GO!GO!L'ATALANTE!!

ゴー!ゴー!アタラント号!! 映画☆おにいさんのBlog

20200418

 コロナウィルスでなくとも人は死ぬ。

 物事が崩れるときは一瞬だ。それまでの当たり前だった生活を一気に変えてしまう。別れは過去に行われていたことを知り、あとは自分の気持ちを落ち着かせるための儀式でしかない。別れの時はつねに早すぎて、あれが別れだったと気づいたときには遅すぎる。

 この二三年は会うこともなく、たまに思い出しても、便りがないのが良い便りとでも言わんばかりに、呑気に過ごしていた。いま思い返すことといえば正月の集まりが大半で、当時面倒臭く感じていた季節の行事がいまでは慰めとなってしまうのだから、節目の行事というものは、現在よりも未来で役に立つものなのかもしれない。
 それはまだ大学生だったころ、箱根駅伝に飽きて、テレビで『月世界の女』を観ていた。親戚一同の話がひと段落したころ、私のところへやってきて、優しく「これ、面白い?」と尋ねた。まあね、と曖昧に答えながらもDVDの再生を止めたのは、無理解に憤ったからではなく、なぜ面白いのか自分でもさっぱりわからず、急に照れくさくなってしまったからだ。この監督は誰でとか画面がどうだとか、言い訳めいた言葉を連ねることはできたのかもしれないが、刺激的なものなら他に幾らでもあっただろうに、サイレントの白黒で英語字幕も満足に分からなかったのに、なぜあれほど惹かれていたのか、惹かれ続けているのか、本当のところは今でもまったく分からない。
 これは芥川龍之介の『好色』で、平中が侍従に惹かれていることに似ていると思う。髪が薄すぎるだとか顔が寂しいとか欠点を挙げようと思えばなくはない相手のことを、桜を見ていても漫然と、考えてしまう。侍従から狐や範実、切り灯台へ思いを巡らす。意識の移ろいの中心にはつねに侍従がいる。手紙を数多書き連ね、想いを募らせていく平中は、侍従のことを思い切ることがどうしてもできない。「時鳥厠半ばに出かねたり」を反転させたようなラストにおいて、昼か夜かも判然としなくなった平中は、侍従の糞を食べて『ヴェニスに死す』よろしく、バスター・キートンのように倒れてしまう。これは芥川なりのシュールな喜劇だとは思うが、平中にとって侍従と出会って苦しい思いをしたのかもしれないが、知ったことで得た喜びが出会った苦しみに劣るとは思えない。仕合せになるためには凡人の方がいいなんて相当な皮肉だと思う。そういえば大学時代には毎月仕送りと一緒に手紙をもらった。手紙が来たら1時間程度に電話をかけた。ちゃんと食べているか等、体の心配をしてくれた。でも、仕送りのほとんどは映画と本に変わってしまった。
 通夜と葬式の日は、3歳の姪っ子や8歳の親戚の子と過ごした。“One's gone. One's born.” だなんていう覚悟はまだない。
「今日も暑うなるで」「らしいかどうだが」
不在は死ではない。

享年92歳。合掌。