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ゴー!ゴー!アタラント号!! 映画☆おにいさんのBlog

『断層紀』上映会@カフェ・うーるー

 11月17日、静岡県三島市源兵衛川沿いの時間がゆったりと流れ、通常のカフェ営業の他イベントも行っている、文化的にも非常に大らかな雰囲気のカフェ・うーるーさんにて、映画『断層紀』の上映会が行われた。

 上映会当日、三島駅に到着し、主催者である「にわ企画」のKさんと『断層紀』を監督された波田野さんと合流する。簡単な挨拶をすまし、三島駅からすぐ近くの楽寿園へ行ってみる。読書会で三島を訪れたときに何回か楽寿園の前を通っていたのだが、入るのは初めて。予想以上に動物園が充実しており、カピバラレッサーパンダ、アルパカ等もいてテンションが上がる。菊の展示もしていて綺麗だった。さらに進むと溶岩むき出しの枯山水の池がある。池の近くまで行くと、自分がいまどこにいるのかわからなくなるような感覚に陥る。楽寿園を出て歩いた源兵衛川沿いの道は、水がとてもきれいで気持ち良い。地図で確認したときは上映会場のカフェ・うーるーまですこし距離があると思っていたが、実際に歩いてみるとあっという間だった。袋井の宇刈川や原野谷川も堤防沿いを歩くと気持がいいが、源兵衛川の散歩道は川の中の飛び石を渡ることができて楽しい。今後、カフェ・うーるーさんにお邪魔するときは、少し遠回りになるけれど源兵衛川沿いの道を歩いていこう。上映会場に着き、待ち時間にごちそうになったコーヒーも美味しかった。

以下は、その日の写真とトーク前に準備しておいたメモ。

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楽寿園のアルパカ

 

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楽寿園

 

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(看板

 

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(カフェ・うーるー 入り口

 

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(トーク風景

 

(『断層紀』

 映画は懐中電灯で照らされた地層から始まる。濡れて白く光る断面は美しい。この映画の監督「ハタノ」が祖父の放浪癖についてナレーションで語る。祖父の放浪癖は自身にも受け継がれたという。祖父が残した遺鉱石に魅せられて、祖父の故郷秋田県大館市へ向かう。その道中を撮った監督「ハタノ」の映像と、東京へ思いを馳せながら地元大館市で暮らす「ユキ」が撮った映像とが交互に流れ物語が進む。「ハタノ」は大館の歴史を調べつつ自問自答しながら、自らを律するように構図が決まった白黒のカットを重ねるのに対し、中学生の「ユキ」は小型のデジタルカメラを使い、もちろんカラーの映像で、素直に見たいものへカメラを向け、自由にズームをする。

 この映画が「自分探しのために東京から祖父のルーツとなる土地を訪ね、一方田舎に住む中学生は監督とのやり取りから東京へのあこがれを強くしていく」といった紋切り型の、狭い世界をかろうじて逃れているのは、一見ドキュメンタリー風にその土地のショッキングな問題を扱う素振りを見せながら、徹底されたフィクショナルな語りの構造を取っていることにある。ほぼ全編で流れるナレーション自体が大いに演出されたものであることがすぐに分かるし、画と音声が別のものであるにもかかわらず”自然”に見えるように入念に画面は繋がれている。例えば、「ハタノ」は祭りを撮影しながら、カメラを向ける暴力性に悩む。例えば、「ユキ」自身の声によって、祖母が迎えにくることで自分の大人の時間が終わってしまうとナレーションされるとき、画面は公園の噴水で無邪気に遊ぶ「ユキ」を捉える。また、同年代とは話が合わないと悩みを打ち明けるナレーションが流れるときには、「ユキ」はスイカ割り(実際は、作り物のスイカの中にお菓子が入っている)を楽しむ同年代の子どもたちから、やや距離を取りカメラを向けている。こうして、語りと画面が互いに反射しながら、「ハタノ」と「ユキ」も互いに影響しあいつつ、自身の核を模索していく。

このように述べると、地域に滞在して取られた映画にありがちな「中央と地方の二項対立」の図式の映画と思われるかもしれないが、この作品をその図式に収めさせないのは産まれてからずっと大館に住んでいるシシ踊りの名人「篠村三之丞」の存在である。それまでほぼ全編手持ちによって撮られていたが、この「篠村三之丞」が話す場面は始終カメラは固定されている。方言が強いので精確に聴き取るのは難しいが、話し振りが魅力的で画面に見入ってしまう。彼が幼い頃を語るのを通して、私たちは大館の歴史を彼の言葉以上に感じている。そのとき、「映画」が東京と大館という平面の繋がりだけでなく、縦の時間軸を感じ、より立体的となって私たちの前に現れるのである。

そして、この映画にはとびきり美しいカットが二つある。一つは「ユキ」が撮った映像で、「ユキ」が物語る最初のカットである。雨の日に父のトラックの助手席から撮られ、降りつける雨とそれをかきわけるワイパー、フロントガラスから見える大館の風景がリズムを生み、とても抒情的に撮られている。先が見えない不安がそのまま画面に表れている希有なカットだ。もう一つは、それまで手持ちカメラによって肉体性を感じさせ、抑制が効いたナレーションを響かせていたが、一向に画面に姿を現さなかった「ハタノ」が映画に出現するエンドロールのカットである。このカットは車から撮られており右から左に流れる風景を撮っているのだが、エンドロール途中から車はスピードを上げる。風景は流れていき、横に長い線となる。このとき、地層を眺めていた「ハタノ」の主観ショットから始まったこの映画が、再び「ハタノ」の主観ショットで終わるのだと観客は理解する。つまり、地層を眺めていた「ハタノ」がこの映画の終わりにおいて自身も地層となってしまうのである。「断層紀」という題名に相応しくあろうと、祖父の故郷を訪れその土地の歴史・文化を追いかけるうち、その映像として記録され、堆積されることを望んでいるようにみえる。そして、この映画が未来において語られるとき、断層のように異なった文脈で、食い違いを産む映像として語られることを拒まず、むしろ、それを夢見ようとするかのように暗転することでこの映画は終わりを告げる。『断層紀』は郷愁といったセンチメンタルとは遠く離れた、未来に懸ける映画なのである。