GO!GO!L'ATALANTE!!

ゴー!ゴー!アタラント号!! 映画☆おにいさんのBlog

「工場というダンス」について

 山形国際ドキュメンタリー映画祭に行ってきました。映画祭公式ガイドブック「スプートニク」に、青山真治監督が『天竜区奥領家大沢 別所製茶工場』について「工場というダンス」という文章を寄せて下さっています。自分の名前が載っていたのが気恥ずかしく、山形では途中で読むのをやめてしまいましたが、帰りの電車で拝読しました。「工場というダンス」という舞台もしくはその場がもたらすリズムをそのまま映画に取り込むことを、「映画とはなにか?」と同義の問いとして、「間」という言葉とともに「切り返し」を重要な”概念”として提起されていました。このとても刺激的な文章と、映画祭運営スタッフの方々による細やかな対応、配慮もあって、映画祭特有の熱気を帯びた観客に、それも二回とも立ち見が出るほど多くの方々に『天竜区奥領家 別所製茶工場』をご覧いただき大変嬉しく思います。
 「切り返し」というと、『魔法少女を忘れない』の素晴らしい切り返しを思い出す方もいらっしゃると思うが、一般的な映画技法にとどまらない堀監督が試みた「切り返し」は、『天竜区奥領家大沢 別所製茶工場』の後、『天竜区水窪町 祇園の日、大沢釜下ノ滝』、『天竜区奥領家大沢 夏』、『天竜区奥領家大沢 冬』へと受け継がれ、絶対的な新しさを宿している『天竜区水窪町 山道商店前』へといたる。そしてこの一連の試みは、堀監督がユリイカ「蓮實重彥特集」に寄せた文章で、「魔法を使っているのは、「イニスフリー」という娘なのかもしれない」と述べていたこととそう遠くない話だと思う。
 人類史上初めて作られた映画『工場の出口』から「工場の一部」へ。「編集」という概念を手に入れたわたしたちに、『別所製茶工場』は、「説明責任」や「問題意識」といった身振りとは遠く離れた「工場というダンス」を通じて、没入とも異なるかたちで、本来ならば眼球を切り裂かれるほどの背徳行為であった「見る」という快楽を与える。例えば、今となっては出荷するためにかかる費用の方が売値より高くなってしまった植林された樹々。山あいから立ちこめる霧をたっぷり吸い込んだ集落の大半の面積を占める茶畑。四時間半も彼の人を待つ汽車のように蒸気を吹き上げる製茶工場。橋を駆ける騎兵隊のように地の揺れとともに画面手前へ迫り来る茶葉。「ヨウ兄!」と家族からの声が聞こえカットが変わるとモノレールに乗ったヨウ兄が斜面を登っていく。『夏の娘たち〜ひめごと〜』に繋がっていくと思われる、それまで散り散りに摘んでいた女性たちが同一画面に現れ休憩するために準備をする姿。モノレールの陰で休むジョン。投げられる出がらしのお茶っ葉、木札。葉の状態を確かめる大沢の方々の指の美しさ。その地に受け継がれてきた集団的記憶が具現化されている。
 集落中を、そして生活圏を実際に歩いてみて距離感を体感することで、身体感覚として納得がいった「実景カット」を積み重ねていく。結果、手前の山から向いの山へと大きな「切り返し」となり、そうした切り返されているのかもよくわからないほどのロングショットの「切り返し」は、カットとカットをどうつなぐか、本来つながるはずのないものがどうすればつながるのか、どうすればそうであってもいいのかという当たり前のように思っていた問いを生じさせる。その答えは時に音であったり光であったり風であったりするのかもしれないが、そうしたコントロールが利かず瞬間瞬間に思ってもみないように姿を変える対象がもたらす驚きにカットが替わるごとに遭遇する。そうした映画が作られる過程も含めた過激な「おおらかさ」が「十四の漢字の連なり」をおおっている。
 それは工場の中にカメラが移動しても変わらない。青山監督が指摘されているように、製茶作業の工程の速度に身を寄せ、工場全体が脈動されるリズムで画面を繋いでいく。そうした速度によって、いつの間にか工場に轟く機械音や老朽化により生じるカメラのモーター音さえ豊かな調和をうむ。「心理」に寄り添うことはけっしてなく、その「音色」は自然化されることを拒む。
 「中野くんは明日も来てくれるか?」
 あくまで身体的な、現在の瞳の記憶が、知るはずもない「不在」を呼び寄せ物語を紡ぐ。生々しく、禍々しい映像。『アメリカン・スナイパー』のブラッドリー・クーパーのごとく「触れる」ように撮ることによって、撮ることが搾取ではないかたちとなり「等価性」を持った映像として『天竜区』シリーズはある。今回の上映で興味を持たれた方は是非その他の『天竜区』シリーズもご覧になってほしい。堀監督の、というより映画の、と言うべきかもしれないが、「魔法」がそ知らぬ貌でスクリーンにありつづけている。堀監督がよく言っていた「映像言語」とはどのような意味だったのだろう。堀監督は別所さんの言葉に、しぐさに、そして後ろ姿にどのような物語を託したのだろう。私はそのことをこれからも考えつづけていくだろう。『天竜区』シリーズに終わりはない。

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.23「抱く」

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男性が女性を抱く、あるいはその逆
映画のラストに、またはオープニングに
登場人物が出会ったときに、別れるときに
愛が結実したとき、別れの予兆に
アクションが動から静へ、静から動へ
「抱く」ことはシチュエーションによって様々に変化しますが
どの場合においても「気持ち」はさらに速度を上げ
光の速さで蠢いていきます。
そうした「気持ち」が抱かれるとき
映画はそれを表現するために
どのように姿かたちを変えていくのでしょうか?
映画☆おにいさんが選んだ「抱く」シーンを観ながら
いっしょに考えましょう。

日時:9月23日(土)18:00〜

場所:水曜文庫

   〒420-0839

    静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F

参加費:一般 800円  学生  500円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-689-4455、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

ブロンド少女は過激に美しく

 女性が恋人からの手紙を読み上げている。しかし、声が聴こえるのみで姿は見えない。窓の外の、通りの向こうの建物では、手紙の差出人であるマカリオの代わりに雇われた会計士が仕事をしている。しかし、カーテンが輪郭を曖昧なものとしているため、その朧げな姿は綴られた言葉からしか想起できないマカリオを喚起させる。手紙が読み終わり鐘が鳴り響く。先ほど手紙を読み上げていた女性ルイザが姿を現し、カーテンをめくる。姿が鮮明となった男はやはりマカリオではなく、別の男だ。手に持つ手紙に視線を落としたルイザは俯き、やがて画面から姿を消す。
 結婚の許可を得ることができず叔父の家から飛び出したマカリオは、仕事のため北アフリカ大陸部から西へ約375kmほど離れ、かつて奴隷貿易で栄えた島国カーボベルデへ行くことになった。その島に着きホテルでしたためたという彼氏からの手紙を女性が自室で読み上げる、はなればなれとなった恋人たちの距離を描いた印象的なワンシーン・ワンカットである。
 彼女の写真を見て心を慰めているというマカリオからの手紙を読み、かつての彼の職場を見つめるルイザの姿に心が締め付けられる。しかし同時に、この彼女の行動をマカリオは知るはずもないことに思いあたる。

 列車でたまたま隣席になった婦人にマカリオが事の顛末を語ると言った形式で始まった回想が、いつのまにか彼からも離れ始めている。映画はそのことに自重するかのように、列車の走行音とともに、マカリオと婦人の対話へと回帰してはいる。しかしながら、窓枠を含みかつ椅子に座った目線の高さに据えられたカメラが人称を感じさせるこのカットは、彼女がフレームインすることで彼女のPOVショットではなくなる。そして彼女のモノローグのように始まった彼女の朗読さえ、彼女が画面外で実際に読み上げていた可能性を浮上させる。わずかな時間で観客の視線を二転三転させるこのワンカットは、もう二度と元へ戻れない視線の変質を私たちに迫る。その変質とは、あいかわらず地続きでありながらもある瞬間にぐにゃりと姿を変える世界、すなわちフィクションそのものだ。
 思い出すならば、時間の大半を占める回想の始まりよりもまずこの映画は、列車で隣りあったマカリオと婦人の会話から始まっていた。誰かに話さずにはいられないというマカリオと話し相手がいて良かったと応じる婦人は、互いに相手へ視線を向けることがあるものの視線が交わることはない。マカリオが語る「できごと」に婦人は耳を傾けている。レオノール・シルヴェイラがみせる、リカルド・トレパの言葉を待つリアクションとしてのその貌は、ときに視線を漂わせる盲人のようにも見え、目の前の男性よりも彼が語る「できごと」をじっと見据えている。
 そうして列車の走行音とともに始まる回想は、たんなる語り手によるそれというよりも、溝口健二監督の『折鶴お千』の二重化されたフラッシュバックのような、マカリオの言葉を受けた婦人の想像である趣きも併せ持った複数の人称を持つ映像であるといえる。そうであるならば、冒頭で示したマカリオが不在の場面で、事務所に叔父が新しい会計士を連れてきた際、ルイザの部屋にカメラが置かれていても不思議ではない。
 このように『ブロンド少女は過激に美しく』は物語の構造それ自体が必ずしも「現実」に則しておらず、明確な視線の語り手を持たない映像群である。そして同様に「物語」それ自体もそうした非決定性から生じる差異をめぐる話がモチーフとなっている。
 一見、ルイザとの色恋話が主であるように思われるが、結果は成就しないことが初めに述べられており、しかも恋愛成就の過程は描かれておらず、かつそこには恋の駆け引きといったものは見受けられない。二人の障害は叔父の不可解な拒絶とそこから生じる金銭的な問題があるものの、そのことが心理的な葛藤をマカリオに生じさせているわけではない。マカリオとルイザはあっというまに好きあうのであり、その速さのまえではルイザの母のごとく口をあんぐりとあけることしかできない。

 マカリオがルイザと知り合うきっかけを得たのは、友人の紹介だった。ルイザの母がだれかに挨拶しているのを見たマカリオは、ベランダから身を乗り出す。視線の先にいたのは友人だった。それを見たマカリオは言葉を発しはしないものの彼女と知り合う糸口を見つけたことに喜び、思わず踊ってしまう。さっそくマカリオは友人が通う文学クラブを訪ねる。ロビーの奥まで探しにいき戻って来、先ほどマカリオが立っていたすぐそばの椅子で新聞を読んでいた友人を見つけ声をかける。マカリオは単刀直入にルイザについて尋ねる。彼は知っていると答える。しかし詳しく聞いてみると、それほど知っているわけではないようだ。とはいえ、彼女らがよく出席するパーティーの情報を聞き出し、連れて行ってもらう約束を取り付ける。
 パーティー当日、友人とともに階段を上り、ロビーで上着を預け歓談する。友人の質問に、マカリオは自分が貧乏であることは告白するよとはぐらかす。男性の目線というにはあまりにも低すぎる移動撮影によって部屋を横断していくと、先ほどから聴こえていたハープの演奏が行われている。この映画で唯一の、同じ対象に視線を向けているマカリオとルイザの短いカットが挿入された後、マカリオはルイザに声をかける。そこでの会話は彼女の持っている団扇や叔父の店で購入したカシミヤについてただ質問を重ねるだけで、彼女自身について尋ねられることはない。ハープの演奏が終わり、ルイス・ミゲル・シントラが紹介され、フェルナンド・ペソアの変名であるアルベルト・カエイロの『羊飼い』を朗読する。次第に手の震えを大きくさせながら読み上げられるその詩は、端からはコミュニケーションがとれているように見えながら、全く異なることを考えている二人を描いている。開いたドア越しにルイス・ミゲル・シントラが朗読する姿を奥に確認できる部屋で、幾人かがテーブルを囲んで賭け事をしている。カメラが移動してもハーブの演奏と同じようにシントラの声は変わらぬ大きさで響いている。マカリオとルイザがテーブルにつく。投げられたポーカーチップが床に落ちる。落ちた音が確かに聴こえながらも、誰もチップを見つけることができない。

 目の前で起こっていることを十全に理解していると思っていても、人はた易く取り違えてしまう。カーボベルデへ発つ前、暗闇の中でもマカリオにすぐ気付き、そこで待つようにと指示を送っていたルイザが、ヒゲを剃って帰ってきただけでマカリオに気付くことができない。
 こうした「やりとり」が明らかにするのは、些細なことでいとも簡単に見分けがつかなくなってしまう視線の不確かさである。マカリオがルイザを見初めたとき、まず夫人に、次に肖像画、そしてルイザへと視線が推移していったように、この映画は登場人物だけでなく、わたしたち観客の視線もまた不確かなものとしてしまっていた。
 保証人となったカンカン帽の男が少尉の妻と逃げたため、せっかくカーボベルデへの出稼ぎで得た財を失ってしまうという、画面で描かれず夫人との対話のなかで語られるのみであるが物語上の大きなエピソードも、人物を見誤った視線の不確かさに起因する。それらは最終的にルイザの盗癖へと辿り着き、マカリオを憤慨させ別れへといたる。
 このような視線の不確かさがフィクション空間を形成していく。四角い窓枠のなか、白いカーテンが揺れる前で羽根のついた団扇で口元を隠し、挑戦的な視線を投げ掛ける美しい女性。あまりにも過剰な映像、映画そのもの。
 しかし、この映画のすべてのフィクション空間がこうした豊穰さを持つのではない。これまでに触れたように公証人家であったり事務所であったり、それは階段でつながれた地上から浮遊する空間であった。一階部分や路上等地上における、待ちを歩く人々の喧騒や生々しさに比べれば、階段でつながれた空間は、ジャン・ルノワール監督を思わせるような、抽象的で平面的なものである。そこでは階上にいる者の特権であるとでも言わんばかりに下界の人間へ指示を送る。下界からは声をかけることも許されず、気づかれない者は立ち去るしかない。
 下界では、失うことへの恐怖がつきまとう。夜道を歩けばズームとともに異次元へ連れられてしまう。そこでは帽子を失くした男性が亡霊のように彷徨っており、マカリオが立ち去ってあとも嘆いている。
 下界から逃れるには階段を上っていくしかないのだがそれはどこまでも変わらない音で軋む階段でなければならず、古美術でしつらえられた数段の階段では階上へと飛翔するには段数が足りない。そうした場所での交渉は仮初めのものでしかなく、財を成しえたと思っても同じ場所での取り決めによって帽子のごとくあっという間に失くしてしまう。
 財産だけでなく恋人も失ってしまうことを恐れ、借金を返すために荒廃の地へふたたび足を踏み入れることを決した若者は勘当された叔父を訪ねる。呼び鈴を鳴らす若者に対し、ベランダから顔をのぞかせた叔父は階上から鍵を放りなげ上界へと誘う。階段を上がり部屋へと入ってくる二人をパンで捉えたカットの時点で、すでに若者の救済はなされている。叔父は一見冷たく接し若者を画面内外へ移動させながらも、階上の空間に留まるよう施す。
 ようやく階上の空間に安住することができた恋人たちだったが、うっかり雑踏に身を浸してしまう。狂気で埋めつくされた下界は、慎重な足どりで身を寄せ合っていなければ、特徴がひとつでも変わってしまうとたちまち相手を見失ってしまう危険な地域であった。事態を甘くみた女は、お守りである団扇を持たずに入った宝石店で自身の理性を働かせることができない。店員に促され男が女の握った手を開くとき、グレートヒェンに似た女の叫びが響く。しかしながら、おなじく雑踏に身を浸していた男は女の言葉を聴きとることができなくなっており、激昂して女に視界から去るように告げる。泣いて謝るも女が言った「ぶたないで!」とは、誰が、誰に対して、何のために?
 雑踏を分け入って部屋に戻った女は、もはや男の目の届かない場所で、バッグを置き椅子に腰を下ろす。脚を開き肘掛けに腕を置いた女は、肩を落とし頭を垂らす。まるで糸の切れた人形のようだ。ただし、それはどこまでも限りのない落下のようで、次の瞬間にわたしたちの視界からも姿を消してしまう。そしてわたしたちが目にするのはどこまでも水平運動を続ける列車のみである。
 一見交わっているようにみえながらその実けっして交わることなく伸び続けるねじれの位置にある二直線のような二人の「気持ち」が火花を散らす瞬間、「物語」と「かたち」の接触の瞬間を、人は映画と呼ぶのである。

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.22「マノエル・ド・オリヴェイラ part2」

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マノエル・ド・オリヴェイラ監督の映画を観ながら、いっしょに考え、話し合いましょう。
(内容は前回と異なります)

日時:5月20日(土)18:00〜

場所:水曜文庫

   〒420-0839

    静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F

参加費:一般 800円  学生  500円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-689-4455、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

コロンブス 永遠の海

コロンブスのサイン、石碑、航海の様子を描いた絵が映される。ナレーションは、コロンブス役のジョゼ・ルイス・トーレス、続いてリカルド・トレパによって語られる。

 移住。1950年。
 鳥が羽ばたく音、鳥の鳴き声が聞こえてくる。低い位置に構えられた手持ちカメラが、二人の男が歩く姿を後退しながら正面から捉える。二人の視線は揃って画面右上に投げかけられている。雲一つない青い青い空にはたくさんの鳥が飛んでいる。ジョゼ一世の騎馬像に多くの鳥がとまっている。ポルトガル国旗のような赤色と緑色のコスチュームを纏った女性(クレジットでは「天使」とされている)が壁の影から現れる。女性の後ろには、現代の服装の通行人や工事をしている人がいる。カメラは騎馬のアップとなる。鳥が頻りにとまっては飛びたっている。続いて騎馬の目線であるかのような俯瞰ショットとなる。歩く二人の男がフレームアウトする。彼らマノエルとエルミニオの兄弟は、アメリカへの船に乗るためにリスボンを訪れ、そのついでに遺跡を巡っているようだ。彼らは遺跡を見上げるのに最適な場所があるかのように、逐一トランクを置き、見上げ、再びトランクを持って歩きだす。彼らは画面外に視線を投げかけては、次のカットで映し出される遺跡について話している。しかしながら、彼らの背景はほとんど突き抜けた青い空か地面のどちらかでしかなく、彼らがどこに居るのか精確にはわからない。そして、彼らが語る遺跡やリスボンは一部分が映し出されるのみであって、街の全景を捉えた映像があるものの、それは記録フィルムの映像である。
 マノエルがエルミニオに「母親は?」と尋ねると、画面はそわそわと小刻みに身体を揺らす女性がアップで映し出される。彼女は兄弟の母親であるらしく、先にアメリカへと発つ息子たちを見送りにきたようだ。汽笛が響く。別れの抱擁を終え、船へ乗るために兄弟がフレームアウトすると、母親はバッグから白いハンカチを取り出す。兄弟は船に乗り込む階段の途中で振り返り、母親へ手を振る。母親も手を振り返す。兄弟は再び階段を登っていく。母親はハンカチで涙を拭い、息子たちからゆっくり右へ視線を切る。いったん息子たちに視線を戻すも、再び視線を右へ向け歩き出す。表情から感情を読み取ることは難しいが、彼らの仕種ははっきりと見てとれる。ここでの切り返しの画面は、ともに背景が画面左手前から右奥へ斜めに伸びる壁と船であり、イマジナリーラインが無視されているつなぎまちがいである。天使が船に乗っている。次のカットでは天使の視点であるかのようなロングショットが母親がフレームアウトするまでの時間を捉える。天使は腰に差していた剣を取り出し両手で握りしめる。画面は曇天の海となり音楽が流れる。

 船の一室で、マノエルは父親の心中を察しながらも父親の半ば強引な招集への不満を大げさに手振りを交えて話す。エルミニオは相槌を打ちながら、ランプの台を指でなぞっている。兄が急に画面外に向かって話しかける。同じ船に乗り合わせた、父親と同年代であろう初老の男が答える。画面には終ぞ登場しない父親の代理のようなこの男は、兄弟たちの質問を始終はぐらかす。脇に座る若者たちは、自動人形のように首を振って二人の会話を追うが、次第に初老の男を凝視する。会話が終わりこの一室を引いて捉えた画面となり、船が揺れるたびに丸窓から差しこむ光が、初老の男の顔の輪郭を浮かび上がらせる。マノエルはそれに気付き、一瞥する。
 夜半に到着したというニューヨークは、ポルトガルの青い空とは対照的に、濃い霧に包まれている。画面はチープな特殊効果によって白く霧がかっており、自由の女神はよく見えない。兄弟はボートに乗り、波止場へ向かう。星条旗の下を通り、入国審査の建物へ入っていく。あきらかにセットである簡素な造りの建物には壁に大きな星条旗がかけられている。兄弟は審査官に二種類のパスポートを渡し、判子をもらう。マノエルは英語に慣れていないのか発音がたどたどしい。建物から出た兄弟は愚痴をこぼしながらタクシーを待つ。つかまえたタクシーに荷物を載せて乗り込む。発車したあと、幾人かの通行人が通り過ぎ、続いて建物から出てきた男が道を横切る。
 タクシーの後部座席に座っている兄弟は、赤色と緑色のライトに交互に照らされながら、画面左外を揃って見つめている。カメラは窓の外の風景を映すが、窓ガラスが白く汚れている。運転手が行き先を確認する。マノエルが答えると、次の瞬間には目的地に着いている。荷物を下ろしたタクシーがエンジンをかける。兄弟はホテルへの階段を登る。車が発車する音が響く。従業員がホテルの部屋の灯りを点ける。従業員が彼らの横に立ち、兄弟は二人とも立ち竦む様子をカメラは正面から捉える。
 再び、兄弟はタクシーの後部座席に座っている。外は相変わらず曇っている。出発してから大分経っているようだが、兄が運転手へ行き先を告げる。ブルックリン橋へさしかかり、窓の外へカメラが向けられる。このタクシーも窓ガラスが汚れている。外は曇りである。けっきょく、タクシーからカメラが出ることはなく、ブルックリン橋の全景は分からない。目的地のレストランでは、同姓のよしみでオーナーから職を紹介してもらう。大きな窓にはブラインドがされている。地名をメモしようとするが、うまく聴き取れずメモをすることができない。オーナーがもう一度はっきりと発音する。「マン、ハッ、タン」

 マサチューセッツの医師。1957年。
 鳥の鳴き声とともに、青空の下、聖ルーク病院が映し出される。マヌエルはポルトガルで学位取得後アメリカで医師として働いており、この病院で講演をしているところである。アメリカでの生活は長いのか、流暢に英語を話している。演台の横には星条旗がたてられており、黒板にはカリブ海の船路が描かれている。壇上で質問に答えるマヌエルは正面から、最前列の一組の男女が斜めから、そして聴衆全員が正面から映される。マノエルは講演を終えて退席する。聴衆は続々と席をたつが、一組の男女は座ったままマヌエルの愛人だという岩について話す。コロスのようにマノエルの私生活について語るこの二人の会話は、この映画では唯一、制度的な”切り返し”によって撮られている。会話の途中からカメラは黒板と演台を映す。会話を終えた二人が退室し扉が閉まる様子が音でのみ伝えられる。

 ポルト大聖堂。1960年
 鐘の音が鳴る。ポルトの街並が映される。カモメが鳴きながら飛んでいる。カメラは聖堂の入り口付近から祭壇を捉える。ポルト大聖堂に神父の声が響く。マノエル・ルシアーノとシルヴィア・ジョルジュの結婚式が行われている。誓いの言葉を読み上げる神父のアップとなる。続いて、祭壇の陰から天使が現れ、すぐさま闇に消える。神父の言葉に耳を傾ける新郎新婦が正面から映される。奥にはバラ窓がみえる。誓いの言葉は続くが、画面はホテルから出てくる二人へと移行する。ホテルのボーイが車に荷物を積み、ドアを開ける。マノエルとシルヴィアは車に乗り込み、ほどなく発車する。車は橋を越え、野を越え、カメラが車の動きを追ってパンしたかと思うと、あっという間にポルトガル南部を走っている。誓いの言葉が終わり、パイプオルガンが鳴り止む。「アーメン」の言葉にあわせてカメラは車内へと移動する。車を運転するマノエルと助手席のシルヴィアを真後ろから捉える。フロントガラスからみえる道路は地平線までまっすぐ続いており、彼ら以外の車は見えない。
 白い家々の街並に、犬の鳴き声。画面手前に歩いて来る女性が遠くに見える。同じように画面奥から来た車が女性の傍で停車し、彼女を呼び止める。近寄った彼女にマノエルら三人のアップとなる。マノエルとシルヴィアが女性にいくつか尋ねるも、女性は首をひねるばかりで芳しい答えは得られない。二人は御礼を言って車を発進させる。カットが変わり、車が道ばたに停まる。シルヴィアはスカーフを着ける。マノエルが先に降りて助手席に回り込んでドアを開ける。二人は並んで歩いていく。
 カメラは教会に入って来る二人を祭壇から捉える。教会の長椅子には二人の女性が座っている。神父が立ち上がり、挨拶をする。祭壇は戦争のため破壊されている箇所がある。シルヴィアも神父に質問するも、コロンブスについての有益な情報は得られない。二人は車へ戻る。シルヴィアはスカーフをとる。音楽が流れ始める。マノエルが助手席のドアを開ける。画面はカテドラルの外観が映し出す。ドアを閉め車が発進する音が聞こえる。
 画面奥へと続く一本道を車は走っていく。音楽に紛れて鳥の鳴き声も聞こえる。車が見えなくなる。
 カメラは再び車内へと移動する。ハネムーンに出発したばかりの二人が、文化的な面ももちろんあるだろうが、運転しながら過度に見つめ合い話す様子を真後ろから捉えていた場面とは異なり、今回はフロントガラス越しに正面から捉える。学生時代や父の出生地について話されるこの会話場面が、前回のそれとは異なるのは、カメラ位置もそうだが、二人が話す話題と話題の合間に一瞬の沈黙が挿入されている点である。仮に前回が運転しながらも互いに見つめ合うシルエットが撮りたかったとするならば、今回の会話場面は、ふと会話が途切れ前方の景色を見遣る二人の、何を考えているのやら宙に吊られた表情を、そして何か思いつく瞬間の表情を撮りたかったかのようだ。
 ベージャ城に寄り道し、車を停める。車を停めた場所から斜め後ろにお城がある。だが、彼らは視線を城に向けることなく、車を再び走らせる。城壁に鳥が二羽飛んでおり、鳴き声が聞こえる。
 車が画面奥より来て、道ばたに停まる。シルヴィアは車から降りて、植栽の前で足を止める。画面はドナ・セオノール像となる。しばらくすると足音が聞こえ、画面左からマノエルとシルヴィアが現れ横切っていく。そのため、このカットはシルヴィアの主観ショットではない。二人は博物館に入っていく。展示品の中を歩く二人。キリストの壁画が正面から映し出される。続いて、夫婦が首を反らせて天井を見上げる画面となる。今度はあたかも主観ショットのように撮られている。奥から、館長が現れる。二人は顔を戻し、自己紹介をする。そして、ベージャ公の墓が映る。カメラはそのまま動かず、複数の足音が聞こえ三人が会話をしながらフレーム・インしてくる。
 塔では、透きとおった青空の下、風にたなびくポルトガル国旗が、傍に天使が立っている。吹き荒ぶ風にはためく旗の寄り、見上げる天使の寄り、再び旗の寄りと画面は推移する。塔を捉えた引きのカットに戻る。天使は柵に近寄り、下を覗きこむ。風で天使の髪が舞い上がる。画面は俯瞰の映像となり、マノエルら三人が扉から入ってくる。城壁内を捉えた画面に三人がフレーム・インし、見上げる。奥には天使が立っている。三たびポルトガル国旗となる。見上げていた三人は塔に向かう。先ほど立っていた天使は居なくなっている。
 階段を上り、塔へと到着する。塔へと至る階段でマノエルはシルヴィアの手を取ってやる。塔で三人は辺りを見渡す。イスラム教の影響を受けている城壁内の風景が映し出される。マノエルら三人、遠くを見遣る天使の寄りが続く。
 音楽が流れ、ベージャへ向かうときとは別の一本道が映し出される。今度は車が画面奥から手前へと走ってくる。
 海原へと突き出すサグレス岬がみえる。サグレス砦へと車が入っていく。道が荒れているため、車体に据えられたカメラも揺れている。砦内に車が入ってくる。紋章のアップのあいだ、車から降りる音がする。車から降りたシルヴィアがコートを羽織り、スカーフを着ける。周辺に視線をやるマノエルは由緒ある航海学校なのに荒れていると憤る。風が強いためシルヴィアの前髪が乱れる。マノエルが羅針図を見渡す首の動きにあわせて、パンしながら羅針図を映すカットへ切り変わる。二人は航海学校へと歩き出しフレーム・アウトする。航海学校へと歩く二人の小さな後ろ姿と、建物から二人を迎える女性が見える。
 学校の敷地へ入ったシルヴィアと女性がスカーフを外し、マノエルを待つ。扉を閉める音がし、マノエルが二人に追いつく。三人は幾何学的な柱が続く廊下を画面奥へと歩いていく。マノエルは画面外へ視線を向け、荒れている航海学校をなぜ復元しないのか女性に尋ねる。三人は建物内の部屋から、天使の横を通り、さらに奥へと進む。天使は窓の方へ歩をすすめる。ピアノの曲が流れ始める。青空の下、海沿いの長い道を歩く二人の姿が見える。外を眺める天使が窓越しに映し出される。シルヴィアが詩を朗読し、マノエルが復唱する。遠くを見つめる天使は微笑んでいるようにも見える。青い青い海。

2007年。47年後のニューヨークにて。
 これまでのように黒字に白文字が印字された画面での場面転換ではなく、海原を背景に「2007 quarenta e sete anos depois Manuel Luciano e Silvia Jorge em Nova lorque」の文字が浮かぶ。
 朝焼けのニューヨーク。サイレンが鳴っている。青空にタイムワーナーセンター、コロンブス像。鳥が一羽横切る。コロンブスの航海する様子が描かれたレリーフオリヴェイラ監督夫妻が演じている、結婚してから47年後のマノエルとシルヴィア。彼らはコロンバスサークルの噴水の前にいる。夫婦はうんと首を反らして見上げている。ワシの像の寄りの後、誰の目線とも分からぬニューヨークのビル群へと画面は移行する。急なあおりの画面となり、タイムワーナーセンター、トランプ・インターナショナル・ホテル・アンド・タワーとともに、コロンブス像が晴天へとのびる画面に夫婦がフレーム・インする。ほぼ目線の高さにカメラは戻り、正面から夫婦をとらえる。二人とも画面外上方を眺めている。コロンブス像において鳥(ワシ)の像と表裏一体である発見の天使像がアップで写される。夫婦はそれをじっとみつめる。
 船尾で風にはためく星条旗。画面奥には自由の女神が見える。船が揺れているので、固定されながらも画面は上下に揺れている。船尾のデッキでマノエル夫妻が並んで遠方を見遣る様子を正面からとらえる。風が強く、シルヴィアが頭に着けているスカーフが風に揺れる。シルヴィアがおもむろに詩を朗読し始める。カメラは夫妻の反対側に移る。夫婦越しに、カメラは画面中央に自由の女神を据える。星条旗が掲げられた竿が、船の揺れが伝わる画面をおおよそ半分に分割する。船の揺れのため、自由の女神に竿が被ったり被らなかったりする。共に背面しか見えず微動だにしないでなされているマノエルとシルヴィアの会話が丁度終わったところで風が止み、星条旗自由の女神に被る。
 カメラは船内へ移り、ソファを正面から写す。マノエルとシルヴィアが画面右前からフレーム・インしてソファへ腰掛ける。そこへ画面奥から天使が現れ、二人が話す様子を見つめる。天使は、先ほどまで映っていた自由の女神と同じように、画面中央に位置している。長回しの会話の最中、画面は唐突に自由の女神を画面中央に引きで捉えたカットが挿入される。カメラは再び船内の同ポジションに戻り、「かたち」が重ねられる。シルヴィアの笑いにあわせて画面は切られ、バークレーのダイトン・ロック州立公園の看板が映し出される。
 ダイトン・ロック美術館の前に車が停まっている。美術館内で、マノエルが展示品をシルヴィアに説明している。彼らが話題にする展示物は分かるが、ここでも建物の全体を把握することはできない。例えば、記念碑の両端にある二つの扉の片側から入りもう一方から出てくるが、開いた扉をとおして見える空間はその間に描かれた空間と明らかに一致しない。そして、この美術館から帰るとき、完全予約制である美術館であるので誰かしらはいるのかもしれないが、扉を開けたまま二人は屋外へと出ていく。47年経っていても同じように、シルヴィアはスカーフを着け、マノエルはシルヴィアのために助手席のドアを開けてやり、車に乗り込む。開け放たれた扉の向こう側で、車は走り去る。
 夫婦は、トマールのキリスト教修道院にある円堂を模したと思われる塔を訪れている。カメラは正面からバストショットで二人を写す。マノエルが目にもとまらぬ速さでポケットから写真を取り出す。カメラは写真を覗き込む彼らの背面にまわる。マノエルもシルヴィアも帽子をかぶっている。画面は最初の引きの画に戻り、二人は塔と写真を見比べる。再び彼らの寄りの画面となる。この塔から海を見渡せるはずであるから行ってみようと、二人は画面右端へと歩み始めるもフレーム・アウトする前に画面は切り替わり、すでにフレーム・インしている二人が画面中央で歩みをとめる。現在はきちんと見えないが前はもっとよく見えていたはずだというマノエルが言った後、画面が切り替わり、電柱や木々によって視界が遮られてはいるものの、画面奥に海を確認することができる。しかしながら、二人を正面から捉えた前のカットと画の連続性が全くないので、180度の切り返しであるとも考えられるが、二人の視線と観客に与えられた画が一致しているかは定かではない。そして、カメラは二人を正面から再び捉えるのだが、二人はもっと間近で海を見ようと画面から姿を消す。画面右奥では星条旗が風に吹かれており、画面奥から車が何台かこちらにやってくる。
 陽が陰った海岸沿いを、先ほどと同じようにしかし異なる車が、画面奥から走ってきて道ばたに停車する。車から降りたマノエルが助手席のドアを開け、シルヴィアをエスコートする。道路を渡り海岸へと歩く二人をカメラはパンして追う。音楽がなり、その他には打ち寄せる波の音がわずかに聞こえるのみで、二人が何を話しているかは分からない。ある方角を指し示しながらシルヴィアに何かを説明しているマノエルが「かたち」であらわされる。
 海岸沿いから撮られた曇天の海から、同構図の快晴の海へとオーバーラップする。それは上空から撮られたものであり、空撮のため画面が揺れている。続いて上空から島の様子をうつし、カメラは滑走路へと移る。画面奥に「PORTO SANTO」の文字がみえる。飛行機が着陸して現れフォローミーカーに案内されて停まる直前までの、一度は画面外へと捌け再びフレーム・インしさえする一連の動きをカメラは収める。
 空港内で、マノエル、シルヴィアとガイドの三人がカートを押して来、画面中央で立ち止まる。ガイドと話し合いの中で、フライトの疲れが示唆されるが、兎にも角にもコロンブスの家へと向かうことにする。そこには、これまでと同じように、ためらい、しりごみ、とまどいなどまったく見受けられない。
 タクシーが路地の手前で停車する。タクシーから降りた三人は細い路地を通り、コロンブスの家の敷地へと入っていく。鳥の姿は見えないが、鳴き声は聞こえる。彼らが階段を上がると、画面奥にあるコロンブスの家へと続く階段に天使が立っている。彼らは天使の存在に気付かない。そこへポルト・サント美術館館長が驚くべき速さで階段を駆け上がり現れる。先ほどと同じ位置の画面だが、そこに天使はいない。天使はいかにもな動きもせずただ佇むのみである。画面が切り替わったときには、期待すべき時には、発見の天使はすでにいない。マノエルらが挨拶を済ませて、奥の階段を上り部屋へと入っていく。
 家の中の荷物は研究中のため運び出されている。壁には画と写真が幾枚か展示されている。部屋の中でやや離れて位置する5人が示されたのち、展示された画や写真を順を追って見ていく。彼らが移動する際には決まって部屋の中にいる天使が映される。そのため、次の写真へと話題が移って彼らが移動したり身体の向きを変えるとき、動作はその始めと終わりが映されるのみである。動作途中では画面は天使を映し、その動作や移動は音によって処理されている。そして館長がペソアの詩を朗読したあと、天使がカメラへの視線を切って窓辺から画面右へとフレーム・アウトする。カメラは部屋の外へと移り、窓越しに部屋の中の彼らを捉える。館長の意見にマノエルは若い頃からの口癖「そのとおり!」と答える。そして夫婦共々、窓へと歩きだす。二人は窓枠に手をかけ、シルヴィアがアフォンソ・ヴィエイラの詩を朗読する。老夫婦がただ画面手前へと歩いてくるだけのこのカットがこれほどダイナミックで感動的なのは、シルヴィアが朗読する詩の内容に郷愁を感じるからではなく、フレームの中にさらに窓枠というフレームによって限定された狭い構図内での運動であることに加えて、このシーンで初めて人物の動作が一部始終捉えられているためである。
 朗読途中からカメラは窓の外の風景を映し出す。棕櫚の陰から白い客船が姿を現す。朗読が終わり、一拍置いて、汽笛の音。姿を消した天使が祝福しているかのように、画面には映らない何羽もの鳥の声が響いている。客船がフレーム・アウトする。続いて、砂浜から海原を捉えたカットとなる。青い青い空と海。波が静かに押し寄せている。水平線に白い客船が見える。もはやどこの海岸なのか、先ほど見た客船と同じ場所なのかわからない。エンドクレジットが終わり、再びシルヴィアの朗読がなされる。朗読が終わり、客船がフレーム・アウトする。波と風の音が徐々に遠のいていき、映画は終わる。

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.21「マノエル・ド・オリヴェイラ」

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2015年に106歳で亡くなられたオリヴェイラ監督の映画を観ながら、
映画について話し合いましょう。

日時:2月25日(土)18:00〜

場所:水曜文庫

   〒420-0839

    静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F

参加費:一般 800円  学生  500円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-689-4455、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.19「マルグリット・デュラス」

 本日はお集まりいただき、ありがとうございます。
 今回はテーマに沿った映画を抜粋でご覧いただくのではなく、映画をまるごと一本ご覧いただいたのち感想を話し合うというかたちで進めていきたいと思います。今回取り上げる映画は、マルグリット・デュラス監督の『アガタ』です。この女性監督は、世界的なベストセラーである小説『愛人/ラマン』で知られる、カミュと並んで20世紀を代表するフランスの小説家でもあります。

 デュラス監督は、アラン・レネ監督から依頼されて『二十四時間の情事』(1959)の脚本を執筆したのをきっかけに映画に携わるようになり、67年に撮られた『ラ・ミュジカ』から映画監督もするようになりました。今回ご覧いただく『アガタ』は、ジャン=リュック・ゴダール監督との共同企画ののち書かれた小説を原作とし、1981年に撮られた映画です。
 それでは、マルグリット・デュラス監督の『アガタ』をご覧いただきます。

 

 

 

 木洩れ陽が照らすテクストが映し出され始まった『アガタ』は、数年ぶりに再会した二人の兄妹が昔日の思い出を語り合い、愛しあったまま別れる話だと、とりあえずは語ることができるのかもしれません。こうした「物語」だけ取り上げればTVドラマにもありそうですが、それらとは異なった印象をご覧になられて感じられたかと思います。ご感想を伺った際に多くの方がご指摘されていたように、画面と音声の関係が、私たちの生活を取り囲む映像とは異なるためです。
 普段接する機会の多いTV等の映像は、視聴者に映像の世界に浸って楽しんでもらおうと作られているので、安心して観ることができるように、音声は画面にそって構成されています。そのため、映っていないものが鳴らす音によって視聴者が混乱するようなことはありません。例えばロベール・ブレッソン監督の映画のように、もし画面外の音が登場人物に何かしらの反応を与えるような作りになっていると、観客は画面外の世界を想像せねばならず、画面から音声へ意識を切り替えることが要求され、映像の世界に没入することができなくなってしまいます。それを避けるため、TV等の映像は、常に音声が画面に従属する関係性となっています。さらに、そうした映像は、事前にはっきりとした語るべき「情報」や「物語」があり、それらを効率よく伝えるために文字情報等が駆使されています。

 しかし『アガタ』は、先ほど要約したような「物語」を巧みに伝えるような映像にはなってはいません。むしろある決まった「情報」によって捉えようとするとたちまちそれを拒まれ、つねに映像の本質を取り逃がしたような気にさせるものです。なぜなら、先ほどの要約は音声から受け取った「情報」をまとめたにすぎず、画面は音声とはまったく別の「物語」を語っているからです。
 画面は、主に海辺や廃墟となったホテル、人のいない街並を端正な構図で映し出します。窓枠越しの風景が人称を感じさせ、撮影スタッフが鏡越しに映りはするものの、登場人物と思しき人物は一組の男女のみです。彼らは映画の始めに提示されたテクストの内容とは異なり、リュックやコートは見当たらないですし、女性は書かれていた年齢よりだいぶ上にみえます。二人は数えられる程のカットしか同じ画面に登場せず、言葉を交わす様子もありません。互いを知ってはいるのかもしれませんが、なぜその場にいて、なにをしようとしているのかはわかりません。むしろ画面に頻繁に登場する波の方が、曇天のなか孤独にどんよりと、また、雲の切れ目から差し込む光を受けて荒々しく、感情を表現しているようにみえます。
 一方、音声は監督・脚本のマルグリット・デュラスと画面にも登場しているヤン・アンドレアの朗読によって構成されており、それ以外に私たちが聴き取れるのは時折流れるブラームスのワルツだけで、画面を撮影した時に鳴っていたであろう音を聴くことはできません。
 『ガンジスの女』(1972)についてデュラス監督が語っているように、まるで「二本の映画、イメージの映画と声の映画」が「完全に自律的にそこにある」ように思えます。しかし二本の映画を一本の映画にしたからといって、私たちは、”1+1=2”と足し算のように、それぞれを別々に感じ、組み合わせて、考えているわけではありません。イメージと声がそれぞれが自律的であるかのように振る舞うことによって、一つの映像が様々な「物語」を内包し、私たちはそこから多様な「物語」を感じ取っています。多様な「物語」を内包させようとする試みが『アガタ』でもなされています。

 私たちが普段接しているような映像は、視聴者を「混乱」させないように文字情報を使用して「分かりやすく」されてはいるものの、映像が持つ可能性は狭められているといえます。一方、『アガタ』は、「物語」を巧みに説明するために俳優が「リアル」に「再現」するわけではなく一見「分かりやすい」ものではないかもしれませんが、その分けっして画一的な印象を持つことはない、「物語」の過剰さを携えた映画です。このような開放された「映像」を観ると、まるで山で遭難した時のような不安を覚えますが、同時に「物語」の無限の可能性と付き合うことができる「自由」を感じます。

 このような「物語」の過剰さ、「自由」は、デュラス監督作品のような、「実験的」で「前衛的」な映画しか持ちえないものではありません。「古典的」「名作」と評される映画の中にも多々存在します。その例として、小津安二郎監督の『晩春』から幾つかの場面をご覧いただきます。

 

 

 三つの場面をご覧いただきました。
 一つ目は、鎌倉の自宅での笠智衆三島雅夫が方角についてやりとりをする場面をご覧いただきました。小気味よいテンポで会話がすすめられるのが面白くて個人的にとても好きな場面ですので、話の流れとはあまり関係ないのですが、ご覧いただきました。
 二つ目の場面では、能を父娘で観に行った帰り、原節子笠智衆と別れて友人の月丘夢路の家を訪ねます。バツイチの月丘夢路から「さっさと嫁に行くべきだ」と言われ、父親の再婚について悩んでもいた原節子は自暴自棄になり、月丘夢路が拵えたケーキを食べることもなく帰宅してしまいました。
 三つ目の場面では、見合いの返事を保留のままにしていた原節子が、おばの杉村春子に問いただされ不機嫌な沈黙によって了承の返事をするところから、笠智衆と三島雅也が龍安寺で会話をしているところまでご覧いただきました。
 ご覧いただいた崩れ落ちる雑誌、月夜に浮かぶ壷は、ご覧いただいた場面にしか出てきません。そのため、単にこれらの画面を時間経過を示すものと説明することもできますが、それだけでは到底言い表すことができないなにか、過剰な「物語」が感じられます。
 打ち寄せる波や、ただ座ったり歩く姿、なにかをじっと見つめる横顔、崩れ落ちる雑誌、壷。映っているものは何も特別な「出来事」を映しているわけではありません。日常の中にありふれているものばかりです。とはいえ、日常的なものを映したからといって「映像」が必ず過剰な「物語」を感じさせるわけでもありません。どうしてこれらの「映像」は、映っている対象自体の意味を超えて、「物語」の過剰さを私たちに感じさせるのでしょうか。それは、「映像」が貧しく〈ある〉からなのだと思います。

 ここでいう「貧しさ」とは、ハイデガーヘルダーリンの詩的断片についての講演で語っているような〈貧しさ〉です。その講演でハイデガーは「私たちは貧しさのうちで、貧しさによって豊かになる」という言葉を手がかりに〈貧しさ〉に関して考察しています。一般的に〈貧しさ〉とは、経済的に貧窮している、いわば「持っていない」ことを意味しますが、ここでいう〈貧しさ〉はすこし違います。ハイデガーのいう「貧しさ」とは「何も欠いていないで〈存在する〉こと」です。なくてもすむようなもの、不必要なものを欲しがることではありません。「必要であるもの」とは、必要にもとづき、必要を通じてやってくるもの、つまり諸々の欲求を引き出し充足させようとする強制からくるものです。したがって、「不必要なもの」はそうした強制からくるものではなく、「自由な開かれ」からくるものです。「自由な開かれ」とは、無傷なもの、いたわられたもの、利用に共されないものです。自由にすることは本質をやすらわせることであり、そうして解放されたものは必要の強制から守られたものです。ところが、自由な状態における自由にするものが、必要を反転させます。自由によって解放されたものは、自らの本質へ身を委ねるため必然性をもつものとなります。このとき、それは必要なものとなります。自由はそれ自体で「必要を転じる必然性」です。自由によって解放されたもののみ必要なものであるため、必要によって強要されるものは不必要なのです。したがって、貧しく〈ある〉ことは、「自由な開かれで」あり「自由にするもの」に身を委ねることです。そうして初めて、不必要なものを除いては何も欠いていない在り方で、貧しく〈ある〉ことができるのです。
 このとき、ヘルダーリンが「我々においては、すべてが精神的なものに集中する。我々は豊かにならんがために貧しくなった」と言っていたように、貧しく〈ある〉ことはそれ自体において、豊かであるといえます。

 先ほど私は、映像が過剰な「物語」を感じさせるのは映像が〈貧しい〉からだといいました。では、映像が〈貧しい〉とはどういうことなのでしょうか。
 映像の〈貧しさ〉は、予算の多寡・スケジュールとは関係なさそうです。もっといえば、「脚本」とも関係がないのかもしれません。それは、何が映っていて、何が聴こえているかという、徹頭徹尾、映像の連鎖に関わるものなのではないでしょうか。貧しい映像とは、画面が、音が、あらゆる細部がそれぞれの意味を超えて、豊かにならんがために各々が「自由」な関係のなかにある映像なのだと思います。
 しかしながら、「自由」な関係であるとは、ご覧頂いた映像からも分かるとおり、なんでもよい関係ではありません。「自由」な関係のうちにあることとは、画面に映る一一つの息づかい、聴こえてくる音色の一音一音、それらがもつ「物語」を最大限に活かすことによってもたらされる「物語」の過剰さです。そうした過剰はある細部から溢れ出て、なおかつその細部自身を凌駕するような過剰です。また、自身を凌駕しつつ、逃れた過剰なものが自身へと再び流れ込み、細部が飽くことなく語る「物語」の源泉となることです。この豊かでありながらも荒々しい「生」としての映像は、青山真治監督が「野性」と評し、「それは映画にはならない」と周りからいわれながらも己の「自由」な映画表現を押し進めたデュラス監督作品の軌跡からうかがえます。

 そして、そうした映像の在り方は、2014年に同志社大学で行われた回顧上映でのトークでジャン=クロード・ルソー監督が"accord"について次のように述べていたことを思い出させます。

そうして集められたイメージは他のイメージと出会うことができます。他のイメージと出会うことで、そこから、物語を予想することができるようになるのです。わたしはその出会いを"accord"と呼びます。
 一般には、つなぎ・つなぎのカットは
"raccord"と言いますが、私は"再び、つなぎ直す"という意味の"r"を取り、"accord(調和、和音)"という言葉を使いたいのです。"raccord(つなぎ、つなぎのカット)"では、何かを語るために映像があり、そこで映像は語られるものになってしまい、映像は見えないのです。"accord(調和、和音)"では、映像同士のつながりあいが起きることで、そこで厚み"volume"のようなものが作り出されるのです。

 ルソー監督がいうような"accord"を模索する映像こそが、貧しい映像なのではないでしょうか。
 『アガタ』でも、画面と音声がそれぞれ異なる映画のようにつくられていたそれらが合わさったとき、各々が内包していた「物語」が映像として調和し、廃墟や街並を通してヴィラ・アガタが浮かび上がり、またあなたの目が欲しいという台詞によって曇った窓ガラスが二人の距離を現前させてもいました。また、こまかな声の抑揚やニュアンスが、波のしぶきが、雲間からの陽の移ろいが、もしかするとデュラス監督の思惑をも超えて、"accord"するとき、映像は豊かな「物語」を語り始めます。

 それでは、ここまでルソー監督の言葉を引用してきましたが、実際にルソー監督の映画をご覧いただきましょう。『彼の部屋から』をご覧いただきます。『彼の部屋から』は、マルセイユ国際映画祭でグランプリを取った作品で、ルソー監督自身が登場人物である映画作家を演じています。全体は5つのパートに別れており、本日は一番始めのパートのみご覧いただきます。

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 Ⅰ.

 男はカーテンの隙間から玄関を閉める。
 『ベレニス』の朗読をしている男の声が聴こえる。廊下は暗く、部屋から洩れる日の光で輪郭をかろうじて把握できる。男は葉巻を燻らせながら椅子に腰掛ける。肘掛けに置かれたトレーに当たり、がしゃんと音をたてる。トレーにはグラス、コーヒーカップ、灰皿が載っている。男は黙ったままページをめくり、朗読を再開する。壁に掛けられた絵。ベルの音。
 弦楽器の演奏が聴こえてくる。屋外で演奏する人たち。男の部屋。窓から差し込む光は白い。男は窓際に立ち、外を眺める。
 男はドアを閉め、廊下を歩く。壁にかけられた絵を観たあと、奥にある鏡の前で立ち止まる。電話が鳴る。留守番電話に切り替わる。男は画面から消え、電話にでる。男の影が廊下に移ろい、消えてゆく。
 手紙と重しを移動させピアノの蓋を開ける。鍵盤カバーをとった拍子に何音か鳴る。
 グラスに酒を注ぐ。酒を持って椅子に座る。男は深呼吸をしている。一口大きく呑み込む。三分の一ほどになったグラスを肘掛けの端におく。端は傾斜がついている。喉の皺がおおきく動く。グラスは落ちない。外から発声練習の声が聞こえる。もう一口酒を呑む。男はグラスを置いたまま席を立つ。

 グラスが割れる音がする。
 白い光を遮るカーテン。ハンガーにかけられたシャツが揺れている。
 白いセーターを着た男が立っている。ピアノ脇の配水管に寄りかかる。
 男の朗読が聴こえる。無人のカフェ。
 自分の部屋で、男は座って朗読をしている。薄暗い部屋に差し込む光は赤い。
 男は一つずつ電気を消していく。
 ベッドに座り込む。車の走行音、クラクションが聞こえる。男は反応する。

 ベルの音が響く。

 

 ご覧いただいたように、「切断」や「余韻」というよりも「前進」のニュアンスに近い黒画面を交えながら、ルソー監督の映画は、「実験的」「前衛的」のように見えながらも映像は具体で満ちています。それも特別な出来事によって構成されているのではなく、日々の生活を切り取ったかのような「出来事」で構成されており、過ぎ去る日常がこの上なくかけがえのない一瞬一瞬で成り立っているというあたりまえのことを思い出させます。そこではすべてが正しさでつながっている映像というよりは、むしろたんなる映像として佇んでいるかのようです。映像は少しも「物語」など語ってみせようとする素振りなどみせずに、寡黙に流れつづけます。

 アントナン・アルトーは映画には「密かな動きとイメージの素材とに固有の力がある」とし、「ごく取るに足りない細部、ごく無意味な対象も、それらに固有に属する意味と生命を獲得する。しかも、イメージそれ自体の意味作用による効果、イメージが翻訳する思考、イメージが形成する象徴とは無関係にである。映画は対象を孤立させることによって、それに個別の生命を与える。」と語っていました。そして映画は「幻想的」なものに近づくだろうと預言していました。その預言通り、デュラス監督らの〈貧しい〉映画は、現実に限りなく近づきながら、現実を解放させるような映像の豊かさによって、私たちをトランスさせるのです。

 最後に、アルトーと同時代に、本日上映したルソー監督のように道化た映画を、撮り続けたバスター・キートン監督の映画をご覧いただき、本日のシネマ・カフェを終わりたいと思います。
本日はどうもありがとうございました。