『キートンの文化生活一週間』 ーー 映画を二回見る2024 -Finding Lumière-
以下は、2024年1月27日(土)に鴨江アートセンターで行われたワークショップ「映画を二回見る2024」のために準備したメモを基に構成したものである。
本日はご参加いただきありがとうございます。
このワークショップでは、映画を観て、感想を共有した後、もう一度映画を観て話し合います。映画について話し合っていく中で、印象がどのように変わるのか、または変わらないのか、映画を「観る」ことについて考えるワークショップです。
ちなみに、皆さんの中で同じ映画を複数回ご覧になったことがある方はいらっしゃいますか? スクリーンでも何回か観られている方もいらっしゃるようですね。
複数回観るというと、例えば、おとうさんが金曜ロードショーで『ダイ・ハード』を観ている。クライマックスで「あ、これ観たことあるわ」と気づく。このようなエピソードを、ある世代以上はあるあるネタとして共有していると思います。今回のワークショップに関していえば、このお話はとても重要で、核心に触れたものであると思います。ストーリーは忘れている、というか観たことすら忘れている。けれどもある場面は、それは往々にしてクライマックスである場合が多いですが、覚えている。99%は忘れていても、1%は覚えていた、思い出した、残っていた。そしてそれは映画全体の記憶を呼び起こす映像であったということですね。
複製芸術である映画の方は変わっていない。しかし、同じ映画なのにときにはまったく新しい映画を観たような気になる。これは映画に限った話ではなく、読書においてもよくあることだと思いますし、もっといえば初日の出もそのようなものなのかもしれません。ここではそれらを「フィクションの効果」だととりあえず指摘しておくのみにします。
それではここで参加者の方々に自己紹介をしていただきます。名前(あだ名)、それにこのワークショップに参加した動機、意気込み、最近観て面白かった映画、それ以外でもなんでもいいですので、1人1分くらいでお願いいたします。
〈参加者の自己紹介〉
自己紹介が終わりましたので、前情報を入れずにさっそく映画を観ていきましょう。
それでは、ご覧いただきました映画について、話していきたいと思います。
まずは、ストーリーを一言でいうと、どのようになるでしょうか。
参加者の方が仰っていただいたように、「新婚夫婦が、一週間の間に、家を作ってぶっ壊す」といったようなところでしょうか。大枠は単純なので、画に集中することができますね。
次に、「おもしろい」「おもしろくない」「いい」「わるい」ではなく、何が映っていたかを具体的に伺っていきたいと思います。とはいえ、いきなり聞かれても答えにくいと思いますので、順に伺っていきたいと思います。まずは登場人物から何人いたましたか?
〈その後、画面に映っていた人、どんなギャグがあったか、ファーストカット、そこからどのようなカットがつづいたか等を話す〉
たった20分ほどの映画でも画面で起こったことすべてを覚えておくのは難しいです。私を筆頭に、多くの方もそうであると思います。そのため、脚本作りの箴言に「本当に伝えたいことは3回繰り返せ」というものがあるように、作り手の方々も苦心して作っています。ヒッチコックが「映画の観客に知的な人がいるのかね?」という言葉も、作り手の勝手な暴走を戒める言葉だと思います。
とはいえ、映画を観る上で最も重要なことは、画面で起こっていることへ、画面の細部へ目を凝らすことです。なぜなら、映画は画面と音でできているからです。サイレント映画なら、厳密に言えば画面だけです。その画面を注視していく中で立ち上がる物語を享受することです。それが、映画を「観る」ことなのだと思います。
ですからキートンについて、バスター・キートンが1895年生まれで、1966年没年に亡くなっているアメリカの俳優、監督、脚本家であること。チャップリン、ロイドと並び、三代喜劇王の一人で、Great Stone Face 偉大なる無表情でアクロバティックなアクションのギャグを自身でこなすことで人気を博し、主に1920年代のハリウッドで活躍したこと。同時代では、サミュエル・ベケットやガルシア・ロルカ、ルイス・ブニュエルがキートンに熱狂しており、後にジャッキー・チェン、ブルーマングループ、志村けん、ウッチャンナンチャンの内村光良などに影響を与えたこと。また、益田キートンやキートン山田の名前の由来であること。以上のことは、映画を観る上で知らなくてもいいし、もちろん、知っていてもかまいません。
それでは2回目を観賞していきましょう。
二回目を観賞しましたので、印象が変わったところ、新たに気付いたところ、変わらなかったところを伺っていきます。
〈参加者の感想を聞く〉
二回目の方が物語に慣れたためか余裕を持って細部に目を凝らすことができた、その結果、むしろ二回目の方が楽しむことができた、という方が多かったようです。なお、金曜日の最後に出てきた蹄鉄は、メリーゴーランドのお馬さんがいたらもっといいねと言われたことがフリになっていて、また蹄鉄がラッキーアイテムとして認知されていることから、あの場に落ちていて皮肉となっているということなのではないかと思います。
ここからは私の感想を語りつつ、ワークショップのまとめをしていきます。
月曜日から日曜日という単純な構造がありますが、「二階に外への扉がついている」ことを使って、バスルームからキートンが落ちたり、ハンクが庭まで一直線に走っていて倒れたように、ただ各曜日にギャグを詰めこんだだけなのではなく、視覚的なギャグの反復によって物語が語られています。そのほかにも、家を組み立てる説明書が家を建てる前と壊れた後に出てくることで、円環構造となっています。
また、この映画の特徴の最たるものとして、キートンが自分で設計した舞台に苦しめられることが挙げられます。物語上、自分で組み立た家の出来事によって翻弄される主人公としてのキートン。そして、この舞台設定でスタントアクションを遂行せねばならない役者、そして監督としてのキートン。立っているところに壁が倒れてくるが、ちょうど窓があったことによってただ立っていただけでうまく潜り抜けられるというギャグでさえ、無傷で済んだというよりも、強迫的に動きが制限されているように見えます。
そうした状況や行動はリアリスティックなものというより、シュールレアリスム的といえます。それは、縦に一回転する壁、建築構造、外観のちぐはぐさ、極めつけは入浴中の新婦が床に落ちた石鹸を取ろうと身を乗り出そうとしたとき画面外から手が伸びてきてキャメラを隠す演出などに見て取れます。
そこで披露されるギャグの多くは、部分で見ると合っているが全体から見ると間違っているものです。たとえば、はみでている板の部分を切るとき、キートンが切り落とす方に乗っている。カージャッキで持ち上げようとするが、家は持ち上がらず板が外れるだけ。樽をタイヤにして、家を運ぼうとする。車の後部座席ごと釘を打ちつけ、家を牽引しようとする。このように、行為のみをクローズアップして切り取った画を見たときにはおかしくないが、それを引いて状況と照らし合わせて見たときに現実離れしているといったギャグなのです。
こうしたおかしな状況になったとしても、キートンは動じることも戸惑うこともありません。妻や知り合いのことを気遣うくらいです。逡巡する気配さえ見せずにたんたんと受け入れて行動するキートンの行動は「ヒューモア」を感じさせます。柄谷行人氏の「ヒューモアとしての唯物論」では、フロイトが語る「ヒューモア」を「自我(子供)の苦痛に対して、超自我(親)がそんなことはなんでもないよと激励するもの」と説明し、漱石が語る「写生文の特質」、カフカの小説等がフロイトの「ヒューモア」に重ねられていました。装置の中で不条理な奮闘をする『キートンの文化生活一週間』もこれらに連なるものだと思います。
キートンの素晴らしいところは、そうした過激な「ヒューモア」をあくまでも映画表現として、つまり「かたち」として表しているところです。ご覧いただいた通り、身ぶり手ぶりというには収まり難いキートンのアクションは、アクションにとどまらず風に舞う埃や光など豊かな細部を含むのかもしれませんが、「フィクション」というジャンルではあるが、同時に「撮影現場のドキュメンタリー」の一面もあります。そうしたドキュメンタリー的な一回性がヒューモアによって、生々しく露わになる瞬間というものは、一時停止したどの画面にあるというものではなく、キートンのアクションによってもたらされる運動の中にしか、つまり映画にまなざしを向け続ける時間の中にしかありません。
そして、映画を観るということは、露わになった現在、いわば「
最後にワークショップの結論をいいますと「知った気にならず、観ることが大事!」です。以上で「映画を二回見る」を終了します。ありがとうございました。
『EO』 ーー「21世紀の映像」を自称するという戯れ
赤い点滅の中、少女とロバが映し出されて始まるイェジー・スコリモフスキ監督の『EO』は、「詩的」や「エッジの効いた」と形容される映像表現を期待していくとつまらなく感じるかもしれないが、喜劇映画として観れば途端に刺激的になる。喜劇といってもドタバタやギャグの連発ではなく、もしかするとチェーホフに似ているのかもしれないが、それは「取り違え」からくるものだ。
この「取り違え」は、複数のロバが一匹の主人公を演じていることもそうだが、ロバを「馬」、「家畜」、「恋人」、「家族」、「ロボット犬」などと取り違えることによって、ストーリーを推進していくものである。しかし、その最たるものであり根幹をなすものは「被写体との距離」であり、被写体との距離を取り違えた映像群はもとより「ショット」たりえず「傑作」となりようがない。イザベル・ユペールですらどこか空回っている。だが、「映画」と形容されることさえ拒んでいるかのようなスコリモフスキ監督のこの振る舞いは、まるでアンナの部屋に忍び込むレオンの姿のように歪でユーモラスでもある。
こうした「取り違えの旅」、または「旅の取り違え」は、「故郷」という目的地への旅にはなりようがなく、あてのない「放浪」となるだろう。では、この映画にくりかえされる、画面内に置かれた消失点へと走るロバが向かっている先はいったいどこなのか。そのひとつは「現在」であるといえるのかもしれない。フィルムと映像が限りなくイコールだった前世紀のある一時期を過去とし、スマートフォンなどで誰でも手軽に撮影できる「現在」である。ただし、そうして撮られた膨大な「現在」の映像は創造性に溢れ多様化したというよりはむしろそのほとんどが形骸化しているようにみえる。だが、そうした「現在」と距離を取るばかりかむしろ積極的に戯れようとする試みとして、『EO』はある。監督が本当にやりたいことなのかどうかもわからない逆再生やドローン撮影もその戯れの一つである。ただし、この戯れは「21世紀の映画」にはどのような形がありうるかという苛烈な実戦にほかならない。唯一性が微塵も感じられない形骸化した画面に残る、形骸化した物語の骨拾い。たんに取り違えられたまがいもの。
この「取り違え」を「交換可能」と積極的に捉えなおしたとき『EO』は、世界への扉を開けていくロベール・ブレッソン監督『バルタザールどこへいく』(1967年)より、クリント・イーストウッド監督『15時17分、パリ行き』(2018年)に接近していくだろう。ロバはそ知らぬ顔で、自分の名ではなくただイーオーと鳴くだけなのだから。
映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.27 小津安二郎の「追っかけ」 part 1
今回のテーマである「追っかけ」は、有名人などを移動先まで追っかけていく熱狂的なファンのことではなく、AがBを追跡する「追っかけ(チェイス)」です。
小津安二郎監督は映画の発展について以下のように語っています。
映画というものはごく最近育ったもので、一番初めは善玉と悪玉の追っかけの動きだけ。それから人間の感情が映画に出るようになり、しばらくしてその感情がソフィスティケーションとなる。それがようやく人間が人間として描けるところまできたということで、ようやく文学と同じレベルに到達した。(田中眞澄編『小津安二郎戦後語録集成』、フィルムアート社、一九八九年、三七六頁)
これは小津監督が「追っかけ」を次第に退けていったということを意味しません。
小津監督は、たとえ「小津調」と評される「後期」の作品群であっても、「追っかけ」を自身の作品の礎として、映画表現を常に模索していった監督であるからです。
part1では、実際に「追っかけ」の場面を見つつお話します。
映画監督・小津安二郎に興味がある方やよく知らない方でもお気軽にご参加ください。
日時:12月3日(土)18:30〜20:30
場所:水曜文庫
〒420-0839
静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F
参加料:一般 800円 学生 500円
定員:12名(予約優先)
申込:水曜文庫(054-689-4455、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)
または当日会場に直接
【ZINE】ATALANTE TRIANGLE vol.2
ZINEをだします。
ATALANTE TRIANGLE vol.2
・目次
折り紙のクジラ 間宮 緑
映画と家の日記 斗内 秀和
映画☆おにいさんのシネマ・カフェ 番外編 vol.2「見上げる」 内山 丈史
・価格
500円
・発売日
2022年4月1日(金)
・執筆者
間宮 緑
1985年生まれ、山羊座 静岡県三島市 出身/在住
小説家。2008年「牢獄詩人」が早稲田文学新人賞を受賞。2011年『塔の中の女』(講談社)出版。2018年『九月、東京の路上で』(加藤直樹著・ころから)をエスペラント語訳。ほかに「ひとりになる」(『本迷宮』所収)、「ちょっとそこまで」(『タビタビ』連載)など。
斗内 秀和
1987年生まれ、射手座 兵庫県神戸市 出身/在住
フィルムアーカイブでボランティアをしたのがきっかけで映画に関わり始める。制作現場、映画館勤務を経験したが、現在は別の仕事をしている。好きな映画監督はウィリアム・キャッスル。
内山 丈史
1987年生まれ、乙女座 静岡県袋井市 出身 / 浜松市 在住
各回のテーマに沿った映画の抜粋を鑑賞し、感想を語り合うWS「映画☆おにいさんのシネマ・カフェ」を静岡県内で25回以上行う。
・販売店舗 ( ※2022年3月29日時点)
水曜文庫(静岡県静岡市)
トラック用品シミズ(静岡県磐田市)
山田竹次郎商店(静岡県三島市)
カフェ・うーるー(静岡県三島市)
ハピネス(静岡県三島市)
神戸映画資料館(兵庫県神戸市)
汽水空港(鳥取県東伯郡湯梨浜町)
【ZINE】ATALANTE TRIANGLE vol.1
ZINEをだします。
ATALANTE TRIANGLE vol.1
・目次
壁に頭をぶつけるまで(森﨑東について) 中山 洋孝
マコーさんの日記 西川 泰功
映画☆おにいさんのシネマ・カフェ 番外編 vol.1「撫でる」 内山 丈史
・価格
500円
・発売日
2021年2月14日(日)
・執筆者
中山 洋孝 1986年生まれ、蠍座 千葉県市川市 出身/在住
2008~11年、映画同人誌DVUを3号まで編集・発行。
2011~12年、編集プロダクション映芸在籍時に、雑誌「映画芸術」WEB用のインタビュー記事を一部担当。
2021年、映画作家ジャン・ローラン特集のZINE「COUCHONS vol.1」へ寄稿(編集・デザイン:上條葉月 https://www.edition-couchon.net/)。
ブログ 『誰も呼んでくれない夜』 https://nakayama611111.hatenablog.com/
西川 泰功 1986年生まれ、牡羊座 山口県下関市 出身/在住
何者でもなくプロフィールを書くのは難しい。専門というほどの分野も分野に対する執着ももちあわせておらずあらゆる書き物は雑文になる。死ぬまでに生身のじぶんより強く存在する書き物をひとつでも多く残したいとは思う。ここ数年の生活理念は「知の深まりと他者への愛」。孤独におけるこの理念の実現をひとは現実逃避と呼ぶだろうか。理念との乖離に日々もがいている。
内山 丈史 1987年生まれ、乙女座 静岡県 袋井市 出身 / 浜松市 在住
これまでに、各回のテーマに沿った映画の抜粋を鑑賞し、感想を語り合うWS「映画☆おにいさんのシネマ・カフェ」を静岡県内で25回以上行う。
・販売店舗(※2021年2月15日時点)
水曜文庫(静岡県静岡市)
トラック用品シミズ(静岡県磐田市)
キノコヤ(東京都多摩市)
ラピュタ阿佐ヶ谷(東京都杉並区)
模索舎(東京都新宿区)
本屋ロカンタン(東京都杉並区)
ロゴデザイン 拜田真直
20200418
コロナウィルスでなくとも人は死ぬ。
物事が崩れるときは一瞬だ。それまでの当たり前だった生活を一気に変えてしまう。別れは過去に行われていたことを知り、あとは自分の気持ちを落ち着かせるための儀式でしかない。別れの時はつねに早すぎて、あれが別れだったと気づいたときには遅すぎる。
この二三年は会うこともなく、たまに思い出しても、便りがないのが良い便りとでも言わんばかりに、呑気に過ごしていた。いま思い返すことといえば正月の集まりが大半で、当時面倒臭く感じていた季節の行事がいまでは慰めとなってしまうのだから、節目の行事というものは、現在よりも未来で役に立つものなのかもしれない。
それはまだ大学生だったころ、箱根駅伝に飽きて、テレビで『月世界の女』を観ていた。親戚一同の話がひと段落したころ、私のところへやってきて、優しく「これ、面白い?」と尋ねた。まあね、と曖昧に答えながらもDVDの再生を止めたのは、無理解に憤ったからではなく、なぜ面白いのか自分でもさっぱりわからず、急に照れくさくなってしまったからだ。この監督は誰でとか画面がどうだとか、言い訳めいた言葉を連ねることはできたのかもしれないが、刺激的なものなら他に幾らでもあっただろうに、サイレントの白黒で英語字幕も満足に分からなかったのに、なぜあれほど惹かれていたのか、惹かれ続けているのか、本当のところは今でもまったく分からない。
これは芥川龍之介の『好色』で、平中が侍従に惹かれていることに似ていると思う。髪が薄すぎるだとか顔が寂しいとか欠点を挙げようと思えばなくはない相手のことを、桜を見ていても漫然と、考えてしまう。侍従から狐や範実、切り灯台へ思いを巡らす。意識の移ろいの中心にはつねに侍従がいる。手紙を数多書き連ね、想いを募らせていく平中は、侍従のことを思い切ることがどうしてもできない。「時鳥厠半ばに出かねたり」を反転させたようなラストにおいて、昼か夜かも判然としなくなった平中は、侍従の糞を食べて『ヴェニスに死す』よろしく、バスター・キートンのように倒れてしまう。これは芥川なりのシュールな喜劇だとは思うが、平中にとって侍従と出会って苦しい思いをしたのかもしれないが、知ったことで得た喜びが出会った苦しみに劣るとは思えない。仕合せになるためには凡人の方がいいなんて相当な皮肉だと思う。そういえば大学時代には毎月仕送りと一緒に手紙をもらった。手紙が来たら1時間程度に電話をかけた。ちゃんと食べているか等、体の心配をしてくれた。でも、仕送りのほとんどは映画と本に変わってしまった。
通夜と葬式の日は、3歳の姪っ子や8歳の親戚の子と過ごした。“One's gone. One's born.” だなんていう覚悟はまだない。
「今日も暑うなるで」「らしいかどうだが」
不在は死ではない。
享年92歳。合掌。
【延期】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.26「現代映画 ゲスト:赤坂太輔」
3月28日の講演はコロナウィルス感染拡大防止のため、延期いたします。
延期の日程は追ってお知らせいたします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
フレームの中に「問題」を押し込め、観る人を煽動するテレビやネット上の映像とは異なり、フレーム外の世界をも観客に想像させる現代映画。
CG等の技術や巧妙な編集等により「真実」を操るメディアに対して、現代映画を観ることで適切な距離を取り、映像と音の新しい見方=聴き方ができるようになるかもしれません。
今回の映画☆おにいさんのシネマ・カフェでは、2019年11月に「現代映画の教科書」ともいうべき『フレームの外へ 現代映画のメディア批判』を刊行した赤坂太輔さんをゲストにお招きします。なぜ現代映画なのか、いま現代映画を観ることの意義等を、抜粋映像を観ながらお話ししていただきます。
『フレームの外へ』を読み始めた方、これから読む方、現代映画に興味があるがこれまできっかけがなかった方向けのトークイベントです。
日時:2020年3月28日(土)18:30〜20:30
場所:水曜文庫 〒420-0839 静岡市葵区鷹匠二丁目1の7 つるやビル1F
講師:赤坂太輔
プロフィール:映画批評家・映像論。立教大学講師。
1994年にポルトガル取材後、1997年、1999年にアテネ・フランセ文化センターで開いた「ポルトガル映画講座」を皮切りに、2003年よりシネクラブ&ウェブサイトであるnew century new cinemaを立ち上げ、世界の日本未公開作品や作家の紹介上映活動をおこなう(詳細は http://www.ncncine.com/infoncncine1.html )。またSight&Sound、Derives、La Furia Umana、e-lumiere、desistfilmなど世界各国のオンライン雑誌に寄稿。近年、国内誌では『中央評論』『シネ砦』『ユリイカ』『STUDIO VOICE』などに寄稿。2015年より雑誌『NOBODY』に「メディア批判としての現代映画」連載中。
著書に『ハルトムート・ビトムスキー監督特集』(アテネ・フランセ文化センター、2002)、『マノエル・デ・オリヴェイラと現代ポルトガル映画』(企画および分担執筆、EMブックス、2003)、共著に『映画を撮った35の言葉たち』(フィルムアート社、2017)、『ストローブ=ユイレ──シネマの絶対に向けて』(森話社、2018)がある。
司会: 映画☆おにいさん
参加費: 1000円
定員: 20名(先着順)
予約: 水曜文庫(054-689-4455、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)