GO!GO!L'ATALANTE!!

ゴー!ゴー!アタラント号!! 映画☆おにいさんのBlog

20200418

 コロナウィルスでなくとも人は死ぬ。

 物事が崩れるときは一瞬だ。それまでの当たり前だった生活を一気に変えてしまう。別れは過去に行われていたことを知り、あとは自分の気持ちを落ち着かせるための儀式でしかない。別れの時はつねに早すぎて、あれが別れだったと気づいたときには遅すぎる。

 この二三年は会うこともなく、たまに思い出しても、便りがないのが良い便りとでも言わんばかりに、呑気に過ごしていた。いま思い返すことといえば正月の集まりが大半で、当時面倒臭く感じていた季節の行事がいまでは慰めとなってしまうのだから、節目の行事というものは、現在よりも未来で役に立つものなのかもしれない。
 それはまだ大学生だったころ、箱根駅伝に飽きて、テレビで『月世界の女』を観ていた。親戚一同の話がひと段落したころ、私のところへやってきて、優しく「これ、面白い?」と尋ねた。まあね、と曖昧に答えながらもDVDの再生を止めたのは、無理解に憤ったからではなく、なぜ面白いのか自分でもさっぱりわからず、急に照れくさくなってしまったからだ。この監督は誰でとか画面がどうだとか、言い訳めいた言葉を連ねることはできたのかもしれないが、刺激的なものなら他に幾らでもあっただろうに、サイレントの白黒で英語字幕も満足に分からなかったのに、なぜあれほど惹かれていたのか、惹かれ続けているのか、本当のところは今でもまったく分からない。
 これは芥川龍之介の『好色』で、平中が侍従に惹かれていることに似ていると思う。髪が薄すぎるだとか顔が寂しいとか欠点を挙げようと思えばなくはない相手のことを、桜を見ていても漫然と、考えてしまう。侍従から狐や範実、切り灯台へ思いを巡らす。意識の移ろいの中心にはつねに侍従がいる。手紙を数多書き連ね、想いを募らせていく平中は、侍従のことを思い切ることがどうしてもできない。「時鳥厠半ばに出かねたり」を反転させたようなラストにおいて、昼か夜かも判然としなくなった平中は、侍従の糞を食べて『ヴェニスに死す』よろしく、バスター・キートンのように倒れてしまう。これは芥川なりのシュールな喜劇だとは思うが、平中にとって侍従と出会って苦しい思いをしたのかもしれないが、知ったことで得た喜びが出会った苦しみに劣るとは思えない。仕合せになるためには凡人の方がいいなんて相当な皮肉だと思う。そういえば大学時代には毎月仕送りと一緒に手紙をもらった。手紙が来たら1時間程度に電話をかけた。ちゃんと食べているか等、体の心配をしてくれた。でも、仕送りのほとんどは映画と本に変わってしまった。
 通夜と葬式の日は、3歳の姪っ子や8歳の親戚の子と過ごした。“One's gone. One's born.” だなんていう覚悟はまだない。
「今日も暑うなるで」「らしいかどうだが」
不在は死ではない。

享年92歳。合掌。

【延期】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.26「現代映画 ゲスト:赤坂太輔」

3月28日の講演はコロナウィルス感染拡大防止のため、延期いたします。
延期の日程は追ってお知らせいたします。

 

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 フレームの中に「問題」を押し込め、観る人を煽動するテレビやネット上の映像とは異なり、フレーム外の世界をも観客に想像させる現代映画。
 CG等の技術や巧妙な編集等により「真実」を操るメディアに対して、現代映画を観ることで適切な距離を取り、映像と音の新しい見方=聴き方ができるようになるかもしれません。
 今回の映画☆おにいさんのシネマ・カフェでは、2019年11月に「現代映画の教科書」ともいうべき『フレームの外へ 現代映画のメディア批判』を刊行した赤坂太輔さんをゲストにお招きします。なぜ現代映画なのか、いま現代映画を観ることの意義等を、抜粋映像を観ながらお話ししていただきます。
 『フレームの外へ』を読み始めた方、これから読む方、現代映画に興味があるがこれまできっかけがなかった方向けのトークイベントです。

 

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日時:2020年3月28日(土)18:30〜20:30

場所:水曜文庫 〒420-0839 静岡市葵区鷹匠二丁目1の7 つるやビル1F

講師:赤坂太輔
プロフィール:映画批評家・映像論。立教大学講師。
1994年にポルトガル取材後、1997年、1999年にアテネ・フランセ文化センターで開いた「ポルトガル映画講座」を皮切りに、2003年よりシネクラブ&ウェブサイトであるnew century new cinemaを立ち上げ、世界の日本未公開作品や作家の紹介上映活動をおこなう(詳細は http://www.ncncine.com/infoncncine1.html )。またSight&Sound、Derives、La Furia Umana、e-lumiere、desistfilmなど世界各国のオンライン雑誌に寄稿。近年、国内誌では『中央評論』『シネ砦』『ユリイカ』『STUDIO VOICE』などに寄稿。2015年より雑誌『NOBODY』に「メディア批判としての現代映画」連載中。
著書に『ハルトムート・ビトムスキー監督特集』(アテネ・フランセ文化センター、2002)、『マノエル・デ・オリヴェイラと現代ポルトガル映画』(企画および分担執筆、EMブックス、2003)、共著に『映画を撮った35の言葉たち』(フィルムアート社、2017)、『ストローブ=ユイレ──シネマの絶対に向けて』(森話社、2018)がある。

司会: 映画☆おにいさん

参加費: 1000円

定員: 20名(先着順)

予約: 水曜文庫(054-689-4455、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

 

 

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.25「食べもの」

サンドウィッチ、カステラ、栗ごはん、ハンバーグ・・・
映画を観ていると思わずスクリーンに向かって手を伸ばしたくなるような、
印象的な「食べもの」がたくさん出てきます。
そうした「食べもの」が画面にあらわれるとき、姿を消すとき、
その痕跡は物語にどのような影響を及ぼすのでしょうか。

映画☆おにいさんが選んだ「食べもの」のシーンを観ながら、
映画について、映画における「食べること」について、いっしょに考えましょう。

日時:3月30日(土)18:00〜
場所:水曜文庫
   〒420-0839
   静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F

参加費:一般 800円  学生  500円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-689-4455、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

映画☆おにいさんのシネ・レクチャーvol.1「窓」

 映画☆おにいさんのシネ・レクチャーvol.1にお越しいただきまして、ありがとうございます。これまでに「映画☆おにいさんのシネマ・カフェ」を静岡県内で20回以上開催してきました。「映画☆おにいさんのシネマ・カフェ」は本日のようにテーマを決めて、その映画の抜粋をご覧いただき感想を話し合うワークショップです。今回はレクチャーとなっていますが、皆様のお話を伺いつつ進めたいと思います。

 本日のテーマは「窓」です。「窓」が物語の中で重要な役割を演じている映画を何本かご覧いただき、「窓」を通して映画について皆様といっしょに考えられたらと思います。
 「窓」とは、チラシに書いてありましたように、建物に取り付けられた外部との開口部であり、採光・換気・景観を主な目的として取り付けられています。窓があることで風景を見ることができますし、逆に建物の中の様子を知ることができたり、部屋の環境を変えることができる、屋外と屋内の中間に位置するものです。また、映画のスクリーンはよく窓に例えられます。それはスクリーンの向こう側に未知の世界があり、その場に居ながら行ったことがない場所、風景、人、出来事を知ることができると思われているためでしょうか。

 

 まずは、主人公が窓の先へ視線を延ばすことで、事件を目撃したと主張する映画をご覧いただきます。アルフレッド・ヒッチコック監督『裏窓』です。
 ヒッチコック監督は1899年、ロンドン生まれの映画監督です。1925年に『快楽の園』でデビューし、1939年からアメリカで活躍しました。今日ではサスペンス映画の巨匠と呼ばれております。『サイコ』での排水口と重ね合わされる目、『バルカン超特急』での窓に書かれた「FROY」という文字、『汚名』での棚に並んだワインボトル、『断崖』での白く光るミルク等々、物語は忘れてしまったとしても、記憶に残る強い画面を撮る監督です。
 今回ご覧いただく『裏窓』は、「窓」について考えるとき多くの方が思いつくであろう「That's 窓 」といってよい映画です。
 『裏窓』のあらすじをご紹介します。ジェームズ・ステュワート演じるカメラマンL・B・ジェフリーズは、撮影時に脚を骨折しギプスをしているため自宅がでることができず、もっぱら風景を眺めて過ごしています。裏窓から見えるアパートには売れない若手の作曲家やスタイルのいいバレエダンサー「ミス・グラマー」、まだ見ぬ恋人と過ごす夜を夢想する「ミス・ロンリー」、引っ越してきたばかりの新婚夫婦、暑さをしのぐためベランダに布団を敷いて寝る夫婦、そして、夫婦仲が冷めきったソーウォルド夫婦などがいます。
 ある夜、ジェフリーズは女性の悲鳴を聞いて目を覚まします。すると、雨の中にもかかわらずソーウォルドが出かけるのを目撃します。それも二度、目にします。翌日より、夫人の姿は見えません。一方、ソーウォルドはというと、部屋の荷物を片付け、夜中に持ち出したスーツケースを拭き、念入りにお風呂場を洗う等いかにも殺人犯が取るような怪しい行動ばかりしています。そのためジェフリーズは、彼が夫人を殺しのだと推察します。初めは懐疑的だった通いの看護師であるステラやジェフリーズの恋人であるグレース・ケリー演じるモデルのリサも次第に同調するようになり、ともに推察するようになります。
 しかし彼らが目撃するのは状況的な事柄ばかりで、夫人が殺害された瞬間、血の跡、バラバラにされた死体といった、決定的な証拠となるようなものは見ていません。ジェフリーズは友人の刑事ドイルにソーウォルドが高飛びする前に逮捕するよう掛け合いますが、憶測の域を出ないからと身柄拘束には至りません。
 ソーウォルドが逃げる前になんとか動かぬ証拠を見つけようと、ジェフリーズ、リサ、ステラの3人が策を練る場面からご覧いただきます。

 

 

 花壇の位置が下がっていることに気づいた場面から、ロールカーテンが閉まり、文字通り幕が下りて終わった場面までご覧いただきました。この映画において「窓」は「覗く」フレーム(ジェフリーズの部屋の窓)としてあり、かつ「覗かれる」フレーム(向いにあるアパートの各部屋の窓)としてありました。
 窓は向かいの部屋を覗くことを可能にしていますが、視界を限定してもいます。なぜなら、ジェフリーズの視点は動くことがないからです。彼が知る外の様子はつねに部屋の窓越しでしかなく、カメラが隣人の部屋に行くことも、その切り返しとしてジェフリーズを部屋の外から撮ることもありません。そのため、彼が知りうることは、いつ、どの窓に瞳を向けていたかによります。しかし、その行為は新婚夫婦の窓のようにカーテンが閉められることによって、いとも容易く遮断されてしまいます。
 また、見る対象との関係性はどうしょうか。ジェフリーズは窓から覗き、アパートの住人は覗かれる関係となっています。観客がスクリーンを覗き、スクリーンは観客から覗かれている関係と似ています。
 これらの見る見られる関係の共通点は、どちらも覗く側が身体的に拘束されて動けないこと、つまり視点が限定されていることです。そのような状況に置かれた登場人物と我々は、「見たい」という根本的な好奇心に突き動かされています。
 こうした設定は撮影方法にも反映されています。基本的に切り返しで撮られているこの映画は、ジェフリーズとその視線の先(見ているもの)を行き来し、起こった出来事とそれに対する彼の反応を追っていきます。ジェフリーズとアパートとの距離が分かるような2点を横から撮ったカットはなく、画面の外部からの刺激に対するステュワートの反応を映しています。
 これはアパートの住人も同様です。例えば、ミス・ロンリーは部屋の外部から聴こえてきた音楽によって自殺を思いとどまりました。現実と夢想とのあいだで引き裂かれた彼女は自殺を試みましたが、音楽家の意図を超えたところで、外から聴こえてきた音楽によって生へと立ち戻っていきました。
 では、ジェフリーズが見ているものはなんだったでしょうか。彼が目にするのはソーウォルドの状況的証拠ばかりです。2枚の写真をビューワーで見比べたことで気づいた花壇の位置の変化も決定期証拠には繋がりません。自説に固執するあまり、もはや夫人の安否が問題になっておらず、「見た」ことの立証、「真実」を「見る」ことへの欲望に耐えきれなくなってしまっています。つまり、ソーウォルドを殺人犯として立証することのみが彼の関心のすべてとなっています。
 そのため、ソーウォルドに押し掛けられ何が望みだと問われても彼は答えられません。金銭でも夫人の安否でもなく、ただ「見たい」「知りたい」だけだからです。まるで映画を観にいく人々のように。
 そうした欲求が最高潮となるのは、ソーウォルドの部屋にリサが潜入するも彼が帰ってきたときです。それまで「見ること」と「所有すること」と限りなく同義であったのが、彼女を助けることもできず、見ることを放棄することもできません。絶対的距離が現前化する瞬間です。
 ジェフリーズがなにも対処できなかったこの危機は警察が駆けつけたことで脱しましたが、この映画のラストにあるソーウォルドのカメラ目線が発端で起きた危機は、それまで見る存在であったジェフリーズが窓から落とされることで、彼をアパート中から見られる存在へ転換させました。『裏窓』はこのように視線の方向性が出来事を導いていくのです。
 このことは、ソーウォルドに追いつめられたジェフリーズが電球を投げるといった物理的な反撃をせず、相手に向かってフラッシュを焚いたことと無関係ではありません。知らず知らずの内に彼は視覚によって構成されたフィクションを生きていたため、彼が思わず取った防衛手段は相手の視覚機能を奪うことだったのです。

 しかしながら、視線によって集められた出来事がフィクションの引き金となっている『裏窓』において、最も重要なカットは別にあります。それは、ステラの驚いている顔が映されたカットです。ソーウォルドが捕まり刑事であるドイルから「箱の中身を見るかい?」と問われたステラが「バラバラはけっこうよ("I don't want any part.")」と答え、同一のカットでステラの驚く顔が映されます。暗転の後、オープニングシーンのようにアパートの各部屋から彼の部屋へと続くエピローグのようなこのカットは、彼女の驚きを置いてきぼりにして映画の終わりへと向かっていきます。通常ならば、刑事の皮肉混じりの問いに答えるだけで終わってもよさそうですが、ヒッチコック監督はステラの驚く顔をかなり長く残しています。
 では、ステラはなぜ驚いたのでしょうか。それは、彼女が自分たちの考えていた仮説(フィクション)の残酷さに気づいたからにほかなりません。仮説が「現実」になったとき初めて、「生々しさ」をもって彼女に襲いかかってきたからです。
 ここで重要なことは、バラバラ殺人という出来事の悲惨さではありません。一生懸命考えに考え、間違っているはずがないと自信があった。花壇を掘り返すという危険さえ冒しました。なにも見つからなかったけれど、犯人が逮捕され、推察が証明された。その瞬間、バラバラ殺人が現実のものとなった。刑事から意地悪な質問をされ「けっこうよ」と心理のままに答えた。そのあとに感情が追いついた。「フィクション」がその瞬間「現実」へと姿を変えた。途方もない「リアル」です。その「気持ち」を一回性の物語として不自然でないかたちで表現した、認識の変化が顕在している素晴らしいカットでした。このカットがあることで「映画」という言葉にできない、無秩序な、瞬間に絶えず多くのことが起こっており、不確かで、つねに出来事の本当の意味を知るのは遅れてでしかありえないことを『裏窓』は体現しています。

 『裏窓』は視線の交錯を根底としながらも、フィクションが姿を変える凶暴さに触れる映画でもありました。映画において視覚が他の器官より必ず優位を保っているわけではありません。視覚に囚われてしまうと大事なものを取り逃してしまうことが多くあります。次にご覧いただく映画は、チャールズ・チャップリン監督『街の灯』です。
 監督のチャールズ・チャップリンは1889年、イギリス生まれのコメディアンです。所属していた劇団のアメリカ巡業で、映画プロデューサーのマック・セネットにスカウトされ映画会社キーストン・スタジオに入社します。こうして映画界に入ったチャップリン監督は順調に人気を博していき、1931年に『街の灯』を監督します。この映画でチャップリン監督は監督の他、製作、脚本、編集、作曲、主演を務めています。
 あらすじを簡単にご紹介します。チャップリン演じる浮浪者は、ある日、盲目の美しい花売娘と出会いますが、金持ちの紳士だと勘違いされてしまいます。その晩、自殺をしようとしていた酔っぱらいを改心させます。これをきっかけに仲良くなったこの酔っぱらいはかなりの富豪なのですが、酔っぱらっているときとシラフのときとでは二重人格のようにまったく性格が異なります。酔っぱらっているときはチャップリンを命の恩人とし歓待してくれますが、シラフのときはチャップリンのことを一切覚えていません。例えば、散々夜遊びをした翌朝に手荒く追い出したり、お前にやるよとくれたはずの車を奪い返します。
 このような限定的なものながら、金持ちの威を借りることができたチャップリンは、花売娘のところへ、紳士として施しを与えていました。しかしながら、あるとき金持ちは突然ヨーロッパに行ってしまいます。後ろ盾を失いながらもなんとか紳士のふりを続けていたチャップリンでしたが、仕事の昼休みに彼女の家を尋ねた際、彼女が明日中に家賃を支払いをしなければ退去をさせられることを知ります。なんとかすると約束したチャプリンでしたが、午後の就業に遅刻してしまい給料の前借りをするどころかクビになってしまいます。
 明日までに大金を得ようと賭けボクシングに挑戦するも負けてしまった場面から、ご覧いただきましょう。

 


 帰国した富豪の男と再開した場面から、映画の終わりまでご覧いただきました。この映画の「窓」は、ラストのショーウィンドウといいますか、花屋の壁一面のガラスです。ご覧頂いたとおり、窓は屋内と屋外を仕切っており、視界は開けていますが二人を区切っています。
 花売娘は目が見えるようになっており、チャップリンから手渡されたお金を元手にして開業したであろう花屋を営んでいます。親切な行いをしてくれた紳士にはいまも感謝しており、当然ながら相当な社会的ステータスがあると思っています。お店に紳士が訪ねてくるたび、彼ではないかと思ってしまいます。彼女の祖母が以前と変わらず居ますが、祖母はチャップリンが彼女の家を訪れたときいつも不在だったため紳士の姿は知りません。
 刑務所から出てきた、みすぼらしい恰好となったチャップリンは、娘がいつも花を売っていた場所を訪ねる等街を彷徨い歩きます。馴染みの新聞売りの少年たちにからかわれたあと、花びらを拾い振り向くとあの娘がいます。こちらを見ています。こちらを見て笑っています。それは、彼女がこれまですることがなかった身振りです。彼女は浮浪者に気に入られたと笑い、花とお金を恵もうと窓越しに合図します。キャメラは店内に入り、娘越しにチャップリンを映します。映画の冒頭、二人が出会った場面では彼女が落とした花をチャップリンが拾うことで彼女が盲目だと気づきましたが、この場面では逆に、チャップリンが花びらを落とし、それに気づかない彼の姿を見て娘は笑っています。正体を気づかれないように去ろうとするチャップリンをつかまえて、娘がチャップリンの手を取ります。その感触によって彼女はすべてを悟り、理解します。Can you see now? I can see now. いったい"now"とはいつのことなのでしょうか。驚くべき恵み。とにかく、ここで感動的なのは、彼女がチャップリンの優しさに気づいたとか「見た目より中身よね!」といったことではありません。まだ目が見えていなかったときに彼女が感じていて知っていた、見えていたものが、目が見えたことでかえって感じられなくなり忘れていた、大切だったはずのことを思い出した点です。それは視覚ではなく触覚を通して喚起されました。
 チャップリンの手を取り思い出している娘の姿から、彼女を見つめ笑みがこぼれるチャップリンの姿から、かつて「ある」ことを感じていた「映像」を呼び寄せ、また、彼女が見ていた「映像」が、彼らの姿を映した「映像」が、そこにはない生々しい「映像」を呼び寄せています。目の前にあった取るに足らないと思っていたささいな出来事が、重大で、かけがえのないことだと思わせる認識の変化をもたらしています。
 屋内外で区切るだけでなく、二人の視線を交じらわせながら偏見というフィルターとして機能し、物理的かつ精神的な距離を生じさせていた「窓」でした。

 

 続きまして、窓が開閉の運動とともに視線を遮断し、二人の関係を決定的に変えてしまう映画をご覧いただきます。クリント・イーストウッド監督の『マディソン群の橋』です。
 同名の小説が原作で、1995年に公開されたこの映画は、はじめはスティーブン・スピルバーグ監督が製作を務めスタートしましたが、『シンドラーのリスト』でスピルバーグ監督が忙しくなってしまい降板します。それに伴い、監督、脚本も二転三転し、最終的にイーストウッド監督が製作・監督・主演を務めることになりました。相手役にはメリル・ストリープが選ばれました。彼女は最近ではスピルバーグ監督の『ペンタゴン・ペーパーズ』に出演しています。メリル・ストリープは演技に訛りを入れる「訛りの女王」と呼ばれ、今回の役ではイタリア訛りで演じたようですが、イーストウッド監督はもっとシンプルに演じてほしかったそうです。
 この映画は原作にない枠物語の構造をとっています。現在の時制では、母であるフランチェスカが亡くなり、遺品を整理する娘と息子が母の日記を読んでいます。過去の時制では、母と一人のカメラマンの出会いが描かれています。例えば、こうした物語構造の映画は『タイタニック』や『ボヘミアン・ラプソディ』があります。日本映画でいえば、溝口健二監督の映画の多くはこの枠物語のかたちをとっています。
 あらすじをご紹介します。世界中を旅するカメラマンと閉鎖的な田舎で暮らす人妻が恋に落ちた4日間の物語です。大きな不満はないものの充実した生活をしているとは言い難いメリル・ストリープ演じるフランチェスカが、夫、娘、息子が子牛のコンテストに出かける間、家で留守番をしています。そこへ屋根付きの橋を撮影してアメリカ中を回っているイーストウッド演じるカメラマンのロバートが道を尋ねてきます。田舎の混みいった道をひとつひとつ説明するより案内した方が楽だと、フランチェスカはロバートの車に同乗し案内します。話をするうちに気が合った二人はその日の夕食も共にし、恋に落ちます。二人で逃げ出そうとロバートはフランチェスカを誘いますが、彼女はなかなか決心がつきません。過去にこの街で浮気をした女性が住民から冷たい扱いを受けているからです。自分がこの街を出ていった後、残された家族がどのような扱いを受けるのか考えただけでもいたたまれず、フランチェスカは踏ん切りがつきません。
 家族が帰ってくる前夜、二人で過ごす最後の夜から見てみましょう。

 最後の夜から、二人の別れの場面までご覧いただきました。車の窓、運転席や助手席の窓だけでなく、フロントガラス、バックミラー等様々な窓がありました。
 なかでも驚くべき窓は、信号が変わっても動かないロバートの車をフランチェスカの夫がクラクションを鳴らし、ようやく発進、左折したロバートを夫越しに眺めていたフランチェスカの視線が遮断される運転席側の窓です。
 ご覧頂いたとおり、このタイミングでしかありえないタイミングで、窓は二人の逢瀬を知らないはずの夫によって閉められました。スタンドから出るときにすでに土砂降りの雨が降っていたにもかかわらず、信号が青に変わっているのになかなか発進しない前の車へクラクションを鳴らして催促するほど時間があったにもかかわらず、彼女の夫は窓を閉めずにいました。そのクラクションの音がロバートのもとへ走ろうとする彼女の動きを止め、閉めらていく車の窓が涙が止まらぬ彼女の視線を断ち切り、フランチェスカとロバートの別れを「かたち」として表現していました。
 自覚があるなしに関わらず、こうした身振りを完遂した夫・リチャードは知らず知らずのうちに映画のフィクションに加担してしまっています。互いの存在に気づき微笑みを交わした時点ですでにフランチェスカとロバートの別れは決着がついていましたが、二人の速すぎる「気持ち」に追いつくように映画は速度を上げ、窓が視線を断絶して二人の別れとなりました。

 最後に、映画という矩形の映像ジャンルに対する強い批評性を感じさせるジャン=クロード・ルソー監督の映画『二度の世界周遊』『偽りの出発』をご覧いただき終わりたいと思います。

以上で、映画☆おにいさんのシネ・レクチャー vol.1「窓」を終わりたいと思います。これからも「窓」の多様なニュアンスを楽しんで映画をご覧いただければと思います。
本日はどうもありがとうございました。

 

(シネ・レクチャーの原稿に加筆・修正を行った。)

 

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.24「パオロ・ベンヴェヌーティ」

 

f:id:gogolatalante:20171211175930j:plainパオロ・ベンヴェヌーティ監督作品について、

映画☆おにいさんといっしょに考え、話し合いましょう。

 ※参考上映あり

日時:1月27日(土)18:00〜

場所:水曜文庫

   〒420-0839

    静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F

場所代:一般 800円  学生  500円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-689-4455、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

「工場というダンス」について

 山形国際ドキュメンタリー映画祭に行ってきました。映画祭公式ガイドブック「スプートニク」に、青山真治監督が『天竜区奥領家大沢 別所製茶工場』について「工場というダンス」という文章を寄せて下さっています。自分の名前が載っていたのが気恥ずかしく、山形では途中で読むのをやめてしまいましたが、帰りの電車で拝読しました。「工場というダンス」という舞台もしくはその場がもたらすリズムをそのまま映画に取り込むことを、「映画とはなにか?」と同義の問いとして、「間」という言葉とともに「切り返し」を重要な”概念”として提起されていました。このとても刺激的な文章と、映画祭運営スタッフの方々による細やかな対応、配慮もあって、映画祭特有の熱気を帯びた観客に、それも二回とも立ち見が出るほど多くの方々に『天竜区奥領家 別所製茶工場』をご覧いただき大変嬉しく思います。


 「切り返し」というと、『魔法少女を忘れない』の素晴らしい切り返しを思い出す方もいらっしゃると思うが、一般的な映画技法にとどまらない堀監督が試みた「切り返し」は、『天竜区奥領家大沢 別所製茶工場』の後、『天竜区水窪町 祇園の日、大沢釜下ノ滝』、『天竜区奥領家大沢 夏』、『天竜区奥領家大沢 冬』へと受け継がれ、絶対的な新しさを宿している『天竜区水窪町 山道商店前』へといたる。そしてこの一連の試みは、堀監督がユリイカ「蓮實重彥特集」に寄せた文章で、「魔法を使っているのは、「イニスフリー」という娘なのかもしれない」と述べていたこととそう遠くない話だと思う。
 人類史上初めて作られた映画『工場の出口』から「工場の一部」へ。「編集」という概念を手に入れたわたしたちに、『別所製茶工場』は、「説明責任」や「問題意識」といった身振りとは遠く離れた「工場というダンス」を通じて、没入とも異なるかたちで、本来ならば眼球を切り裂かれるほどの背徳行為であった「見る」という快楽を与える。例えば、今となっては出荷するためにかかる費用の方が売値より高くなってしまった植林された樹々。山あいから立ちこめる霧をたっぷり吸い込んだ集落の大半の面積を占める茶畑。四時間半も彼の人を待つ汽車のように蒸気を吹き上げる製茶工場。橋を駆ける騎兵隊のように地の揺れとともに画面手前へ迫り来る茶葉。「ヨウ兄!」と家族からの声が聞こえカットが変わるとモノレールに乗ったヨウ兄が斜面を登っていく。『夏の娘たち〜ひめごと〜』に繋がっていくと思われる、それまで散り散りに摘んでいた女性たちが同一画面に現れ休憩するために準備をする姿。モノレールの陰で休むジョン。投げられる出がらしのお茶っ葉、木札。葉の状態を確かめる大沢の方々の指の美しさ。その地に受け継がれてきた集団的記憶が具現化されている。
 集落中を、そして生活圏を実際に歩いてみて距離感を体感することで、身体感覚として納得がいった「実景カット」を積み重ねていく。結果、手前の山から向いの山へと大きな「切り返し」となり、そうした切り返されているのかもよくわからないほどのロングショットの「切り返し」は、カットとカットをどうつなぐか、本来つながるはずのないものがどうすればつながるのか、どうすればそうであってもいいのかという当たり前のように思っていた問いを生じさせる。その答えは時に音であったり光であったり風であったりするのかもしれないが、そうしたコントロールが利かず瞬間瞬間に思ってもみないように姿を変える対象がもたらす驚きにカットが替わるごとに遭遇する。そうした映画が作られる過程も含めた過激な「おおらかさ」が「十四の漢字の連なり」をおおっている。
 それは工場の中にカメラが移動しても変わらない。青山監督が指摘されているように、製茶作業の工程の速度に身を寄せ、工場全体が脈動されるリズムで画面を繋いでいく。そうした速度によって、いつの間にか工場に轟く機械音や老朽化により生じるカメラのモーター音さえ豊かな調和をうむ。「心理」に寄り添うことはけっしてなく、その「音色」は自然化されることを拒む。
 「中野くんは明日も来てくれるか?」
 あくまで身体的な、現在の瞳の記憶が、知るはずもない「不在」を呼び寄せ物語を紡ぐ。生々しく、禍々しい映像。『アメリカン・スナイパー』のブラッドリー・クーパーのごとく「触れる」ように撮ることによって、撮ることが搾取ではないかたちとなり「等価性」を持った映像として『天竜区』シリーズはある。今回の上映で興味を持たれた方は是非その他の『天竜区』シリーズもご覧になってほしい。堀監督の、というより映画の、と言うべきかもしれないが、「魔法」がそ知らぬ貌でスクリーンにありつづけている。堀監督がよく言っていた「映像言語」とはどのような意味だったのだろう。堀監督は別所さんの言葉に、しぐさに、そして後ろ姿にどのような物語を託したのだろう。私はそのことをこれからも考えつづけていくだろう。『天竜区』シリーズに終わりはない。

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.23「抱く」

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男性が女性を抱く、あるいはその逆
映画のラストに、またはオープニングに
登場人物が出会ったときに、別れるときに
愛が結実したとき、別れの予兆に
アクションが動から静へ、静から動へ
「抱く」ことはシチュエーションによって様々に変化しますが
どの場合においても「気持ち」はさらに速度を上げ
光の速さで蠢いていきます。
そうした「気持ち」が抱かれるとき
映画はそれを表現するために
どのように姿かたちを変えていくのでしょうか?
映画☆おにいさんが選んだ「抱く」シーンを観ながら
いっしょに考えましょう。

日時:9月23日(土)18:00〜

場所:水曜文庫

   〒420-0839

    静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F

参加費:一般 800円  学生  500円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-689-4455、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)