GO!GO!L'ATALANTE!!

ゴー!ゴー!アタラント号!! 映画☆おにいさんのBlog

映画☆おにいさんのシネ・レクチャーvol.1「窓」

 映画☆おにいさんのシネ・レクチャーvol.1にお越しいただきまして、ありがとうございます。これまでに「映画☆おにいさんのシネマ・カフェ」を静岡県内で20回以上開催してきました。「映画☆おにいさんのシネマ・カフェ」は本日のようにテーマを決めて、その映画の抜粋をご覧いただき感想を話し合うワークショップです。今回はレクチャーとなっていますが、皆様のお話を伺いつつ進めたいと思います。

 本日のテーマは「窓」です。「窓」が物語の中で重要な役割を演じている映画を何本かご覧いただき、「窓」を通して映画について皆様といっしょに考えられたらと思います。
 「窓」とは、チラシに書いてありましたように、建物に取り付けられた外部との開口部であり、採光・換気・景観を主な目的として取り付けられています。窓があることで風景を見ることができますし、逆に建物の中の様子を知ることができたり、部屋の環境を変えることができる、屋外と屋内の中間に位置するものです。また、映画のスクリーンはよく窓に例えられます。それはスクリーンの向こう側に未知の世界があり、その場に居ながら行ったことがない場所、風景、人、出来事を知ることができると思われているためでしょうか。

 

 まずは、主人公が窓の先へ視線を延ばすことで、事件を目撃したと主張する映画をご覧いただきます。アルフレッド・ヒッチコック監督『裏窓』です。
 ヒッチコック監督は1899年、ロンドン生まれの映画監督です。1925年に『快楽の園』でデビューし、1939年からアメリカで活躍しました。今日ではサスペンス映画の巨匠と呼ばれております。『サイコ』での排水口と重ね合わされる目、『バルカン超特急』での窓に書かれた「FROY」という文字、『汚名』での棚に並んだワインボトル、『断崖』での白く光るミルク等々、物語は忘れてしまったとしても、記憶に残る強い画面を撮る監督です。
 今回ご覧いただく『裏窓』は、「窓」について考えるとき多くの方が思いつくであろう「That's 窓 」といってよい映画です。
 『裏窓』のあらすじをご紹介します。ジェームズ・ステュワート演じるカメラマンL・B・ジェフリーズは、撮影時に脚を骨折しギプスをしているため自宅から出ることができず、もっぱら窓の外を眺めて過ごしています。裏窓から見えるアパートには売れない若手の作曲家やスタイルのいいバレエダンサー「ミス・グラマー」、まだ見ぬ恋人と過ごす夜を夢想する「ミス・ロンリー」、引っ越してきたばかりの新婚夫婦、暑さをしのぐためベランダに布団を敷いて寝る夫婦、そして、夫婦仲が冷めきったソーウォルド夫婦などがいます。
 ある夜、ジェフリーズは女性の悲鳴を聞いて目を覚まします。すると、雨の中にもかかわらずソーウォルドが出かけるのを目撃します。それも二度。翌日より夫人を見かけません。一方、ソーウォルドはというと、部屋の荷物を片付け、夜中に持ち出したスーツケースを拭き、念入りにお風呂場を洗う等いかにも殺事犯のような怪しい行動ばかりしています。そのためジェフリーズは、彼が夫人を殺しのだと推察します。初めは懐疑的だった通いの看護師であるステラやジェフリーズの恋人であるグレース・ケリー演じるモデルのリサも次第に同調するようになり、ともに推察するようになります。
 しかし彼らが目撃するのは状況的な事柄ばかりで、夫人が殺害された瞬間、血の跡、バラバラにされた死体といった、決定的な証拠となるようなものは見ていません。ジェフリーズは友人の刑事ドイルにソーウォルドが高飛びする前に逮捕するよう掛け合いますが、憶測の域を出ないからと身柄拘束には至りません。
 ソーウォルドが逃げる前になんとか動かぬ証拠を見つけようと、ジェフリーズ、リサ、ステラの3人が策を練る場面からご覧いただきます。

 

 

 花壇の位置が下がっていることに気づいた場面から、ロールカーテンが閉まり、文字通り幕が降りた場面までご覧いただきました。この映画において「窓」は「覗く」フレーム(ジェフリーズの部屋の窓)としてあり、かつ「覗かれる」フレーム(向いにあるアパートの各部屋の窓)としてありました。
 窓は向かいの部屋を覗くことを可能にしていますが、ジェフリーズの視界を限定してもいます。ジェフリーズは動けないので、窓枠の外は見ることができません。彼が知る外の様子はつねに彼の部屋の窓越しでしかなく、カメラがジェフリーズの隣人の部屋に行くことも、その切り返しとしてジェフリーズを窓の外から撮ることもありません。そのため、彼が知りうることは、彼の部屋の窓から、いつ、どこの窓へ瞳を向けていたかによります。しかしその行為は、新婚夫婦の窓のように、カーテンが閉められることによって、容易く遮断されてしまいます。
 また、見る対象との関係性はどうしょうか。ジェフリーズは窓から向かいのアパートを覗き、アパートの住人は彼に覗かれています。これは、観客とスクリーンとの関係に似ています。
 これらの見る見られる関係の共通点は、どちらも覗く側が身体的に拘束されて動けないこと、つまり視点が限定されていることです。また、そのような状況に置かれたジェフリーズと我々は、「見たい」という根本的な好奇心に突き動かされ、視線を注いでいます。
 こうした関係性は撮影方法にも反映されています。基本的に切り返しで撮られているこの映画の画面は、ジェフリーズとその視線の先(見ているもの)とを行き来し、起こった出来事とそれに対する彼の反応を追っていきます。ジェフリーズとアパートとの距離が分かるような2点を横から撮ったカットはなく、画面の外部からの刺激に対する、ジェフリーズ(というよりはむしろステュワート)の反応を映しています。
 これはアパートの住人も同様です。例えば、ミス・ロンリーは部屋の外部から聴こえてきた音楽によって自殺を思いとどまりました。現実と夢想とのあいだで引き裂かれた彼女は自殺を試みましたが、音楽家の意図を超えたところで、外から聴こえてきた音楽によって生へと立ち戻っていきました。
 では、ジェフリーズが見ているものはなんだったでしょうか。彼が目にするのはソーウォルドの状況的証拠ばかりです。2枚の写真をビューワーで見比べたことで気づいた花壇の位置の変化も決定期証拠には繋がりません。自説に固執するあまり、もはや夫人の安否が問題になっておらず、「見た」ことの立証、「真実」を「見る」ことへの欲望に耐えきれなくなってしまっています。彼にとって最早ソーウォルドを殺人犯として立証することが彼の関心のすべてとなってしまっています。
 そのため、ソーウォルドに押し掛けられ何が望みだと問われても彼は答えられません。金銭でも夫人の安否でもなく、ただ「見たかった」「知りたかった」だけだからです。まるで映画を観にいく人々のように。
 そうした欲求が最高潮となったのは、ソーウォルドの部屋にリサが潜入した場面です。それまで「見ること」と「所有すること」が限りなく同義でありましたが、そこでのジェフリーズはソーウォルドと鉢合わせした彼女を助けることもできず、かといって見ることを放棄することもできませんでした。そのとき、ジェフリーズとアパートの間の絶対的距離が現前化していました。
 ジェフリーズがなにも対処できなかったこの危機は警察が駆けつけたことで脱しました。が、このソーウォルドのカメラ目線(ジェフリーズの視線との一致)が発端で起きた最大の危機は、それまで見る存在であったジェフリーズが窓から落とされ、彼をアパート中から見られる存在へ転換させました。『裏窓』はこのように視線の方向性が出来事を導いていった映画でした。
 このことは、犯人に追いつめられたジェフリーズが、電球を投げるといった物理的な反撃をせず、相手へ向かってフラッシュを焚いたことと無関係ではありません。彼が知らず知らずの内に視覚によって構成されたフィクションを生きていたため、思わず取った防衛手段は相手の視覚機能を奪うことだったのです。

 しかしながら、視線によって統べられていく出来事がフィクションの引き金となっている『裏窓』において、最も重要なカットは別にあります。それは、ステラの驚いている顔が映されたカットです。ソーウォルドが捕まり刑事であるドイルから「箱の中身を見るかい?」と問われたステラが「バラバラはけっこうよ("I don't want any part.")」と答え、同一のカットでステラの驚く顔が映されます。暗転の後、オープニングシーンのようにアパートの各部屋から彼の部屋へと続くエピローグのようなこのカットは、彼女の驚きを置いてきぼりにして映画の終わりへと向かわせます。刑事の皮肉混じりの問いに答えるだけで終わってもよさそうですが、ヒッチコック監督はステラの驚く顔をかなり長く残しています。
 では、ステラはなぜ驚いたのでしょうか。それは、彼女が自分たちの考えていた仮説(フィクション)の残酷さに気づいたからにほかなりません。仮説が「現実」になったとき初めて、「生々しさ」をもって彼女に襲いかかってきたからです。
 ここで重要なことは、バラバラ殺人という出来事の悲惨さではありません。一生懸命考えに考え、間違っているはずがないと自信があった。花壇を掘り返すという危険さえ冒しました。なにも見つからなかったけれど、犯人が逮捕され、推察が証明された。その瞬間、バラバラ殺人が現実のものとなった。刑事から意地悪な質問をされ「けっこうよ」と心理のままに答えた。そのあとに感情が追いついた。「フィクション」がその瞬間「現実」へと姿を変えた。途方もない「リアル」です。その「気持ち」を一回性の物語として不自然でないかたちで表現した、認識の変化が顕在している素晴らしいカットでした。このカットがあることで「映画」という言葉にできない、無秩序な、瞬間に絶えず多くのことが起こっており、不確かで、つねに出来事の本当の意味を知るのは遅れてでしかありえないことを『裏窓』は体現しています。

 『裏窓』は視線の交錯を根底としながら、フィクションが姿を変える凶暴さに触れた映画でした。しかしながら、映画において視覚が他の器官より必ずしも優位を保っているわけではありません。視覚に囚われてしまうと大事なものを取り逃してしまうことが多くあります。次にご覧いただく映画は、チャールズ・チャップリン監督『街の灯』です。
 監督のチャールズ・チャップリンは1889年イギリス生まれ、所属していた劇団のアメリカ巡業で、映画プロデューサーのマック・セネットにスカウトされ映画会社キーストン・スタジオに入社します。こうして映画界に入ったチャップリン監督は順調に人気を博していき、1931年に『街の灯』を監督します。この映画でチャップリン監督は、監督の他、製作、脚本、編集、作曲、主演を務めています。
 あらすじを簡単にご紹介します。チャップリン演じる浮浪者は、盲目の美しい花売娘と出会いますが、金持ちの紳士だと勘違いされてしまいます。その晩、自殺をしようとしていた酔っぱらいを改心させます。これをきっかけに仲良くなった酔っぱらいは実はかなりの富豪だったなのですが、酔っぱらっているときとシラフのときとでは二樹人格者のように性格が異なり、シラフのときは酔っているときの記憶がありません。酔っぱらっているときはチャップリンを命の恩人とし歓待してくれますが、シラフのときはチャップリンのことを一切覚えていません。散々夜遊びをした翌朝に手荒く追い出したり、昨晩お前にやるよとくれたはずの車を翌朝奪い返されたりします。
 このように限定的なものながら、金持ちの威を借りることができたチャップリンは、花売娘のところへ、紳士として施しを与えていました。しかしながら、富豪はヨーロッパに行ってしまいます。後ろ盾を失いながらもなんとか紳士のふりを続けていたチャップリンでしたが、仕事の昼休みに彼女の家を尋ねた際、彼女が明日中に家賃を支払わなければ退去させられてしまうことを知ります。なんとかすると引き受けたチャプリンでしたが、午後の就業に遅刻してしまい給料の前借りをするどころかクビになってしまいます。
 明日までに大金を得ようと賭けボクシングに挑戦するも負けてしまった場面から、ご覧いただきましょう。

 


 帰国した富豪の男と再開した場面から、映画の終わりまでご覧いただきました。この映画の「窓」は、ラストのショーウィンドウといいますか、花屋の壁一面のガラス窓です。ご覧頂いたとおり、窓は屋内と屋外を仕切っており、視界は開けていますが二人を区切っています。
 花売娘は目が見えるようになっており、チャップリンから手渡されたお金を元手に開業したであろう花屋を営んでいます。親切な行いをしてくれた紳士にはいまも感謝しており、当然ながら相当な社会的ステータスがあると思っています。お店に紳士が訪ねてくるたび、彼ではないかと思ってしまいます。彼女の祖母も居ますが、祖母はチャップリンが訪れたときいつも不在だったため、チャップリンの顏を知りません。
 刑務所から出てきた、みすぼらしい恰好のチャップリンは、彼女がいつも花を売っていた場所等、街を彷徨い歩きます。馴染みの新聞売りの少年たちにからかわれたあと、花びらを拾い振り向くと彼女がいます。こちらを見ています。こちらを見て、笑っています。それは彼女がこれまですることがなかった身振りです。彼女は浮浪者に気に入られたと笑い、花とお金を恵もうと窓越しに合図します。キャメラは店内に入り、娘越しにチャップリンを映します。映画の冒頭、二人が出会った場面では彼女が落とした花をチャップリンが拾うことで彼女が盲目だと気づきましたが、この場面では逆に、チャップリンが花びらを落とし、それに気づかない彼の姿を見て娘は笑っています。正体を気づかれないように去ろうとするチャップリンをつかまえて、娘がチャップリンの手を取ります。その感触によって彼女はすべてを悟り、理解します。Can you see now? I can see now. いったい"now"とはいつのことなのでしょうか。驚くべき恵み。とにかく、ここで感動的なのは、彼女がチャップリンの優しさに気づいたとか「見た目より中身よね!」といったことではありません。まだ目が見えていなかったときに彼女が感じていて知っていた、見えていたものが、目が見えたことでかえって感じられなくなり忘れていた、大切だったはずのことを思い出した点です。それは視覚ではなく触覚を通して喚起されていました。
 チャップリンの手を取り思い出している娘の姿から、彼女を見つめ笑みがこぼれるチャップリンの姿から、かつて「ある」ことを感じていた「映像」を呼び寄せ、また、彼女が見ていた「映像」が、彼らの姿を映した「映像」が、そこにはない生々しい「映像」を呼び寄せています。目の前にあった取るに足らないと思っていたささいな出来事が、重大で、かけがえのないことだと思わせる認識の変化をもたらしています。
 屋内外で区切るだけでなく、二人の視線を交じらわせながら偏見というフィルターとして機能し、物理的かつ精神的な距離を生じさせていた「窓」でした。

 

 続きまして、窓が開閉の運動とともに視線を遮断し、二人の関係を決定的に変えてしまう映画をご覧いただきます。クリント・イーストウッド監督の『マディソン群の橋』です。
 同名の小説が原作で1995年に公開されたこの映画は、はじめはスティーブン・スピルバーグ監督が製作を務めスタートしましたが、『シンドラーのリスト』でスピルバーグ監督が忙しくなってしまい降板します。それに伴い、監督、脚本も二転三転し、最終的にイーストウッド監督が製作・監督・主演を務めることになりました。相手役にはメリル・ストリープが選ばれました。彼女は最近ではスピルバーグ監督の『ペンタゴン・ペーパーズ』にも出演しています。メリル・ストリープは演技に訛りを入れる「訛りの女王」と呼ばれ、今回の役ではイタリア訛りで演じたようですが、イーストウッド監督はもっとシンプルに演じてほしかったそうです。
 この映画は原作にない枠物語の構造をとっています。現在の時制では、母であるフランチェスカが亡くなり、遺品を整理する娘と息子が母の日記を読んでいます。過去の時制では、母と一人のカメラマンの出会いが描かれています。例えば、こうした物語構造の映画は『タイタニック』や『ボヘミアン・ラプソディ』があります。日本映画でいえば、溝口健二監督の映画の多くはこの枠物語のかたちをとっています。
 あらすじをご紹介します。世界中を旅するカメラマンと閉鎖的な田舎で暮らす人妻が恋に落ちた4日間の物語です。大きな不満はないものの充実した生活をしているとは言い難いメリル・ストリープ演じるフランチェスカが、夫、娘、息子が子牛のコンテストに出かける間、家で留守番をしています。そこへ屋根付きの橋を撮影してアメリカ中を回っているイーストウッド演じるカメラマンのロバートが道を尋ねてきます。田舎の混みいった道をひとつひとつ説明するより案内した方が楽だと、フランチェスカはロバートの車に同乗し案内します。話をするうちに気が合った二人はその日の夕食も共にし、恋に落ちます。二人で逃げ出そうとロバートはフランチェスカを誘いますが、彼女はなかなか決心がつきません。過去にこの街で浮気をした女性が住民から冷たい扱いを受けているからです。自分がこの街を出ていった後、残された家族がどのような扱いを受けるのか考えただけでもいたたまれず、フランチェスカは踏ん切りがつきません。
 家族が帰ってくる前夜、二人で過ごす最後の夜から見てみましょう。

 最後の夜から、二人の別れの場面までご覧いただきました。車の窓、運転席や助手席の窓だけでなく、フロントガラス、バックミラー等様々な窓がありました。
 なかでも驚くべき窓は、信号が変わっても動かないロバートの車をフランチェスカの夫がクラクションを鳴らし、ようやく発進、左折したロバートを夫越しに眺めていたフランチェスカの視線が遮断される運転席側の窓です。
 ご覧頂いたとおり、このタイミングでしかありえないタイミングで、窓は二人の逢瀬を知らないはずの夫によって閉められました。スタンドから出るときにすでに土砂降りの雨が降っていたにもかかわらず、信号が青に変わっているのになかなか発進しない前の車へクラクションを鳴らして催促するほど時間があったにもかかわらず、彼女の夫は窓を閉めずにいました。そのクラクションの音がロバートのもとへ走ろうとする彼女の動きを止め、閉めらていく車の窓が涙が止まらぬ彼女の視線を断ち切り、フランチェスカとロバートの別れを「かたち」として表現していました。
 自覚があるなしに関わらず、こうした身振りを完遂した夫・リチャードは知らず知らずのうちに映画のフィクションに加担してしまっています。互いの存在に気づき微笑みを交わした時点ですでにフランチェスカとロバートの別れは決着がついていましたが、二人の速すぎる「気持ち」に追いつくように映画は速度を上げ、窓が視線を断絶して二人の別れとなりました。

 最後に、映画という矩形の映像ジャンルに対する強い批評性を感じさせるジャン=クロード・ルソー監督の映画『二度の世界周遊』『偽りの出発』をご覧いただき終わりたいと思います。

以上で、映画☆おにいさんのシネ・レクチャー vol.1「窓」を終わりたいと思います。これからも「窓」の多様なニュアンスを楽しんで映画をご覧いただければと思います。
本日はどうもありがとうございました。

 

(シネ・レクチャーの原稿に加筆・修正を行った。)