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『EO』 ーー「21世紀の映像」を自称するという戯れ

 赤い点滅の中、少女とロバが映し出されて始まるイェジー・スコリモフスキ監督の『EO』は、「詩的」や「エッジの効いた」と形容される映像表現を期待していくとつまらなく感じるかもしれないが、喜劇映画として観れば途端に刺激的になる。喜劇といってもドタバタやギャグの連発ではなく、もしかするとチェーホフに似ているのかもしれないが、それは「取り違え」からくるものだ。
 この「取り違え」は、複数のロバが一匹の主人公を演じていることもそうだが、ロバを「馬」、「家畜」、「恋人」、「家族」、「ロボット犬」などと取り違えることによって、ストーリーを推進していくものである。しかし、その最たるものであり根幹をなすものは「被写体との距離」であり、被写体との距離を取り違えた映像群はもとより「ショット」たりえず「傑作」となりようがない。イザベル・ユペールですらどこか空回っている。だが、「映画」と形容されることさえ拒んでいるかのようなスコリモフスキ監督のこの振る舞いは、まるでアンナの部屋に忍び込むレオンの姿のように歪でユーモラスでもある。
 こうした「取り違えの旅」、または「旅の取り違え」は、「故郷」という目的地への旅にはなりようがなく、あてのない「放浪」となるだろう。では、この映画にくりかえされる、画面内に置かれた消失点へと走るロバが向かっている先はいったいどこなのか。そのひとつは「現在」であるといえるのかもしれない。フィルムと映像が限りなくイコールだった前世紀のある一時期を過去とし、スマートフォンなどで誰でも手軽に撮影できる「現在」である。ただし、そうして撮られた膨大な「現在」の映像は創造性に溢れ多様化したというよりはむしろそのほとんどが形骸化しているようにみえる。だが、そうした「現在」と距離を取るばかりかむしろ積極的に戯れようとする試みとして、『EO』はある。監督が本当にやりたいことなのかどうかもわからない逆再生やドローン撮影もその戯れの一つである。ただし、この戯れは「21世紀の映画」にはどのような形がありうるかという苛烈な実戦にほかならない。唯一性が微塵も感じられない形骸化した画面に残る、形骸化した物語の骨拾い。たんに取り違えられたまがいもの。
 この「取り違え」を「交換可能」と積極的に捉えなおしたとき『EO』は、世界への扉を開けていくロベール・ブレッソン監督『バルタザールどこへいく』(1967年)より、クリント・イーストウッド監督『15時17分、パリ行き』(2018年)に接近していくだろう。ロバはそ知らぬ顔で、自分の名ではなくただイーオーと鳴くだけなのだから。