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GO!GO!L'ATALANTE!!

ゴー!ゴー!アタラント号!! 映画☆おにいさんのBlog

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.22「マノエル・ド・オリヴェイラ part2」

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マノエル・ド・オリヴェイラ監督の映画を観ながら、いっしょに考え、話し合いましょう。
(内容は前回と異なります)

日時:5月20日(土)18:00〜

場所:水曜文庫

   〒420-0839

    静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F

参加費:一般 800円  学生  500円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-689-4455、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

コロンブス 永遠の海

コロンブスのサイン、石碑、航海の様子を描いた絵が映される。ナレーションは、コロンブス役のジョゼ・ルイス・トーレス、続いてリカルド・トレパによって語られる。

 移住。1950年。
 鳥が羽ばたく音、鳥の鳴き声が聞こえてくる。低い位置に構えられた手持ちカメラが、二人の男が歩く姿を後退しながら正面から捉える。二人の視線は揃って画面右上に投げかけられている。雲一つない青い青い空にはたくさんの鳥が飛んでいる。ジョゼ一世の騎馬像に多くの鳥がとまっている。ポルトガル国旗のような赤色と緑色のコスチュームを纏った女性(クレジットでは「天使」とされている)が壁の影から現れる。女性の後ろには、現代の服装の通行人や工事をしている人がいる。カメラは騎馬のアップとなる。鳥が頻りにとまっては飛びたっている。続いて騎馬の目線であるかのような俯瞰ショットとなる。歩く二人の男がフレームアウトする。彼らマノエルとエルミニオの兄弟は、アメリカへの船に乗るためにリスボンを訪れ、そのついでに遺跡を巡っているようだ。彼らは遺跡を見上げるのに最適な場所があるかのように、逐一トランクを置き、見上げ、再びトランクを持って歩きだす。彼らは画面外に視線を投げかけては、次のカットで映し出される遺跡について話している。しかしながら、彼らの背景はほとんど突き抜けた青い空か地面のどちらかでしかなく、彼らがどこに居るのか精確にはわからない。そして、彼らが語る遺跡やリスボンは一部分が映し出されるのみであって、街の全景を捉えた映像があるものの、それは記録フィルムの映像である。
 マノエルがエルミニオに「母親は?」と尋ねると、画面はそわそわと小刻みに身体を揺らす女性がアップで映し出される。彼女は兄弟の母親であるらしく、先にアメリカへと発つ息子たちを見送りにきたようだ。汽笛が響く。別れの抱擁を終え、船へ乗るために兄弟がフレームアウトすると、母親はバッグから白いハンカチを取り出す。兄弟は船に乗り込む階段の途中で振り返り、母親へ手を振る。母親も手を振り返す。兄弟は再び階段を登っていく。母親はハンカチで涙を拭い、息子たちからゆっくり右へ視線を切る。いったん息子たちに視線を戻すも、再び視線を右へ向け歩き出す。表情から感情を読み取ることは難しいが、彼らの仕種ははっきりと見てとれる。ここでの切り返しの画面は、ともに背景が画面左手前から右奥へ斜めに伸びる壁と船であり、イマジナリーラインが無視されているつなぎまちがいである。天使が船に乗っている。次のカットでは天使の視点であるかのようなロングショットが母親がフレームアウトするまでの時間を捉える。天使は腰に差していた剣を取り出し両手で握りしめる。画面は曇天の海となり音楽が流れる。

 船の一室で、マノエルは父親の心中を察しながらも父親の半ば強引な招集への不満を大げさに手振りを交えて話す。エルミニオは相槌を打ちながら、ランプの台を指でなぞっている。兄が急に画面外に向かって話しかける。同じ船に乗り合わせた、父親と同年代であろう初老の男が答える。画面には終ぞ登場しない父親の代理のようなこの男は、兄弟たちの質問を始終はぐらかす。脇に座る若者たちは、自動人形のように首を振って二人の会話を追うが、次第に初老の男を凝視する。会話が終わりこの一室を引いて捉えた画面となり、船が揺れるたびに丸窓から差しこむ光が、初老の男の顔の輪郭を浮かび上がらせる。マノエルはそれに気付き、一瞥する。
 夜半に到着したというニューヨークは、ポルトガルの青い空とは対照的に、濃い霧に包まれている。画面はチープな特殊効果によって白く霧がかっており、自由の女神はよく見えない。兄弟はボートに乗り、波止場へ向かう。星条旗の下を通り、入国審査の建物へ入っていく。あきらかにセットである簡素な造りの建物には壁に大きな星条旗がかけられている。兄弟は審査官に二種類のパスポートを渡し、判子をもらう。マノエルは英語に慣れていないのか発音がたどたどしい。建物から出た兄弟は愚痴をこぼしながらタクシーを待つ。つかまえたタクシーに荷物を載せて乗り込む。発車したあと、幾人かの通行人が通り過ぎ、続いて建物から出てきた男が道を横切る。
 タクシーの後部座席に座っている兄弟は、赤色と緑色のライトに交互に照らされながら、画面左外を揃って見つめている。カメラは窓の外の風景を映すが、窓ガラスが白く汚れている。運転手が行き先を確認する。マノエルが答えると、次の瞬間には目的地に着いている。荷物を下ろしたタクシーがエンジンをかける。兄弟はホテルへの階段を登る。車が発車する音が響く。従業員がホテルの部屋の灯りを点ける。従業員が彼らの横に立ち、兄弟は二人とも立ち竦む様子をカメラは正面から捉える。
 再び、兄弟はタクシーの後部座席に座っている。外は相変わらず曇っている。出発してから大分経っているようだが、兄が運転手へ行き先を告げる。ブルックリン橋へさしかかり、窓の外へカメラが向けられる。このタクシーも窓ガラスが汚れている。外は曇りである。けっきょく、タクシーからカメラが出ることはなく、ブルックリン橋の全景は分からない。目的地のレストランでは、同姓のよしみでオーナーから職を紹介してもらう。大きな窓にはブラインドがされている。地名をメモしようとするが、うまく聴き取れずメモをすることができない。オーナーがもう一度はっきりと発音する。「マン、ハッ、タン」

 マサチューセッツの医師。1957年。
 鳥の鳴き声とともに、青空の下、聖ルーク病院が映し出される。マヌエルはポルトガルで学位取得後アメリカで医師として働いており、この病院で講演をしているところである。アメリカでの生活は長いのか、流暢に英語を話している。演台の横には星条旗がたてられており、黒板にはカリブ海の船路が描かれている。壇上で質問に答えるマヌエルは正面から、最前列の一組の男女が斜めから、そして聴衆全員が正面から映される。マノエルは講演を終えて退席する。聴衆は続々と席をたつが、一組の男女は座ったままマヌエルの愛人だという岩について話す。コロスのようにマノエルの私生活について語るこの二人の会話は、この映画では唯一、制度的な”切り返し”によって撮られている。会話の途中からカメラは黒板と演台を映す。会話を終えた二人が退室し扉が閉まる様子が音でのみ伝えられる。

 ポルト大聖堂。1960年
 鐘の音が鳴る。ポルトの街並が映される。カモメが鳴きながら飛んでいる。カメラは聖堂の入り口付近から祭壇を捉える。ポルト大聖堂に神父の声が響く。マノエル・ルシアーノとシルヴィア・ジョルジュの結婚式が行われている。誓いの言葉を読み上げる神父のアップとなる。続いて、祭壇の陰から天使が現れ、すぐさま闇に消える。神父の言葉に耳を傾ける新郎新婦が正面から映される。奥にはバラ窓がみえる。誓いの言葉は続くが、画面はホテルから出てくる二人へと移行する。ホテルのボーイが車に荷物を積み、ドアを開ける。マノエルとシルヴィアは車に乗り込み、ほどなく発車する。車は橋を越え、野を越え、カメラが車の動きを追ってパンしたかと思うと、あっという間にポルトガル南部を走っている。誓いの言葉が終わり、パイプオルガンが鳴り止む。「アーメン」の言葉にあわせてカメラは車内へと移動する。車を運転するマノエルと助手席のシルヴィアを真後ろから捉える。フロントガラスからみえる道路は地平線までまっすぐ続いており、彼ら以外の車は見えない。
 白い家々の街並に、犬の鳴き声。画面手前に歩いて来る女性が遠くに見える。同じように画面奥から来た車が女性の傍で停車し、彼女を呼び止める。近寄った彼女にマノエルら三人のアップとなる。マノエルとシルヴィアが女性にいくつか尋ねるも、女性は首をひねるばかりで芳しい答えは得られない。二人は御礼を言って車を発進させる。カットが変わり、車が道ばたに停まる。シルヴィアはスカーフを着ける。マノエルが先に降りて助手席に回り込んでドアを開ける。二人は並んで歩いていく。
 カメラは教会に入って来る二人を祭壇から捉える。教会の長椅子には二人の女性が座っている。神父が立ち上がり、挨拶をする。祭壇は戦争のため破壊されている箇所がある。シルヴィアも神父に質問するも、コロンブスについての有益な情報は得られない。二人は車へ戻る。シルヴィアはスカーフをとる。音楽が流れ始める。マノエルが助手席のドアを開ける。画面はカテドラルの外観が映し出す。ドアを閉め車が発進する音が聞こえる。
 画面奥へと続く一本道を車は走っていく。音楽に紛れて鳥の鳴き声も聞こえる。車が見えなくなる。
 カメラは再び車内へと移動する。ハネムーンに出発したばかりの二人が、文化的な面ももちろんあるだろうが、運転しながら過度に見つめ合い話す様子を真後ろから捉えていた場面とは異なり、今回はフロントガラス越しに正面から捉える。学生時代や父の出生地について話されるこの会話場面が、前回のそれとは異なるのは、カメラ位置もそうだが、二人が話す話題と話題の合間に一瞬の沈黙が挿入されている点である。仮に前回が運転しながらも互いに見つめ合うシルエットが撮りたかったとするならば、今回の会話場面は、ふと会話が途切れ前方の景色を見遣る二人の、何を考えているのやら宙に吊られた表情を、そして何か思いつく瞬間の表情を撮りたかったかのようだ。
 ベージャ城に寄り道し、車を停める。車を停めた場所から斜め後ろにお城がある。だが、彼らは視線を城に向けることなく、車を再び走らせる。城壁に鳥が二羽飛んでおり、鳴き声が聞こえる。
 車が画面奥より来て、道ばたに停まる。シルヴィアは車から降りて、植栽の前で足を止める。画面はドナ・セオノール像となる。しばらくすると足音が聞こえ、画面左からマノエルとシルヴィアが現れ横切っていく。そのため、このカットはシルヴィアの主観ショットではない。二人は博物館に入っていく。展示品の中を歩く二人。キリストの壁画が正面から映し出される。続いて、夫婦が首を反らせて天井を見上げる画面となる。今度はあたかも主観ショットのように撮られている。奥から、館長が現れる。二人は顔を戻し、自己紹介をする。そして、ベージャ公の墓が映る。カメラはそのまま動かず、複数の足音が聞こえ三人が会話をしながらフレーム・インしてくる。
 塔では、透きとおった青空の下、風にたなびくポルトガル国旗が、傍に天使が立っている。吹き荒ぶ風にはためく旗の寄り、見上げる天使の寄り、再び旗の寄りと画面は推移する。塔を捉えた引きのカットに戻る。天使は柵に近寄り、下を覗きこむ。風で天使の髪が舞い上がる。画面は俯瞰の映像となり、マノエルら三人が扉から入ってくる。城壁内を捉えた画面に三人がフレーム・インし、見上げる。奥には天使が立っている。三たびポルトガル国旗となる。見上げていた三人は塔に向かう。先ほど立っていた天使は居なくなっている。
 階段を上り、塔へと到着する。塔へと至る階段でマノエルはシルヴィアの手を取ってやる。塔で三人は辺りを見渡す。イスラム教の影響を受けている城壁内の風景が映し出される。マノエルら三人、遠くを見遣る天使の寄りが続く。
 音楽が流れ、ベージャへ向かうときとは別の一本道が映し出される。今度は車が画面奥から手前へと走ってくる。
 海原へと突き出すサグレス岬がみえる。サグレス砦へと車が入っていく。道が荒れているため、車体に据えられたカメラも揺れている。砦内に車が入ってくる。紋章のアップのあいだ、車から降りる音がする。車から降りたシルヴィアがコートを羽織り、スカーフを着ける。周辺に視線をやるマノエルは由緒ある航海学校なのに荒れていると憤る。風が強いためシルヴィアの前髪が乱れる。マノエルが羅針図を見渡す首の動きにあわせて、パンしながら羅針図を映すカットへ切り変わる。二人は航海学校へと歩き出しフレーム・アウトする。航海学校へと歩く二人の小さな後ろ姿と、建物から二人を迎える女性が見える。
 学校の敷地へ入ったシルヴィアと女性がスカーフを外し、マノエルを待つ。扉を閉める音がし、マノエルが二人に追いつく。三人は幾何学的な柱が続く廊下を画面奥へと歩いていく。マノエルは画面外へ視線を向け、荒れている航海学校をなぜ復元しないのか女性に尋ねる。三人は建物内の部屋から、天使の横を通り、さらに奥へと進む。天使は窓の方へ歩をすすめる。ピアノの曲が流れ始める。青空の下、海沿いの長い道を歩く二人の姿が見える。外を眺める天使が窓越しに映し出される。シルヴィアが詩を朗読し、マノエルが復唱する。遠くを見つめる天使は微笑んでいるようにも見える。青い青い海。

2007年。47年後のニューヨークにて。
 これまでのように黒字に白文字が印字された画面での場面転換ではなく、海原を背景に「2007 quarenta e sete anos depois Manuel Luciano e Silvia Jorge em Nova lorque」の文字が浮かぶ。
 朝焼けのニューヨーク。サイレンが鳴っている。青空にタイムワーナーセンター、コロンブス像。鳥が一羽横切る。コロンブスの航海する様子が描かれたレリーフオリヴェイラ監督夫妻が演じている、結婚してから47年後のマノエルとシルヴィア。彼らはコロンバスサークルの噴水の前にいる。夫婦はうんと首を反らして見上げている。ワシの像の寄りの後、誰の目線とも分からぬニューヨークのビル群へと画面は移行する。急なあおりの画面となり、タイムワーナーセンター、トランプ・インターナショナル・ホテル・アンド・タワーとともに、コロンブス像が晴天へとのびる画面に夫婦がフレーム・インする。ほぼ目線の高さにカメラは戻り、正面から夫婦をとらえる。二人とも画面外上方を眺めている。コロンブス像において鳥(ワシ)の像と表裏一体である発見の天使像がアップで写される。夫婦はそれをじっとみつめる。
 船尾で風にはためく星条旗。画面奥には自由の女神が見える。船が揺れているので、固定されながらも画面は上下に揺れている。船尾のデッキでマノエル夫妻が並んで遠方を見遣る様子を正面からとらえる。風が強く、シルヴィアが頭に着けているスカーフが風に揺れる。シルヴィアがおもむろに詩を朗読し始める。カメラは夫妻の反対側に移る。夫婦越しに、カメラは画面中央に自由の女神を据える。星条旗が掲げられた竿が、船の揺れが伝わる画面をおおよそ半分に分割する。船の揺れのため、自由の女神に竿が被ったり被らなかったりする。共に背面しか見えず微動だにしないでなされているマノエルとシルヴィアの会話が丁度終わったところで風が止み、星条旗自由の女神に被る。
 カメラは船内へ移り、ソファを正面から写す。マノエルとシルヴィアが画面右前からフレーム・インしてソファへ腰掛ける。そこへ画面奥から天使が現れ、二人が話す様子を見つめる。天使は、先ほどまで映っていた自由の女神と同じように、画面中央に位置している。長回しの会話の最中、画面は唐突に自由の女神を画面中央に引きで捉えたカットが挿入される。カメラは再び船内の同ポジションに戻り、「かたち」が重ねられる。シルヴィアの笑いにあわせて画面は切られ、バークレーのダイトン・ロック州立公園の看板が映し出される。
 ダイトン・ロック美術館の前に車が停まっている。美術館内で、マノエルが展示品をシルヴィアに説明している。彼らが話題にする展示物は分かるが、ここでも建物の全体を把握することはできない。例えば、記念碑の両端にある二つの扉の片側から入りもう一方から出てくるが、開いた扉をとおして見える空間はその間に描かれた空間と明らかに一致しない。そして、この美術館から帰るとき、完全予約制である美術館であるので誰かしらはいるのかもしれないが、扉を開けたまま二人は屋外へと出ていく。47年経っていても同じように、シルヴィアはスカーフを着け、マノエルはシルヴィアのために助手席のドアを開けてやり、車に乗り込む。開け放たれた扉の向こう側で、車は走り去る。
 夫婦は、トマールのキリスト教修道院にある円堂を模したと思われる塔を訪れている。カメラは正面からバストショットで二人を写す。マノエルが目にもとまらぬ速さでポケットから写真を取り出す。カメラは写真を覗き込む彼らの背面にまわる。マノエルもシルヴィアも帽子をかぶっている。画面は最初の引きの画に戻り、二人は塔と写真を見比べる。再び彼らの寄りの画面となる。この塔から海を見渡せるはずであるから行ってみようと、二人は画面右端へと歩み始めるもフレーム・アウトする前に画面は切り替わり、すでにフレーム・インしている二人が画面中央で歩みをとめる。現在はきちんと見えないが前はもっとよく見えていたはずだというマノエルが言った後、画面が切り替わり、電柱や木々によって視界が遮られてはいるものの、画面奥に海を確認することができる。しかしながら、二人を正面から捉えた前のカットと画の連続性が全くないので、180度の切り返しであるとも考えられるが、二人の視線と観客に与えられた画が一致しているかは定かではない。そして、カメラは二人を正面から再び捉えるのだが、二人はもっと間近で海を見ようと画面から姿を消す。画面右奥では星条旗が風に吹かれており、画面奥から車が何台かこちらにやってくる。
 陽が陰った海岸沿いを、先ほどと同じようにしかし異なる車が、画面奥から走ってきて道ばたに停車する。車から降りたマノエルが助手席のドアを開け、シルヴィアをエスコートする。道路を渡り海岸へと歩く二人をカメラはパンして追う。音楽がなり、その他には打ち寄せる波の音がわずかに聞こえるのみで、二人が何を話しているかは分からない。ある方角を指し示しながらシルヴィアに何かを説明しているマノエルが「かたち」であらわされる。
 海岸沿いから撮られた曇天の海から、同構図の快晴の海へとオーバーラップする。それは上空から撮られたものであり、空撮のため画面が揺れている。続いて上空から島の様子をうつし、カメラは滑走路へと移る。画面奥に「PORTO SANTO」の文字がみえる。飛行機が着陸して現れフォローミーカーに案内されて停まる直前までの、一度は画面外へと捌け再びフレーム・インしさえする一連の動きをカメラは収める。
 空港内で、マノエル、シルヴィアとガイドの三人がカートを押して来、画面中央で立ち止まる。ガイドと話し合いの中で、フライトの疲れが示唆されるが、兎にも角にもコロンブスの家へと向かうことにする。そこには、これまでと同じように、ためらい、しりごみ、とまどいなどまったく見受けられない。
 タクシーが路地の手前で停車する。タクシーから降りた三人は細い路地を通り、コロンブスの家の敷地へと入っていく。鳥の姿は見えないが、鳴き声は聞こえる。彼らが階段を上がると、画面奥にあるコロンブスの家へと続く階段に天使が立っている。彼らは天使の存在に気付かない。そこへポルト・サント美術館館長が驚くべき速さで階段を駆け上がり現れる。先ほどと同じ位置の画面だが、そこに天使はいない。天使はいかにもな動きもせずただ佇むのみである。画面が切り替わったときには、期待すべき時には、発見の天使はすでにいない。マノエルらが挨拶を済ませて、奥の階段を上り部屋へと入っていく。
 家の中の荷物は研究中のため運び出されている。壁には画と写真が幾枚か展示されている。部屋の中でやや離れて位置する5人が示されたのち、展示された画や写真を順を追って見ていく。彼らが移動する際には決まって部屋の中にいる天使が映される。そのため、次の写真へと話題が移って彼らが移動したり身体の向きを変えるとき、動作はその始めと終わりが映されるのみである。動作途中では画面は天使を映し、その動作や移動は音によって処理されている。そして館長がペソアの詩を朗読したあと、天使がカメラへの視線を切って窓辺から画面右へとフレーム・アウトする。カメラは部屋の外へと移り、窓越しに部屋の中の彼らを捉える。館長の意見にマノエルは若い頃からの口癖「そのとおり!」と答える。そして夫婦共々、窓へと歩きだす。二人は窓枠に手をかけ、シルヴィアがアフォンソ・ヴィエイラの詩を朗読する。老夫婦がただ画面手前へと歩いてくるだけのこのカットがこれほどダイナミックで感動的なのは、シルヴィアが朗読する詩の内容に郷愁を感じるからではなく、フレームの中にさらに窓枠というフレームによって限定された狭い構図内での運動であることに加えて、このシーンで初めて人物の動作が一部始終捉えられているためである。
 朗読途中からカメラは窓の外の風景を映し出す。棕櫚の陰から白い客船が姿を現す。朗読が終わり、一拍置いて、汽笛の音。姿を消した天使が祝福しているかのように、画面には映らない何羽もの鳥の声が響いている。客船がフレーム・アウトする。続いて、砂浜から海原を捉えたカットとなる。青い青い空と海。波が静かに押し寄せている。水平線に白い客船が見える。もはやどこの海岸なのか、先ほど見た客船と同じ場所なのかわからない。エンドクレジットが終わり、再びシルヴィアの朗読がなされる。朗読が終わり、客船がフレーム・アウトする。波と風の音が徐々に遠のいていき、映画は終わる。

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.21「マノエル・ド・オリヴェイラ」

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2015年に106歳で亡くなられたオリヴェイラ監督の映画を観ながら、
映画について話し合いましょう。

日時:2月25日(土)18:00〜

場所:水曜文庫

   〒420-0839

    静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F

参加費:一般 800円  学生  500円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-689-4455、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.19「マルグリット・デュラス」

 本日はお集まりいただき、ありがとうございます。
 今回はテーマに沿った映画を抜粋でご覧いただくのではなく、映画をまるごと一本ご覧いただいたのち感想を話し合うというかたちで進めていきたいと思います。今回取り上げる映画は、マルグリット・デュラス監督の『アガタ』です。この女性監督は、世界的なベストセラーである小説『愛人/ラマン』で知られる、カミュと並んで20世紀を代表するフランスの小説家でもあります。

 デュラス監督は、アラン・レネ監督から依頼されて『二十四時間の情事』(1959)の脚本を執筆したのをきっかけに映画に携わるようになり、67年に撮られた『ラ・ミュジカ』から映画監督もするようになりました。今回ご覧いただく『アガタ』は、ジャン=リュック・ゴダール監督との共同企画ののち書かれた小説を原作とし、1981年に撮られた映画です。
 それでは、マルグリット・デュラス監督の『アガタ』をご覧いただきます。

 

 

 

 木洩れ陽が照らすテクストが映し出され始まった『アガタ』は、数年ぶりに再会した二人の兄妹が昔日の思い出を語り合い、愛しあったまま別れる話だと、とりあえずは語ることができるのかもしれません。こうした「物語」だけ取り上げればTVドラマにもありそうですが、それらとは異なった印象をご覧になられて感じられたかと思います。ご感想を伺った際に多くの方がご指摘されていたように、画面と音声の関係が、私たちの生活を取り囲む映像とは異なるためです。
 普段接する機会の多いTV等の映像は、視聴者に映像の世界に浸って楽しんでもらおうと作られているので、安心して観ることができるように、音声は画面にそって構成されています。そのため、映っていないものが鳴らす音によって視聴者が混乱するようなことはありません。例えばロベール・ブレッソン監督の映画のように、もし画面外の音が登場人物に何かしらの反応を与えるような作りになっていると、観客は画面外の世界を想像せねばならず、画面から音声へ意識を切り替えることが要求され、映像の世界に没入することができなくなってしまいます。それを避けるため、TV等の映像は、常に音声が画面に従属する関係性となっています。さらに、そうした映像は、事前にはっきりとした語るべき「情報」や「物語」があり、それらを効率よく伝えるために文字情報等が駆使されています。

 しかし『アガタ』は、先ほど要約したような「物語」を巧みに伝えるような映像にはなってはいません。むしろある決まった「情報」によって捉えようとするとたちまちそれを拒まれ、つねに映像の本質を取り逃がしたような気にさせるものです。なぜなら、先ほどの要約は音声から受け取った「情報」をまとめたにすぎず、画面は音声とはまったく別の「物語」を語っているからです。
 画面は、主に海辺や廃墟となったホテル、人のいない街並を端正な構図で映し出します。窓枠越しの風景が人称を感じさせ、撮影スタッフが鏡越しに映りはするものの、登場人物と思しき人物は一組の男女のみです。彼らは映画の始めに提示されたテクストの内容とは異なり、リュックやコートは見当たらないですし、女性は書かれていた年齢よりだいぶ上にみえます。二人は数えられる程のカットしか同じ画面に登場せず、言葉を交わす様子もありません。互いを知ってはいるのかもしれませんが、なぜその場にいて、なにをしようとしているのかはわかりません。むしろ画面に頻繁に登場する波の方が、曇天のなか孤独にどんよりと、また、雲の切れ目から差し込む光を受けて荒々しく、感情を表現しているようにみえます。
 一方、音声は監督・脚本のマルグリット・デュラスと画面にも登場しているヤン・アンドレアの朗読によって構成されており、それ以外に私たちが聴き取れるのは時折流れるブラームスのワルツだけで、画面を撮影した時に鳴っていたであろう音を聴くことはできません。
 『ガンジスの女』(1972)についてデュラス監督が語っているように、まるで「二本の映画、イメージの映画と声の映画」が「完全に自律的にそこにある」ように思えます。しかし二本の映画を一本の映画にしたからといって、私たちは、”1+1=2”と足し算のように、それぞれを別々に感じ、組み合わせて、考えているわけではありません。イメージと声がそれぞれが自律的であるかのように振る舞うことによって、一つの映像が様々な「物語」を内包し、私たちはそこから多様な「物語」を感じ取っています。多様な「物語」を内包させようとする試みが『アガタ』でもなされています。

 私たちが普段接しているような映像は、視聴者を「混乱」させないように文字情報を使用して「分かりやすく」されてはいるものの、映像が持つ可能性は狭められているといえます。一方、『アガタ』は、「物語」を巧みに説明するために俳優が「リアル」に「再現」するわけではなく一見「分かりやすい」ものではないかもしれませんが、その分けっして画一的な印象を持つことはない、「物語」の過剰さを携えた映画です。このような開放された「映像」を観ると、まるで山で遭難した時のような不安を覚えますが、同時に「物語」の無限の可能性と付き合うことができる「自由」を感じます。

 このような「物語」の過剰さ、「自由」は、デュラス監督作品のような、「実験的」で「前衛的」な映画しか持ちえないものではありません。「古典的」「名作」と評される映画の中にも多々存在します。その例として、小津安二郎監督の『晩春』から幾つかの場面をご覧いただきます。

 

 

 三つの場面をご覧いただきました。
 一つ目は、鎌倉の自宅での笠智衆三島雅夫が方角についてやりとりをする場面をご覧いただきました。小気味よいテンポで会話がすすめられるのが面白くて個人的にとても好きな場面ですので、話の流れとはあまり関係ないのですが、ご覧いただきました。
 二つ目の場面では、能を父娘で観に行った帰り、原節子笠智衆と別れて友人の月丘夢路の家を訪ねます。バツイチの月丘夢路から「さっさと嫁に行くべきだ」と言われ、父親の再婚について悩んでもいた原節子は自暴自棄になり、月丘夢路が拵えたケーキを食べることもなく帰宅してしまいました。
 三つ目の場面では、見合いの返事を保留のままにしていた原節子が、おばの杉村春子に問いただされ不機嫌な沈黙によって了承の返事をするところから、笠智衆と三島雅也が龍安寺で会話をしているところまでご覧いただきました。
 ご覧いただいた崩れ落ちる雑誌、月夜に浮かぶ壷は、ご覧いただいた場面にしか出てきません。そのため、単にこれらの画面を時間経過を示すものと説明することもできますが、それだけでは到底言い表すことができないなにか、過剰な「物語」が感じられます。
 打ち寄せる波や、ただ座ったり歩く姿、なにかをじっと見つめる横顔、崩れ落ちる雑誌、壷。映っているものは何も特別な「出来事」を映しているわけではありません。日常の中にありふれているものばかりです。とはいえ、日常的なものを映したからといって「映像」が必ず過剰な「物語」を感じさせるわけでもありません。どうしてこれらの「映像」は、映っている対象自体の意味を超えて、「物語」の過剰さを私たちに感じさせるのでしょうか。それは、「映像」が貧しく〈ある〉からなのだと思います。

 ここでいう「貧しさ」とは、ハイデガーヘルダーリンの詩的断片についての講演で語っているような〈貧しさ〉です。その講演でハイデガーは「私たちは貧しさのうちで、貧しさによって豊かになる」という言葉を手がかりに〈貧しさ〉に関して考察しています。一般的に〈貧しさ〉とは、経済的に貧窮している、いわば「持っていない」ことを意味しますが、ここでいう〈貧しさ〉はすこし違います。ハイデガーのいう「貧しさ」とは「何も欠いていないで〈存在する〉こと」です。なくてもすむようなもの、不必要なものを欲しがることではありません。「必要であるもの」とは、必要にもとづき、必要を通じてやってくるもの、つまり諸々の欲求を引き出し充足させようとする強制からくるものです。したがって、「不必要なもの」はそうした強制からくるものではなく、「自由な開かれ」からくるものです。「自由な開かれ」とは、無傷なもの、いたわられたもの、利用に共されないものです。自由にすることは本質をやすらわせることであり、そうして解放されたものは必要の強制から守られたものです。ところが、自由な状態における自由にするものが、必要を反転させます。自由によって解放されたものは、自らの本質へ身を委ねるため必然性をもつものとなります。このとき、それは必要なものとなります。自由はそれ自体で「必要を転じる必然性」です。自由によって解放されたもののみ必要なものであるため、必要によって強要されるものは不必要なのです。したがって、貧しく〈ある〉ことは、「自由な開かれで」あり「自由にするもの」に身を委ねることです。そうして初めて、不必要なものを除いては何も欠いていない在り方で、貧しく〈ある〉ことができるのです。
 このとき、ヘルダーリンが「我々においては、すべてが精神的なものに集中する。我々は豊かにならんがために貧しくなった」と言っていたように、貧しく〈ある〉ことはそれ自体において、豊かであるといえます。

 先ほど私は、映像が過剰な「物語」を感じさせるのは映像が〈貧しい〉からだといいました。では、映像が〈貧しい〉とはどういうことなのでしょうか。
 映像の〈貧しさ〉は、予算の多寡・スケジュールとは関係なさそうです。もっといえば、「脚本」とも関係がないのかもしれません。それは、何が映っていて、何が聴こえているかという、徹頭徹尾、映像の連鎖に関わるものなのではないでしょうか。貧しい映像とは、画面が、音が、あらゆる細部がそれぞれの意味を超えて、豊かにならんがために各々が「自由」な関係のなかにある映像なのだと思います。
 しかしながら、「自由」な関係であるとは、ご覧頂いた映像からも分かるとおり、なんでもよい関係ではありません。「自由」な関係のうちにあることとは、画面に映る一一つの息づかい、聴こえてくる音色の一音一音、それらがもつ「物語」を最大限に活かすことによってもたらされる「物語」の過剰さです。そうした過剰はある細部から溢れ出て、なおかつその細部自身を凌駕するような過剰です。また、自身を凌駕しつつ、逃れた過剰なものが自身へと再び流れ込み、細部が飽くことなく語る「物語」の源泉となることです。この豊かでありながらも荒々しい「生」としての映像は、青山真治監督が「野性」と評し、「それは映画にはならない」と周りからいわれながらも己の「自由」な映画表現を押し進めたデュラス監督作品の軌跡からうかがえます。

 そして、そうした映像の在り方は、2014年に同志社大学で行われた回顧上映でのトークでジャン=クロード・ルソー監督が"accord"について次のように述べていたことを思い出させます。

そうして集められたイメージは他のイメージと出会うことができます。他のイメージと出会うことで、そこから、物語を予想することができるようになるのです。わたしはその出会いを"accord"と呼びます。
 一般には、つなぎ・つなぎのカットは
"raccord"と言いますが、私は"再び、つなぎ直す"という意味の"r"を取り、"accord(調和、和音)"という言葉を使いたいのです。"raccord(つなぎ、つなぎのカット)"では、何かを語るために映像があり、そこで映像は語られるものになってしまい、映像は見えないのです。"accord(調和、和音)"では、映像同士のつながりあいが起きることで、そこで厚み"volume"のようなものが作り出されるのです。

 ルソー監督がいうような"accord"を模索する映像こそが、貧しい映像なのではないでしょうか。
 『アガタ』でも、画面と音声がそれぞれ異なる映画のようにつくられていたそれらが合わさったとき、各々が内包していた「物語」が映像として調和し、廃墟や街並を通してヴィラ・アガタが浮かび上がり、またあなたの目が欲しいという台詞によって曇った窓ガラスが二人の距離を現前させてもいました。また、こまかな声の抑揚やニュアンスが、波のしぶきが、雲間からの陽の移ろいが、もしかするとデュラス監督の思惑をも超えて、"accord"するとき、映像は豊かな「物語」を語り始めます。

 それでは、ここまでルソー監督の言葉を引用してきましたが、実際にルソー監督の映画をご覧いただきましょう。『彼の部屋から』をご覧いただきます。『彼の部屋から』は、マルセイユ国際映画祭でグランプリを取った作品で、ルソー監督自身が登場人物である映画作家を演じています。全体は5つのパートに別れており、本日は一番始めのパートのみご覧いただきます。

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 Ⅰ.

 男はカーテンの隙間から玄関を閉める。
 『ベレニス』の朗読をしている男の声が聴こえる。廊下は暗く、部屋から洩れる日の光で輪郭をかろうじて把握できる。男は葉巻を燻らせながら椅子に腰掛ける。肘掛けに置かれたトレーに当たり、がしゃんと音をたてる。トレーにはグラス、コーヒーカップ、灰皿が載っている。男は黙ったままページをめくり、朗読を再開する。壁に掛けられた絵。ベルの音。
 弦楽器の演奏が聴こえてくる。屋外で演奏する人たち。男の部屋。窓から差し込む光は白い。男は窓際に立ち、外を眺める。
 男はドアを閉め、廊下を歩く。壁にかけられた絵を観たあと、奥にある鏡の前で立ち止まる。電話が鳴る。留守番電話に切り替わる。男は画面から消え、電話にでる。男の影が廊下に移ろい、消えてゆく。
 手紙と重しを移動させピアノの蓋を開ける。鍵盤カバーをとった拍子に何音か鳴る。
 グラスに酒を注ぐ。酒を持って椅子に座る。男は深呼吸をしている。一口大きく呑み込む。三分の一ほどになったグラスを肘掛けの端におく。端は傾斜がついている。喉の皺がおおきく動く。グラスは落ちない。外から発声練習の声が聞こえる。もう一口酒を呑む。男はグラスを置いたまま席を立つ。

 グラスが割れる音がする。
 白い光を遮るカーテン。ハンガーにかけられたシャツが揺れている。
 白いセーターを着た男が立っている。ピアノ脇の配水管に寄りかかる。
 男の朗読が聴こえる。無人のカフェ。
 自分の部屋で、男は座って朗読をしている。薄暗い部屋に差し込む光は赤い。
 男は一つずつ電気を消していく。
 ベッドに座り込む。車の走行音、クラクションが聞こえる。男は反応する。

 ベルの音が響く。

 

 ご覧いただいたように、「切断」や「余韻」というよりも「前進」のニュアンスに近い黒画面を交えながら、ルソー監督の映画は、「実験的」「前衛的」のように見えながらも映像は具体で満ちています。それも特別な出来事によって構成されているのではなく、日々の生活を切り取ったかのような「出来事」で構成されており、過ぎ去る日常がこの上なくかけがえのない一瞬一瞬で成り立っているというあたりまえのことを思い出させます。そこではすべてが正しさでつながっている映像というよりは、むしろたんなる映像として佇んでいるかのようです。映像は少しも「物語」など語ってみせようとする素振りなどみせずに、寡黙に流れつづけます。

 アントナン・アルトーは映画には「密かな動きとイメージの素材とに固有の力がある」とし、「ごく取るに足りない細部、ごく無意味な対象も、それらに固有に属する意味と生命を獲得する。しかも、イメージそれ自体の意味作用による効果、イメージが翻訳する思考、イメージが形成する象徴とは無関係にである。映画は対象を孤立させることによって、それに個別の生命を与える。」と語っていました。そして映画は「幻想的」なものに近づくだろうと預言していました。その預言通り、デュラス監督らの〈貧しい〉映画は、現実に限りなく近づきながら、現実を解放させるような映像の豊かさによって、私たちをトランスさせるのです。

 最後に、アルトーと同時代に、本日上映したルソー監督のように道化た映画を、撮り続けたバスター・キートン監督の映画をご覧いただき、本日のシネマ・カフェを終わりたいと思います。
本日はどうもありがとうございました。 

 

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.20「目覚める」

テーマ:目覚める

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眠りから覚めて、身体を起こす。
このような運動としての「目覚める」もあれば、
本来の自分に立ち返る「目覚める」もあります。
また、いままで見過ごしていた物事に”気付く”ときにも、
人は目覚めます。
このような精神的な「目覚める」ことも含めて、
映画はどのようにその変化を映し出すのでしょうか?
映画☆おにいさんが用意する抜粋映像を基に
一緒に考え、話し合いましょう。

日時:12月17日(土)18:00〜

場所:水曜文庫

   〒420-0839

 

   静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F

参加費:一般 800円  学生  500円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-689-4455、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

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映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.18「振り返る」

 本日はお集まりいただきまして誠にありがとうございます。
 まず、振り返ることについて参加者の方々にどのようなイメージをお持ちか伺ったところ、ホラー映画の「振り返る」が印象に強く残っており、振り向くといるはずの人がいなかったり、逆にいないはずの人がいたりと、何かの気配を感じさせて振り返ることがあり、そこでは存在と非存在が問題になっているというご指摘や、振り返る動作をきっかけとして回想シーンに入ることがあり、時間を操るきっかけとなる動作だというご指摘がありました。また、演劇をされていた方からは、振り返るタイミングで動作の意味が変わってきてしまうため、とても難しい動作だったというご意見もありました。
 具体的に挙げていただいた映画には、『百万円と苦虫女』『ニュー・シネマ・パラダイス』『シング・ストリート』等がありました。今回私が用意した映画も、参加者の方々に挙げていただいたような、動作として、そして時制が変わるきっかけとなる「振り返る」があります。

 では、映画を観ていきましょう。
 ご指摘いただいたように、「振り返る」には様々な意味がありますが、まずは運動として素晴らしい「振り返る」をご覧いただきます。

●『上海特急』(ジョセフ・フォン・スタンバーグ、アメリカ、1932)

 まずは、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『上海特急』をご覧いただきます。スタンバーグ監督は、1894年にオーストリア=ハンガリー帝国ウィーンで生まれたドイツ系ユダヤ人です。アルバイトの映写係から映画に携わるようになり、撮影助手や助監督など現場の経験を積み、1925年に自主映画『救ひを求むる人々』という長編映画を撮ります。これがチャップリン監督の目に留まり、チャップリンが当時役員だったユナイテッド・アーティスツから配給・上映されます。1927年に監督した『暗黒街』はアメリカ最古のギャング映画として有名です。女優のマレーネ・ディートリッヒとコンビを組んだドイツ映画『嘆きの天使』(1930)は大変評価され、アメリカ映画『モロッコ』『間諜X27』でもコンビを組み、今回ご覧いただく『上海特急』はディートリッヒとコンビを組んだ4作品目にあたります。
 ちなみに、王侯や貴族の称号である”フォン”を名乗っていますが、実際は貴族の出ではなく、アメリカの映画製作者が監督のイメージアップのためにつけたそうです。
 『上海特急』は、北京から上海へ向かう特急列車を舞台に、5年前に別れたカップルが再会する話です。この5年間で、クライブ・ブルック演じる医学博士ハーヴィーは医者として出世し、マレーネ・ディートリッヒ演じるマデリンは上海リリーと名乗る悪名高い娼婦となっていました。上海行きの特急列車の一等車に乗り込んだのは、彼らの他、無断で客室に犬を連れてこようとする婦人、風邪を引いているドイツ人、フランス語しか喋れない将校、ギャンブル好きの男、神学博士、中国人の女性、中国人と白人のハーフの紳士等がいます。
 登場人物たちが夕食をとるために食堂車に集まる場面からご覧いただきます。

 

 ハーヴィーと上海リリーが列車のデッキで会話する場面までご覧いただきました。
ディートリッヒが『東京物語』や『麦秋』の原節子さん並にキレキレでした。
 列車のデッキで物思いに耽るハーヴィーのところへマデリンが訪ねます。時間を尋ねたマデリンはハーヴィーが自身の写真を入れてプレゼントした時計を使っていることに気付きます。時計をきっかけに、話題は付き合っていたときの話になります。二人とも相手を愛していたはずなのに、別れた原因が些細なきっかけだったことを悔やみます。ハーヴィーは立ち上がって二人が座っていた椅子の周りを歩きながら、煙草を投げます。ポケットに手を突っ込み「君を手放すなんてバカだった」と呟く彼を、マデリンは椅子にもたれたまま、彼の上着を掴み抱き寄せます。椅子の手すりに腰掛けたハーヴィーは、マデリンを見つめます。ゆっくりとハーヴィーの帽子を取ったマデリンは、右手を軽く動かしてハーヴィーを促し、しかし、互いが互いに引き寄せられるかのようにして二人は唇を重ねます。二人の気持に呼応するかのように汽笛が鳴り響き、何者かが列車にロープを仕掛ける映像が挿入された後、ハーヴィーは身体を起こし、この5年間、他に男がいなかったかと尋ねます。マデリンは立ち上がってハーヴィーの帽子を被りながら振り向き、何もないと言えたらいいが中国の5年は長いのよと溢れ出す感情を堪えながら答えます。
 ここでは、5年前の二人の別れを巡って話が進みつつ、ディートリッヒが振り向きます。その動作は大部分が省略されています。振り返る動作は、その始まりがわずかに残されているのみで、途中の運動は編集によって切り落とされており、カットが変わりディートリッヒのアップに切り替わったときはすでに振り返る動作は終わっていました。ということは、ディートリッヒが振り返る動作を私たちはすべて観ているわけではないのです。
 彼女の演技が素晴らしいとはいえ、彼女の振り返る動作がすべて描かれていたらこれほどの「速さ」を私たちは感じることはなかったのでないでしょうか。もちろん編集を考慮に入れた上での演出もであろうこの「速さ」は、中途の動作がカットされ時間が省略されながらも連続性が保たれており、演劇とは異なった映画固有の時間を形成していることから来ています。
 この映画において、この「速さ」は、5年前の出来事から現在まで彼女が駆け巡ってきた時間を回想した「速さ」であったかもしれず、彼とのことを忘れるのだという過去にした決断の力強さの「速さ」なのかもしれません。ともあれ、この振り返る動作から彼女は5年前のハーヴィーと恋に落ちていたマデリンではなく、再びこの5年間を生きてきた「上海リリー」として彼と接するようになっていました。この後、革命軍に列車が乗っ取られ、物語は本格的に展開されていきます。

 過去を振り返る行為でもあり、過去を断ち切る行為でもあった「振り返る」でした。

 

●『砂丘』(ミケランジェロ・アントニオーニ、アメリカ、1970)

 単純に身体的な運動として素晴らしい「振り返る」をご覧いただきましたが、次は視線の転換としての「振り返る」をご覧いただきます。ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『砂丘』です。
 アントニオーニ監督は、大学在学中から新聞に映画批評を書いており、1942年にロッセリーニ監督の『ギリシャからの帰還』に脚本、マルセル・カルネの『悪魔が夜来る』に助監督で参加しております。その後、ドキュメンタリーの監督をするようになり、1950年に長編劇映画『愛と殺意』を監督します。1955年に『女ともだち』でヴェネツィア映画祭で銀獅子賞、1966年には『欲望』でカンヌ映画祭パルム・ドールを受賞しております。カンヌ、ヴェネツィア、ベルリンの世界三大映画祭で最高賞を受賞しており、これはアントニオーニ監督の他にアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督とロバート・アルトマン監督の二人しかいません。ちなみに達成した順番は、クルーゾー監督、アントニオーニ監督、アルトマン監督です。
 黒人と白人の学生が交じってストライキについて討論している様子がドキュメンタリーのように映し出されて始まる『砂丘』は、学生運動が盛んな時代に撮られた背景を反映しつつも、二人の若い男女が出会い、自分自身を見つけるお話です。
 男子学生マークは学生運動に関心があるものの議論が苦手で集会に馴染めません。ある日、大学での抗争の様子を伺いに行き、警察官が撃たれる場面に出くわします。持っていた銃で警官を撃とうとしていた彼は、撃っていないにもかかわらず、気が動転して街を飛び出します。手持ちの金もなくなり腹を空かした彼は、飛行場から飛行機を拝借することを思い立ち、あっけなく成功します。
 一方、秘書のアルバイトをしているダリアは、上司から会議を行う邸宅へ来るよう言われるも、道程の途中にあるという瞑想に適した場所を求めて車を走らせます。ラジエーターの水を汲んでいた彼女を見つけたマークが低空飛行をして彼女の車をからかったことがきっかけで、二人は出会います。飛行機を停留していたマークはダリアに砂丘に連れて行ってもらいます。かつて湖底であったらしい砂丘で、二人はおしゃべりをしながら砂丘を探検したり砂まみれになりながらセックスをしたりと濃密な時間を過ごします。
 そのままいっしょにどこかへ逃げる選択肢もあったにもかかわらず、マークは「危険を冒したい」と飛行機を返しに飛行場へと飛び立ちます。飛行場では、盗難騒ぎが大きくなっており、多くの警官やメディアがつめかけていました。飛行場へ戻ったマークは、飛行機を止めようとした警官に射殺され、死んでしまいます。
 ダリアがそのニュースをラジオで知った場面からご覧いただきます。

 

 

 映画の終わりまでご覧いただきました。凄い爆発シーンでしたね。
 参加者の方の感想にもあったように、爆発のカットが続いていき、再びダリアが映し出されると辺りはすでに夕暮れとなっており、爆破前からかなりの時間が経過したようです。彼女が浮かべる薄ら笑いから、物語上爆発は起こっていないように、あくまでも未確定ですが、推察できます。
 しかし、観客側から観たとき、爆発の映像群は、彼女の夢でも回想でもなく、実際に「ある」ものです。もちろん爆破風景はCGではありませんから、実際に爆破をして、その風景を撮影しています。それらを物語上の彼女の「妄想」だと言ってしまうことができるのかもしれませんが、そうした言葉でただ片付けるよりも、まずはその映像が「ある」ことに驚かされます。
 広大な砂漠をリゾート化するための会議が行われている邸宅が爆破され、10台以上のカメラの映像によって描き出されます。爆破の時間は反復され、延長されてゆきます。それらは次第にブランド品やTVといった、過剰にイメージをまとったものへと横すべりしていきます。
 実際に「ある」ものしか映すことができない映画にとって、人間の内面を描くことはできません。できることは「ある」ものをただ繫げていくことだけです。むしろこれらはマークとの恋愛と死別を通して、それまで彼女が身を染めてきたものに対する彼女の内に起こった”自己変革”が描かれています。これをささやかに”革命”と呼んでも差し支えはないのかもしれません。
 それまでの誰が何をしているのか分かりにくい未確定な画面の繋がれ方や、出来事のみが淡々と画かれていく様子とはうってかわり、あからさまに破壊され飛び散る対象がずらされていく過程そのものが、ピンクフロイドの音楽と合わさって既成の価値観に揺さぶりをかけているように感じられます。
 単純に「物語」のみを追うだけならば、ここまでの爆破シーンは必要ないように思えます。アントニオーニ監督はなぜここまで爆破シーンを反復、延長し、別荘から異なったイメージのものまで次々と爆破させていったのでしょうか。
 わたしたちが実際に眼にした映像群を純粋に「画面」の物語としてみるとき、やはり別荘は爆破されたと答えることができるのかもしれません。それは、アントニオーニ監督が実際には見えない、ダリアの中で起こった「価値観の変化」を可視化させようとしたイメージを、わたしたちの想像力が感じ取ったからではないでしょうか。一つ一つは確かに目に見えながらもそれらの総体としての未確定な「映像」には、実際に何が見えていて、何が映っていなかったのでしょうか? 映像には何が起こっていたのでしょうか? 映像の最小単位がワンカットであるのが疑わしいように、矩形の画と音で成り立っている「映像」は物語に奉仕するためだけのものではありません。物語に還元できえない過剰さがあり、そういった「映像の可視性」を拡張するような表現を、アントニオーニ監督は模索していた結果なのではないでしょうか。
 そのため、この爆破シーンは、現代消費社会のシミュラークルに関するものというよりも、むしろ映像の過剰な暴力性に触れるようなものであると思います。それは、別の過激な映像言語を模索していったために撮ることはありませんでしたが、小津監督が一兵士として戦場に行ったときに撮りたいと思ったという、杏の実が落ちる音や散り行く白い花の様子に似ているのかもしれません。

 この爆破シーンの他にも、砂丘でのセックスシーンが有名です。砂丘でダリアはあるゲームを提案します。砂丘の端にそれぞれが立ち、お互いが出会うまでにトカゲ、ヘビ、ネズミと目についた生き物を殺していく、出会ったときに多くの生き物を殺していた方が勝ち、勝った方が負けた方を殺すというゲームです。警官が撃たれた場面を目撃していたマークはナイーヴにそれを断ります。
 その後描かれる二人のセックスシーンでは、だんだんと砂丘でセックスをする恋人たちが増えていき、しまいに砂丘はセックスをする恋人たちで埋め尽くされます。それはまるで生きている物などいないかのように見えた砂丘で細々と生命を維持していた生き物らが擬人化されたように、数多くのカップルがまるでコンテンポラリーダンスを踊っているかのように、生と死のあわいで戯れるかのように、砂丘でセックスをする恋人たちが描かれます。
 そのほか、砂丘で、くるくる腕をのばしてヘリコプターのように回ったダリア・ハルプリンがカメラ横まで全力で走り抜けたときに彼女の息切れが残されており、それが急に肉体性を感じさせて思わずドキッとするカットがあります。
 今回は時間の都合でマークが出てきませんでしたが、マークとダリアが出会って過ごした時間を体感した上で、彼女が振り返って観たものをもう一度ご覧いただくと、より面白くご覧いただけるかと思います。

 振り返って、視線が移動する。しかし、そうして視たものが何なのかはあくまでも未確定である「振り返る」でした。

 

●『オルフェ』(ジャン・コクトー、フランス、1949)

 3本目は、「振り返ってはいけない」映画をご覧いただきます。ジャン・コクトー監督の『オルフェ』です。
 ジャン・コクトー監督は、詩人、小説家、劇作家、評論家、画家とたくさんの顔をもっており、それぞれの分野で刺激的な創作活動をなさっています。小説では『恐るべき親たち』、映画では『美女と野獣』等が有名です。日本では、坂口安吾三島由紀夫澁澤龍彦等がコクトーを愛好していたことで知られています。
 「オルフェ」はギリシャ神話のオルフェウスのことです。ギリシャ神話では、オルフェウスは死んだ妻ユーリディウスを求めて冥界まで赴き妻を連れて帰るのですが、冥界を出るまで妻を見ることが禁じられていたのにもかかわらず、振り返ってしまい妻を失う話です。この神話を題材とし、コクトー監督は『オルフェ』を撮ります。コクトー監督はこのお話に思い入れがあるようで、遺作の映画『オルフェの遺言』でも取り上げています。
 コクトー監督の愛人でもあったジャン・マレーが主演を務める『オルフェ』は、詩人のオルフェが芸術家や青年たちが集まるカフェ「フロール」から始まります。カフェで乱闘騒ぎが起こり、騒ぎの中、若き詩人セジェストはオートバイに轢かれてしまいます。セジェストのパトロンであった女王と呼ばれる女性に、詩人として高名なオルフェは証人として同行を求められます。しかし着いたのは女王の屋敷でした。そこで、彼はセジェストが生き返り女王とともに鏡の正解へ消えてしまうのを目撃します。彼は後を追おうとするも気を失ってしまいます。目を覚ますとそこは荒野で、彼は女王の運転手であったウルトビーズとともに帰宅します。
 家に着くと、妻ユーリディウスは警察署長や友達を呼んでおり、事が大事になりかけていました。女王の美しさに魅せられてしまったオルフェの枕元に、実は死神であった女王は現れるようになります。
 オルフェは車のラジオから流れる謎のメッセージに夢中になり、妻を蔑ろにするようになります。ユーリディウスは自分から夫の心が離れてしまったことを悲しみ、友達に相談しにいく途中、セジェストを轢いたオートバイに轢かれて死んでしまいます。
 オルフェは妻を生き返らせるため、そして女王に会うため、ウルトビーズに導かれ鏡の世界に入っていきます。鏡=死の世界では、死神によって女王の裁判が行われていました。裁判の結果、女王がオルフェに、ウルトビーズがユーリディウスに恋をしてしまったゆえに殺す必要もない人まで殺したと判決され、オルフェはこの件を口外しないこと、妻を見ないことを条件に妻と一緒に現実の世界へ戻ることが許されます。この条件は難しいからとウルトビーズが付き添って三人で元の世界へと戻る場面からご覧いただきます。

  映画の最後までご覧いただきました。逆再生によって不思議な浮遊感が映像にもたらされていて面白かったですね。
 妻を見ることができなくなったオルフェ、見られてはいけない妻ユーリディウス、気を回すウルトビーズ三人が一つの画面に収められ、それまでより息苦しさが強調されています。そのような中でも、怒って振り向くオルフェと屈むユーリディウスがコメディのように描かれていたり、相手を見ずにどこにいるかを感じ取りながら芝居がなされており物語が進むことで喧嘩をしながらも夫婦が共有してきた時間の長さ、尊さを感じさせます。
 しかしながらユーリディウスは、積極的にオルフェとスキンシップを取ろうとするも冷たく接されることに耐えられず、もう一度消えてしまった方が良かろうと寝ているオルフェを起こし自分の姿を見させようとします。ところが、幸か不幸かちょうど停電が起きてしまい試みは失敗します。
 再びラジオにオルフェは夢中になり車でメモを取りながら聴いていると、ユーリディウスがウルトビーズとともにやってきて後部座席に陣取ります。ユーリディウスに後ろから愛撫されていた彼は、ふとバックミラーを見遣ります。すると、オルフェの目線にカメラが置かれ、バックミラーに映っていた彼女は一瞬で消えてしまいました。
 車の座席によって位置関係が固定されていたため、オルフェは妻を見るためには身体をねじって振り返る必要があったはずでしたが、鏡によって視線が反射したことで、結果的に、「振り返って」しまいました。
 鏡は、画面の外も写してしまうため撮影しているスタッフも写してしまうことがあり、映画撮影にあたって気を配らなければなりませんが、画面に異なった奥行きをもたらしもします。コクトー監督は映画撮影を「鍵穴から覗く行為」に例えていますが、鏡を画面の中に置くことは鍵穴の中にさらに鍵穴を置くことに近いのかもしれず、そうした観点から映画内にある「鏡は思考力を増大する」という台詞は語られうるのかもしれません。また、穴からさらに穴の中へと視線を漂わせたときに重要なのは、そこに見える主体が外部から刺激を受ける生きた存在であることです。そのため、イメージとして既に定着してしまっている妻の姿が写した写真は、視線を漂わせても問題ないのかもしれません。写真自体は外部から刺激を受けることは決してなく、静的な存在、いわば死んだ存在であるためです。
 妻が消えてしまったあとは、ご覧いただいたように、死神と運転手が、オルフェとユーリディウスのために禁じられた時間の逆再生を行います。そうして、死神らと出会う前の夫婦に戻ったオルフェとユーリディウスは視線を等方向に向け、抱き合いながら愛を語ります。死の世界では、死神と運転手が連れられていき映画は幕を閉じます。

 「振り返る」が身体の動きだけでなく、視線の動きによってなされた映画でした。そこでは、鏡が重要なモチーフとなっていました。

 

●『黄金の馬車』(ジャン・ルノワール、フランス/イタリア、1952)

 最後に、ご覧いただくのは、身体的というよりも記憶にまつわる、思い出す「振り返る」です。ジャン・ルノワール監督の『黄金の馬車』をご覧いただきます。
 ジャン・ルノワール監督は、印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワールの次男として1894年に生まれます。
 映画批評家アンドレ・バザンーーヌーヴェル・ヴァーグの精神的父親と呼ばれた映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」の初代編集長ーーは、ルノワール監督のことを「世界最大の映画作家」と述べていますし、フランソワ・トリュフォールキノ・ヴィスコンティジャック・ベッケル等多くの映画監督がルノワール監督から影響を受けています。

 ご覧いただく『黄金の馬車』は、『カルメン』で有名なメリメの戯曲『サン・サクルマンの四輪馬車』に基づいて撮られた映画で、原住民と戦争状態にある南米のとある国へ巡業に来たイタリアの劇団の一座のお話です。
 国の象徴として作られた「黄金の馬車」と同じ船でやってきた一座は、宮殿近くの劇場で居を構え公演をします。舞台の上では「コロンビーナ」と名乗るアンナ・マニャーニ演じる女優カミーラは、宮殿での公演をきっかけに総督と仲良くなり、黄金の馬車を贈られます。しかし、馬車を自分のものにしたい貴族たちはそれをやっかみ、戦費の寄付と交換条件に馬車をカミーラから取り上げ、自分たちが使えるように公用のものとしようと企みます。さらに、寄付に関する契約書のサインを拒めば、司教の許可を得て、総督を罷免にすると脅します。総督は観念してサインしようとしますが、カミーラから意気地なしと罵られます。カミーラが怒って立ち去った後、総督は発憤し契約書へのサインを拒みます。総督は彼女のせいで地位を失うのだと逆恨みし、夜に訪ねることに決め彼女に伝令を送り知らせます。
 この映画で、カミーラは総督の他、二人の男から想いを寄せられています。
 一人は、剣豪のフェリペです。彼はカミーラの元恋人でしたが、彼女の心に一定の距離以上近づけないことを悟り、原住民との戦争へ参加することで彼女と距離を置くことにします。旅立ちの日、フェリペは、総督から贈られた金の首飾りを巡って、カミーラと喧嘩し、そのまま発ってしまいました。
 もう一人は、闘牛士のラモンです。街一番の人気者で、街での公演を見たときから彼女を気に入ります。マッチョな性格で、カミーラの下宿の前で愛の歌をよく歌います。フェリペとカミーラを巡り喧嘩したことがあり、フェリペと因縁があります。
 それでは、総督が一座の下宿を訪ねる場面からご覧いただきます。

  映画の最後までご覧いただきました。

 舞台のフレームが提示され、舞台上の〈現実〉へカメラが入っていくことで始まり、そして逆に〈現実〉が上演であったことが再度示されて終わる『黄金の馬車』は、徹頭徹尾「フィクションとしての現実」を前面に押し出しながら物語ります。
 カメラは主に空間を正面から捉え、俳優たちが演じる空間を映し出し、時に切り返しで登場人物の対立が示されつつ物語が進むことは、参加者の方の意見にあったように、抜粋のみでも感じていただけたかと思います。
 全体を通してみても、まるで第四の壁が存在しているかのように、ある空間像が提示された後は空間の手前側が映し出されることは滅多になく、なおかつ空間はそれ自体のみで存在しているかのように撮られていながら、それらが組合わさった大きな空間が映されることはありません。いわば、〈現実〉は、閉じられた一つの空間が団子の串刺し状態のように、それぞれの空間と数珠つながりに存在しています。
 そのため、諸空間を貫く位置にカメラが置かれたとき、物語に風が吹いたような印象を受けます。例えば、フェリペが兵隊長に志願することにしたと団長に別れを告げる場面です。一旦舞台から捌けたカミーラが楽屋に戻ると総督の秘書から黄金の首飾りが贈られます。それを見たフェリペは腹を立て、首飾りを送り返すから寄こせと取り上げようとします。当然カミーラは拒み、取っ組み合いの騒動となります。
 舞台ではカミーラの出番になっていますが、彼女は現れません。それでも”The show must go on”ですから、話の筋がめちゃくちゃになってもとにかく場を持たせようと、子どもたちが舞台上に出ていきます。ここで、フィックスの画面が急に捨てられて、子どもたちがはしゃいだり前転する様子が小刻みにパンをしながら撮られます。そのため、映画を観ている人をドキッとさせ、ルノワール監督はドキュメンタリーとフィクションの区別をしていなかったのではないかという疑いを感じさせる場面にもなっています。
 最終的にカミーラとフェリペは互いに平手撃ちを食らわせ、カミーラは尻餅をついて倒れ、フェリペは去ってしまいます。騒ぎを心配してして駆けつけた総督とラモンが傍らにいることに気付いたカミーラが二人へ挨拶したところで暗転して終わる、笑えながらも悲しいこの場面ですが、ことの始まりは、黄金の首飾りではなくカメラ位置によって予告されていました。
 画面手前にフェリペと団長の二人が、画面奥で今まさに舞台上で演じているカミーラが映し出されます。原住民と戦う方がカミーラの愛を勝ち取るよりも楽だと団長に慰められ去りかけたフェリペがふと振り向くと、画面奥で演技を終えたカミーラが一旦捌け、舞台から布で仕切られた楽屋へ向かいます。二つの空間を貫いていた構図から楽屋がある劇場裏の空間までを溝口健二監督ばりのパンで撮られています。
 このように『黄金の馬車』では、閉じられた空間が外部の空間と通底するとき物語は変容を来します。
 ご覧いただいた場面でいえば、高度に洗練された人間は嫉妬の感情がないのだと気取っていた総督がカミーラへの嫉妬に狂い、一人の男として貴女を愛するとカミーラに告白するシーンです。総督はそう言ってくれるが私は本物の女として愛せるのかと自問するカミーラは目の前の小道具を叩きます。画面外へと転がっていく音を私たちが聴いたとき、物語は結末へと一気に加速していきました。
 そして、映画全体においても、画面外の音や台詞をマニャーニが聞くときを、彼女のリアクションをカメラは丁寧に拾っています。他者からの刺激を受けたマニャーニがどのような反応をしていたか、演技でありながら「体験」とでも呼びうるような生理反応の連鎖を映画の優先順位の第一として『黄金の馬車』は撮影され編集されています。そうしたリアクションとアクションの連続性ゆえ、最後にこれまでの人生を振り返るカミーラ=マニャーニは、映画の運動と「生」とが近接しており、映像として美しくあります。
 映画の最後に幕が下りて行われる団長とマニャーニのやり取りにある、皆が消え客席と一体になってしまったとは、たんに「舞台」で演じることではなく、連続された「体験」がフィクションとして、また映像として一体となってしまったことを指すものです。カミーラの最後の言葉は、自身の演技論をぶったとか女優の性なるものを語ったのではありません。『黄金の馬車』全体を通して表現されている連続性によって、最後に「少し」と答えて何かを振り返る彼女は、「現実」「上演」「映画」を横断して存在しています。彼女自身の物語と映画の在り方とが一致した瞬間を私たちはいま目の当たりにしています。そのため、彼女は、ゴッホのひまわりやセザンヌの静物画が絵画として美しいように、映像としてこの上なく美しいのです。
 それは『キートンの探偵学入門』で、「現実」「夢」「映画」と戯れたキートンに近いのかもしれません。〈現実〉との距離をとることができないで没入するかたちでスクリーンに向かって走るキートンと『黄金の馬車』の振り返るマニャーニの姿は、映像として美しいという点で似ていると思います。

 『黄金の馬車』でご覧いただいた「振り返る」は、『上海特急』のように「速く」、『砂丘』のように「幻」で、『オルフェ』のように「反射」によって成り立っている、映画の内容と形式が一致した「振り返る」でした。


以上で、映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.18「振り返る」を終わりたいと思います。これからも「振り返る」の多様なニュアンスを楽しんで映画をご覧いただければと思います。
本日はどうもありがとうございました。

 

(シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った。)

 

 

 

●おまけ

・『暗黒街』


【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.19「マルグリット・デュラス」

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.19「マルグリット・デュラス

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日時:10月29日(土)19:00〜
場所:どまんなかセンター
(地図:http://domacen.hamazo.tv/c582682.html
参加費:一般 800円 学生 500円
予約:不要。当日会場までお越し下さい。

 

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