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ゴー!ゴー!アタラント号!! 映画☆おにいさんのBlog

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.25「食べもの」

サンドウィッチ、カステラ、栗ごはん、ハンバーグ・・・
映画を観ていると思わずスクリーンに向かって手を伸ばしたくなるような、
印象的な「食べもの」がたくさん出てきます。
そうした「食べもの」が画面にあらわれるとき、姿を消すとき、
その痕跡は物語にどのような影響を及ぼすのでしょうか。

映画☆おにいさんが選んだ「食べもの」のシーンを観ながら、
映画について、映画における「食べること」について、いっしょに考えましょう。

日時:3月30日(土)18:00〜
場所:水曜文庫
   〒420-0839
   静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F

参加費:一般 800円  学生  500円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-689-4455、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

映画☆おにいさんのシネ・レクチャーvol.1「窓」

 映画☆おにいさんのシネ・レクチャーvol.1にお越しいただきまして、ありがとうございます。これまでに「映画☆おにいさんのシネマ・カフェ」を静岡県内で20回以上開催してきました。「映画☆おにいさんのシネマ・カフェ」は本日のようにテーマを決めて、その映画の抜粋をご覧いただき感想を話し合うワークショップです。今回はレクチャーとなっていますが、皆様のお話を伺いつつ進めたいと思います。

 本日のテーマは「窓」です。「窓」が物語の中で重要な役割を演じている映画を何本かご覧いただき、「窓」を通して映画について皆様といっしょに考えられたらと思います。
 「窓」とは、チラシに書いてありましたように、建物に取り付けられた外部との開口部であり、採光・換気・景観を主な目的として取り付けられています。窓があることで風景を見ることができますし、逆に建物の中の様子を知ることができたり、部屋の環境を変えることができる、屋外と屋内の中間に位置するものです。また、映画のスクリーンはよく窓に例えられます。それはスクリーンの向こう側に未知の世界があり、その場に居ながら行ったことがない場所、風景、人、出来事を知ることができると思われているためでしょうか。

 

 まずは、主人公が窓の先へ視線を延ばすことで、事件を目撃したと主張する映画をご覧いただきます。アルフレッド・ヒッチコック監督『裏窓』です。
 ヒッチコック監督は1899年、ロンドン生まれの映画監督です。1925年に『快楽の園』でデビューし、1939年からアメリカで活躍しました。今日ではサスペンス映画の巨匠と呼ばれております。『サイコ』での排水口と重ね合わされる目、『バルカン超特急』での窓に書かれた「FROY」という文字、『汚名』での棚に並んだワインボトル、『断崖』での白く光るミルク等々、物語は忘れてしまったとしても、記憶に残る強い画面を撮る監督です。
 今回ご覧いただく『裏窓』は、「窓」について考えるとき多くの方が思いつくであろう「That's 窓 」といってよい映画です。
 『裏窓』のあらすじをご紹介します。ジェームズ・ステュワート演じるカメラマンL・B・ジェフリーズは、撮影時に脚を骨折しギプスをしているため自宅から出ることができず、もっぱら窓の外を眺めて過ごしています。裏窓から見えるアパートには売れない若手の作曲家やスタイルのいいバレエダンサー「ミス・グラマー」、まだ見ぬ恋人と過ごす夜を夢想する「ミス・ロンリー」、引っ越してきたばかりの新婚夫婦、暑さをしのぐためベランダに布団を敷いて寝る夫婦、そして、夫婦仲が冷めきったソーウォルド夫婦などがいます。
 ある夜、ジェフリーズは女性の悲鳴を聞いて目を覚まします。すると、雨の中にもかかわらずソーウォルドが出かけるのを目撃します。それも二度。翌日より夫人を見かけません。一方、ソーウォルドはというと、部屋の荷物を片付け、夜中に持ち出したスーツケースを拭き、念入りにお風呂場を洗う等いかにも殺事犯のような怪しい行動ばかりしています。そのためジェフリーズは、彼が夫人を殺しのだと推察します。初めは懐疑的だった通いの看護師であるステラやジェフリーズの恋人であるグレース・ケリー演じるモデルのリサも次第に同調するようになり、ともに推察するようになります。
 しかし彼らが目撃するのは状況的な事柄ばかりで、夫人が殺害された瞬間、血の跡、バラバラにされた死体といった、決定的な証拠となるようなものは見ていません。ジェフリーズは友人の刑事ドイルにソーウォルドが高飛びする前に逮捕するよう掛け合いますが、憶測の域を出ないからと身柄拘束には至りません。
 ソーウォルドが逃げる前になんとか動かぬ証拠を見つけようと、ジェフリーズ、リサ、ステラの3人が策を練る場面からご覧いただきます。

 

 

 花壇の位置が下がっていることに気づいた場面から、ロールカーテンが閉まり、文字通り幕が降りた場面までご覧いただきました。この映画において「窓」は「覗く」フレーム(ジェフリーズの部屋の窓)としてあり、かつ「覗かれる」フレーム(向いにあるアパートの各部屋の窓)としてありました。
 窓は向かいの部屋を覗くことを可能にしていますが、ジェフリーズの視界を限定してもいます。ジェフリーズは動けないので、窓枠の外は見ることができません。彼が知る外の様子はつねに彼の部屋の窓越しでしかなく、カメラがジェフリーズの隣人の部屋に行くことも、その切り返しとしてジェフリーズを窓の外から撮ることもありません。そのため、彼が知りうることは、彼の部屋の窓から、いつ、どこの窓へ瞳を向けていたかによります。しかしその行為は、新婚夫婦の窓のように、カーテンが閉められることによって、容易く遮断されてしまいます。
 また、見る対象との関係性はどうしょうか。ジェフリーズは窓から向かいのアパートを覗き、アパートの住人は彼に覗かれています。これは、観客とスクリーンとの関係に似ています。
 これらの見る見られる関係の共通点は、どちらも覗く側が身体的に拘束されて動けないこと、つまり視点が限定されていることです。また、そのような状況に置かれたジェフリーズと我々は、「見たい」という根本的な好奇心に突き動かされ、視線を注いでいます。
 こうした関係性は撮影方法にも反映されています。基本的に切り返しで撮られているこの映画の画面は、ジェフリーズとその視線の先(見ているもの)とを行き来し、起こった出来事とそれに対する彼の反応を追っていきます。ジェフリーズとアパートとの距離が分かるような2点を横から撮ったカットはなく、画面の外部からの刺激に対する、ジェフリーズ(というよりはむしろステュワート)の反応を映しています。
 これはアパートの住人も同様です。例えば、ミス・ロンリーは部屋の外部から聴こえてきた音楽によって自殺を思いとどまりました。現実と夢想とのあいだで引き裂かれた彼女は自殺を試みましたが、音楽家の意図を超えたところで、外から聴こえてきた音楽によって生へと立ち戻っていきました。
 では、ジェフリーズが見ているものはなんだったでしょうか。彼が目にするのはソーウォルドの状況的証拠ばかりです。2枚の写真をビューワーで見比べたことで気づいた花壇の位置の変化も決定期証拠には繋がりません。自説に固執するあまり、もはや夫人の安否が問題になっておらず、「見た」ことの立証、「真実」を「見る」ことへの欲望に耐えきれなくなってしまっています。彼にとって最早ソーウォルドを殺人犯として立証することが彼の関心のすべてとなってしまっています。
 そのため、ソーウォルドに押し掛けられ何が望みだと問われても彼は答えられません。金銭でも夫人の安否でもなく、ただ「見たかった」「知りたかった」だけだからです。まるで映画を観にいく人々のように。
 そうした欲求が最高潮となったのは、ソーウォルドの部屋にリサが潜入した場面です。それまで「見ること」と「所有すること」が限りなく同義でありましたが、そこでのジェフリーズはソーウォルドと鉢合わせした彼女を助けることもできず、かといって見ることを放棄することもできませんでした。そのとき、ジェフリーズとアパートの間の絶対的距離が現前化していました。
 ジェフリーズがなにも対処できなかったこの危機は警察が駆けつけたことで脱しました。が、このソーウォルドのカメラ目線(ジェフリーズの視線との一致)が発端で起きた最大の危機は、それまで見る存在であったジェフリーズが窓から落とされ、彼をアパート中から見られる存在へ転換させました。『裏窓』はこのように視線の方向性が出来事を導いていった映画でした。
 このことは、犯人に追いつめられたジェフリーズが、電球を投げるといった物理的な反撃をせず、相手へ向かってフラッシュを焚いたことと無関係ではありません。彼が知らず知らずの内に視覚によって構成されたフィクションを生きていたため、思わず取った防衛手段は相手の視覚機能を奪うことだったのです。

 しかしながら、視線によって統べられていく出来事がフィクションの引き金となっている『裏窓』において、最も重要なカットは別にあります。それは、ステラの驚いている顔が映されたカットです。ソーウォルドが捕まり刑事であるドイルから「箱の中身を見るかい?」と問われたステラが「バラバラはけっこうよ("I don't want any part.")」と答え、同一のカットでステラの驚く顔が映されます。暗転の後、オープニングシーンのようにアパートの各部屋から彼の部屋へと続くエピローグのようなこのカットは、彼女の驚きを置いてきぼりにして映画の終わりへと向かわせます。刑事の皮肉混じりの問いに答えるだけで終わってもよさそうですが、ヒッチコック監督はステラの驚く顔をかなり長く残しています。
 では、ステラはなぜ驚いたのでしょうか。それは、彼女が自分たちの考えていた仮説(フィクション)の残酷さに気づいたからにほかなりません。仮説が「現実」になったとき初めて、「生々しさ」をもって彼女に襲いかかってきたからです。
 ここで重要なことは、バラバラ殺人という出来事の悲惨さではありません。一生懸命考えに考え、間違っているはずがないと自信があった。花壇を掘り返すという危険さえ冒しました。なにも見つからなかったけれど、犯人が逮捕され、推察が証明された。その瞬間、バラバラ殺人が現実のものとなった。刑事から意地悪な質問をされ「けっこうよ」と心理のままに答えた。そのあとに感情が追いついた。「フィクション」がその瞬間「現実」へと姿を変えた。途方もない「リアル」です。その「気持ち」を一回性の物語として不自然でないかたちで表現した、認識の変化が顕在している素晴らしいカットでした。このカットがあることで「映画」という言葉にできない、無秩序な、瞬間に絶えず多くのことが起こっており、不確かで、つねに出来事の本当の意味を知るのは遅れてでしかありえないことを『裏窓』は体現しています。

 『裏窓』は視線の交錯を根底としながら、フィクションが姿を変える凶暴さに触れた映画でした。しかしながら、映画において視覚が他の器官より必ずしも優位を保っているわけではありません。視覚に囚われてしまうと大事なものを取り逃してしまうことが多くあります。次にご覧いただく映画は、チャールズ・チャップリン監督『街の灯』です。
 監督のチャールズ・チャップリンは1889年イギリス生まれ、所属していた劇団のアメリカ巡業で、映画プロデューサーのマック・セネットにスカウトされ映画会社キーストン・スタジオに入社します。こうして映画界に入ったチャップリン監督は順調に人気を博していき、1931年に『街の灯』を監督します。この映画でチャップリン監督は、監督の他、製作、脚本、編集、作曲、主演を務めています。
 あらすじを簡単にご紹介します。チャップリン演じる浮浪者は、盲目の美しい花売娘と出会いますが、金持ちの紳士だと勘違いされてしまいます。その晩、自殺をしようとしていた酔っぱらいを改心させます。これをきっかけに仲良くなった酔っぱらいは実はかなりの富豪だったなのですが、酔っぱらっているときとシラフのときとでは二樹人格者のように性格が異なり、シラフのときは酔っているときの記憶がありません。酔っぱらっているときはチャップリンを命の恩人とし歓待してくれますが、シラフのときはチャップリンのことを一切覚えていません。散々夜遊びをした翌朝に手荒く追い出したり、昨晩お前にやるよとくれたはずの車を翌朝奪い返されたりします。
 このように限定的なものながら、金持ちの威を借りることができたチャップリンは、花売娘のところへ、紳士として施しを与えていました。しかしながら、富豪はヨーロッパに行ってしまいます。後ろ盾を失いながらもなんとか紳士のふりを続けていたチャップリンでしたが、仕事の昼休みに彼女の家を尋ねた際、彼女が明日中に家賃を支払わなければ退去させられてしまうことを知ります。なんとかすると引き受けたチャプリンでしたが、午後の就業に遅刻してしまい給料の前借りをするどころかクビになってしまいます。
 明日までに大金を得ようと賭けボクシングに挑戦するも負けてしまった場面から、ご覧いただきましょう。

 


 帰国した富豪の男と再開した場面から、映画の終わりまでご覧いただきました。この映画の「窓」は、ラストのショーウィンドウといいますか、花屋の壁一面のガラス窓です。ご覧頂いたとおり、窓は屋内と屋外を仕切っており、視界は開けていますが二人を区切っています。
 花売娘は目が見えるようになっており、チャップリンから手渡されたお金を元手に開業したであろう花屋を営んでいます。親切な行いをしてくれた紳士にはいまも感謝しており、当然ながら相当な社会的ステータスがあると思っています。お店に紳士が訪ねてくるたび、彼ではないかと思ってしまいます。彼女の祖母も居ますが、祖母はチャップリンが訪れたときいつも不在だったため、チャップリンの顏を知りません。
 刑務所から出てきた、みすぼらしい恰好のチャップリンは、彼女がいつも花を売っていた場所等、街を彷徨い歩きます。馴染みの新聞売りの少年たちにからかわれたあと、花びらを拾い振り向くと彼女がいます。こちらを見ています。こちらを見て、笑っています。それは彼女がこれまですることがなかった身振りです。彼女は浮浪者に気に入られたと笑い、花とお金を恵もうと窓越しに合図します。キャメラは店内に入り、娘越しにチャップリンを映します。映画の冒頭、二人が出会った場面では彼女が落とした花をチャップリンが拾うことで彼女が盲目だと気づきましたが、この場面では逆に、チャップリンが花びらを落とし、それに気づかない彼の姿を見て娘は笑っています。正体を気づかれないように去ろうとするチャップリンをつかまえて、娘がチャップリンの手を取ります。その感触によって彼女はすべてを悟り、理解します。Can you see now? I can see now. いったい"now"とはいつのことなのでしょうか。驚くべき恵み。とにかく、ここで感動的なのは、彼女がチャップリンの優しさに気づいたとか「見た目より中身よね!」といったことではありません。まだ目が見えていなかったときに彼女が感じていて知っていた、見えていたものが、目が見えたことでかえって感じられなくなり忘れていた、大切だったはずのことを思い出した点です。それは視覚ではなく触覚を通して喚起されていました。
 チャップリンの手を取り思い出している娘の姿から、彼女を見つめ笑みがこぼれるチャップリンの姿から、かつて「ある」ことを感じていた「映像」を呼び寄せ、また、彼女が見ていた「映像」が、彼らの姿を映した「映像」が、そこにはない生々しい「映像」を呼び寄せています。目の前にあった取るに足らないと思っていたささいな出来事が、重大で、かけがえのないことだと思わせる認識の変化をもたらしています。
 屋内外で区切るだけでなく、二人の視線を交じらわせながら偏見というフィルターとして機能し、物理的かつ精神的な距離を生じさせていた「窓」でした。

 

 続きまして、窓が開閉の運動とともに視線を遮断し、二人の関係を決定的に変えてしまう映画をご覧いただきます。クリント・イーストウッド監督の『マディソン群の橋』です。
 同名の小説が原作で1995年に公開されたこの映画は、はじめはスティーブン・スピルバーグ監督が製作を務めスタートしましたが、『シンドラーのリスト』でスピルバーグ監督が忙しくなってしまい降板します。それに伴い、監督、脚本も二転三転し、最終的にイーストウッド監督が製作・監督・主演を務めることになりました。相手役にはメリル・ストリープが選ばれました。彼女は最近ではスピルバーグ監督の『ペンタゴン・ペーパーズ』にも出演しています。メリル・ストリープは演技に訛りを入れる「訛りの女王」と呼ばれ、今回の役ではイタリア訛りで演じたようですが、イーストウッド監督はもっとシンプルに演じてほしかったそうです。
 この映画は原作にない枠物語の構造をとっています。現在の時制では、母であるフランチェスカが亡くなり、遺品を整理する娘と息子が母の日記を読んでいます。過去の時制では、母と一人のカメラマンの出会いが描かれています。例えば、こうした物語構造の映画は『タイタニック』や『ボヘミアン・ラプソディ』があります。日本映画でいえば、溝口健二監督の映画の多くはこの枠物語のかたちをとっています。
 あらすじをご紹介します。世界中を旅するカメラマンと閉鎖的な田舎で暮らす人妻が恋に落ちた4日間の物語です。大きな不満はないものの充実した生活をしているとは言い難いメリル・ストリープ演じるフランチェスカが、夫、娘、息子が子牛のコンテストに出かける間、家で留守番をしています。そこへ屋根付きの橋を撮影してアメリカ中を回っているイーストウッド演じるカメラマンのロバートが道を尋ねてきます。田舎の混みいった道をひとつひとつ説明するより案内した方が楽だと、フランチェスカはロバートの車に同乗し案内します。話をするうちに気が合った二人はその日の夕食も共にし、恋に落ちます。二人で逃げ出そうとロバートはフランチェスカを誘いますが、彼女はなかなか決心がつきません。過去にこの街で浮気をした女性が住民から冷たい扱いを受けているからです。自分がこの街を出ていった後、残された家族がどのような扱いを受けるのか考えただけでもいたたまれず、フランチェスカは踏ん切りがつきません。
 家族が帰ってくる前夜、二人で過ごす最後の夜から見てみましょう。

 最後の夜から、二人の別れの場面までご覧いただきました。車の窓、運転席や助手席の窓だけでなく、フロントガラス、バックミラー等様々な窓がありました。
 なかでも驚くべき窓は、信号が変わっても動かないロバートの車をフランチェスカの夫がクラクションを鳴らし、ようやく発進、左折したロバートを夫越しに眺めていたフランチェスカの視線が遮断される運転席側の窓です。
 ご覧頂いたとおり、このタイミングでしかありえないタイミングで、窓は二人の逢瀬を知らないはずの夫によって閉められました。スタンドから出るときにすでに土砂降りの雨が降っていたにもかかわらず、信号が青に変わっているのになかなか発進しない前の車へクラクションを鳴らして催促するほど時間があったにもかかわらず、彼女の夫は窓を閉めずにいました。そのクラクションの音がロバートのもとへ走ろうとする彼女の動きを止め、閉めらていく車の窓が涙が止まらぬ彼女の視線を断ち切り、フランチェスカとロバートの別れを「かたち」として表現していました。
 自覚があるなしに関わらず、こうした身振りを完遂した夫・リチャードは知らず知らずのうちに映画のフィクションに加担してしまっています。互いの存在に気づき微笑みを交わした時点ですでにフランチェスカとロバートの別れは決着がついていましたが、二人の速すぎる「気持ち」に追いつくように映画は速度を上げ、窓が視線を断絶して二人の別れとなりました。

 最後に、映画という矩形の映像ジャンルに対する強い批評性を感じさせるジャン=クロード・ルソー監督の映画『二度の世界周遊』『偽りの出発』をご覧いただき終わりたいと思います。

以上で、映画☆おにいさんのシネ・レクチャー vol.1「窓」を終わりたいと思います。これからも「窓」の多様なニュアンスを楽しんで映画をご覧いただければと思います。
本日はどうもありがとうございました。

 

(シネ・レクチャーの原稿に加筆・修正を行った。)

 

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.24「パオロ・ベンヴェヌーティ」

 

f:id:gogolatalante:20171211175930j:plainパオロ・ベンヴェヌーティ監督作品について、

映画☆おにいさんといっしょに考え、話し合いましょう。

 ※参考上映あり

日時:1月27日(土)18:00〜

場所:水曜文庫

   〒420-0839

    静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F

場所代:一般 800円  学生  500円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-689-4455、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

「工場というダンス」について

 山形国際ドキュメンタリー映画祭に行ってきました。映画祭公式ガイドブック「スプートニク」に、青山真治監督が『天竜区奥領家大沢 別所製茶工場』について「工場というダンス」という文章を寄せて下さっています。自分の名前が載っていたのが気恥ずかしく、山形では途中で読むのをやめてしまいましたが、帰りの電車で拝読しました。「工場というダンス」という舞台もしくはその場がもたらすリズムをそのまま映画に取り込むことを、「映画とはなにか?」と同義の問いとして、「間」という言葉とともに「切り返し」を重要な”概念”として提起されていました。このとても刺激的な文章と、映画祭運営スタッフの方々による細やかな対応、配慮もあって、映画祭特有の熱気を帯びた観客に、それも二回とも立ち見が出るほど多くの方々に『天竜区奥領家 別所製茶工場』をご覧いただき大変嬉しく思います。


 「切り返し」というと、『魔法少女を忘れない』の素晴らしい切り返しを思い出す方もいらっしゃると思うが、一般的な映画技法にとどまらない堀監督が試みた「切り返し」は、『天竜区奥領家大沢 別所製茶工場』の後、『天竜区水窪町 祇園の日、大沢釜下ノ滝』、『天竜区奥領家大沢 夏』、『天竜区奥領家大沢 冬』へと受け継がれ、絶対的な新しさを宿している『天竜区水窪町 山道商店前』へといたる。そしてこの一連の試みは、堀監督がユリイカ「蓮實重彥特集」に寄せた文章で、「魔法を使っているのは、「イニスフリー」という娘なのかもしれない」と述べていたこととそう遠くない話だと思う。
 人類史上初めて作られた映画『工場の出口』から「工場の一部」へ。「編集」という概念を手に入れたわたしたちに、『別所製茶工場』は、「説明責任」や「問題意識」といった身振りとは遠く離れた「工場というダンス」を通じて、没入とも異なるかたちで、本来ならば眼球を切り裂かれるほどの背徳行為であった「見る」という快楽を与える。例えば、今となっては出荷するためにかかる費用の方が売値より高くなってしまった植林された樹々。山あいから立ちこめる霧をたっぷり吸い込んだ集落の大半の面積を占める茶畑。四時間半も彼の人を待つ汽車のように蒸気を吹き上げる製茶工場。橋を駆ける騎兵隊のように地の揺れとともに画面手前へ迫り来る茶葉。「ヨウ兄!」と家族からの声が聞こえカットが変わるとモノレールに乗ったヨウ兄が斜面を登っていく。『夏の娘たち〜ひめごと〜』に繋がっていくと思われる、それまで散り散りに摘んでいた女性たちが同一画面に現れ休憩するために準備をする姿。モノレールの陰で休むジョン。投げられる出がらしのお茶っ葉、木札。葉の状態を確かめる大沢の方々の指の美しさ。その地に受け継がれてきた集団的記憶が具現化されている。
 集落中を、そして生活圏を実際に歩いてみて距離感を体感することで、身体感覚として納得がいった「実景カット」を積み重ねていく。結果、手前の山から向いの山へと大きな「切り返し」となり、そうした切り返されているのかもよくわからないほどのロングショットの「切り返し」は、カットとカットをどうつなぐか、本来つながるはずのないものがどうすればつながるのか、どうすればそうであってもいいのかという当たり前のように思っていた問いを生じさせる。その答えは時に音であったり光であったり風であったりするのかもしれないが、そうしたコントロールが利かず瞬間瞬間に思ってもみないように姿を変える対象がもたらす驚きにカットが替わるごとに遭遇する。そうした映画が作られる過程も含めた過激な「おおらかさ」が「十四の漢字の連なり」をおおっている。
 それは工場の中にカメラが移動しても変わらない。青山監督が指摘されているように、製茶作業の工程の速度に身を寄せ、工場全体が脈動されるリズムで画面を繋いでいく。そうした速度によって、いつの間にか工場に轟く機械音や老朽化により生じるカメラのモーター音さえ豊かな調和をうむ。「心理」に寄り添うことはけっしてなく、その「音色」は自然化されることを拒む。
 「中野くんは明日も来てくれるか?」
 あくまで身体的な、現在の瞳の記憶が、知るはずもない「不在」を呼び寄せ物語を紡ぐ。生々しく、禍々しい映像。『アメリカン・スナイパー』のブラッドリー・クーパーのごとく「触れる」ように撮ることによって、撮ることが搾取ではないかたちとなり「等価性」を持った映像として『天竜区』シリーズはある。今回の上映で興味を持たれた方は是非その他の『天竜区』シリーズもご覧になってほしい。堀監督の、というより映画の、と言うべきかもしれないが、「魔法」がそ知らぬ貌でスクリーンにありつづけている。堀監督がよく言っていた「映像言語」とはどのような意味だったのだろう。堀監督は別所さんの言葉に、しぐさに、そして後ろ姿にどのような物語を託したのだろう。私はそのことをこれからも考えつづけていくだろう。『天竜区』シリーズに終わりはない。

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.23「抱く」

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男性が女性を抱く、あるいはその逆
映画のラストに、またはオープニングに
登場人物が出会ったときに、別れるときに
愛が結実したとき、別れの予兆に
アクションが動から静へ、静から動へ
「抱く」ことはシチュエーションによって様々に変化しますが
どの場合においても「気持ち」はさらに速度を上げ
光の速さで蠢いていきます。
そうした「気持ち」が抱かれるとき
映画はそれを表現するために
どのように姿かたちを変えていくのでしょうか?
映画☆おにいさんが選んだ「抱く」シーンを観ながら
いっしょに考えましょう。

日時:9月23日(土)18:00〜

場所:水曜文庫

   〒420-0839

    静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F

参加費:一般 800円  学生  500円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-689-4455、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

ブロンド少女は過激に美しく

 女性が恋人からの手紙を読み上げている。しかし、声が聴こえるのみで姿は見えない。窓の外の、通りの向こうの建物では、手紙の差出人であるマカリオの代わりに雇われた会計士が仕事をしている。しかし、カーテンが輪郭を曖昧なものとしているため、その朧げな姿は綴られた言葉からしか想起できないマカリオを喚起させる。手紙が読み終わり鐘が鳴り響く。先ほど手紙を読み上げていた女性ルイザが姿を現し、カーテンをめくる。姿が鮮明となった男はやはりマカリオではなく、別の男だ。手に持つ手紙に視線を落としたルイザは俯き、やがて画面から姿を消す。
 結婚の許可を得ることができず叔父の家から飛び出したマカリオは、仕事のため北アフリカ大陸部から西へ約375kmほど離れ、かつて奴隷貿易で栄えた島国カーボベルデへ行くことになった。その島に着きホテルでしたためたという彼氏からの手紙を女性が自室で読み上げる、はなればなれとなった恋人たちの距離を描いた印象的なワンシーン・ワンカットである。
 彼女の写真を見て心を慰めているというマカリオからの手紙を読み、かつての彼の職場を見つめるルイザの姿に心が締め付けられる。しかし同時に、この彼女の行動をマカリオは知るはずもないことに思いあたる。

 列車でたまたま隣席になった婦人にマカリオが事の顛末を語ると言った形式で始まった回想が、いつのまにか彼からも離れ始めている。映画はそのことに自重するかのように、列車の走行音とともに、マカリオと婦人の対話へと回帰してはいる。しかしながら、窓枠を含みかつ椅子に座った目線の高さに据えられたカメラが人称を感じさせるこのカットは、彼女がフレームインすることで彼女のPOVショットではなくなる。そして彼女のモノローグのように始まった彼女の朗読さえ、彼女が画面外で実際に読み上げていた可能性を浮上させる。わずかな時間で観客の視線を二転三転させるこのワンカットは、もう二度と元へ戻れない視線の変質を私たちに迫る。その変質とは、あいかわらず地続きでありながらもある瞬間にぐにゃりと姿を変える世界、すなわちフィクションそのものだ。
 思い出すならば、時間の大半を占める回想の始まりよりもまずこの映画は、列車で隣りあったマカリオと婦人の会話から始まっていた。誰かに話さずにはいられないというマカリオと話し相手がいて良かったと応じる婦人は、互いに相手へ視線を向けることがあるものの視線が交わることはない。マカリオが語る「できごと」に婦人は耳を傾けている。レオノール・シルヴェイラがみせる、リカルド・トレパの言葉を待つリアクションとしてのその貌は、ときに視線を漂わせる盲人のようにも見え、目の前の男性よりも彼が語る「できごと」をじっと見据えている。
 そうして列車の走行音とともに始まる回想は、たんなる語り手によるそれというよりも、溝口健二監督の『折鶴お千』の二重化されたフラッシュバックのような、マカリオの言葉を受けた婦人の想像である趣きも併せ持った複数の人称を持つ映像であるといえる。そうであるならば、冒頭で示したマカリオが不在の場面で、事務所に叔父が新しい会計士を連れてきた際、ルイザの部屋にカメラが置かれていても不思議ではない。
 このように『ブロンド少女は過激に美しく』は物語の構造それ自体が必ずしも「現実」に則しておらず、明確な視線の語り手を持たない映像群である。そして同様に「物語」それ自体もそうした非決定性から生じる差異をめぐる話がモチーフとなっている。
 一見、ルイザとの色恋話が主であるように思われるが、結果は成就しないことが初めに述べられており、しかも恋愛成就の過程は描かれておらず、かつそこには恋の駆け引きといったものは見受けられない。二人の恋の障害は叔父の不可解な拒絶とそこから生じる金銭的な問題があるものの、そのことが心理的な葛藤をマカリオに生じさせているわけではない。マカリオとルイザはあっというまに好きあうのであり、その速さのまえではルイザの母のごとく口をあんぐりとあけることしかできない。

 マカリオがルイザと知り合うきっかけを得たのは、友人の紹介だった。ルイザの母がだれかに挨拶しているのを見たマカリオは、ベランダから身を乗り出す。視線の先にいたのは友人だった。それを見たマカリオは言葉を発しはしないものの彼女と知り合う糸口を見つけたことに喜び、思わず踊ってしまう。さっそくマカリオは友人が通う文学クラブを訪ねる。ロビーの奥まで探しにいき戻って来、先ほどマカリオが立っていたすぐそばの椅子で新聞を読んでいた友人を見つけ声をかける。マカリオは単刀直入にルイザについて尋ねる。彼は知っていると答える。しかし詳しく聞いてみると、それほど知っているわけではないようだ。とはいえ、彼女らがよく出席するパーティーの情報を聞き出し、連れて行ってもらう約束を取り付ける。
 パーティー当日、友人とともに階段を上り、ロビーで上着を預け歓談する。友人の質問に、マカリオは自分が貧乏であることは告白するよとはぐらかす。男性の目線というにはあまりにも低すぎる移動撮影によって部屋を横断していくと、先ほどから聴こえていたハープの演奏が行われている。この映画で唯一の、同じ対象に視線を向けているマカリオとルイザの短いカットが挿入された後、マカリオはルイザに声をかける。そこでの会話は彼女の持っている団扇や叔父の店で購入したカシミヤについてただ質問を重ねるだけで、彼女自身について尋ねられることはない。ハープの演奏が終わり、ルイス・ミゲル・シントラが紹介され、フェルナンド・ペソアの変名であるアルベルト・カエイロの『羊飼い』を朗読する。次第に手の震えを大きくさせながら読み上げられるその詩は、端からはコミュニケーションがとれているように見えながら、全く異なることを考えている二人を描いている。開いたドア越しにルイス・ミゲル・シントラが朗読する姿を奥に確認できる部屋で、幾人かがテーブルを囲んで賭け事をしている。カメラが移動してもハーブの演奏と同じようにシントラの声は変わらぬ大きさで響いている。マカリオとルイザがテーブルにつく。投げられたポーカーチップが床に落ちる。落ちた音が確かに聴こえながらも、誰もチップを見つけることができない。

 目の前で起こっていることを十全に理解していると思っていても、人はた易く取り違えてしまう。カーボベルデへ発つ前、暗闇の中でもマカリオにすぐ気付き、そこで待つようにと指示を送っていたルイザが、ヒゲを剃って帰ってきただけでマカリオに気付くことができない。
 こうした「やりとり」が明らかにするのは、些細なことでいとも簡単に見分けがつかなくなってしまう視線の不確かさである。マカリオがルイザを見初めたとき、まず夫人に、次に肖像画、そしてルイザへと視線が推移していったように、この映画は登場人物だけでなく、わたしたち観客の視線もまた不確かなものとしてしまっていた。
 保証人となったカンカン帽の男が少尉の妻と逃げたため、せっかくカーボベルデへの出稼ぎで得た財を失ってしまうという、画面で描かれず夫人との対話のなかで語られるのみであるが物語上の大きなエピソードも、人物を見誤った視線の不確かさに起因する。それらは最終的にルイザの盗癖へと辿り着き、マカリオを憤慨させ別れへといたる。
 このような視線の不確かさがフィクション空間を形成していく。四角い窓枠のなか、白いカーテンが揺れる前で羽根のついた団扇で口元を隠し、挑戦的な視線を投げ掛ける美しい女性。あまりにも過剰な映像、映画そのもの。
 しかし、この映画のすべてのフィクション空間がこうした豊穰さを持つのではない。これまでに触れたように公証人家であったり事務所であったり、それは階段でつながれた地上から浮遊する空間であった。一階部分や路上等地上における、待ちを歩く人々の喧騒や生々しさに比べれば、階段でつながれた空間は、ジャン・ルノワール監督を思わせるような、抽象的で平面的なものである。そこでは階上にいる者の特権であるとでも言わんばかりに下界の人間へ指示を送る。下界からは声をかけることも許されず、気づかれない者は立ち去るしかない。
 下界では、失うことへの恐怖がつきまとう。夜道を歩けばズームとともに異次元へ連れられてしまう。そこでは帽子を失くした男性が亡霊のように彷徨っており、マカリオが立ち去ったあとも嘆いている。
 下界から逃れるには階段を上っていくしかないのだがそれはどこまでも変わらない音で軋む階段でなければならず、古美術でしつらえられた数段の階段では階上へと飛翔するには段数が足りない。そうした場所での交渉は仮初めのものでしかなく、財を成しえたと思っても同じ場所での取り決めによって帽子のごとくあっという間に失くしてしまう。
 財産だけでなく恋人も失ってしまうことを恐れ、借金を返すために荒廃の地へふたたび足を踏み入れることを決した若者は勘当された叔父を訪ねる。呼び鈴を鳴らす若者に対し、ベランダから顔をのぞかせた叔父は階上から鍵を放りなげ上界へと誘う。階段を上がり部屋へと入ってくる二人をパンで捉えたカットの時点で、すでに若者の救済はなされている。叔父は一見冷たく接し若者を画面内外へ移動させながらも、階上の空間に留まるよう施す。
 ようやく階上の空間に安住することができた恋人たちだったが、うっかり雑踏に身を浸してしまう。狂気で埋めつくされた下界は、慎重な足どりで身を寄せ合っていなければ、特徴がひとつでも変わってしまうとたちまち相手を見失ってしまう危険な地域であった。事態を甘くみた女は、お守りである団扇を持たずに入った宝石店で自身の理性を働かせることができない。店員に促され男が女の握った手を開くとき、グレートヒェンに似た女の叫びが響く。しかしながら、おなじく雑踏に身を浸していた男は女の言葉を聴きとることができなくなっており、激昂して女に視界から去るように告げる。泣いて謝るも女が言った「ぶたないで!」とは、誰が、誰に、何のために?
 雑踏を分け入って部屋に戻った女は、もはや男の目の届かない場所で、バッグを置き椅子に腰を下ろす。脚を開き肘掛けに腕を置いた女は、肩を落とし頭を垂らす。まるで糸の切れた人形のようだ。ただし、それはどこまでも限りのない落下のようで、次の瞬間にわたしたちの視界からも姿を消してしまう。そしてわたしたちが目にするのはどこまでも水平運動を続ける列車のみである。
 一見交わっているようにみえながらその実けっして交わることなく伸び続けるねじれの位置にある二直線のような二人の「気持ち」が火花を散らす瞬間、「物語」と「かたち」の接触の瞬間を、人は映画と呼ぶのである。

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.22「マノエル・ド・オリヴェイラ part2」

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マノエル・ド・オリヴェイラ監督の映画を観ながら、いっしょに考え、話し合いましょう。
(内容は前回と異なります)

日時:5月20日(土)18:00〜

場所:水曜文庫

   〒420-0839

    静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F

参加費:一般 800円  学生  500円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-689-4455、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)