場を見つめるルイザの姿に心が締め付けられる。しかし同時に、この彼女の行動をマカリオは知るはずもないことに思いあたる。

 列車でたまたま隣席になった婦人にマカリオが事の顛末を語ると言った形式で始まった回想が、いつのまにか彼からも離れ始めている。映画はそのことに自重するかのように、列車の走行音とともに、マカリオと婦人の対話へと回帰してはいる。しかしながら、窓枠を含みかつ椅子に座った目線の高さに据えられたカメラが人称を感じさせるこのカットは、彼女がフレームインすることで彼女のPOVショットではなくなる。そして彼女のモノローグのように始まった彼女の朗読さえ、彼女が画面外で実際に読み上げていた可能性を浮上させる。わずかな時間で観客の視線を二転三転させるこのワンカットは、もう二度と元へ戻れない視線の変質を私たちに迫る。その変質とは、あいかわらず地続きでありながらもある瞬間にぐにゃりと姿を変える世界、すなわちフィクションそのものだ。
 思い出すならば、時間の大半を占める回想の始まりよりもまずこの映画は、列車で隣りあったマカリオと婦人の会話から始まっていた。誰かに話さずにはいられないというマカリオと話し相手がいて良かったと応じる婦人は、互いに相手へ視線を向けることがあるものの視線が交わることはない。マカリオが語る「できごと」に婦人は耳を傾けている。レオノール・シルヴェイラがみせる、リカルド・トレパの言葉を待つリアクションとしてのその貌は、ときに視線を漂わせる盲人のようにも見え、目の前の男性よりも彼が語る「できごと」をじっと見据えている。
 そうして列車の走行音とともに始まる回想は、たんなる語り手によるそれというよりも、溝口健二監督の『折鶴お千』の二重化されたフラッシュバックのような、マカリオの言葉を受けた婦人の想像である趣きも併せ持った複数の人称を持つ映像であるといえる。そうであるならば、冒頭で示したマカリオが不在の場面で、事務所に叔父が新しい会計士を連れてきた際、ルイザの部屋にカメラが置かれていても不思議ではない。
 このように『ブロンド少女は過激に美しく』は物語の構造それ自体が必ずしも「現実」に則しておらず、明確な視線の語り手を持たない映像群である。そして同様に「物語」それ自体もそうした非決定性から生じる差異をめぐる話がモチーフとなっている。
 一見、ルイザとの色恋話が主であるように思われるが、結果は成就しないことが初めに述べられており、しかも恋愛成就の過程は描かれておらず、かつそこには恋の駆け引きといったものは見受けられない。二人の障害は叔父の不可解な拒絶とそこから生じる金銭的な問題があるものの、そのことが心理的な葛藤をマカリオに生じさせているわけではない。マカリオとルイザはあっというまに好きあうのであり、その速さのまえではルイザの母のごとく口をあんぐりとあけることしかできない。

 マカリオがルイザと知り合うきっかけを得たのは、友人の紹介だった。ルイザの母がだれかに挨拶しているのを見たマカリオは、ベランダから身を乗り出す。視線の先にいたのは友人だった。それを見たマカリオは言葉を発しはしないものの彼女と知り合う糸口を見つけたことに喜び、思わず踊ってしまう。さっそくマカリオは友人が通う文学クラブを訪ねる。ロビーの奥まで探しにいき戻って来、先ほどマカリオが立っていたすぐそばの椅子で新聞を読んでいた友人を見つけ声をかける。マカリオは単刀直入にルイザについて尋ねる。彼は知っていると答える。しかし詳しく聞いてみると、それほど知っているわけではないようだ。とはいえ、彼女らがよく出席するパーティーの情報を聞き出し、連れて行ってもらう約束を取り付ける。
 パーティー当日、友人とともに階段を上り、ロビーで上着を預け歓談する。友人の質問に、マカリオは自分が貧乏であることは告白するよとはぐらかす。男性の目線というにはあまりにも低すぎる移動撮影によって部屋を横断していくと、先ほどから聴こえていたハープの演奏が行われている。この映画で唯一の、同じ対象に視線を向けているマカリオとルイザの短いカットが挿入された後、マカリオはルイザに声をかける。そこでの会話は彼女の持っている団扇や叔父の店で購入したカシミヤについてただ質問を重ねるだけで、彼女自身について尋ねられることはない。ハープの演奏が終わり、ルイス・ミゲル・シントラが紹介され、フェルナンド・ペソアの変名であるアルベルト・カエイロの『羊飼い』を朗読する。次第に手の震えを大きくさせながら読み上げられるその詩は、端からはコミュニケーションがとれているように見えながら、全く異なることを考えている二人を描いている。開いたドア越しにルイス・ミゲル・シントラが朗読する姿を奥に確認できる部屋で、幾人かがテーブルを囲んで賭け事をしている。カメラが移動してもハーブの演奏と同じようにシントラの声は変わらぬ大きさで響いている。マカリオとルイザがテーブルにつく。投げられたポーカーチップが床に落ちる。落ちた音が確かに聴こえながらも、誰もチップを見つけることができない。

 目の前で起こっていることを十全に理解していると思っていても、人はた易く取り違えてしまう。カーボベルデへ発つ前、暗闇の中でもマカリオにすぐ気付き、そこで待つようにと指示を送っていたルイザが、ヒゲを剃って帰ってきただけでマカリオに気付くことができない。
 こうした「やりとり」が明らかにするのは、些細なことでいとも簡単に見分けがつかなくなってしまう視線の不確かさである。マカリオがルイザを見初めたとき、まず夫人に、次に肖像画、そしてルイザへと視線が推移していったように、この映画は登場人物だけでなく、わたしたち観客の視線もまた不確かなものとしてしまっていた。
 保証人となったカンカン帽の男が少尉の妻と逃げたため、せっかくカーボベルデへの出稼ぎで得た財を失ってしまうという、画面で描かれず夫人との対話のなかで語られるのみであるが物語上の大きなエピソードも、人物を見誤った視線の不確かさに起因する。それらは最終的にルイザの盗癖へと辿り着き、マカリオを憤慨させ別れへといたる。
 このような視線の不確かさがフィクション空間を形成していく。四角い窓枠のなか、白いカーテンが揺れる前で羽根のついた団扇で口元を隠し、挑戦的な視線を投げ掛ける美しい女性。あまりにも過剰な映像、映画そのもの。
 しかし、この映画のすべてのフィクション空間がこうした豊穰さを持つのではない。これまでに触れたように公証人家であったり事務所であったり、それは階段でつながれた地上から浮遊する空間であった。一階部分や路上等地上における、待ちを歩く人々の喧騒や生々しさに比べれば、階段でつながれた空間は、ジャン・ルノワール監督を思わせるような、抽象的で平面的なものである。そこでは階上にいる者の特権であるとでも言わんばかりに下界の人間へ指示を送る。下界からは声をかけることも許されず、気づかれない者は立ち去るしかない。
 下界では、失うことへの恐怖がつきまとう。夜道を歩けばズームとともに異次元へ連れられてしまう。そこでは帽子を失くした男性が亡霊のように彷徨っており、マカリオが立ち去ってあとも嘆いている。
 下界から逃れるには階段を上っていくしかないのだがそれはどこまでも変わらない音で軋む階段でなければならず、古美術でしつらえられた数段の階段では階上へと飛翔するには段数が足りない。そうした場所での交渉は仮初めのものでしかなく、財を成しえたと思っても同じ場所での取り決めによって帽子のごとくあっという間に失くしてしまう。
 財産だけでなく恋人も失ってしまうことを恐れ、借金を返すために荒廃の地へふたたび足を踏み入れることを決した若者は勘当された叔父を訪ねる。呼び鈴を鳴らす若者に対し、ベランダから顔をのぞかせた叔父は階上から鍵を放りなげ上界へと誘う。階段を上がり部屋へと入ってくる二人をパンで捉えたカットの時点で、すでに若者の救済はなされている。叔父は一見冷たく接し若者を画面内外へ移動させながらも、階上の空間に留まるよう施す。
 ようやく階上の空間に安住することができた恋人たちだったが、うっかり雑踏に身を浸してしまう。狂気で埋めつくされた下界は、慎重な足どりで身を寄せ合っていなければ、特徴がひとつでも変わってしまうとたちまち相手を見失ってしまう危険な地域であった。事態を甘くみた女は、お守りである団扇を持たずに入った宝石店で自身の理性を働かせることができない。店員に促され男が女の握った手を開くとき、グレートヒェンに似た女の叫びが響く。しかしながら、おなじく雑踏に身を浸していた男は女の言葉を聴きとることができなくなっており、激昂して女に視界から去るように告げる。泣いて謝るも女が言った「ぶたないで!」とは、誰が、誰に対して、何のために?
 雑踏を分け入って部屋に戻った女は、もはや男の目の届かない場所で、バッグを置き椅子に腰を下ろす。脚を開き肘掛けに腕を置いた女は、肩を落とし頭を垂らす。まるで糸の切れた人形のようだ。ただし、それはどこまでも限りのない落下のようで、次の瞬間にわたしたちの視界からも姿を消してしまう。そしてわたしたちが目にするのはどこまでも水平運動を続ける列車のみである。
 一見交わっているようにみえながらその実けっして交わることなく伸び続けるねじれの位置にある二直線のような二人の「気持ち」が火花を散らす瞬間、「物語」と「かたち」の接触の瞬間を、人は映画と呼ぶのである。