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ゴー!ゴー!アタラント号!! 映画☆おにいさんのBlog

【告知】映画おにいさんのシネマ・カフェ vol.12「平手撃ち」

「平手撃ち」。
つまり、ビンタです。
通常ビンタすること、されることは滅多にありません。
それが為されるときは感情が昂ったときが多く、
ビンタのあと、関係性ががらりと変わってしまうことがしばしばです。
このように、強いインパクトをもつ「平手打ち」。
映画ではどのように描かれているのでしょうか。
参考映像をご覧頂きながら話し合います。

(三島で行った第9回「平手打ち」を改変して行います。)

●日時:8月1日 19:30〜21:30

●会場:どまんなかセンター 地図

●お問い合わせ(★→@)

takeyama.drifters★gmail.com (内山)

映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.10「椅子」

本日はお集まりいただきありがとうございます。

今回のテーマは「椅子」です。最初に自己紹介と椅子に対するイメージを参加者の皆様に伺った際、椅子は”座る”ものであり、それが長時間に渡ると”腰痛を引き起こし”たり、そこから”身体を拘束するもの”といったイメージあるといった意見まで出ました。これらのイメージは本日の上映作品にも関係してくる重要なものではないかと思います。

●『ウィンダミア夫人の扇』、エルンスト・ルビッチ、1925

 水曜文庫さんで行ったシネマ・カフェvol.8「並ぶこと」のときには、ルビッチ監督の『結婚哲学』をご覧頂きましたが、この映画はその翌年に撮られた作品(ルビッチ監督はその二年間だけで他に3作品撮影しています)で、オスカー・ワイルドの戯曲が原作となっています。


(実際に観た動画とはバージョンが異なります)

 映画の始めからドアベルの押し方の違いを描いた場面までご覧頂きました。ドアベルの押し方が、初めは紳士的であったのに親密になるに連れどんどん乱暴になっていくのが面白いですね。

 夕食の席順に悩むウィンダミア夫人から始まり、ウィンダミア夫人がソファに座っていた痕跡である扇を、アーリア夫人が取りにいくというクライマックスを持つこの映画は、ご覧頂いたように、至るところに「椅子」と”座ること”が出てきます。とくに競馬場のシーンではそれが表れていると思います。
 観衆はアーリア夫人へあらゆる角度から視線をそそぎ、そこから得た情報が集約され、噂が形成されていく恐ろしい場面です。この場面では、椅子が、初めに参加者の方からのご意見にあったように、「身体を拘束するもの」として登場します。それは、観衆から好奇の目で見られながらも競馬場を自在に移動していたアーリア夫人も例外ではありません。一旦椅子に腰を落ち着けた人々はそこから動く権利は与えられず、移動するためには競馬場から退出しなければなりません。
 ご覧いただいた場面では、椅子に座った人々は首を傾けたり双眼鏡を使っていましたが、近づかなかったのでしょうか。つまり、どうして登場人物の面々は動かなかったのでしょうか。

 それは「椅子に拘束されていたから」と言えるのではないでしょうか。
 ふつう、対象が見えなければ椅子から立ったり移動すればいいわけで、なぜ彼らはそうしなかったか? ルビッチ監督はどうして人を椅子に座らせ、縛り付けていたのでしょうか? この映画の中盤で、アーリア夫人が社交界に復帰すべくウィンダミア夫人の誕生日パーティーに潜り込んだ際、多くの男性によって人垣を作らせ、アーリア夫人の人気を”かたち”で表し、逆にクライマックスでは、扇を取り来たアーリア夫人の周りから次々に人物を退けることで、あれほど固執していた社交界での人気を失っていくさまを、人物移動によって見事な”かたち”で表していました。そのルビッチ監督が、とくに理由もなく人を動かさないのはおかしいように思えます。
 おそらく、ルビッチ監督は、各々の登場人物の視線を限定・固定し、観ている対象をわかりやすくしたかったのではないでしょうか。つまり、椅子に座らせ身体を拘束することで、ルビッチ監督は登場人物の関係性を変化させず、なおかつ関係性を明示したかったのではないでしょうか。人物の位置と視線が固定されているため、誰が、何に興味を持っているか観客はわかりやすい。例えばウィンダミア夫人は、勝手な噂をされるアーリア夫人をかばった夫ウィンダミア卿に不信感を持ちます。そのアーリア夫人とはいったいどういう人なのだろうと、ウィンダミア夫人は彼女へ視線を向けますが、人垣が邪魔で見えません。そのためよりいっそう夫への不信感が強まります。だが、席を立つと彼女への関心を示すことにつながってしまう。ここでウィンダミア夫人が抱くアーリア夫人のイメージは、自分の目で見た印象によるものではなく、隣に座る貴婦人達によって語られる印象によって形成されていきます。
 いよいよ競馬が始まり、馬たちが走り出します。それまで椅子に拘束されていたため生じていた停滞感が一掃され、映画へ爽快な運動がもたらされます。短いカットですが、開放的で印象に残るカットです。しかし主要な登場人物たちは、立ち上がって盛り上がる周囲とはうってかわり、椅子から立ち上がりもせず、じっとパンフレットを読む”振り”をしています。それまで画面によって示された関係性のため競馬どころではなくなっていることが、”かたち”として表されています。そして、その”かたち”に「椅子」が深く関与しています。

●『赤線地帯』、溝口健二、1956

 椅子はもともと西洋の家具です。日本間で座るとなると、床(畳)に直接座ります。おなじ「座る」という動作であっても、部屋の種類が異なってきますとアクションや画面構成、編集も変わってくるのではないでしょうか。そこで、日本間と洋間のどちらも出てきて「椅子」が重要な舞台装置となる映画、溝口健二監督の『赤線地帯』をご覧頂きます。

 この映画は溝口監督の遺作であり、売春禁止法が取り沙汰された1950年代、吉原の「夢の里」という売春宿で働く娼婦たちの話です。

 一度は恋人である下駄屋と結婚するため夢の里を出て行ったより江(町田博子)が、嫁ぎ先でろくに眠ることもできないほど働かされるのに耐えきれず戻って来る場面から、ゆめ子(三益愛子)が狂ってしまう場面までご覧頂きました。
 売春禁止法の報道について娼婦に対し店の主人が、「自分たちのしていることは社会事業だ、政府の目が届かないところを自分たちがやっているんだ。政治家なんて演説ぶっているだけで食いっぱぐれねえ奴らよりも自分たちの方が心配しているんだ」といった旨の演説をするとき、まさにその政治家と彼らの関係性が、娼婦に身体を売らせ金で縛り付ける主人と娼婦たちの関係性と大差ないことに皮肉を感じますが、売春禁止法の成立不成立といった作品の背景とともに、『赤線地帯』においては「椅子」に座ることが物語上重要な契機となっています。
 『赤線地帯』において、日本間は事務所や生活空間といった内部空間として、一方、洋間は夢の里といった人の往来する外部空間として存在します。主要な登場人物を除いてお客が一人も出てこない夜の中華ソバ屋に置かれる椅子は、ときに低いポジションから見つめられ、娼婦と彼女たちの家族が直面する過酷な現実を描く舞台となります。
 そして、物語の上で”断絶”とも呼びうる出来事が起こるとき、そこに「椅子」が絡んできます。ご覧頂いた場面でいえば、ミッキー(京マチ子)のところへ父親が訪ねて追い返されたときも、父親は始め椅子に座っていました。やり取りの中で、二人は床やベッドの端に座っていきます。さらに、ゆめ子が息子の修一から縁を切られるときも、ゆめ子は人目に付かないであろう空き地に置いてあった廃材のようなものに腰をかけました。どちらも、今後ふたりは二度と会うことはないだろうと思えるほど決定的な”断絶”が起こったシーンでした。溝口監督は、移動しやすい「立つ」状態よりも、移動がしにくい「座ること」をはさむことで関係性の変化をわかりやすく顕していったのではないでしょうか。
 椅子が断絶するのは人物の関係性だけではありません。息子の修一から縁を切られたゆめ子が店内の丸椅子に座っていると、馴染みの客が声をかけます。それに対し、ゆめ子は馴染み客の頭を叩いて急に唄いだし、狂ってしまいます。夢の里が騒然となり多くの人が駆けつけるも状況をうまく飲み込めず、呆然と立ち尽くすしかない中、ゆめ子はひとり欄干に腰を下ろします。ただたんに「座っている」だけですが、だからこそ余計に恐ろしい場面となっています。
 ゆめ子に代わり次に丸椅子へ腰を下ろすのが、新入りのしづ子であるのも印象的です。娼婦となって初めて客を取る晩、しづ子は、他に手だてもないのだからと客を取るようにミッキーから促されるまで丸椅子に座っていました。このとき丸椅子に座っていたからこそ、しづ子は貧乏ながらも楽しく過ごしただろう九州での暮らしを思い切り、娼婦として客を取るために立ち上がります。

 逆に、男たちから金を騙して奪い取った、若尾文子演じるやすみは夢の里では椅子に座らずにいたため、騙した炭屋の青木から首を絞められながらも、意識がなくなるという代償だけで済み、無事に娼婦から足を洗うことができたとも言えるのかもしれません。
 さまざまなかたちの座ることが出てくる中で、不吉な、断絶を引き起こす「椅子」へ「座ること」をご覧いただきました。

 

●『季節のはざまで』、ダニエル・シュミット、1992

 椅子に座ることが身体を固定するのではなく、逆に、椅子に座ることで時空間を自在に移動する、ダニエル・シュミット監督の『季節のはざまで』を観ましょう。
 監督のダニエル・シュミットは1941年スイス生まれ、幼少期から映画やオペラ等に親しみ、1962年にベルリン自由大学に入学します。1966年、ライナー・ベルナー・ファスビンダーと出会い、彼らとファスビンダーの妻で女優イングリッド・カーフェンの三人で1972年に「タンゴ・フィルム」を設立しました。映画以外にもオペラ演出家として活躍もしており世界的に評価されています。1995年、日本で歌舞伎役者の坂東玉三郎や舞踏家の大野一雄のドキュメンタリー映画『書かれた顔』『KAZUO OHNO』を監督しました。2006年、癌のため逝去されました。
 『季節のはざまで』は、主人公が幼い頃住んでいたが取り壊しされることになったホテルへ、ミッキーマウスのコミックを取りに赴き、ホテル内を探索しながら過去の記憶と戯れる映画です。仏語題では『HOR SAISON』、英語題では『OFF SEASON』となっています。タイトルには、たんにホテルにおける観光の”オフシーズン”というのではなく、季節と季節のあいまで何かが起こるといったニュアンスが込められているそうです。

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 祖母が主人公にアナーキストの話を語る場面から、仮装パーティーで記念撮影をする場面までご覧頂きました。
 蓮實重彦氏との対談でシュミット監督が答えているように、シュミット監督作品の女性は、「完全に横たわるのでもなければ、完全に立っているのでもなく、たえずその中間の姿勢」を取ります。その中間の姿勢を支えるものは主に「椅子」であり、それはときに枕や手すり、樹木と姿を変えます。「体重を預けて、身体を支えるもの」としての「椅子」が、『赤線地帯』での工場近くの空き地で三益愛子が腰を下ろした廃材がそうであったように、「座ること」を契機として様々な場所に浮かび上がってきます。
 『季節のはざまで』には、特にそうした中間の姿勢を支える「椅子」が出てきます。この映画は主人公がバスの椅子に座っている場面から始まりますし、祖父が大女優サラ・ベルナールのキスで目覚めるときも眠っている祖父の中間的な姿勢を椅子が支えています。そして、祖母からこのような話を聞く幼き主人公もまた座っています。つまり、『季節のはざまで』において、椅子は、現実・記憶・物語を自在に行き来きする、時間も空間もトリップできる舞台装置となっています。現在の主人公が回想している中で、さらに物語の世界が描き出されるとき、そこには三つの時間軸が表れていますが、観客がその複雑さに戸惑うことなく展開を追うことができるのは、登場人物が「椅子」に座りタイムスリップのためのポーズを取っているからではないでしょうか。
 今回、「椅子」とは少し異なるため上映しませんでしたが、この映画の最も感動的な場面の一つに、「座ること」が深く関わっているカットがあります。それは、季節が変わり家族とともに階段を上っていく少年時代の自分から、現在の主人公へ貝殻が手渡され「海の見える部屋」へと向かうラストシーンの直前にあります。悪夢によって起きてしまった主人公がホテルを徘徊していると、それを見つけたイングリッド・カーフェン演じるリロは、部屋へ戻るのを嫌がる主人公へ身の上話を聞かせます。画面には映らないもののバーの”椅子”に座ってスコッチを飲んでいるマックスも恋人として登場する、真偽のほどはよくわからないお話です。このお話の内容は物語上ある程度は重要なのかもしれませんが、しかしここでより惹き付けられることは、手を引かれ階段を上がりかけた主人公がそれを拒んで一旦座り込むも、リロのお話を聞いたあと、手を引かれながら再び階段を上っていく一連の様です。そして階段を上がって行った先で、また新たな夢や物語へと還っていくであろうことが予測できる点において感動的なのです。この、二人が上昇し、一旦「座ること」によって下降するも、再び上昇するという「感情の方向性」とも呼べる運動に「座ること」が関わっているのです。ここでは「椅子」ではなく、「階段」によって「座ること」が行われています。

 

●『秘密の子供』、フィリップ・ガレル、1979

  様々な場所やシチュエーションに椅子が置かれ、また、椅子に座ることで物語が展開されていく映画を観てきましたが、カップルがテーブルをはさんで椅子に座り、それを固定カメラ、さらに長回しで撮られた場面がある映画『秘密の子供』を観てみましょう。
 監督のフィリップ・ガレルは、監督本人も仰っているように「ゴダールが前に、カラックスが後ろにいる」世代で、ヌーヴェルヴァーグの弟子のような存在と自認しています。『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』のニコと結婚していた時期があり、彼女をモチーフとした映画を数多く撮っています。この『秘密の子供』もその内の一つで、ニコと破局直後に撮られた自伝色の濃い作品と言われています。とても内省的な映画ですが、主観的な撮り方はされておらず、恋人二人の心的距離が変化する模様が痛いくらい感じとれる作品です。

(『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』)

 

(54分頃から流れる抜粋映像を含む箇所を上映)

 映画監督のジャン=バチスト(アンリ・ド・モブラン)がエリー(アンヌ・ヴィアゼムスキー)という女性と恋に落ちますが、エリーには父親に認知されていない息子(秘密の子供)がいました。クスリ漬となっての入院、エリーの母の死等を経て、浮気が原因で別れた二人が復縁した場面から最後までご覧頂きました。
 息子について二人が話しているところから、エリーが売人からクスリを買って来て、弁明するところまで、ほぼ同じ構図で2カット撮られています。
 席を立ったエリーがクスリを売人から買う様子が手前のガラスに写っています。ジャン=バチストの視線がエリーを追っているようにも感じられます。しかし実際には、視線の先は外の景色でしかないはずであり、それは錯覚です。母が亡くなり、葬儀へと向かっていた列車でかけていたサングラスをかけて、エリーが戻ってきます。寒いと震えるエリーが何を視ているかわかりません。彼女とジャン=バチストの視線は二度と交わることはないのではないかと不安になってきます。
 椅子は身体の向きと位置を固定しています。予算の問題も当然あったでしょうが、そういった邪推を超えて、ガラスによって一つのカットの中で複数の構図が顕われ、私たちの胸に強く訴えかけてきます。なぜ、カットを割っての切り返しではなく、半透明を利用したのでしょうか。この映画には再三、ガラス、鏡、サングラスといった半透明が出てきます。この場面の前には、ジャン=バチストがガラスを割り、錯覚をみます。その錯覚では、彼の部屋を訪れたエリーが窓を開けて窓枠に座ります。その安寧とした表情は、それまでの情緒不安定な彼女とはいささかも似ておらず、わたしたちの心を打ちます。窓を開けることによって部屋を開放し外気にさらしたことでもたらされたこの表情を観ることができないまま、唐突に映画は終わります。窓ガラスは外部と内部を可視化するも、空間を分断したままジャン=バチストを内部にとどまらせます。さらに同時録音と思われる室内音が大小に変化していき、ジャン=バチストが内部にある状態が強調され、いっそう悲劇的な印象を受けます。エリーが「クスリをいっしょにやらない?」と誘ったときも、ジャン=バチストを支える椅子は、微動だにせず、ジャン=バチストを室内から飛び出たせも、立ち上がらせもしませんでした。そのため、彼にできたのは彼女の髪にやさしく触れることだけだったのかもしれません。「椅子」によって、その場所にいるということが強く意識づけられながら、移動しなかったことで受動的な存在であることが強調されもする「座ること」でした。

 

●『PINA / ピナ・バウシュ 踊り続ける命』、ヴィム・ヴェンダース、2011

 これまで「椅子」と「座ること」に注目してきましたが、そうでない椅子の使い方をしている映画を最後にご覧頂いて終わりたいと思います。ヴィム・ヴェンダース監督の『PINA / ピナ・バウシュ 踊り続ける命』から、『カフェ・ミュラー』の演目を観てみましょう。
 椅子を使ったアクションというと、追いかけの時にチャップリンが椅子の背もたれを持って振り回す
ためにつかっているのだったり、ジャッキー・チェンがカンフー・アクションによく椅子を用いているのを思い浮かべる方も多いと思われますが、この映画では、「椅子」が愛の表現として使われます。
 ヴェンダース監督はピナ・バウシュと長く交友があり、いつかピナの映画を撮ると約束していましたが、どのように撮ればピナのダンスをそのまま映画で表現できるか悩んでいたそうです。そして、あるとき映画祭で3D映画のドキュメンタリーをご覧になって、これならピナの舞台をそのまま表現できると撮影を決心します。ところが撮影の直前にピナが急逝してしまい、ヴェンダース監督は撮影の中止を考えます。しかし、ピナのヴッパタール劇団員の勧めもあって、やっとのことで撮影された作品が本日ご覧頂く『PINA / ピナ・バウシュ 踊り続ける命』です。そのため、本来は3Dの作品なのですが、本日は2Dで上映します。
 タイトルにもなっている振付家のピナ・バウシュは、1940年ドイツ生まれ。1973年、ヴッパタール・バレエ団の芸術監督に就任し、名称をヴッパタール舞踊団に変更します。当初は独特の表現方法が受けいられませんでしたが、徐々に国内外で評価を高めていきます。映画では、フェデリコ・フェリーニの『そして船は行く』(1983)、ペドロ・アルモドバルの『トーク・トゥ・ハー』(2002)に出演しています。2006年、癌により亡くなってしまいます。参加者の中にもピナ・バウシュの公演をご覧になったことがある方がいるとのことで、とても羨ましく思います。
 ピナ・バウシュのドキュメンタリー映画で、他にアクセスしやすいものでは、『ピナ・バウシュ 夢の教室』があります。ヴェンダース監督のものがピナ・バウシュのダンス表現の"ように"撮られたドキュメンタリーであるならば、『夢の教室』はピナ・バウシュの作品を少年少女が演じることによって人として成長していくのが感動的な映画です。こちらもとても面白いので是非ご覧になって下さい。

 ご覧いただいた場面では、目を閉じて踊る女性ダンサーの邪魔にならないよう男性のダンサーが椅子を退かしたり、ダンサーたちが積み上げられた椅子をくぐったりしています。椅子が座るためのものではなく、障害物や建造物として活躍しています。積み上げられた椅子が建造物となり、それを壊さないようにくぐりぬけれるかという緊迫した場面となっていました。

以上で、シネマ・カフェ第10回「椅子」を終えたいと思います。これから映画をご覧になるときは、これまで以上に「椅子」を舞台に繰り広げられる物語のニュアンスに触れ、楽しんで下さればと思います。

本日はありがとうございました。
(シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った)

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.11「傘」

棒状のかたちから瞬時に空間的な膨張をみせる傘は、

日光、雨、雪などから身を防ぐだけでなく、

視界を遮るものとしての機能もあります。

たとえばミャンマーでは、恋人たちは、デートするとき、

性的に保守的な社会から隠れるため、

雨も降っていないのに傘をさすと言います。

つまり、限りなく開かれた密室を傘は演出しているのです。

では、映画作家はそのような「傘」をどのように扱っているのでしょうか?

ちょうど梅雨から日差しの強い季節にかけてわたしたちがよく使う「傘」というものに焦点をあて、映画について考えてみましょう。

 

ミャンマーで恋人たちが傘に隠れて話す様子

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ファシリテーター:映画☆おにいさん(内山丈史)

時間:6月27日(土)18:30~

場所:水曜文庫

料金:800円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-266-5376、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

 

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.10「椅子」

腰を落ちつかせ座るための台、とひとまず定義されうる「椅子」は、私たちの生活の中に当たり前のように組み込まれています。それを意識することの方が、私たちの生活においてめずらしいかもしれません。しかし「椅子」という装置にいったん眼を向けると、そこではおしゃべりが行われたり、話の一服をしたり、誰かに命令したり、取り調べを受けたり、どこかへ移動したり、あるいは庭の風景を眺めたりと、絶えずあらゆる方向へ運動と変化をもたらす舞台でもあるのだと気付きます。

それ自体は静的なものであるにもかかわらず、「椅子」は映画にどのような運動・変化を導き入れるのでしょうか。

ご一緒に考えてみましょう。


ファシリテーター:映画☆おにいさん(内山丈史)

時間:5月30日(土)18:30~

場所:水曜文庫

料金:800円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-266-5376、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.9「平手打ち」

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とくべつな道具が要らないこの原始的な暴力は、
ふだんの生活のなかで、親から子へ
躾のためになされることもあるでしょうし、
恋人同士が、喧嘩の際、
相手の無理解に憤ってなされることもあるでしょう。

接吻よりは遠く、しかし手が届く範囲からのみ
繰り出される「平手打ち」は、
二人の関係性をどのように変えてしまうのでしょうか。

映画において「平手打ち」が
物語にどのような衝撃を与えるのか、
いっしょに考えてみましょう。

 

◆時間
3月28日(土)19:30~21:30

 

◆予約受付
予約優先。当日参加可。
問い合わせ先に、イベント名、お名前、連絡先をお送りください。

 

ファシリテーター
内山丈史 a.k.a 映画☆おにいさん

 

◆会場
カフェ・うーるー http://ooloo.lolipotouch.com/access/
〒411-0847 静岡県三島市南本町13-30
※JR三島駅より徒歩 30分

 

◆駐車場
カフェ・うーるーの駐車場は1台です。なるべく公共機関を利用してお越し下さい。

 

◆近辺の駐車場
①近くのコロナのカメラ様 http://www.d-corona.com/sup_corpprofile.html
②シンコウパーク様 カフェ・うーるーまで源兵衛川沿い徒歩15分
 http://www.shinkopark.com/access.html


◆問い合わせ
takeyama.drifters★gmail.com  内山 宛
(迷惑メール防止のため、@を★としています。★を@にして送信ください)

◆参加費
500円+ 1 drink

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.8「並ぶこと」

並ぶこと

異なる人間が、向かい合うのではなく、
ただ並んで、同じ方向を向き、
ただ視線を投げかける。
それだけで感動的であることが
映画にはよくあります。

あれだけ自在に動き回っていた登場人物が
他者と並んで歩くとき。
あんなに喧嘩ばかりしていた二人が
並んで同じ方向を向くとき。
すこし考えれば容易にいろんな映画のいろんな場面を思い浮かべることができます。

そして、わたしたちもまた映画館で映画を見るとき、
順序よく並びながらスクリーンにむかって視線を注いでいます。
この不思議な相似形について映画を見ることで考えてみましょう。

ファシリテーター:映画☆おにいさん(内山丈史)

時間:2月28日(土)19:00~

場所:水曜文庫

料金:800円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-266-5376、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

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映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.7「本のある場所」

本日はお集まりいただきありがとうございます。映画☆おにいさんのシネマ・カフェ第7回「本のある場所」にお集まりいただきありがとうございます。今回、水曜文庫さんでシネマカフェを行うことになりましたので、店主の市原さんと相談しまして「本のある場所」としました。「本」が原作というのではなく、「本」そのものを映画ではどう扱っているか。印象的なものを集めてみました。言うまでもなく、本に掲載されているのは、写真や図もありますが、基本「文字」です。それに対して、「映画」は「映像」と「音」であって、異なるメディアです。そこで映画は本をどう扱っているのか。古今東西すべての映画を見れる訳ではないですが、印象的なものを集めましたので見ていきたいとおもいます。ではまず参加者の方々の自己紹介とテーマ「本のある場所」で思い浮かぶ映画を言っていただきましょう。

〈自己紹介+映画〉

ありがとうございます。では、映画を見ていきましょう。

●『三人の名付け親』(ジョン・フォード,1948)

 ジョン・フォードは『駅馬車』だったり『静かなる男』だったり、『男の敵』『怒りの葡萄』『荒野の女たち』『騎兵隊』『ドノバン珊瑚礁』...まだまだ面白い映画がいっぱいありますね。今日は『三人の名付け親』の、三人の銀行強盗が赤ちゃんの世話をするシーンを見てみましょう。三人は赤ちゃんの世話の仕方が分からない。なにか手がかりはないかと母親の荷物を漁っていたら一冊の育児本を見つけるんですね。

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書かれていることに翻弄される3人が面白いですね。本を読む、赤子を抱くことで見えてくる関係性も面白いですね。

もう一場面、『三人の名付け親』から見てみましょう。三人の中で一番若いキッド(ハリー・ケリー・ジュニア)がケガと砂漠での逃亡に消耗しきって死んでしまう場面を見てみましょう。

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銀行強盗が最後、聖書の朗読を頼むんですよ。自分が極限の状態において、死ぬ間際に望むことが赤ん坊の心配と詩篇の朗読、朗誦なんですね。宗教のことはよくわかりませんが、感動的ですね。泣けますね。

 

●『わが谷は緑なりき』(ジョン・フォード,1941)

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次も、ジョン・フォードの映画から抜粋を観てみましょう。『わが谷は緑なりき』です。炭坑町のお話なんですが、主人公は凍傷になってしまって、もう歩けないかもしれないとお医者さんに言われてしまいます。そこで、牧師は主人公に本を読むことを勧めます。『宝島』から始まって、いろんな本を読みます。窓際に本が増えていきます。参加者の方の意見にありました、だんだん暖かくなり鳥が窓辺にやってきて、主人公が家族に「春なの?」って聞くんですね。本を読むことで「春」を知ったんですね。鳥肌が立ちますね。すごいシーンです。

 

●『すべての革命はのるかそるかである』(ストローブ=ユイレ,1977)

 ここまでは、ジョン・フォードの映画で本のある場所を見てきました。次は、ストローブ=ユイレの映画『すべての革命はのるかそるかである』を見てみましょう。マラルメの詩「賽の一振り」を朗誦している映画です。読んでいる場所は墓地の芝生なんですが、このペール・ラシェーズ墓地(Cimetiere du Pere Lachaise | Visite virtuelle du Cimetiere | Cemetery's virtualtour)は、普仏戦争後の1871年にパリ・コミューンという市民軍の蜂起がなされて、その最後の拠点となった場所でもありますね。革命家達の聖地ですね。ここでいろんな言語を母語とする男女9人が交互に朗誦していきます。

 

 

原作の『賽の一振り』ですが、このようなテクストになっています。

 

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日本語訳されたものもあったので、載せておきます。

 

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フォント・サイズ・配置がばらばらで、どのように読むのが正しいのか分かりませんね。これを原作に映画を撮ろうと考える感性にまず驚いてしまいますが、この詩を原作として映画を撮ったと考えれば、あのような映画表現になるのが何となく分かりますね。

そういえば、誰が仰っていたか失念してしまったのですが、「ヘルダーリンの詩は原語で音読すると、言葉と言葉が呼応しているのが分かる」と評していていました。ストローブ=ユイレは、ソポクレスの「アンティゴネ」をヘルダーリンがドイツ語に訳し、それを基にブレヒトが1948年に改訂した版を使って、『アンティゴネ』を撮ってますから、そのようなこと考えた上での映画様式にしていると考えられます。さらにストローブは「カフカをフランス語でなくドイツ語で読むと明晰だ」と言っています。私には分かり兼ねますが、どうやらそういうところもあるようですね。

ちょっと画質も音もあんまりなので、もうひとつ観てみましょう。

●『アーノルト・シェーンベルクの《映画の一場面のための音楽》入門』(ストローブ・ユイレ,1973)

15分だけの作品ですのでこちらも全編見てみましょう。1927年、20世紀の西洋音楽に最も影響を与えたとされ、12音技法を確立した作曲家シェーンベルクが、友人の画家カンディンスキー反ユダヤ主義的な発言に怒って、書いた手紙の朗読がなされます。掛かっている音楽はシェーンベルクが架空の映画音楽として書いた曲であります。ブレヒトが1935年に行った反資本主義演説も引用されています。

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どちらもある場所でテキストがあって読んでいますね。演劇的でありながら、演劇的でないようにも聴こえますね。普段の発声とはちょっと違うように聴こえますね。この人はどんな人なんでしょうね。手や膝が官能的ですね。切り取られた石のようにこの人たちは音と映像になって存在していますね。ストローブは、「存在するものは存在し(ドライヤー『奇跡』)、存在しないもの(ドライヤーのイエス・キリスト)はまったく存在しないのである」と言っていますね。

 

●『セリーヌとジュリーは船でゆく』(ジャック・リヴェット,1974)

続いて、ジャック・リヴェットの『セリーヌとジュリーは船でゆく』から、『不思議の国のアリス』のような出会いの次の日、図書館でのシーンを見てみましょう。

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こんな司書や利用者がいたら嫌ですね。煙草は吸うわ、本にいたずら書きはするわ、破るわで。笑えますが同時に不安になってしまいますね。現実なのか幻想なのか分からなくなりますね。フィックスの画面と手持ちカメラ対比によって、よけい不安定な感じですね。

 

●『天国は待ってくれる』(エルンスト・ルビッチ,1943)

今度は『天国は待ってくれる』です。本屋という場所が物語を推進します。街で見かけた美女を追っていくうちに本屋へ入ります。女性が本を探しているようなので、本屋の店員を装い話しかけます。

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洒落ていますね。ここで女性が欲しがっていた『夫を幸せにする方法』という本が出て来ていますが、後半にも効いてくるんですね。途中、二人だけの世界になってしまうのも面白いですね。ルビッチと言えば、『青髯八人目の妻』にも本が出てきますね。妻を手なずけるためにどうすればいいか考えていたところ、主人公が『じゃじゃ馬ならし』を読んで「これだ!」と思うんですね。早速妻のところに行ってビンタするんですが、すぐにビンタ仕返されてしまうんですね。とっても可笑しいので、是非観て下さい。フォードの『三人の名付け親』もそうでしたが、How to本に従って行動すると大体可笑しなことになりますね。自分の頭で考えろということでしょうか。

 

●『ファウスト』(F・W・ムルナウ,1926)

サンライズ』でも有名なムルナウ監督ですが、ゲーテの『ファウスト』を原作にして撮っています。 


学者であるファウストがこれまでの知識を総動員しても病気を防げなかった。不甲斐なく感じ、本を次から次に燃やしてしまいます。まだ本が高価で貴重であった時代であったから余計に胸が熱くなりますね。燃やす最中にたまたま開いた本から悪魔を召還する方法を見つけます。召還するシーンの迫力は凄かったですね。サイレント映画だからといって侮れないんですね。逆に、むかしの映画の方が凄かったのではないかという気にさせられますね。

 

●『世界の全ての記憶』(アラン・レネ,1956)

では最後に、アラン・レネの『世界の全ての記憶』を見てみましょう。フランス国立図書館のドキュメンタリーです。アラン・レネは『二十四時間の情事』『夜と霧』の監督ですね。そういえば『断層紀』の波多野監督もアラン・レネが好きだと言っていましたね。プルーストみたいに記憶にまつわる映画を多く撮っているように思えるんですが、今回のドキュメンタリーもそのままタイトルに記憶と入っています。

独白と言っていいようなナレーションで映画は進んでいきましたが、最終的にどういうような建物なのかよく分かりませんでしたね。本を運ぶ人や仕組みが次から次に紹介されているはずなんですが!知識と同じように全体を掴むのは容易ではないということでしょうか。

以上で、映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.7「本のある場所」を終えたいと思います。ムルナウからストローブ=ユイレまで、今日だけで8本9シーンを観てきました。抜粋箇所だけでなく一本通してみると印象ががらりと変わると思いますので、ぜひレンタルビデオ店で借りる等してご覧になって下さい。また、これから映画をご覧になるときは「本のある場所」における様々なドラマを楽しんでくださればと思います。

 本日はありがとうございました。
(実際のシネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った)

 

●その上映候補だった作品、参加者から挙がった映画、話題に挙がった映画

素晴らしき放浪者』『ベルリン、天使の詩』『シャーシャンクの空に』『女は女である』『右側に気をつけろ』『ざくろの色』『ローラ』『青髯 八人目の妻』『中国女』『コルネイユブレヒト』『レディ・イン・ザ・ウォーター』『華氏451』『バートンフィンク』『三つ数えろ』『珈琲時光』『ノッティングヒルの恋人』『ビフォアサンセット』『バールーフ・デ・スピノザの仕事 1632–1677』『東京物語

『アンナ マクダレーナ バッハの年代記』



『ジャッカルとアラブ人』



サンライズ



『奇跡』