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ゴー!ゴー!アタラント号!! 映画☆おにいさんのBlog

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.19「マルグリット・デュラス」

 本日はお集まりいただき、ありがとうございます。
 今回はテーマに沿った映画を抜粋でご覧いただくのではなく、映画をまるごと一本ご覧いただいたのち感想を話し合うというかたちで進めていきたいと思います。今回取り上げる映画は、マルグリット・デュラス監督の『アガタ』です。この女性監督は、世界的なベストセラーである小説『愛人/ラマン』で知られる、カミュと並んで20世紀を代表するフランスの小説家でもあります。

 デュラス監督は、アラン・レネ監督から依頼されて『二十四時間の情事』(1959)の脚本を執筆したのをきっかけに映画に携わるようになり、67年に撮られた『ラ・ミュジカ』から映画監督もするようになりました。今回ご覧いただく『アガタ』は、ジャン=リュック・ゴダール監督との共同企画ののち書かれた小説を原作とし、1981年に撮られた映画です。
 それでは、マルグリット・デュラス監督の『アガタ』をご覧いただきます。

 

 

 

 木洩れ陽が照らすテクストが映し出され始まった『アガタ』は、数年ぶりに再会した二人の兄妹が昔日の思い出を語り合い、愛しあったまま別れる話だと、とりあえずは語ることができるのかもしれません。こうした「物語」だけ取り上げればTVドラマにもありそうですが、それらとは異なった印象をご覧になられて感じられたかと思います。ご感想を伺った際に多くの方がご指摘されていたように、画面と音声の関係が、私たちの生活を取り囲む映像とは異なるためです。
 普段接する機会の多いTV等の映像は、視聴者に映像の世界に浸って楽しんでもらおうと作られているので、安心して観ることができるように、音声は画面にそって構成されています。そのため、映っていないものが鳴らす音によって視聴者が混乱するようなことはありません。例えばロベール・ブレッソン監督の映画のように、もし画面外の音が登場人物に何かしらの反応を与えるような作りになっていると、観客は画面外の世界を想像せねばならず、画面から音声へ意識を切り替えることが要求され、映像の世界に没入することができなくなってしまいます。それを避けるため、TV等の映像は、常に音声が画面に従属する関係性となっています。さらに、そうした映像は、事前にはっきりとした語るべき「情報」や「物語」があり、それらを効率よく伝えるために文字情報等が駆使されています。

 しかし『アガタ』は、先ほど要約したような「物語」を巧みに伝えるような映像にはなってはいません。むしろある決まった「情報」によって捉えようとするとたちまちそれを拒まれ、つねに映像の本質を取り逃がしたような気にさせるものです。なぜなら、先ほどの要約は音声から受け取った「情報」をまとめたにすぎず、画面は音声とはまったく別の「物語」を語っているからです。
 画面は、主に海辺や廃墟となったホテル、人のいない街並を端正な構図で映し出します。窓枠越しの風景が人称を感じさせ、撮影スタッフが鏡越しに映りはするものの、登場人物と思しき人物は一組の男女のみです。彼らは映画の始めに提示されたテクストの内容とは異なり、リュックやコートは見当たらないですし、女性は書かれていた年齢よりだいぶ上にみえます。二人は数えられる程のカットしか同じ画面に登場せず、言葉を交わす様子もありません。互いを知ってはいるのかもしれませんが、なぜその場にいて、なにをしようとしているのかはわかりません。むしろ画面に頻繁に登場する波の方が、曇天のなか孤独にどんよりと、また、雲の切れ目から差し込む光を受けて荒々しく、感情を表現しているようにみえます。
 一方、音声は監督・脚本のマルグリット・デュラスと画面にも登場しているヤン・アンドレアの朗読によって構成されており、それ以外に私たちが聴き取れるのは時折流れるブラームスのワルツだけで、画面を撮影した時に鳴っていたであろう音を聴くことはできません。
 『ガンジスの女』(1972)についてデュラス監督が語っているように、まるで「二本の映画、イメージの映画と声の映画」が「完全に自律的にそこにある」ように思えます。しかし二本の映画を一本の映画にしたからといって、私たちは、”1+1=2”と足し算のように、それぞれを別々に感じ、組み合わせて、考えているわけではありません。イメージと声がそれぞれが自律的であるかのように振る舞うことによって、一つの映像が様々な「物語」を内包し、私たちはそこから多様な「物語」を感じ取っています。多様な「物語」を内包させようとする試みが『アガタ』でもなされています。

 私たちが普段接しているような映像は、視聴者を「混乱」させないように文字情報を使用して「分かりやすく」されてはいるものの、映像が持つ可能性は狭められているといえます。一方、『アガタ』は、「物語」を巧みに説明するために俳優が「リアル」に「再現」するわけではなく一見「分かりやすい」ものではないかもしれませんが、その分けっして画一的な印象を持つことはない、「物語」の過剰さを携えた映画です。このような開放された「映像」を観ると、まるで山で遭難した時のような不安を覚えますが、同時に「物語」の無限の可能性と付き合うことができる「自由」を感じます。

 このような「物語」の過剰さ、「自由」は、デュラス監督作品のような、「実験的」で「前衛的」な映画しか持ちえないものではありません。「古典的」「名作」と評される映画の中にも多々存在します。その例として、小津安二郎監督の『晩春』から幾つかの場面をご覧いただきます。

 

 

 三つの場面をご覧いただきました。
 一つ目は、鎌倉の自宅での笠智衆三島雅夫が方角についてやりとりをする場面をご覧いただきました。小気味よいテンポで会話がすすめられるのが面白くて個人的にとても好きな場面ですので、話の流れとはあまり関係ないのですが、ご覧いただきました。
 二つ目の場面では、能を父娘で観に行った帰り、原節子笠智衆と別れて友人の月丘夢路の家を訪ねます。バツイチの月丘夢路から「さっさと嫁に行くべきだ」と言われ、父親の再婚について悩んでもいた原節子は自暴自棄になり、月丘夢路が拵えたケーキを食べることもなく帰宅してしまいました。
 三つ目の場面では、見合いの返事を保留のままにしていた原節子が、おばの杉村春子に問いただされ不機嫌な沈黙によって了承の返事をするところから、笠智衆と三島雅也が龍安寺で会話をしているところまでご覧いただきました。
 ご覧いただいた崩れ落ちる雑誌、月夜に浮かぶ壷は、ご覧いただいた場面にしか出てきません。そのため、単にこれらの画面を時間経過を示すものと説明することもできますが、それだけでは到底言い表すことができないなにか、過剰な「物語」が感じられます。
 打ち寄せる波や、ただ座ったり歩く姿、なにかをじっと見つめる横顔、崩れ落ちる雑誌、壷。映っているものは何も特別な「出来事」を映しているわけではありません。日常の中にありふれているものばかりです。とはいえ、日常的なものを映したからといって「映像」が必ず過剰な「物語」を感じさせるわけでもありません。どうしてこれらの「映像」は、映っている対象自体の意味を超えて、「物語」の過剰さを私たちに感じさせるのでしょうか。それは、「映像」が貧しく〈ある〉からなのだと思います。

 ここでいう「貧しさ」とは、ハイデガーヘルダーリンの詩的断片についての講演で語っているような〈貧しさ〉です。その講演でハイデガーは「私たちは貧しさのうちで、貧しさによって豊かになる」という言葉を手がかりに〈貧しさ〉に関して考察しています。一般的に〈貧しさ〉とは、経済的に貧窮している、いわば「持っていない」ことを意味しますが、ここでいう〈貧しさ〉はすこし違います。ハイデガーのいう「貧しさ」とは「何も欠いていないで〈存在する〉こと」です。なくてもすむようなもの、不必要なものを欲しがることではありません。「必要であるもの」とは、必要にもとづき、必要を通じてやってくるもの、つまり諸々の欲求を引き出し充足させようとする強制からくるものです。したがって、「不必要なもの」はそうした強制からくるものではなく、「自由な開かれ」からくるものです。「自由な開かれ」とは、無傷なもの、いたわられたもの、利用に共されないものです。自由にすることは本質をやすらわせることであり、そうして解放されたものは必要の強制から守られたものです。ところが、自由な状態における自由にするものが、必要を反転させます。自由によって解放されたものは、自らの本質へ身を委ねるため必然性をもつものとなります。このとき、それは必要なものとなります。自由はそれ自体で「必要を転じる必然性」です。自由によって解放されたもののみ必要なものであるため、必要によって強要されるものは不必要なのです。したがって、貧しく〈ある〉ことは、「自由な開かれで」あり「自由にするもの」に身を委ねることです。そうして初めて、不必要なものを除いては何も欠いていない在り方で、貧しく〈ある〉ことができるのです。
 このとき、ヘルダーリンが「我々においては、すべてが精神的なものに集中する。我々は豊かにならんがために貧しくなった」と言っていたように、貧しく〈ある〉ことはそれ自体において、豊かであるといえます。

 先ほど私は、映像が過剰な「物語」を感じさせるのは映像が〈貧しい〉からだといいました。では、映像が〈貧しい〉とはどういうことなのでしょうか。
 映像の〈貧しさ〉は、予算の多寡・スケジュールとは関係なさそうです。もっといえば、「脚本」とも関係がないのかもしれません。それは、何が映っていて、何が聴こえているかという、徹頭徹尾、映像の連鎖に関わるものなのではないでしょうか。貧しい映像とは、画面が、音が、あらゆる細部がそれぞれの意味を超えて、豊かにならんがために各々が「自由」な関係のなかにある映像なのだと思います。
 しかしながら、「自由」な関係であるとは、ご覧頂いた映像からも分かるとおり、なんでもよい関係ではありません。「自由」な関係のうちにあることとは、画面に映る一一つの息づかい、聴こえてくる音色の一音一音、それらがもつ「物語」を最大限に活かすことによってもたらされる「物語」の過剰さです。そうした過剰はある細部から溢れ出て、なおかつその細部自身を凌駕するような過剰です。また、自身を凌駕しつつ、逃れた過剰なものが自身へと再び流れ込み、細部が飽くことなく語る「物語」の源泉となることです。この豊かでありながらも荒々しい「生」としての映像は、青山真治監督が「野性」と評し、「それは映画にはならない」と周りからいわれながらも己の「自由」な映画表現を押し進めたデュラス監督作品の軌跡からうかがえます。

 そして、そうした映像の在り方は、2014年に同志社大学で行われた回顧上映でのトークでジャン=クロード・ルソー監督が"accord"について次のように述べていたことを思い出させます。

そうして集められたイメージは他のイメージと出会うことができます。他のイメージと出会うことで、そこから、物語を予想することができるようになるのです。わたしはその出会いを"accord"と呼びます。
 一般には、つなぎ・つなぎのカットは
"raccord"と言いますが、私は"再び、つなぎ直す"という意味の"r"を取り、"accord(調和、和音)"という言葉を使いたいのです。"raccord(つなぎ、つなぎのカット)"では、何かを語るために映像があり、そこで映像は語られるものになってしまい、映像は見えないのです。"accord(調和、和音)"では、映像同士のつながりあいが起きることで、そこで厚み"volume"のようなものが作り出されるのです。

 ルソー監督がいうような"accord"を模索する映像こそが、貧しい映像なのではないでしょうか。
 『アガタ』でも、画面と音声がそれぞれ異なる映画のようにつくられていたそれらが合わさったとき、各々が内包していた「物語」が映像として調和し、廃墟や街並を通してヴィラ・アガタが浮かび上がり、またあなたの目が欲しいという台詞によって曇った窓ガラスが二人の距離を現前させてもいました。また、こまかな声の抑揚やニュアンスが、波のしぶきが、雲間からの陽の移ろいが、もしかするとデュラス監督の思惑をも超えて、"accord"するとき、映像は豊かな「物語」を語り始めます。

 それでは、ここまでルソー監督の言葉を引用してきましたが、実際にルソー監督の映画をご覧いただきましょう。『彼の部屋から』をご覧いただきます。『彼の部屋から』は、マルセイユ国際映画祭でグランプリを取った作品で、ルソー監督自身が登場人物である映画作家を演じています。全体は5つのパートに別れており、本日は一番始めのパートのみご覧いただきます。

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 Ⅰ.

 男はカーテンの隙間から玄関を閉める。
 『ベレニス』の朗読をしている男の声が聴こえる。廊下は暗く、部屋から洩れる日の光で輪郭をかろうじて把握できる。男は葉巻を燻らせながら椅子に腰掛ける。肘掛けに置かれたトレーに当たり、がしゃんと音をたてる。トレーにはグラス、コーヒーカップ、灰皿が載っている。男は黙ったままページをめくり、朗読を再開する。壁に掛けられた絵。ベルの音。
 弦楽器の演奏が聴こえてくる。屋外で演奏する人たち。男の部屋。窓から差し込む光は白い。男は窓際に立ち、外を眺める。
 男はドアを閉め、廊下を歩く。壁にかけられた絵を観たあと、奥にある鏡の前で立ち止まる。電話が鳴る。留守番電話に切り替わる。男は画面から消え、電話にでる。男の影が廊下に移ろい、消えてゆく。
 手紙と重しを移動させピアノの蓋を開ける。鍵盤カバーをとった拍子に何音か鳴る。
 グラスに酒を注ぐ。酒を持って椅子に座る。男は深呼吸をしている。一口大きく呑み込む。三分の一ほどになったグラスを肘掛けの端におく。端は傾斜がついている。喉の皺がおおきく動く。グラスは落ちない。外から発声練習の声が聞こえる。もう一口酒を呑む。男はグラスを置いたまま席を立つ。

 グラスが割れる音がする。
 白い光を遮るカーテン。ハンガーにかけられたシャツが揺れている。
 白いセーターを着た男が立っている。ピアノ脇の配水管に寄りかかる。
 男の朗読が聴こえる。無人のカフェ。
 自分の部屋で、男は座って朗読をしている。薄暗い部屋に差し込む光は赤い。
 男は一つずつ電気を消していく。
 ベッドに座り込む。車の走行音、クラクションが聞こえる。男は反応する。

 ベルの音が響く。

 

 ご覧いただいたように、「切断」や「余韻」というよりも「前進」のニュアンスに近い黒画面を交えながら、ルソー監督の映画は、「実験的」「前衛的」のように見えながらも映像は具体で満ちています。それも特別な出来事によって構成されているのではなく、日々の生活を切り取ったかのような「出来事」で構成されており、過ぎ去る日常がこの上なくかけがえのない一瞬一瞬で成り立っているというあたりまえのことを思い出させます。そこではすべてが正しさでつながっている映像というよりは、むしろたんなる映像として佇んでいるかのようです。映像は少しも「物語」など語ってみせようとする素振りなどみせずに、寡黙に流れつづけます。

 アントナン・アルトーは映画には「密かな動きとイメージの素材とに固有の力がある」とし、「ごく取るに足りない細部、ごく無意味な対象も、それらに固有に属する意味と生命を獲得する。しかも、イメージそれ自体の意味作用による効果、イメージが翻訳する思考、イメージが形成する象徴とは無関係にである。映画は対象を孤立させることによって、それに個別の生命を与える。」と語っていました。そして映画は「幻想的」なものに近づくだろうと預言していました。その預言通り、デュラス監督らの〈貧しい〉映画は、現実に限りなく近づきながら、現実を解放させるような映像の豊かさによって、私たちをトランスさせるのです。

 最後に、アルトーと同時代に、本日上映したルソー監督のように道化た映画を、撮り続けたバスター・キートン監督の映画をご覧いただき、本日のシネマ・カフェを終わりたいと思います。
本日はどうもありがとうございました。 

 

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.20「目覚める」

テーマ:目覚める

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眠りから覚めて、身体を起こす。
このような運動としての「目覚める」もあれば、
本来の自分に立ち返る「目覚める」もあります。
また、いままで見過ごしていた物事に”気付く”ときにも、
人は目覚めます。
このような精神的な「目覚める」ことも含めて、
映画はどのようにその変化を映し出すのでしょうか?
映画☆おにいさんが用意する抜粋映像を基に
一緒に考え、話し合いましょう。

日時:12月17日(土)18:00〜

場所:水曜文庫

   〒420-0839

 

   静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F

参加費:一般 800円  学生  500円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-689-4455、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

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映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.18「振り返る」

 本日はお集まりいただきまして誠にありがとうございます。
 まず、振り返ることについて参加者の方々にどのようなイメージをお持ちか伺ったところ、ホラー映画の「振り返る」が印象に強く残っており、振り向くといるはずの人がいなかったり、逆にいないはずの人がいたりと、何かの気配を感じさせて振り返ることがあり、そこでは存在と非存在が問題になっているというご指摘や、振り返る動作をきっかけとして回想シーンに入ることがあり、時間を操るきっかけとなる動作だというご指摘がありました。また、演劇をされていた方からは、振り返るタイミングで動作の意味が変わってきてしまうため、とても難しい動作だったというご意見もありました。
 具体的に挙げていただいた映画には、『百万円と苦虫女』『ニュー・シネマ・パラダイス』『シング・ストリート』等がありました。今回私が用意した映画も、参加者の方々に挙げていただいたような、動作として、そして時制が変わるきっかけとなる「振り返る」があります。

 では、映画を観ていきましょう。
 ご指摘いただいたように、「振り返る」には様々な意味がありますが、まずは運動として素晴らしい「振り返る」をご覧いただきます。

●『上海特急』(ジョセフ・フォン・スタンバーグ、アメリカ、1932)

 まずは、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『上海特急』をご覧いただきます。スタンバーグ監督は、1894年にオーストリア=ハンガリー帝国ウィーンで生まれたドイツ系ユダヤ人です。アルバイトの映写係から映画に携わるようになり、撮影助手や助監督など現場の経験を積み、1925年に自主映画『救ひを求むる人々』という長編映画を撮ります。これがチャップリン監督の目に留まり、チャップリンが当時役員だったユナイテッド・アーティスツから配給・上映されます。1927年に監督した『暗黒街』はアメリカ最古のギャング映画として有名です。女優のマレーネ・ディートリッヒとコンビを組んだドイツ映画『嘆きの天使』(1930)は大変評価され、アメリカ映画『モロッコ』『間諜X27』でもコンビを組み、今回ご覧いただく『上海特急』はディートリッヒとコンビを組んだ4作品目にあたります。
 ちなみに、王侯や貴族の称号である”フォン”を名乗っていますが、実際は貴族の出ではなく、アメリカの映画製作者が監督のイメージアップのためにつけたそうです。
 『上海特急』は、北京から上海へ向かう特急列車を舞台に、5年前に別れたカップルが再会する話です。この5年間で、クライブ・ブルック演じる医学博士ハーヴィーは医者として出世し、マレーネ・ディートリッヒ演じるマデリンは上海リリーと名乗る悪名高い娼婦となっていました。上海行きの特急列車の一等車に乗り込んだのは、彼らの他、無断で客室に犬を連れてこようとする婦人、風邪を引いているドイツ人、フランス語しか喋れない将校、ギャンブル好きの男、神学博士、中国人の女性、中国人と白人のハーフの紳士等がいます。
 登場人物たちが夕食をとるために食堂車に集まる場面からご覧いただきます。

 

 ハーヴィーと上海リリーが列車のデッキで会話する場面までご覧いただきました。
ディートリッヒが『東京物語』や『麦秋』の原節子さん並にキレキレでした。
 列車のデッキで物思いに耽るハーヴィーのところへマデリンが訪ねます。時間を尋ねたマデリンはハーヴィーが自身の写真を入れてプレゼントした時計を使っていることに気付きます。時計をきっかけに、話題は付き合っていたときの話になります。二人とも相手を愛していたはずなのに、別れた原因が些細なきっかけだったことを悔やみます。ハーヴィーは立ち上がって二人が座っていた椅子の周りを歩きながら、煙草を投げます。ポケットに手を突っ込み「君を手放すなんてバカだった」と呟く彼を、マデリンは椅子にもたれたまま、彼の上着を掴み抱き寄せます。椅子の手すりに腰掛けたハーヴィーは、マデリンを見つめます。ゆっくりとハーヴィーの帽子を取ったマデリンは、右手を軽く動かしてハーヴィーを促し、しかし、互いが互いに引き寄せられるかのようにして二人は唇を重ねます。二人の気持に呼応するかのように汽笛が鳴り響き、何者かが列車にロープを仕掛ける映像が挿入された後、ハーヴィーは身体を起こし、この5年間、他に男がいなかったかと尋ねます。マデリンは立ち上がってハーヴィーの帽子を被りながら振り向き、何もないと言えたらいいが中国の5年は長いのよと溢れ出す感情を堪えながら答えます。
 ここでは、5年前の二人の別れを巡って話が進みつつ、ディートリッヒが振り向きます。その動作は大部分が省略されています。振り返る動作は、その始まりがわずかに残されているのみで、途中の運動は編集によって切り落とされており、カットが変わりディートリッヒのアップに切り替わったときはすでに振り返る動作は終わっていました。ということは、ディートリッヒが振り返る動作を私たちはすべて観ているわけではないのです。
 彼女の演技が素晴らしいとはいえ、彼女の振り返る動作がすべて描かれていたらこれほどの「速さ」を私たちは感じることはなかったのでないでしょうか。もちろん編集を考慮に入れた上での演出もであろうこの「速さ」は、中途の動作がカットされ時間が省略されながらも連続性が保たれており、演劇とは異なった映画固有の時間を形成していることから来ています。
 この映画において、この「速さ」は、5年前の出来事から現在まで彼女が駆け巡ってきた時間を回想した「速さ」であったかもしれず、彼とのことを忘れるのだという過去にした決断の力強さの「速さ」なのかもしれません。ともあれ、この振り返る動作から彼女は5年前のハーヴィーと恋に落ちていたマデリンではなく、再びこの5年間を生きてきた「上海リリー」として彼と接するようになっていました。この後、革命軍に列車が乗っ取られ、物語は本格的に展開されていきます。

 過去を振り返る行為でもあり、過去を断ち切る行為でもあった「振り返る」でした。

 

●『砂丘』(ミケランジェロ・アントニオーニ、アメリカ、1970)

 単純に身体的な運動として素晴らしい「振り返る」をご覧いただきましたが、次は視線の転換としての「振り返る」をご覧いただきます。ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『砂丘』です。
 アントニオーニ監督は、大学在学中から新聞に映画批評を書いており、1942年にロッセリーニ監督の『ギリシャからの帰還』に脚本、マルセル・カルネの『悪魔が夜来る』に助監督で参加しております。その後、ドキュメンタリーの監督をするようになり、1950年に長編劇映画『愛と殺意』を監督します。1955年に『女ともだち』でヴェネツィア映画祭で銀獅子賞、1966年には『欲望』でカンヌ映画祭パルム・ドールを受賞しております。カンヌ、ヴェネツィア、ベルリンの世界三大映画祭で最高賞を受賞しており、これはアントニオーニ監督の他にアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督とロバート・アルトマン監督の二人しかいません。ちなみに達成した順番は、クルーゾー監督、アントニオーニ監督、アルトマン監督です。
 黒人と白人の学生が交じってストライキについて討論している様子がドキュメンタリーのように映し出されて始まる『砂丘』は、学生運動が盛んな時代に撮られた背景を反映しつつも、二人の若い男女が出会い、自分自身を見つけるお話です。
 男子学生マークは学生運動に関心があるものの議論が苦手で集会に馴染めません。ある日、大学での抗争の様子を伺いに行き、警察官が撃たれる場面に出くわします。持っていた銃で警官を撃とうとしていた彼は、撃っていないにもかかわらず、気が動転して街を飛び出します。手持ちの金もなくなり腹を空かした彼は、飛行場から飛行機を拝借することを思い立ち、あっけなく成功します。
 一方、秘書のアルバイトをしているダリアは、上司から会議を行う邸宅へ来るよう言われるも、道程の途中にあるという瞑想に適した場所を求めて車を走らせます。ラジエーターの水を汲んでいた彼女を見つけたマークが低空飛行をして彼女の車をからかったことがきっかけで、二人は出会います。飛行機を停留していたマークはダリアに砂丘に連れて行ってもらいます。かつて湖底であったらしい砂丘で、二人はおしゃべりをしながら砂丘を探検したり砂まみれになりながらセックスをしたりと濃密な時間を過ごします。
 そのままいっしょにどこかへ逃げる選択肢もあったにもかかわらず、マークは「危険を冒したい」と飛行機を返しに飛行場へと飛び立ちます。飛行場では、盗難騒ぎが大きくなっており、多くの警官やメディアがつめかけていました。飛行場へ戻ったマークは、飛行機を止めようとした警官に射殺され、死んでしまいます。
 ダリアがそのニュースをラジオで知った場面からご覧いただきます。

 

 

 映画の終わりまでご覧いただきました。凄い爆発シーンでしたね。
 参加者の方の感想にもあったように、爆発のカットが続いていき、再びダリアが映し出されると辺りはすでに夕暮れとなっており、爆破前からかなりの時間が経過したようです。彼女が浮かべる薄ら笑いから、物語上爆発は起こっていないように、あくまでも未確定ですが、推察できます。
 しかし、観客側から観たとき、爆発の映像群は、彼女の夢でも回想でもなく、実際に「ある」ものです。もちろん爆破風景はCGではありませんから、実際に爆破をして、その風景を撮影しています。それらを物語上の彼女の「妄想」だと言ってしまうことができるのかもしれませんが、そうした言葉でただ片付けるよりも、まずはその映像が「ある」ことに驚かされます。
 広大な砂漠をリゾート化するための会議が行われている邸宅が爆破され、10台以上のカメラの映像によって描き出されます。爆破の時間は反復され、延長されてゆきます。それらは次第にブランド品やTVといった、過剰にイメージをまとったものへと横すべりしていきます。
 実際に「ある」ものしか映すことができない映画にとって、人間の内面を描くことはできません。できることは「ある」ものをただ繫げていくことだけです。むしろこれらはマークとの恋愛と死別を通して、それまで彼女が身を染めてきたものに対する彼女の内に起こった”自己変革”が描かれています。これをささやかに”革命”と呼んでも差し支えはないのかもしれません。
 それまでの誰が何をしているのか分かりにくい未確定な画面の繋がれ方や、出来事のみが淡々と画かれていく様子とはうってかわり、あからさまに破壊され飛び散る対象がずらされていく過程そのものが、ピンクフロイドの音楽と合わさって既成の価値観に揺さぶりをかけているように感じられます。
 単純に「物語」のみを追うだけならば、ここまでの爆破シーンは必要ないように思えます。アントニオーニ監督はなぜここまで爆破シーンを反復、延長し、別荘から異なったイメージのものまで次々と爆破させていったのでしょうか。
 わたしたちが実際に眼にした映像群を純粋に「画面」の物語としてみるとき、やはり別荘は爆破されたと答えることができるのかもしれません。それは、アントニオーニ監督が実際には見えない、ダリアの中で起こった「価値観の変化」を可視化させようとしたイメージを、わたしたちの想像力が感じ取ったからではないでしょうか。一つ一つは確かに目に見えながらもそれらの総体としての未確定な「映像」には、実際に何が見えていて、何が映っていなかったのでしょうか? 映像には何が起こっていたのでしょうか? 映像の最小単位がワンカットであるのが疑わしいように、矩形の画と音で成り立っている「映像」は物語に奉仕するためだけのものではありません。物語に還元できえない過剰さがあり、そういった「映像の可視性」を拡張するような表現を、アントニオーニ監督は模索していた結果なのではないでしょうか。
 そのため、この爆破シーンは、現代消費社会のシミュラークルに関するものというよりも、むしろ映像の過剰な暴力性に触れるようなものであると思います。それは、別の過激な映像言語を模索していったために撮ることはありませんでしたが、小津監督が一兵士として戦場に行ったときに撮りたいと思ったという、杏の実が落ちる音や散り行く白い花の様子に似ているのかもしれません。

 この爆破シーンの他にも、砂丘でのセックスシーンが有名です。砂丘でダリアはあるゲームを提案します。砂丘の端にそれぞれが立ち、お互いが出会うまでにトカゲ、ヘビ、ネズミと目についた生き物を殺していく、出会ったときに多くの生き物を殺していた方が勝ち、勝った方が負けた方を殺すというゲームです。警官が撃たれた場面を目撃していたマークはナイーヴにそれを断ります。
 その後描かれる二人のセックスシーンでは、だんだんと砂丘でセックスをする恋人たちが増えていき、しまいに砂丘はセックスをする恋人たちで埋め尽くされます。それはまるで生きている物などいないかのように見えた砂丘で細々と生命を維持していた生き物らが擬人化されたように、数多くのカップルがまるでコンテンポラリーダンスを踊っているかのように、生と死のあわいで戯れるかのように、砂丘でセックスをする恋人たちが描かれます。
 そのほか、砂丘で、くるくる腕をのばしてヘリコプターのように回ったダリア・ハルプリンがカメラ横まで全力で走り抜けたときに彼女の息切れが残されており、それが急に肉体性を感じさせて思わずドキッとするカットがあります。
 今回は時間の都合でマークが出てきませんでしたが、マークとダリアが出会って過ごした時間を体感した上で、彼女が振り返って観たものをもう一度ご覧いただくと、より面白くご覧いただけるかと思います。

 振り返って、視線が移動する。しかし、そうして視たものが何なのかはあくまでも未確定である「振り返る」でした。

 

●『オルフェ』(ジャン・コクトー、フランス、1949)

 3本目は、「振り返ってはいけない」映画をご覧いただきます。ジャン・コクトー監督の『オルフェ』です。
 ジャン・コクトー監督は、詩人、小説家、劇作家、評論家、画家とたくさんの顔をもっており、それぞれの分野で刺激的な創作活動をなさっています。小説では『恐るべき親たち』、映画では『美女と野獣』等が有名です。日本では、坂口安吾三島由紀夫澁澤龍彦等がコクトーを愛好していたことで知られています。
 「オルフェ」はギリシャ神話のオルフェウスのことです。ギリシャ神話では、オルフェウスは死んだ妻ユーリディウスを求めて冥界まで赴き妻を連れて帰るのですが、冥界を出るまで妻を見ることが禁じられていたのにもかかわらず、振り返ってしまい妻を失う話です。この神話を題材とし、コクトー監督は『オルフェ』を撮ります。コクトー監督はこのお話に思い入れがあるようで、遺作の映画『オルフェの遺言』でも取り上げています。
 コクトー監督の愛人でもあったジャン・マレーが主演を務める『オルフェ』は、詩人のオルフェが芸術家や青年たちが集まるカフェ「フロール」から始まります。カフェで乱闘騒ぎが起こり、騒ぎの中、若き詩人セジェストはオートバイに轢かれてしまいます。セジェストのパトロンであった女王と呼ばれる女性に、詩人として高名なオルフェは証人として同行を求められます。しかし着いたのは女王の屋敷でした。そこで、彼はセジェストが生き返り女王とともに鏡の正解へ消えてしまうのを目撃します。彼は後を追おうとするも気を失ってしまいます。目を覚ますとそこは荒野で、彼は女王の運転手であったウルトビーズとともに帰宅します。
 家に着くと、妻ユーリディウスは警察署長や友達を呼んでおり、事が大事になりかけていました。女王の美しさに魅せられてしまったオルフェの枕元に、実は死神であった女王は現れるようになります。
 オルフェは車のラジオから流れる謎のメッセージに夢中になり、妻を蔑ろにするようになります。ユーリディウスは自分から夫の心が離れてしまったことを悲しみ、友達に相談しにいく途中、セジェストを轢いたオートバイに轢かれて死んでしまいます。
 オルフェは妻を生き返らせるため、そして女王に会うため、ウルトビーズに導かれ鏡の世界に入っていきます。鏡=死の世界では、死神によって女王の裁判が行われていました。裁判の結果、女王がオルフェに、ウルトビーズがユーリディウスに恋をしてしまったゆえに殺す必要もない人まで殺したと判決され、オルフェはこの件を口外しないこと、妻を見ないことを条件に妻と一緒に現実の世界へ戻ることが許されます。この条件は難しいからとウルトビーズが付き添って三人で元の世界へと戻る場面からご覧いただきます。

  映画の最後までご覧いただきました。逆再生によって不思議な浮遊感が映像にもたらされていて面白かったですね。
 妻を見ることができなくなったオルフェ、見られてはいけない妻ユーリディウス、気を回すウルトビーズ三人が一つの画面に収められ、それまでより息苦しさが強調されています。そのような中でも、怒って振り向くオルフェと屈むユーリディウスがコメディのように描かれていたり、相手を見ずにどこにいるかを感じ取りながら芝居がなされており物語が進むことで喧嘩をしながらも夫婦が共有してきた時間の長さ、尊さを感じさせます。
 しかしながらユーリディウスは、積極的にオルフェとスキンシップを取ろうとするも冷たく接されることに耐えられず、もう一度消えてしまった方が良かろうと寝ているオルフェを起こし自分の姿を見させようとします。ところが、幸か不幸かちょうど停電が起きてしまい試みは失敗します。
 再びラジオにオルフェは夢中になり車でメモを取りながら聴いていると、ユーリディウスがウルトビーズとともにやってきて後部座席に陣取ります。ユーリディウスに後ろから愛撫されていた彼は、ふとバックミラーを見遣ります。すると、オルフェの目線にカメラが置かれ、バックミラーに映っていた彼女は一瞬で消えてしまいました。
 車の座席によって位置関係が固定されていたため、オルフェは妻を見るためには身体をねじって振り返る必要があったはずでしたが、鏡によって視線が反射したことで、結果的に、「振り返って」しまいました。
 鏡は、画面の外も写してしまうため撮影しているスタッフも写してしまうことがあり、映画撮影にあたって気を配らなければなりませんが、画面に異なった奥行きをもたらしもします。コクトー監督は映画撮影を「鍵穴から覗く行為」に例えていますが、鏡を画面の中に置くことは鍵穴の中にさらに鍵穴を置くことに近いのかもしれず、そうした観点から映画内にある「鏡は思考力を増大する」という台詞は語られうるのかもしれません。また、穴からさらに穴の中へと視線を漂わせたときに重要なのは、そこに見える主体が外部から刺激を受ける生きた存在であることです。そのため、イメージとして既に定着してしまっている妻の姿が写した写真は、視線を漂わせても問題ないのかもしれません。写真自体は外部から刺激を受けることは決してなく、静的な存在、いわば死んだ存在であるためです。
 妻が消えてしまったあとは、ご覧いただいたように、死神と運転手が、オルフェとユーリディウスのために禁じられた時間の逆再生を行います。そうして、死神らと出会う前の夫婦に戻ったオルフェとユーリディウスは視線を等方向に向け、抱き合いながら愛を語ります。死の世界では、死神と運転手が連れられていき映画は幕を閉じます。

 「振り返る」が身体の動きだけでなく、視線の動きによってなされた映画でした。そこでは、鏡が重要なモチーフとなっていました。

 

●『黄金の馬車』(ジャン・ルノワール、フランス/イタリア、1952)

 最後に、ご覧いただくのは、身体的というよりも記憶にまつわる、思い出す「振り返る」です。ジャン・ルノワール監督の『黄金の馬車』をご覧いただきます。
 ジャン・ルノワール監督は、印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワールの次男として1894年に生まれます。
 映画批評家アンドレ・バザンーーヌーヴェル・ヴァーグの精神的父親と呼ばれた映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」の初代編集長ーーは、ルノワール監督のことを「世界最大の映画作家」と述べていますし、フランソワ・トリュフォールキノ・ヴィスコンティジャック・ベッケル等多くの映画監督がルノワール監督から影響を受けています。

 ご覧いただく『黄金の馬車』は、『カルメン』で有名なメリメの戯曲『サン・サクルマンの四輪馬車』に基づいて撮られた映画で、原住民と戦争状態にある南米のとある国へ巡業に来たイタリアの劇団の一座のお話です。
 国の象徴として作られた「黄金の馬車」と同じ船でやってきた一座は、宮殿近くの劇場で居を構え公演をします。舞台の上では「コロンビーナ」と名乗るアンナ・マニャーニ演じる女優カミーラは、宮殿での公演をきっかけに総督と仲良くなり、黄金の馬車を贈られます。しかし、馬車を自分のものにしたい貴族たちはそれをやっかみ、戦費の寄付と交換条件に馬車をカミーラから取り上げ、自分たちが使えるように公用のものとしようと企みます。さらに、寄付に関する契約書のサインを拒めば、司教の許可を得て、総督を罷免にすると脅します。総督は観念してサインしようとしますが、カミーラから意気地なしと罵られます。カミーラが怒って立ち去った後、総督は発憤し契約書へのサインを拒みます。総督は彼女のせいで地位を失うのだと逆恨みし、夜に訪ねることに決め彼女に伝令を送り知らせます。
 この映画で、カミーラは総督の他、二人の男から想いを寄せられています。
 一人は、剣豪のフェリペです。彼はカミーラの元恋人でしたが、彼女の心に一定の距離以上近づけないことを悟り、原住民との戦争へ参加することで彼女と距離を置くことにします。旅立ちの日、フェリペは、総督から贈られた金の首飾りを巡って、カミーラと喧嘩し、そのまま発ってしまいました。
 もう一人は、闘牛士のラモンです。街一番の人気者で、街での公演を見たときから彼女を気に入ります。マッチョな性格で、カミーラの下宿の前で愛の歌をよく歌います。フェリペとカミーラを巡り喧嘩したことがあり、フェリペと因縁があります。
 それでは、総督が一座の下宿を訪ねる場面からご覧いただきます。

  映画の最後までご覧いただきました。

 舞台のフレームが提示され、舞台上の〈現実〉へカメラが入っていくことで始まり、そして逆に〈現実〉が上演であったことが再度示されて終わる『黄金の馬車』は、徹頭徹尾「フィクションとしての現実」を前面に押し出しながら物語ります。
 カメラは主に空間を正面から捉え、俳優たちが演じる空間を映し出し、時に切り返しで登場人物の対立が示されつつ物語が進むことは、参加者の方の意見にあったように、抜粋のみでも感じていただけたかと思います。
 全体を通してみても、まるで第四の壁が存在しているかのように、ある空間像が提示された後は空間の手前側が映し出されることは滅多になく、なおかつ空間はそれ自体のみで存在しているかのように撮られていながら、それらが組合わさった大きな空間が映されることはありません。いわば、〈現実〉は、閉じられた一つの空間が団子の串刺し状態のように、それぞれの空間と数珠つながりに存在しています。
 そのため、諸空間を貫く位置にカメラが置かれたとき、物語に風が吹いたような印象を受けます。例えば、フェリペが兵隊長に志願することにしたと団長に別れを告げる場面です。一旦舞台から捌けたカミーラが楽屋に戻ると総督の秘書から黄金の首飾りが贈られます。それを見たフェリペは腹を立て、首飾りを送り返すから寄こせと取り上げようとします。当然カミーラは拒み、取っ組み合いの騒動となります。
 舞台ではカミーラの出番になっていますが、彼女は現れません。それでも”The show must go on”ですから、話の筋がめちゃくちゃになってもとにかく場を持たせようと、子どもたちが舞台上に出ていきます。ここで、フィックスの画面が急に捨てられて、子どもたちがはしゃいだり前転する様子が小刻みにパンをしながら撮られます。そのため、映画を観ている人をドキッとさせ、ルノワール監督はドキュメンタリーとフィクションの区別をしていなかったのではないかという疑いを感じさせる場面にもなっています。
 最終的にカミーラとフェリペは互いに平手撃ちを食らわせ、カミーラは尻餅をついて倒れ、フェリペは去ってしまいます。騒ぎを心配してして駆けつけた総督とラモンが傍らにいることに気付いたカミーラが二人へ挨拶したところで暗転して終わる、笑えながらも悲しいこの場面ですが、ことの始まりは、黄金の首飾りではなくカメラ位置によって予告されていました。
 画面手前にフェリペと団長の二人が、画面奥で今まさに舞台上で演じているカミーラが映し出されます。原住民と戦う方がカミーラの愛を勝ち取るよりも楽だと団長に慰められ去りかけたフェリペがふと振り向くと、画面奥で演技を終えたカミーラが一旦捌け、舞台から布で仕切られた楽屋へ向かいます。二つの空間を貫いていた構図から楽屋がある劇場裏の空間までを溝口健二監督ばりのパンで撮られています。
 このように『黄金の馬車』では、閉じられた空間が外部の空間と通底するとき物語は変容を来します。
 ご覧いただいた場面でいえば、高度に洗練された人間は嫉妬の感情がないのだと気取っていた総督がカミーラへの嫉妬に狂い、一人の男として貴女を愛するとカミーラに告白するシーンです。総督はそう言ってくれるが私は本物の女として愛せるのかと自問するカミーラは目の前の小道具を叩きます。画面外へと転がっていく音を私たちが聴いたとき、物語は結末へと一気に加速していきました。
 そして、映画全体においても、画面外の音や台詞をマニャーニが聞くときを、彼女のリアクションをカメラは丁寧に拾っています。他者からの刺激を受けたマニャーニがどのような反応をしていたか、演技でありながら「体験」とでも呼びうるような生理反応の連鎖を映画の優先順位の第一として『黄金の馬車』は撮影され編集されています。そうしたリアクションとアクションの連続性ゆえ、最後にこれまでの人生を振り返るカミーラ=マニャーニは、映画の運動と「生」とが近接しており、映像として美しくあります。
 映画の最後に幕が下りて行われる団長とマニャーニのやり取りにある、皆が消え客席と一体になってしまったとは、たんに「舞台」で演じることではなく、連続された「体験」がフィクションとして、また映像として一体となってしまったことを指すものです。カミーラの最後の言葉は、自身の演技論をぶったとか女優の性なるものを語ったのではありません。『黄金の馬車』全体を通して表現されている連続性によって、最後に「少し」と答えて何かを振り返る彼女は、「現実」「上演」「映画」を横断して存在しています。彼女自身の物語と映画の在り方とが一致した瞬間を私たちはいま目の当たりにしています。そのため、彼女は、ゴッホのひまわりやセザンヌの静物画が絵画として美しいように、映像としてこの上なく美しいのです。
 それは『キートンの探偵学入門』で、「現実」「夢」「映画」と戯れたキートンに近いのかもしれません。〈現実〉との距離をとることができないで没入するかたちでスクリーンに向かって走るキートンと『黄金の馬車』の振り返るマニャーニの姿は、映像として美しいという点で似ていると思います。

 『黄金の馬車』でご覧いただいた「振り返る」は、『上海特急』のように「速く」、『砂丘』のように「幻」で、『オルフェ』のように「反射」によって成り立っている、映画の内容と形式が一致した「振り返る」でした。


以上で、映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.18「振り返る」を終わりたいと思います。これからも「振り返る」の多様なニュアンスを楽しんで映画をご覧いただければと思います。
本日はどうもありがとうございました。

 

(シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った。)

 

 

 

●おまけ

・『暗黒街』


【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.19「マルグリット・デュラス」

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.19「マルグリット・デュラス

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日時:10月29日(土)19:00〜
場所:どまんなかセンター
(地図:http://domacen.hamazo.tv/c582682.html
参加費:一般 800円 学生 500円
予約:不要。当日会場までお越し下さい。

 

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【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.18「振り返る」

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テーマ:振り返る

誰かから声を掛けられたり、

何か気配を感じたとき、

人は振り返ります。

それまでの思案や行動を止め、

身体を反転させるとき、

どのようなドラマが映画に生まれるのでしょうか?

いっしょに映画の抜粋を鑑賞しながら、

話し合いましょう。

 

日時:9月24日(土)18:00〜

(いつもより30分早い開始です)

場所:水曜文庫

   〒420-0839

   静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F

参加費:一般 800円  学生  500円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-689-4455、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.17「拾う」

本日はお集まりいただき、ありがとうございます。

 今回のテーマは「拾う」です。「拾う」は、一般的に言って「落ちているものを取り上げ手にする」という単純な動作です。しかしこれを分解していくと、1.落ちている対象を認識、2.対象へ接近、3.対象を拾う、さらにもう一つ付け加えるならば、4.拾ったものをどうするか? というように考えられると思います。
 もちろん、「拾う」が無意識な場合もあります。例えば、追われている人が主人公のポケットに何か重要なものをそっと入れる、荷物を取り違える、何かを探していたら思ってもみなかったものを拾う、といった場合です。
 また、「拾う」ことが、登場人物の関係性を決定的に変えてしまったり、「シンデレラ」「宝探し」のように物語全体の動機となる場合もあるかと思います。
 しかしながら、そうした場合も含めて、「拾う」ことは物語の中でどのように描かれているのでしょうか。映画をご覧いただきながら、「拾う」についてご一緒に考えていければと思います。


●『若き日のリンカーン』(ジョン・フォード、アメリカ、1939)
 まずは、「拾う」ことが他のアクションと組み合わされ不思議な情感をもたらすジョン・フォード監督の『若き日のリンカーン』をご覧いただきます。
 ジョン・ウェイン主演『駅馬車』(1939)の次にジョン・フォード監督が監督した『若き日のリンカーン』は、まだ無名だったヘンリー・フォンダリンカーンを演じています。このあと、ジョン・フォード監督とヘンリー・フォンダは『モホークの太鼓』(1939)、『怒りの葡萄』(1940)と3作続けてタッグを組みます。

 『若き日のリンカーン』はタイトル通り、リンカーンが政治家として大成する以前の州議員〜弁護士の時期を扱っています。ご覧いただくのは、映画の冒頭から街で法律事務所を始める場面までご覧いただきます。

 

 ご覧いただいた抜粋箇所には、「拾う」が2箇所ありました。
 始めの「拾う」は、アンと別れたリンカーンが川辺へと歩き、一度振り返ってから足元にある石を拾います。さらに、石を投げる動作中にもアンの方へ振りむくというかなり不自然なことを、フォード監督はヘンリー・フォンダにやらせています。そのようにして投げられた石はきれいな波紋を川面にいつまでもたたせています。
 流氷によって季節の移り変わりが示され、ウサギのように咲いていたという花を摘んできたリンカーンは、橋の袂にある彼女の墓に供えます。枯れた花や枝を拾って掃除しながら、墓石へと姿を変えた彼女へ、今後自分が法律と政治のどちらの道へ進めばよいか悩んでいると相談します。そして、片付けていた枝を拾ってどちらに倒れるかで進むべき道を決めると言います。
 枝は、アンの方へ、つまり法律の道に進む側へ倒れます。あっという間です。枝には心理や葛藤などないからです。そのあまりの速さに驚いた彼は、わざと傾けたと思うかい?と独りごちてしまうほどです。
 こうして、リンカーンは法律の道へと進み、街で法律事務所を開業することとなります。
 淡い恋心を抱いていたアンが画面に登場したのは、ご覧いただいた場面のみです。このあと彼女の姿は画面に一度も映りません。

 しかし、なぜ彼女のお墓は川辺に建てられたのでしょうか。引いた画を観ても、そこが墓地というわけではありません。橋のふもとに一つだけ墓石が置かれています。リンカーンが独りごつシークエンスもまるで墓を人物を撮るかのように、というよりもむしろアンがただ墓石に姿を変えただけで、さも生きている二人の人物が会話しているかのようです。
 そして、生前の彼女が現れたのが水辺であり、二人並んで歩いていく素晴らしい移動撮影、波紋とともにその姿を消してしまったことを考えると、まるで水のそばでしか生きられない妖精となってしまったかのようです。そうであるならば、墓が川の傍にあるのも不自然ではないように思えます。
 そしてアンは墓石や水の精へとたびたび姿を変え、または他人を媒介として、観客に忘れられないように幾度も「物語」に登場します。
 例えば、依頼人の家族の家へ向かう途中、おもむろに取り出されたジューズハーブは、リンカーンが水の精となった彼女を呼び寄せるための儀式のようです。そうして、たどりついた家の軒先で事件の様子を伺いながら、依頼人の母と弁護する兄弟の嫁と恋人の3人の女性へ、自身の子ども時代を思い出させるといって、亡き母、亡き妹、そしてアンを彼女らに重ねます。
 裁判の形勢が悪くなりふさぎ込む夜にも、リンカーンはジューズハーブを奏でます。そこで現れたアンが、メモ用紙代わりに使われていた農事暦を裏返して、彼に月の入の時間を教えることで、リンカーンは事件解決の糸口を見つけます。
 裁判が終わり一家との別れの場面で、リンカーンはアンに似た弟の恋人であるスーから「どうしてもしたかったの」とキスをされます。アンや亡き家族の面影を携えた一家が丘へと向かうのを見送り暫くして、リンカーンは彼らの跡を追うように丘へと歩き出します。すると、雷が鳴り響き、リンカーンがフレームアウトしたあと、画面を包み込むように雨が降り始め、リンカーン像へとオーバーラップし、幕を閉じるのです。

 

●『タブウ』(F・W・ムルナウ、アメリカ、1931)

 「拾う」が意思決定に寄与する映画でしたが、次は「拾う」が隠される、秘密にされる映画をご覧いただきます。F・W・ムルナウ監督の『タブウ』です。キャストが現地のポリネシア人と中国系の方が選ばれており、いわば全員素人で職業俳優はおりません。また、この映画はムルナウ監督の遺作でもあります。この映画のプレミア上映の一週間前、1931年3月10日に自動車事故で亡くなられました。
 楽園のような南の島ボラボラで暮らす青年マタヒは、好意を寄せる少女レリが生け贄に差し出されることになることを知ります。二人は島の掟を破り駆け落ちをし、ある貿易港に漂着します。そこではマタヒが真珠取りをして生計を立て、平穏な日々を過ごしていました。ところが、徐々に村の追っ手が迫り、二人は村の老首長の影を感じつつあります。
 また、「貨幣」という概念を理解していない彼らは、島民へ無邪気に振る舞い酒をして多くの請求書にサインして莫大な借金を背負ってしまってもいます。そんな中、いつものように漁をする場面からご覧いただきます。

 



 マタヒが夜中抜け出して真珠取りをする場面までご覧いただく予定でしたが、いきおい最後までご覧いただきました。
 ご覧いただきたかった「拾う」は二つです。レリが島の老首長からの手紙を拾う箇所とマタヒが禁忌を犯し真珠を採る、「拾う」、箇所です。そのどちらの行為もパートナーに隠された行為となっておりました。
 レリは老首長からの手紙のことを告げればマタヒが抵抗して殺されてしまうだろうと予期して、マタヒは切り出せないでいる借金のために稼ぎを捻出しようと、禁じられていた海域へと真珠採りへ出かけます。

 ここでは、二つの社会構造が彼らを引き裂いています。未開地である島の掟と港町の経済によってです。これらの社会構造が二人を受け入れられないという恐ろしさとそういった構造自体のくだらなさがこの映画全体を漂っており、あれほど朗らかに暮らしていた二人に「拾う」という秘密を作らせました。

 

●『赫い髪の女』(神代辰巳、日本、1979)

  「拾う」ことが恋人たちを引き裂く映画をご覧いただきましたが、次は「拾う」ことで、恋人同士となる、カップルが形成される映画をご覧いただきます。日活ロマンポルノの作品『赫い髪の女』です。
 かつてはビックファイブの一つとして数えられていた日活でしたが、1960年代の日本映画産業の衰退とともに深刻な経営不振となり、1969年には撮影所を、1970年には本社ビルを売却し、1971年末に「日活ロマンポルノ」という路線をスタートさせます。これは、性愛風俗を題材とし低予算かつ短い撮影期間の中編を量産する、というものでした。製作本数が多くなったことに加え、日活はアクション映画が主流であったこともあって、演出経験の少ない監督にも撮る機会が回り、新しい才能が次々と現れました。たとえば、曽根中生監督や小沼勝監督、田中登監督等がいらっしゃいますが、その中でも最も代表的な監督は神代辰巳監督ではないでしょうか。神代監督は日活ロマンポルノを撮るまでには一般映画を一本しか撮っておらず、それが興行的に当たらなかったため4年も干されていた最中でした。そうして監督した『一条さゆり 濡れた欲情』(1972)が大ヒットとなります。そのため、しばらくタイトルに「濡れた」が冠せられるようになったほどでした。翌年の73年には4本、74年には6本監督し、たった3年で日本を代表する映画監督となります。
 『赫い髪の女』は、中上健次さんの『赫髪』が原作、脚本は、現在は雑誌『映画芸術』の編集長もされている荒井晴彦さんです。石橋蓮司さん、宮下順子さん、阿藤快(当時:阿藤海)さんが出演されています。
 それでは、映画の冒頭から土方の二人が喫茶店でお茶しているところへ社長の娘が訪ねるところまでご覧いただきます。

 

 トラックを運転していた光造と孝男が雨宿りをしている女を見つけ拾います。その女と光造の性愛がこの映画の多くの時間を占めています。
 拾った動機は、雨で明日も仕事が休みであり、その間の暇つぶし、性欲の捌け口にとという程度でしかありません。
 女の名前が最後まで分からないのは、原作の小説もそうですが、社会的な固有名詞とはまったく別のところで二人が繋がっているからです。男が女を好きなのか最初はよく分かりません。決して一目惚れしたというはなく、品が良いわけでも家事ができるというわけでもなく、一緒にいて心が安らぐというわけでもないようです。
 それでも男は化粧品のにおいや、食材が一円二円安いというような話を新鮮に感じているようです。女はもっと単純で、夫と二人の息子を捨てて何をしているかと言えば、自身の性欲を満たしているだけで男と交わり続けています。
 しかし、ほぼ狂っているように見える赫い髪の女は、まるで空いた腹を満たすように、もしくは食欲以上に性への欲求を満たそうとしています。セックスがまるで生きると同義となっているかのようです。
 そして、所長の娘らも含めたこの映画に出てくる女たちには暴力は意味をなしません。経済力も同様です。それらよりも性欲が優先される、ある種フラットな、性別によらない世界を生きています。
 では、男たちはどうでしょうか?
 女を拾う前、同じ女を回し、股間をまさぐりあい、食欲を満たすため一緒にトラックに乗り、等方向に視線を向けていた二人でしたが、光造は赫い髪の女を拾い、孝男は社長の娘からアプローチされ、二人の関係性は変わっていきます。あれほど仲が良かった二人が今後等方向を向くことはありません。
 映画の中頃、赫い髪の女と相合傘をしているところを見たと光造は孝男にからかわれます。犬と一緒でたまたま居着いただけだと答えた光造は、「ならヤらせろ、犬と一緒やろ」と重機を操縦する光造の隣に来た孝男にせがまれます。二人が横並びになり等方向を向きかけますが、ここで映画が始まって初めて「かまへんことあるかい」と申し出を断ります。それまで「かまへんか?」「かまへん」と何かのゲームであるかのように互いの申し出を受け入れてきた登場人物たちでしたが、所有の意識が芽生えたのか、光造は初めて申し出を断ります。それが原因で二人は取っ組み合いの喧嘩となります。カモメが飛び立つ映像とコンロに火をつける女の映像が一瞬挿入され、何かを観念したかのように、「わかった、夜来い」と受け入れます。
 夜になり、光造は新しいガスコンロを喜んでいた女に体勢を変えさせバックでセックスを始めます。男は女に目隠しをさせて、耳元で「好きやで」と愛の言葉を呟きます。女に気付かれないように光造は孝男と交替しようとして等方向をまたも向きかけますが、案の定、女はすぐに気付いて拒み逃れようとします。「嫌や、こんなことされるくらいならもとの旦那のところへ帰る」と泣き叫ぶも、孝男に犯されてしまいます。光造に突き飛ばされ、この状況に耐えられなくなった光造は部屋から出、「最初は嫌やというんじゃ」とつぶやき、近くに転がっていた三輪車に跨がってその場から離れ街へと逃げていきます。女は、光造の言葉通り、次第に男を受け入れ快楽を感じるようになります。

 このように、男たちは女を力によって押さえ込もうとしますが、この映画ではそのような抑圧はとことん無力化されます。例えば、仕事から帰ってきた光造に対して「夕方まであんたが帰ってこなんだら他の男のとこ行ってしまおと思ってたんよ」と話すなど、女は男に従属しているわけではなく、赫い髪の女にとって男はつねに代替可能な存在でした。
 経済力や暴力等見かけの力では、女たちを屈服させることはできず、男はつねに振り回されてしまいます。男が女を拾うということで表されていた力関係は、性交を重ねるうちにいつの間にか逆転し、無化されてしまいました。

 

●『スリ』(ロベール・ブレッソン、フランス、1959)

 これまでさまざまな「拾う」映画をご覧いただきましたが、「拾う」(pick up)の変化形として、ロベール・ブレッソン監督の『スリ(原題:Pickpocket)』をご覧いただき、今回のシネマ・カフェを終えたいと思います。
 ジャン=リュック・ゴダール監督はブレッソン監督に対して「ドストエフスキーがロシアの小説に、モーツァルトがドイツの音楽に対して占める位置を、ブレッソンはフランス映画に対して占める」と話しています。
 ロベール・ブレッソン監督は、過去には「平手撃ち」の回で『ラルジャン』をご覧いただいています。今回ご覧いただくドストエフスキー原作の『スリ』は、パリ市内やリヨン駅構内などで撮影されました。
 この映画においても、ブレッソン監督は職業俳優をキャスティングしていません。ブレッソン監督は自作へ出演する人物に対して、なにかを演技して本当らしく見せかける「俳優」ではなく、そこへ物質的に在ることを求めており、これらを区別するために後者を「モデル」と呼んでいました。そのため今作も演じている方々は皆素人です。ただし、この映画におけるスリの演技指導を行い、スリの頭目役として出演しているアンリ・カッサジは元スリ師の当時有名なプロの奇術師であり、ブレッソン監督が演技において何を優先していたのか考えさせられます。

 貧しい大学生のミシェルは、ある日、競馬場でスリを試み成功します。能力があるならば例えそれが悪でも活かすべきだとの考え方から、その後スリをするようになります。ミシェルには一人暮らしの母がいますが、彼女の体調は悪くなる一方です。同じアパートのジャンヌが看病してくれていましたが、ある日ついに亡くなってしまいます。それを機に、ますますスリの世界へ身を浸す主人公は、より安全に、より効率よくスリを行うため仲間を見つけ、三人組でスリを行うようになります。
 以前から目を付けられていた警察官に改めて釘を刺されて自宅へ帰る場面からご覧いただきます。

 今回ご覧いただいた場面では、信じられないような連係プレーでスリが行われいました。カバンの代わりに新聞が脇に挟まれ、カバンは仲間の手から手へと渡りあっという間に胸元へ隠されます。財布の間に挟まれた紙幣は、スリ師の新聞紙で隠されると次の瞬間には消えています。仲間が標的の肩に手に置き、標的が振り向いた隙を狙ってもう一人が胸元にしまってある財布を掏る。荷物を列車の荷棚に置く瞬間にポケットの財布を掏る。車内の狭い廊下を横になって通る乗客の胸元から掏って紙幣を抜き取り、その人物が戻ってきたときに何事もなかったかのように胸元へ戻す。列車に載ろうとする人を腕を掴んで手伝うも、その際に腕時計を外す。スリ仲間から華麗に手渡された財布は紙幣が抜き取られた後は、証拠隠滅のため、人目の付かないところへ捨てられる。あまりにも見事な技の数々に惚れ惚れしてしまいます。
 ブレッソン監督の著書『シネマトグラフ覚書』で次のように語っています。

 シネマトグラフの映画。そこにおいては、表現が獲得されるのは映像と音響との諸関係によってであり、物真似によって、身振りや声の抑揚(俳優のそれであれ、非=俳優のそれであれ)によってではない。それは分析しない、説明しない。
 それは組み立て直す。

 この映画では「足音」がとても印象的です。街中では複数の足音が重ねられていますが、画面に映る人物全員分の足音が重ねられているわけではありません。その中でも、主要登場人物の足音が主に鳴り響いています。そのため、私たち観客は次第に足音からどの人物が画面でフューチャーされるのか判断していくようになります。例えば、スリをする人物とされる人物というように。もちろん物語的に必ずしも重要でない環境音も入っていますので、つねに画面と音を追っていかなくてはなりません。
 ご覧いただいた場面でいえば、三人組による華麗なスリが披露されていました。ここでは表情や視線は映りません。なぜなら、スリが成功するか否かに重きは置かれていないからです。この場面では、財布や金品がスられる瞬間、つまり盗品の誕生する瞬間が次々と映されるのみです。
 そこでは金品が掏られる瞬間が、待ちポジであったり逆にカメラの動きを追い越したりすることによって撮られています。これまでの場面が「シーンが交わらない視線の」や「音と画面の均衡」によって緊迫した印象を与えていたのに比べ、この場面では、ある種箸休め的な、スリが行われることが観る者にその見事さによって快楽を与える場面となっていました。

以上で、映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.17「拾う」を終了したいと思います。これからも映画に出てくるさまざまな「拾う」を楽しんで、映画をご覧いただければと思います。どうもありがとうございました。

 

(シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った。)

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.17「拾う」

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テーマ:拾う


落ちているものを拾う。


映画において、この単純な行為は、

思ってもみなかった事件を引き起こしたり、

登場人物らの関係性をがらっと

変えてしまうことがあります。


それは、拾う本人の意思と関係ありません。

それどころか拾ったことを意識していない場合さえあります。


拾うことを通して全体を覆う、

本来あるべきはずの場所へと

戻そうとする欲望、またはその否定、不在は、

画面にどのように表現されているのでしょうか?

映画を一緒に観ながら考えましょう。


時間:6月18日(土)18:00~(いつもより30分早い開始です)
場所:水曜文庫
   〒420-0839
   静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F
参加費:800円
予約・問い合わせ:水曜文庫(054-689-4455、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)