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映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.17「拾う」

本日はお集まりいただき、ありがとうございます。

 今回のテーマは「拾う」です。「拾う」は、一般的に言って「落ちているものを取り上げ手にする」という単純な動作です。しかしこれを分解していくと、1.落ちている対象を認識、2.対象へ接近、3.対象を拾う、さらにもう一つ付け加えるならば、4.拾ったものをどうするか? というように考えられると思います。
 もちろん、「拾う」が無意識な場合もあります。例えば、追われている人が主人公のポケットに何か重要なものをそっと入れる、荷物を取り違える、何かを探していたら思ってもみなかったものを拾う、といった場合です。
 また、「拾う」ことが、登場人物の関係性を決定的に変えてしまったり、「シンデレラ」「宝探し」のように物語全体の動機となる場合もあるかと思います。
 しかしながら、そうした場合も含めて、「拾う」ことは物語の中でどのように描かれているのでしょうか。映画をご覧いただきながら、「拾う」についてご一緒に考えていければと思います。


●『若き日のリンカーン』(ジョン・フォード、アメリカ、1939)
 まずは、「拾う」ことが他のアクションと組み合わされ不思議な情感をもたらすジョン・フォード監督の『若き日のリンカーン』をご覧いただきます。
 ジョン・ウェイン主演『駅馬車』(1939)の次にジョン・フォード監督が監督した『若き日のリンカーン』は、まだ無名だったヘンリー・フォンダリンカーンを演じています。このあと、ジョン・フォード監督とヘンリー・フォンダは『モホークの太鼓』(1939)、『怒りの葡萄』(1940)と3作続けてタッグを組みます。

 『若き日のリンカーン』はタイトル通り、リンカーンが政治家として大成する以前の州議員〜弁護士の時期を扱っています。ご覧いただくのは、映画の冒頭から街で法律事務所を始める場面までご覧いただきます。

 

 ご覧いただいた抜粋箇所には、「拾う」が2箇所ありました。
 始めの「拾う」は、アンと別れたリンカーンが川辺へと歩き、一度振り返ってから足元にある石を拾います。さらに、石を投げる動作中にもアンの方へ振りむくというかなり不自然なことを、フォード監督はヘンリー・フォンダにやらせています。そのようにして投げられた石はきれいな波紋を川面にいつまでもたたせています。
 流氷によって季節の移り変わりが示され、ウサギのように咲いていたという花を摘んできたリンカーンは、橋の袂にある彼女の墓に供えます。枯れた花や枝を拾って掃除しながら、墓石へと姿を変えた彼女へ、今後自分が法律と政治のどちらの道へ進めばよいか悩んでいると相談します。そして、片付けていた枝を拾ってどちらに倒れるかで進むべき道を決めると言います。
 枝は、アンの方へ、つまり法律の道に進む側へ倒れます。あっという間です。枝には心理や葛藤などないからです。そのあまりの速さに驚いた彼は、わざと傾けたと思うかい?と独りごちてしまうほどです。
 こうして、リンカーンは法律の道へと進み、街で法律事務所を開業することとなります。
 淡い恋心を抱いていたアンが画面に登場したのは、ご覧いただいた場面のみです。このあと彼女の姿は画面に一度も映りません。

 しかし、なぜ彼女のお墓は川辺に建てられたのでしょうか。引いた画を観ても、そこが墓地というわけではありません。橋のふもとに一つだけ墓石が置かれています。リンカーンが独りごつシークエンスもまるで墓を人物を撮るかのように、というよりもむしろアンがただ墓石に姿を変えただけで、さも生きている二人の人物が会話しているかのようです。
 そして、生前の彼女が現れたのが水辺であり、二人並んで歩いていく素晴らしい移動撮影、波紋とともにその姿を消してしまったことを考えると、まるで水のそばでしか生きられない妖精となってしまったかのようです。そうであるならば、墓が川の傍にあるのも不自然ではないように思えます。
 そしてアンは墓石や水の精へとたびたび姿を変え、または他人を媒介として、観客に忘れられないように幾度も「物語」に登場します。
 例えば、依頼人の家族の家へ向かう途中、おもむろに取り出されたジューズハーブは、リンカーンが水の精となった彼女を呼び寄せるための儀式のようです。そうして、たどりついた家の軒先で事件の様子を伺いながら、依頼人の母と弁護する兄弟の嫁と恋人の3人の女性へ、自身の子ども時代を思い出させるといって、亡き母、亡き妹、そしてアンを彼女らに重ねます。
 裁判の形勢が悪くなりふさぎ込む夜にも、リンカーンはジューズハーブを奏でます。そこで現れたアンが、メモ用紙代わりに使われていた農事暦を裏返して、彼に月の入の時間を教えることで、リンカーンは事件解決の糸口を見つけます。
 裁判が終わり一家との別れの場面で、リンカーンはアンに似た弟の恋人であるスーから「どうしてもしたかったの」とキスをされます。アンや亡き家族の面影を携えた一家が丘へと向かうのを見送り暫くして、リンカーンは彼らの跡を追うように丘へと歩き出します。すると、雷が鳴り響き、リンカーンがフレームアウトしたあと、画面を包み込むように雨が降り始め、リンカーン像へとオーバーラップし、幕を閉じるのです。

 

●『タブウ』(F・W・ムルナウ、アメリカ、1931)

 「拾う」が意思決定に寄与する映画でしたが、次は「拾う」が隠される、秘密にされる映画をご覧いただきます。F・W・ムルナウ監督の『タブウ』です。キャストが現地のポリネシア人と中国系の方が選ばれており、いわば全員素人で職業俳優はおりません。また、この映画はムルナウ監督の遺作でもあります。この映画のプレミア上映の一週間前、1931年3月10日に自動車事故で亡くなられました。
 楽園のような南の島ボラボラで暮らす青年マタヒは、好意を寄せる少女レリが生け贄に差し出されることになることを知ります。二人は島の掟を破り駆け落ちをし、ある貿易港に漂着します。そこではマタヒが真珠取りをして生計を立て、平穏な日々を過ごしていました。ところが、徐々に村の追っ手が迫り、二人は村の老首長の影を感じつつあります。
 また、「貨幣」という概念を理解していない彼らは、島民へ無邪気に振る舞い酒をして多くの請求書にサインして莫大な借金を背負ってしまってもいます。そんな中、いつものように漁をする場面からご覧いただきます。

 



 マタヒが夜中抜け出して真珠取りをする場面までご覧いただく予定でしたが、いきおい最後までご覧いただきました。
 ご覧いただきたかった「拾う」は二つです。レリが島の老首長からの手紙を拾う箇所とマタヒが禁忌を犯し真珠を採る、「拾う」、箇所です。そのどちらの行為もパートナーに隠された行為となっておりました。
 レリは老首長からの手紙のことを告げればマタヒが抵抗して殺されてしまうだろうと予期して、マタヒは切り出せないでいる借金のために稼ぎを捻出しようと、禁じられていた海域へと真珠採りへ出かけます。

 ここでは、二つの社会構造が彼らを引き裂いています。未開地である島の掟と港町の経済によってです。これらの社会構造が二人を受け入れられないという恐ろしさとそういった構造自体のくだらなさがこの映画全体を漂っており、あれほど朗らかに暮らしていた二人に「拾う」という秘密を作らせました。

 

●『赫い髪の女』(神代辰巳、日本、1979)

  「拾う」ことが恋人たちを引き裂く映画をご覧いただきましたが、次は「拾う」ことで、恋人同士となる、カップルが形成される映画をご覧いただきます。日活ロマンポルノの作品『赫い髪の女』です。
 かつてはビックファイブの一つとして数えられていた日活でしたが、1960年代の日本映画産業の衰退とともに深刻な経営不振となり、1969年には撮影所を、1970年には本社ビルを売却し、1971年末に「日活ロマンポルノ」という路線をスタートさせます。これは、性愛風俗を題材とし低予算かつ短い撮影期間の中編を量産する、というものでした。製作本数が多くなったことに加え、日活はアクション映画が主流であったこともあって、演出経験の少ない監督にも撮る機会が回り、新しい才能が次々と現れました。たとえば、曽根中生監督や小沼勝監督、田中登監督等がいらっしゃいますが、その中でも最も代表的な監督は神代辰巳監督ではないでしょうか。神代監督は日活ロマンポルノを撮るまでには一般映画を一本しか撮っておらず、それが興行的に当たらなかったため4年も干されていた最中でした。そうして監督した『一条さゆり 濡れた欲情』(1972)が大ヒットとなります。そのため、しばらくタイトルに「濡れた」が冠せられるようになったほどでした。翌年の73年には4本、74年には6本監督し、たった3年で日本を代表する映画監督となります。
 『赫い髪の女』は、中上健次さんの『赫髪』が原作、脚本は、現在は雑誌『映画芸術』の編集長もされている荒井晴彦さんです。石橋蓮司さん、宮下順子さん、阿藤快(当時:阿藤海)さんが出演されています。
 それでは、映画の冒頭から土方の二人が喫茶店でお茶しているところへ社長の娘が訪ねるところまでご覧いただきます。

 

 トラックを運転していた光造と孝男が雨宿りをしている女を見つけ拾います。その女と光造の性愛がこの映画の多くの時間を占めています。
 拾った動機は、雨で明日も仕事が休みであり、その間の暇つぶし、性欲の捌け口にとという程度でしかありません。
 女の名前が最後まで分からないのは、原作の小説もそうですが、社会的な固有名詞とはまったく別のところで二人が繋がっているからです。男が女を好きなのか最初はよく分かりません。決して一目惚れしたというはなく、品が良いわけでも家事ができるというわけでもなく、一緒にいて心が安らぐというわけでもないようです。
 それでも男は化粧品のにおいや、食材が一円二円安いというような話を新鮮に感じているようです。女はもっと単純で、夫と二人の息子を捨てて何をしているかと言えば、自身の性欲を満たしているだけで男と交わり続けています。
 しかし、ほぼ狂っているように見える赫い髪の女は、まるで空いた腹を満たすように、もしくは食欲以上に性への欲求を満たそうとしています。セックスがまるで生きると同義となっているかのようです。
 そして、所長の娘らも含めたこの映画に出てくる女たちには暴力は意味をなしません。経済力も同様です。それらよりも性欲が優先される、ある種フラットな、性別によらない世界を生きています。
 では、男たちはどうでしょうか?
 女を拾う前、同じ女を回し、股間をまさぐりあい、食欲を満たすため一緒にトラックに乗り、等方向に視線を向けていた二人でしたが、光造は赫い髪の女を拾い、孝男は社長の娘からアプローチされ、二人の関係性は変わっていきます。あれほど仲が良かった二人が今後等方向を向くことはありません。
 映画の中頃、赫い髪の女と相合傘をしているところを見たと光造は孝男にからかわれます。犬と一緒でたまたま居着いただけだと答えた光造は、「ならヤらせろ、犬と一緒やろ」と重機を操縦する光造の隣に来た孝男にせがまれます。二人が横並びになり等方向を向きかけますが、ここで映画が始まって初めて「かまへんことあるかい」と申し出を断ります。それまで「かまへんか?」「かまへん」と何かのゲームであるかのように互いの申し出を受け入れてきた登場人物たちでしたが、所有の意識が芽生えたのか、光造は初めて申し出を断ります。それが原因で二人は取っ組み合いの喧嘩となります。カモメが飛び立つ映像とコンロに火をつける女の映像が一瞬挿入され、何かを観念したかのように、「わかった、夜来い」と受け入れます。
 夜になり、光造は新しいガスコンロを喜んでいた女に体勢を変えさせバックでセックスを始めます。男は女に目隠しをさせて、耳元で「好きやで」と愛の言葉を呟きます。女に気付かれないように光造は孝男と交替しようとして等方向をまたも向きかけますが、案の定、女はすぐに気付いて拒み逃れようとします。「嫌や、こんなことされるくらいならもとの旦那のところへ帰る」と泣き叫ぶも、孝男に犯されてしまいます。光造に突き飛ばされ、この状況に耐えられなくなった光造は部屋から出、「最初は嫌やというんじゃ」とつぶやき、近くに転がっていた三輪車に跨がってその場から離れ街へと逃げていきます。女は、光造の言葉通り、次第に男を受け入れ快楽を感じるようになります。

 このように、男たちは女を力によって押さえ込もうとしますが、この映画ではそのような抑圧はとことん無力化されます。例えば、仕事から帰ってきた光造に対して「夕方まであんたが帰ってこなんだら他の男のとこ行ってしまおと思ってたんよ」と話すなど、女は男に従属しているわけではなく、赫い髪の女にとって男はつねに代替可能な存在でした。
 経済力や暴力等見かけの力では、女たちを屈服させることはできず、男はつねに振り回されてしまいます。男が女を拾うということで表されていた力関係は、性交を重ねるうちにいつの間にか逆転し、無化されてしまいました。

 

●『スリ』(ロベール・ブレッソン、フランス、1959)

 これまでさまざまな「拾う」映画をご覧いただきましたが、「拾う」(pick up)の変化形として、ロベール・ブレッソン監督の『スリ(原題:Pickpocket)』をご覧いただき、今回のシネマ・カフェを終えたいと思います。
 ジャン=リュック・ゴダール監督はブレッソン監督に対して「ドストエフスキーがロシアの小説に、モーツァルトがドイツの音楽に対して占める位置を、ブレッソンはフランス映画に対して占める」と話しています。
 ロベール・ブレッソン監督は、過去には「平手撃ち」の回で『ラルジャン』をご覧いただいています。今回ご覧いただくドストエフスキー原作の『スリ』は、パリ市内やリヨン駅構内などで撮影されました。
 この映画においても、ブレッソン監督は職業俳優をキャスティングしていません。ブレッソン監督は自作へ出演する人物に対して、なにかを演技して本当らしく見せかける「俳優」ではなく、そこへ物質的に在ることを求めており、これらを区別するために後者を「モデル」と呼んでいました。そのため今作も演じている方々は皆素人です。ただし、この映画におけるスリの演技指導を行い、スリの頭目役として出演しているアンリ・カッサジは元スリ師の当時有名なプロの奇術師であり、ブレッソン監督が演技において何を優先していたのか考えさせられます。

 貧しい大学生のミシェルは、ある日、競馬場でスリを試み成功します。能力があるならば例えそれが悪でも活かすべきだとの考え方から、その後スリをするようになります。ミシェルには一人暮らしの母がいますが、彼女の体調は悪くなる一方です。同じアパートのジャンヌが看病してくれていましたが、ある日ついに亡くなってしまいます。それを機に、ますますスリの世界へ身を浸す主人公は、より安全に、より効率よくスリを行うため仲間を見つけ、三人組でスリを行うようになります。
 以前から目を付けられていた警察官に改めて釘を刺されて自宅へ帰る場面からご覧いただきます。

 今回ご覧いただいた場面では、信じられないような連係プレーでスリが行われいました。カバンの代わりに新聞が脇に挟まれ、カバンは仲間の手から手へと渡りあっという間に胸元へ隠されます。財布の間に挟まれた紙幣は、スリ師の新聞紙で隠されると次の瞬間には消えています。仲間が標的の肩に手に置き、標的が振り向いた隙を狙ってもう一人が胸元にしまってある財布を掏る。荷物を列車の荷棚に置く瞬間にポケットの財布を掏る。車内の狭い廊下を横になって通る乗客の胸元から掏って紙幣を抜き取り、その人物が戻ってきたときに何事もなかったかのように胸元へ戻す。列車に載ろうとする人を腕を掴んで手伝うも、その際に腕時計を外す。スリ仲間から華麗に手渡された財布は紙幣が抜き取られた後は、証拠隠滅のため、人目の付かないところへ捨てられる。あまりにも見事な技の数々に惚れ惚れしてしまいます。
 ブレッソン監督の著書『シネマトグラフ覚書』で次のように語っています。

 シネマトグラフの映画。そこにおいては、表現が獲得されるのは映像と音響との諸関係によってであり、物真似によって、身振りや声の抑揚(俳優のそれであれ、非=俳優のそれであれ)によってではない。それは分析しない、説明しない。
 それは組み立て直す。

 この映画では「足音」がとても印象的です。街中では複数の足音が重ねられていますが、画面に映る人物全員分の足音が重ねられているわけではありません。その中でも、主要登場人物の足音が主に鳴り響いています。そのため、私たち観客は次第に足音からどの人物が画面でフューチャーされるのか判断していくようになります。例えば、スリをする人物とされる人物というように。もちろん物語的に必ずしも重要でない環境音も入っていますので、つねに画面と音を追っていかなくてはなりません。
 ご覧いただいた場面でいえば、三人組による華麗なスリが披露されていました。ここでは表情や視線は映りません。なぜなら、スリが成功するか否かに重きは置かれていないからです。この場面では、財布や金品がスられる瞬間、つまり盗品の誕生する瞬間が次々と映されるのみです。
 そこでは金品が掏られる瞬間が、待ちポジであったり逆にカメラの動きを追い越したりすることによって撮られています。これまでの場面が「シーンが交わらない視線の」や「音と画面の均衡」によって緊迫した印象を与えていたのに比べ、この場面では、ある種箸休め的な、スリが行われることが観る者にその見事さによって快楽を与える場面となっていました。

以上で、映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.17「拾う」を終了したいと思います。これからも映画に出てくるさまざまな「拾う」を楽しんで、映画をご覧いただければと思います。どうもありがとうございました。

 

(シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った。)