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映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.18「振り返る」

 本日はお集まりいただきまして誠にありがとうございます。
 まず、振り返ることについて参加者の方々にどのようなイメージをお持ちか伺ったところ、ホラー映画の「振り返る」が印象に強く残っており、振り向くといるはずの人がいなかったり、逆にいないはずの人がいたりと、何かの気配を感じさせて振り返ることがあり、そこでは存在と非存在が問題になっているというご指摘や、振り返る動作をきっかけとして回想シーンに入ることがあり、時間を操るきっかけとなる動作だというご指摘がありました。また、演劇をされていた方からは、振り返るタイミングで動作の意味が変わってきてしまうため、とても難しい動作だったというご意見もありました。
 具体的に挙げていただいた映画には、『百万円と苦虫女』『ニュー・シネマ・パラダイス』『シング・ストリート』等がありました。今回私が用意した映画も、参加者の方々に挙げていただいたような、動作として、そして時制が変わるきっかけとなる「振り返る」があります。

 では、映画を観ていきましょう。
 ご指摘いただいたように、「振り返る」には様々な意味がありますが、まずは運動として素晴らしい「振り返る」をご覧いただきます。

●『上海特急』(ジョセフ・フォン・スタンバーグ、アメリカ、1932)

 まずは、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『上海特急』をご覧いただきます。スタンバーグ監督は、1894年にオーストリア=ハンガリー帝国ウィーンで生まれたドイツ系ユダヤ人です。アルバイトの映写係から映画に携わるようになり、撮影助手や助監督など現場の経験を積み、1925年に自主映画『救ひを求むる人々』という長編映画を撮ります。これがチャップリン監督の目に留まり、チャップリンが当時役員だったユナイテッド・アーティスツから配給・上映されます。1927年に監督した『暗黒街』はアメリカ最古のギャング映画として有名です。女優のマレーネ・ディートリッヒとコンビを組んだドイツ映画『嘆きの天使』(1930)は大変評価され、アメリカ映画『モロッコ』『間諜X27』でもコンビを組み、今回ご覧いただく『上海特急』はディートリッヒとコンビを組んだ4作品目にあたります。
 ちなみに、王侯や貴族の称号である”フォン”を名乗っていますが、実際は貴族の出ではなく、アメリカの映画製作者が監督のイメージアップのためにつけたそうです。
 『上海特急』は、北京から上海へ向かう特急列車を舞台に、5年前に別れたカップルが再会する話です。この5年間で、クライブ・ブルック演じる医学博士ハーヴィーは医者として出世し、マレーネ・ディートリッヒ演じるマデリンは上海リリーと名乗る悪名高い娼婦となっていました。上海行きの特急列車の一等車に乗り込んだのは、彼らの他、無断で客室に犬を連れてこようとする婦人、風邪を引いているドイツ人、フランス語しか喋れない将校、ギャンブル好きの男、神学博士、中国人の女性、中国人と白人のハーフの紳士等がいます。
 登場人物たちが夕食をとるために食堂車に集まる場面からご覧いただきます。

 

 ハーヴィーと上海リリーが列車のデッキで会話する場面までご覧いただきました。
ディートリッヒが『東京物語』や『麦秋』の原節子さん並にキレキレでした。
 列車のデッキで物思いに耽るハーヴィーのところへマデリンが訪ねます。時間を尋ねたマデリンはハーヴィーが自身の写真を入れてプレゼントした時計を使っていることに気付きます。時計をきっかけに、話題は付き合っていたときの話になります。二人とも相手を愛していたはずなのに、別れた原因が些細なきっかけだったことを悔やみます。ハーヴィーは立ち上がって二人が座っていた椅子の周りを歩きながら、煙草を投げます。ポケットに手を突っ込み「君を手放すなんてバカだった」と呟く彼を、マデリンは椅子にもたれたまま、彼の上着を掴み抱き寄せます。椅子の手すりに腰掛けたハーヴィーは、マデリンを見つめます。ゆっくりとハーヴィーの帽子を取ったマデリンは、右手を軽く動かしてハーヴィーを促し、しかし、互いが互いに引き寄せられるかのようにして二人は唇を重ねます。二人の気持に呼応するかのように汽笛が鳴り響き、何者かが列車にロープを仕掛ける映像が挿入された後、ハーヴィーは身体を起こし、この5年間、他に男がいなかったかと尋ねます。マデリンは立ち上がってハーヴィーの帽子を被りながら振り向き、何もないと言えたらいいが中国の5年は長いのよと溢れ出す感情を堪えながら答えます。
 ここでは、5年前の二人の別れを巡って話が進みつつ、ディートリッヒが振り向きます。その動作は大部分が省略されています。振り返る動作は、その始まりがわずかに残されているのみで、途中の運動は編集によって切り落とされており、カットが変わりディートリッヒのアップに切り替わったときはすでに振り返る動作は終わっていました。ということは、ディートリッヒが振り返る動作を私たちはすべて観ているわけではないのです。
 彼女の演技が素晴らしいとはいえ、彼女の振り返る動作がすべて描かれていたらこれほどの「速さ」を私たちは感じることはなかったのでないでしょうか。もちろん編集を考慮に入れた上での演出もであろうこの「速さ」は、中途の動作がカットされ時間が省略されながらも連続性が保たれており、演劇とは異なった映画固有の時間を形成していることから来ています。
 この映画において、この「速さ」は、5年前の出来事から現在まで彼女が駆け巡ってきた時間を回想した「速さ」であったかもしれず、彼とのことを忘れるのだという過去にした決断の力強さの「速さ」なのかもしれません。ともあれ、この振り返る動作から彼女は5年前のハーヴィーと恋に落ちていたマデリンではなく、再びこの5年間を生きてきた「上海リリー」として彼と接するようになっていました。この後、革命軍に列車が乗っ取られ、物語は本格的に展開されていきます。

 過去を振り返る行為でもあり、過去を断ち切る行為でもあった「振り返る」でした。

 

●『砂丘』(ミケランジェロ・アントニオーニ、アメリカ、1970)

 単純に身体的な運動として素晴らしい「振り返る」をご覧いただきましたが、次は視線の転換としての「振り返る」をご覧いただきます。ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『砂丘』です。
 アントニオーニ監督は、大学在学中から新聞に映画批評を書いており、1942年にロッセリーニ監督の『ギリシャからの帰還』に脚本、マルセル・カルネの『悪魔が夜来る』に助監督で参加しております。その後、ドキュメンタリーの監督をするようになり、1950年に長編劇映画『愛と殺意』を監督します。1955年に『女ともだち』でヴェネツィア映画祭で銀獅子賞、1966年には『欲望』でカンヌ映画祭パルム・ドールを受賞しております。カンヌ、ヴェネツィア、ベルリンの世界三大映画祭で最高賞を受賞しており、これはアントニオーニ監督の他にアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督とロバート・アルトマン監督の二人しかいません。ちなみに達成した順番は、クルーゾー監督、アントニオーニ監督、アルトマン監督です。
 黒人と白人の学生が交じってストライキについて討論している様子がドキュメンタリーのように映し出されて始まる『砂丘』は、学生運動が盛んな時代に撮られた背景を反映しつつも、二人の若い男女が出会い、自分自身を見つけるお話です。
 男子学生マークは学生運動に関心があるものの議論が苦手で集会に馴染めません。ある日、大学での抗争の様子を伺いに行き、警察官が撃たれる場面に出くわします。持っていた銃で警官を撃とうとしていた彼は、撃っていないにもかかわらず、気が動転して街を飛び出します。手持ちの金もなくなり腹を空かした彼は、飛行場から飛行機を拝借することを思い立ち、あっけなく成功します。
 一方、秘書のアルバイトをしているダリアは、上司から会議を行う邸宅へ来るよう言われるも、道程の途中にあるという瞑想に適した場所を求めて車を走らせます。ラジエーターの水を汲んでいた彼女を見つけたマークが低空飛行をして彼女の車をからかったことがきっかけで、二人は出会います。飛行機を停留していたマークはダリアに砂丘に連れて行ってもらいます。かつて湖底であったらしい砂丘で、二人はおしゃべりをしながら砂丘を探検したり砂まみれになりながらセックスをしたりと濃密な時間を過ごします。
 そのままいっしょにどこかへ逃げる選択肢もあったにもかかわらず、マークは「危険を冒したい」と飛行機を返しに飛行場へと飛び立ちます。飛行場では、盗難騒ぎが大きくなっており、多くの警官やメディアがつめかけていました。飛行場へ戻ったマークは、飛行機を止めようとした警官に射殺され、死んでしまいます。
 ダリアがそのニュースをラジオで知った場面からご覧いただきます。

 

 

 映画の終わりまでご覧いただきました。凄い爆発シーンでしたね。
 参加者の方の感想にもあったように、爆発のカットが続いていき、再びダリアが映し出されると辺りはすでに夕暮れとなっており、爆破前からかなりの時間が経過したようです。彼女が浮かべる薄ら笑いから、物語上爆発は起こっていないように、あくまでも未確定ですが、推察できます。
 しかし、観客側から観たとき、爆発の映像群は、彼女の夢でも回想でもなく、実際に「ある」ものです。もちろん爆破風景はCGではありませんから、実際に爆破をして、その風景を撮影しています。それらを物語上の彼女の「妄想」だと言ってしまうことができるのかもしれませんが、そうした言葉でただ片付けるよりも、まずはその映像が「ある」ことに驚かされます。
 広大な砂漠をリゾート化するための会議が行われている邸宅が爆破され、10台以上のカメラの映像によって描き出されます。爆破の時間は反復され、延長されてゆきます。それらは次第にブランド品やTVといった、過剰にイメージをまとったものへと横すべりしていきます。
 実際に「ある」ものしか映すことができない映画にとって、人間の内面を描くことはできません。できることは「ある」ものをただ繫げていくことだけです。むしろこれらはマークとの恋愛と死別を通して、それまで彼女が身を染めてきたものに対する彼女の内に起こった”自己変革”が描かれています。これをささやかに”革命”と呼んでも差し支えはないのかもしれません。
 それまでの誰が何をしているのか分かりにくい未確定な画面の繋がれ方や、出来事のみが淡々と画かれていく様子とはうってかわり、あからさまに破壊され飛び散る対象がずらされていく過程そのものが、ピンクフロイドの音楽と合わさって既成の価値観に揺さぶりをかけているように感じられます。
 単純に「物語」のみを追うだけならば、ここまでの爆破シーンは必要ないように思えます。アントニオーニ監督はなぜここまで爆破シーンを反復、延長し、別荘から異なったイメージのものまで次々と爆破させていったのでしょうか。
 わたしたちが実際に眼にした映像群を純粋に「画面」の物語としてみるとき、やはり別荘は爆破されたと答えることができるのかもしれません。それは、アントニオーニ監督が実際には見えない、ダリアの中で起こった「価値観の変化」を可視化させようとしたイメージを、わたしたちの想像力が感じ取ったからではないでしょうか。一つ一つは確かに目に見えながらもそれらの総体としての未確定な「映像」には、実際に何が見えていて、何が映っていなかったのでしょうか? 映像には何が起こっていたのでしょうか? 映像の最小単位がワンカットであるのが疑わしいように、矩形の画と音で成り立っている「映像」は物語に奉仕するためだけのものではありません。物語に還元できえない過剰さがあり、そういった「映像の可視性」を拡張するような表現を、アントニオーニ監督は模索していた結果なのではないでしょうか。
 そのため、この爆破シーンは、現代消費社会のシミュラークルに関するものというよりも、むしろ映像の過剰な暴力性に触れるようなものであると思います。それは、別の過激な映像言語を模索していったために撮ることはありませんでしたが、小津監督が一兵士として戦場に行ったときに撮りたいと思ったという、杏の実が落ちる音や散り行く白い花の様子に似ているのかもしれません。

 この爆破シーンの他にも、砂丘でのセックスシーンが有名です。砂丘でダリアはあるゲームを提案します。砂丘の端にそれぞれが立ち、お互いが出会うまでにトカゲ、ヘビ、ネズミと目についた生き物を殺していく、出会ったときに多くの生き物を殺していた方が勝ち、勝った方が負けた方を殺すというゲームです。警官が撃たれた場面を目撃していたマークはナイーヴにそれを断ります。
 その後描かれる二人のセックスシーンでは、だんだんと砂丘でセックスをする恋人たちが増えていき、しまいに砂丘はセックスをする恋人たちで埋め尽くされます。それはまるで生きている物などいないかのように見えた砂丘で細々と生命を維持していた生き物らが擬人化されたように、数多くのカップルがまるでコンテンポラリーダンスを踊っているかのように、生と死のあわいで戯れるかのように、砂丘でセックスをする恋人たちが描かれます。
 そのほか、砂丘で、くるくる腕をのばしてヘリコプターのように回ったダリア・ハルプリンがカメラ横まで全力で走り抜けたときに彼女の息切れが残されており、それが急に肉体性を感じさせて思わずドキッとするカットがあります。
 今回は時間の都合でマークが出てきませんでしたが、マークとダリアが出会って過ごした時間を体感した上で、彼女が振り返って観たものをもう一度ご覧いただくと、より面白くご覧いただけるかと思います。

 振り返って、視線が移動する。しかし、そうして視たものが何なのかはあくまでも未確定である「振り返る」でした。

 

●『オルフェ』(ジャン・コクトー、フランス、1949)

 3本目は、「振り返ってはいけない」映画をご覧いただきます。ジャン・コクトー監督の『オルフェ』です。
 ジャン・コクトー監督は、詩人、小説家、劇作家、評論家、画家とたくさんの顔をもっており、それぞれの分野で刺激的な創作活動をなさっています。小説では『恐るべき親たち』、映画では『美女と野獣』等が有名です。日本では、坂口安吾三島由紀夫澁澤龍彦等がコクトーを愛好していたことで知られています。
 「オルフェ」はギリシャ神話のオルフェウスのことです。ギリシャ神話では、オルフェウスは死んだ妻ユーリディウスを求めて冥界まで赴き妻を連れて帰るのですが、冥界を出るまで妻を見ることが禁じられていたのにもかかわらず、振り返ってしまい妻を失う話です。この神話を題材とし、コクトー監督は『オルフェ』を撮ります。コクトー監督はこのお話に思い入れがあるようで、遺作の映画『オルフェの遺言』でも取り上げています。
 コクトー監督の愛人でもあったジャン・マレーが主演を務める『オルフェ』は、詩人のオルフェが芸術家や青年たちが集まるカフェ「フロール」から始まります。カフェで乱闘騒ぎが起こり、騒ぎの中、若き詩人セジェストはオートバイに轢かれてしまいます。セジェストのパトロンであった女王と呼ばれる女性に、詩人として高名なオルフェは証人として同行を求められます。しかし着いたのは女王の屋敷でした。そこで、彼はセジェストが生き返り女王とともに鏡の正解へ消えてしまうのを目撃します。彼は後を追おうとするも気を失ってしまいます。目を覚ますとそこは荒野で、彼は女王の運転手であったウルトビーズとともに帰宅します。
 家に着くと、妻ユーリディウスは警察署長や友達を呼んでおり、事が大事になりかけていました。女王の美しさに魅せられてしまったオルフェの枕元に、実は死神であった女王は現れるようになります。
 オルフェは車のラジオから流れる謎のメッセージに夢中になり、妻を蔑ろにするようになります。ユーリディウスは自分から夫の心が離れてしまったことを悲しみ、友達に相談しにいく途中、セジェストを轢いたオートバイに轢かれて死んでしまいます。
 オルフェは妻を生き返らせるため、そして女王に会うため、ウルトビーズに導かれ鏡の世界に入っていきます。鏡=死の世界では、死神によって女王の裁判が行われていました。裁判の結果、女王がオルフェに、ウルトビーズがユーリディウスに恋をしてしまったゆえに殺す必要もない人まで殺したと判決され、オルフェはこの件を口外しないこと、妻を見ないことを条件に妻と一緒に現実の世界へ戻ることが許されます。この条件は難しいからとウルトビーズが付き添って三人で元の世界へと戻る場面からご覧いただきます。

  映画の最後までご覧いただきました。逆再生によって不思議な浮遊感が映像にもたらされていて面白かったですね。
 妻を見ることができなくなったオルフェ、見られてはいけない妻ユーリディウス、気を回すウルトビーズ三人が一つの画面に収められ、それまでより息苦しさが強調されています。そのような中でも、怒って振り向くオルフェと屈むユーリディウスがコメディのように描かれていたり、相手を見ずにどこにいるかを感じ取りながら芝居がなされており物語が進むことで喧嘩をしながらも夫婦が共有してきた時間の長さ、尊さを感じさせます。
 しかしながらユーリディウスは、積極的にオルフェとスキンシップを取ろうとするも冷たく接されることに耐えられず、もう一度消えてしまった方が良かろうと寝ているオルフェを起こし自分の姿を見させようとします。ところが、幸か不幸かちょうど停電が起きてしまい試みは失敗します。
 再びラジオにオルフェは夢中になり車でメモを取りながら聴いていると、ユーリディウスがウルトビーズとともにやってきて後部座席に陣取ります。ユーリディウスに後ろから愛撫されていた彼は、ふとバックミラーを見遣ります。すると、オルフェの目線にカメラが置かれ、バックミラーに映っていた彼女は一瞬で消えてしまいました。
 車の座席によって位置関係が固定されていたため、オルフェは妻を見るためには身体をねじって振り返る必要があったはずでしたが、鏡によって視線が反射したことで、結果的に、「振り返って」しまいました。
 鏡は、画面の外も写してしまうため撮影しているスタッフも写してしまうことがあり、映画撮影にあたって気を配らなければなりませんが、画面に異なった奥行きをもたらしもします。コクトー監督は映画撮影を「鍵穴から覗く行為」に例えていますが、鏡を画面の中に置くことは鍵穴の中にさらに鍵穴を置くことに近いのかもしれず、そうした観点から映画内にある「鏡は思考力を増大する」という台詞は語られうるのかもしれません。また、穴からさらに穴の中へと視線を漂わせたときに重要なのは、そこに見える主体が外部から刺激を受ける生きた存在であることです。そのため、イメージとして既に定着してしまっている妻の姿が写した写真は、視線を漂わせても問題ないのかもしれません。写真自体は外部から刺激を受けることは決してなく、静的な存在、いわば死んだ存在であるためです。
 妻が消えてしまったあとは、ご覧いただいたように、死神と運転手が、オルフェとユーリディウスのために禁じられた時間の逆再生を行います。そうして、死神らと出会う前の夫婦に戻ったオルフェとユーリディウスは視線を等方向に向け、抱き合いながら愛を語ります。死の世界では、死神と運転手が連れられていき映画は幕を閉じます。

 「振り返る」が身体の動きだけでなく、視線の動きによってなされた映画でした。そこでは、鏡が重要なモチーフとなっていました。

 

●『黄金の馬車』(ジャン・ルノワール、フランス/イタリア、1952)

 最後に、ご覧いただくのは、身体的というよりも記憶にまつわる、思い出す「振り返る」です。ジャン・ルノワール監督の『黄金の馬車』をご覧いただきます。
 ジャン・ルノワール監督は、印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワールの次男として1894年に生まれます。
 映画批評家アンドレ・バザンーーヌーヴェル・ヴァーグの精神的父親と呼ばれた映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」の初代編集長ーーは、ルノワール監督のことを「世界最大の映画作家」と述べていますし、フランソワ・トリュフォールキノ・ヴィスコンティジャック・ベッケル等多くの映画監督がルノワール監督から影響を受けています。

 ご覧いただく『黄金の馬車』は、『カルメン』で有名なメリメの戯曲『サン・サクルマンの四輪馬車』に基づいて撮られた映画で、原住民と戦争状態にある南米のとある国へ巡業に来たイタリアの劇団の一座のお話です。
 国の象徴として作られた「黄金の馬車」と同じ船でやってきた一座は、宮殿近くの劇場で居を構え公演をします。舞台の上では「コロンビーナ」と名乗るアンナ・マニャーニ演じる女優カミーラは、宮殿での公演をきっかけに総督と仲良くなり、黄金の馬車を贈られます。しかし、馬車を自分のものにしたい貴族たちはそれをやっかみ、戦費の寄付と交換条件に馬車をカミーラから取り上げ、自分たちが使えるように公用のものとしようと企みます。さらに、寄付に関する契約書のサインを拒めば、司教の許可を得て、総督を罷免にすると脅します。総督は観念してサインしようとしますが、カミーラから意気地なしと罵られます。カミーラが怒って立ち去った後、総督は発憤し契約書へのサインを拒みます。総督は彼女のせいで地位を失うのだと逆恨みし、夜に訪ねることに決め彼女に伝令を送り知らせます。
 この映画で、カミーラは総督の他、二人の男から想いを寄せられています。
 一人は、剣豪のフェリペです。彼はカミーラの元恋人でしたが、彼女の心に一定の距離以上近づけないことを悟り、原住民との戦争へ参加することで彼女と距離を置くことにします。旅立ちの日、フェリペは、総督から贈られた金の首飾りを巡って、カミーラと喧嘩し、そのまま発ってしまいました。
 もう一人は、闘牛士のラモンです。街一番の人気者で、街での公演を見たときから彼女を気に入ります。マッチョな性格で、カミーラの下宿の前で愛の歌をよく歌います。フェリペとカミーラを巡り喧嘩したことがあり、フェリペと因縁があります。
 それでは、総督が一座の下宿を訪ねる場面からご覧いただきます。

  映画の最後までご覧いただきました。

 舞台のフレームが提示され、舞台上の〈現実〉へカメラが入っていくことで始まり、そして逆に〈現実〉が上演であったことが再度示されて終わる『黄金の馬車』は、徹頭徹尾「フィクションとしての現実」を前面に押し出しながら物語ります。
 カメラは主に空間を正面から捉え、俳優たちが演じる空間を映し出し、時に切り返しで登場人物の対立が示されつつ物語が進むことは、参加者の方の意見にあったように、抜粋のみでも感じていただけたかと思います。
 全体を通してみても、まるで第四の壁が存在しているかのように、ある空間像が提示された後は空間の手前側が映し出されることは滅多になく、なおかつ空間はそれ自体のみで存在しているかのように撮られていながら、それらが組合わさった大きな空間が映されることはありません。いわば、〈現実〉は、閉じられた一つの空間が団子の串刺し状態のように、それぞれの空間と数珠つながりに存在しています。
 そのため、諸空間を貫く位置にカメラが置かれたとき、物語に風が吹いたような印象を受けます。例えば、フェリペが兵隊長に志願することにしたと団長に別れを告げる場面です。一旦舞台から捌けたカミーラが楽屋に戻ると総督の秘書から黄金の首飾りが贈られます。それを見たフェリペは腹を立て、首飾りを送り返すから寄こせと取り上げようとします。当然カミーラは拒み、取っ組み合いの騒動となります。
 舞台ではカミーラの出番になっていますが、彼女は現れません。それでも”The show must go on”ですから、話の筋がめちゃくちゃになってもとにかく場を持たせようと、子どもたちが舞台上に出ていきます。ここで、フィックスの画面が急に捨てられて、子どもたちがはしゃいだり前転する様子が小刻みにパンをしながら撮られます。そのため、映画を観ている人をドキッとさせ、ルノワール監督はドキュメンタリーとフィクションの区別をしていなかったのではないかという疑いを感じさせる場面にもなっています。
 最終的にカミーラとフェリペは互いに平手撃ちを食らわせ、カミーラは尻餅をついて倒れ、フェリペは去ってしまいます。騒ぎを心配してして駆けつけた総督とラモンが傍らにいることに気付いたカミーラが二人へ挨拶したところで暗転して終わる、笑えながらも悲しいこの場面ですが、ことの始まりは、黄金の首飾りではなくカメラ位置によって予告されていました。
 画面手前にフェリペと団長の二人が、画面奥で今まさに舞台上で演じているカミーラが映し出されます。原住民と戦う方がカミーラの愛を勝ち取るよりも楽だと団長に慰められ去りかけたフェリペがふと振り向くと、画面奥で演技を終えたカミーラが一旦捌け、舞台から布で仕切られた楽屋へ向かいます。二つの空間を貫いていた構図から楽屋がある劇場裏の空間までを溝口健二監督ばりのパンで撮られています。
 このように『黄金の馬車』では、閉じられた空間が外部の空間と通底するとき物語は変容を来します。
 ご覧いただいた場面でいえば、高度に洗練された人間は嫉妬の感情がないのだと気取っていた総督がカミーラへの嫉妬に狂い、一人の男として貴女を愛するとカミーラに告白するシーンです。総督はそう言ってくれるが私は本物の女として愛せるのかと自問するカミーラは目の前の小道具を叩きます。画面外へと転がっていく音を私たちが聴いたとき、物語は結末へと一気に加速していきました。
 そして、映画全体においても、画面外の音や台詞をマニャーニが聞くときを、彼女のリアクションをカメラは丁寧に拾っています。他者からの刺激を受けたマニャーニがどのような反応をしていたか、演技でありながら「体験」とでも呼びうるような生理反応の連鎖を映画の優先順位の第一として『黄金の馬車』は撮影され編集されています。そうしたリアクションとアクションの連続性ゆえ、最後にこれまでの人生を振り返るカミーラ=マニャーニは、映画の運動と「生」とが近接しており、映像として美しくあります。
 映画の最後に幕が下りて行われる団長とマニャーニのやり取りにある、皆が消え客席と一体になってしまったとは、たんに「舞台」で演じることではなく、連続された「体験」がフィクションとして、また映像として一体となってしまったことを指すものです。カミーラの最後の言葉は、自身の演技論をぶったとか女優の性なるものを語ったのではありません。『黄金の馬車』全体を通して表現されている連続性によって、最後に「少し」と答えて何かを振り返る彼女は、「現実」「上演」「映画」を横断して存在しています。彼女自身の物語と映画の在り方とが一致した瞬間を私たちはいま目の当たりにしています。そのため、彼女は、ゴッホのひまわりやセザンヌの静物画が絵画として美しいように、映像としてこの上なく美しいのです。
 それは『キートンの探偵学入門』で、「現実」「夢」「映画」と戯れたキートンに近いのかもしれません。〈現実〉との距離をとることができないで没入するかたちでスクリーンに向かって走るキートンと『黄金の馬車』の振り返るマニャーニの姿は、映像として美しいという点で似ていると思います。

 『黄金の馬車』でご覧いただいた「振り返る」は、『上海特急』のように「速く」、『砂丘』のように「幻」で、『オルフェ』のように「反射」によって成り立っている、映画の内容と形式が一致した「振り返る」でした。


以上で、映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.18「振り返る」を終わりたいと思います。これからも「振り返る」の多様なニュアンスを楽しんで映画をご覧いただければと思います。
本日はどうもありがとうございました。

 

(シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った。)

 

 

 

●おまけ

・『暗黒街』


【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.19「マルグリット・デュラス」

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.19「マルグリット・デュラス

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日時:10月29日(土)19:00〜
場所:どまんなかセンター
(地図:http://domacen.hamazo.tv/c582682.html
参加費:一般 800円 学生 500円
予約:不要。当日会場までお越し下さい。

 

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【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.18「振り返る」

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テーマ:振り返る

誰かから声を掛けられたり、

何か気配を感じたとき、

人は振り返ります。

それまでの思案や行動を止め、

身体を反転させるとき、

どのようなドラマが映画に生まれるのでしょうか?

いっしょに映画の抜粋を鑑賞しながら、

話し合いましょう。

 

日時:9月24日(土)18:00〜

(いつもより30分早い開始です)

場所:水曜文庫

   〒420-0839

   静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F

参加費:一般 800円  学生  500円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-689-4455、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.17「拾う」

本日はお集まりいただき、ありがとうございます。

 今回のテーマは「拾う」です。「拾う」は、一般的に言って「落ちているものを取り上げ手にする」という単純な動作です。しかしこれを分解していくと、1.落ちている対象を認識、2.対象へ接近、3.対象を拾う、さらにもう一つ付け加えるならば、4.拾ったものをどうするか? というように考えられると思います。
 もちろん、「拾う」が無意識な場合もあります。例えば、追われている人が主人公のポケットに何か重要なものをそっと入れる、荷物を取り違える、何かを探していたら思ってもみなかったものを拾う、といった場合です。
 また、「拾う」ことが、登場人物の関係性を決定的に変えてしまったり、「シンデレラ」「宝探し」のように物語全体の動機となる場合もあるかと思います。
 しかしながら、そうした場合も含めて、「拾う」ことは物語の中でどのように描かれているのでしょうか。映画をご覧いただきながら、「拾う」についてご一緒に考えていければと思います。


●『若き日のリンカーン』(ジョン・フォード、アメリカ、1939)
 まずは、「拾う」ことが他のアクションと組み合わされ不思議な情感をもたらすジョン・フォード監督の『若き日のリンカーン』をご覧いただきます。
 ジョン・ウェイン主演『駅馬車』(1939)の次にジョン・フォード監督が監督した『若き日のリンカーン』は、まだ無名だったヘンリー・フォンダリンカーンを演じています。このあと、ジョン・フォード監督とヘンリー・フォンダは『モホークの太鼓』(1939)、『怒りの葡萄』(1940)と3作続けてタッグを組みます。

 『若き日のリンカーン』はタイトル通り、リンカーンが政治家として大成する以前の州議員〜弁護士の時期を扱っています。ご覧いただくのは、映画の冒頭から街で法律事務所を始める場面までご覧いただきます。

 

 ご覧いただいた抜粋箇所には、「拾う」が2箇所ありました。
 始めの「拾う」は、アンと別れたリンカーンが川辺へと歩き、一度振り返ってから足元にある石を拾います。さらに、石を投げる動作中にもアンの方へ振りむくというかなり不自然なことを、フォード監督はヘンリー・フォンダにやらせています。そのようにして投げられた石はきれいな波紋を川面にいつまでもたたせています。
 流氷によって季節の移り変わりが示され、ウサギのように咲いていたという花を摘んできたリンカーンは、橋の袂にある彼女の墓に供えます。枯れた花や枝を拾って掃除しながら、墓石へと姿を変えた彼女へ、今後自分が法律と政治のどちらの道へ進めばよいか悩んでいると相談します。そして、片付けていた枝を拾ってどちらに倒れるかで進むべき道を決めると言います。
 枝は、アンの方へ、つまり法律の道に進む側へ倒れます。あっという間です。枝には心理や葛藤などないからです。そのあまりの速さに驚いた彼は、わざと傾けたと思うかい?と独りごちてしまうほどです。
 こうして、リンカーンは法律の道へと進み、街で法律事務所を開業することとなります。
 淡い恋心を抱いていたアンが画面に登場したのは、ご覧いただいた場面のみです。このあと彼女の姿は画面に一度も映りません。

 しかし、なぜ彼女のお墓は川辺に建てられたのでしょうか。引いた画を観ても、そこが墓地というわけではありません。橋のふもとに一つだけ墓石が置かれています。リンカーンが独りごつシークエンスもまるで墓を人物を撮るかのように、というよりもむしろアンがただ墓石に姿を変えただけで、さも生きている二人の人物が会話しているかのようです。
 そして、生前の彼女が現れたのが水辺であり、二人並んで歩いていく素晴らしい移動撮影、波紋とともにその姿を消してしまったことを考えると、まるで水のそばでしか生きられない妖精となってしまったかのようです。そうであるならば、墓が川の傍にあるのも不自然ではないように思えます。
 そしてアンは墓石や水の精へとたびたび姿を変え、または他人を媒介として、観客に忘れられないように幾度も「物語」に登場します。
 例えば、依頼人の家族の家へ向かう途中、おもむろに取り出されたジューズハーブは、リンカーンが水の精となった彼女を呼び寄せるための儀式のようです。そうして、たどりついた家の軒先で事件の様子を伺いながら、依頼人の母と弁護する兄弟の嫁と恋人の3人の女性へ、自身の子ども時代を思い出させるといって、亡き母、亡き妹、そしてアンを彼女らに重ねます。
 裁判の形勢が悪くなりふさぎ込む夜にも、リンカーンはジューズハーブを奏でます。そこで現れたアンが、メモ用紙代わりに使われていた農事暦を裏返して、彼に月の入の時間を教えることで、リンカーンは事件解決の糸口を見つけます。
 裁判が終わり一家との別れの場面で、リンカーンはアンに似た弟の恋人であるスーから「どうしてもしたかったの」とキスをされます。アンや亡き家族の面影を携えた一家が丘へと向かうのを見送り暫くして、リンカーンは彼らの跡を追うように丘へと歩き出します。すると、雷が鳴り響き、リンカーンがフレームアウトしたあと、画面を包み込むように雨が降り始め、リンカーン像へとオーバーラップし、幕を閉じるのです。

 

●『タブウ』(F・W・ムルナウ、アメリカ、1931)

 「拾う」が意思決定に寄与する映画でしたが、次は「拾う」が隠される、秘密にされる映画をご覧いただきます。F・W・ムルナウ監督の『タブウ』です。キャストが現地のポリネシア人と中国系の方が選ばれており、いわば全員素人で職業俳優はおりません。また、この映画はムルナウ監督の遺作でもあります。この映画のプレミア上映の一週間前、1931年3月10日に自動車事故で亡くなられました。
 楽園のような南の島ボラボラで暮らす青年マタヒは、好意を寄せる少女レリが生け贄に差し出されることになることを知ります。二人は島の掟を破り駆け落ちをし、ある貿易港に漂着します。そこではマタヒが真珠取りをして生計を立て、平穏な日々を過ごしていました。ところが、徐々に村の追っ手が迫り、二人は村の老首長の影を感じつつあります。
 また、「貨幣」という概念を理解していない彼らは、島民へ無邪気に振る舞い酒をして多くの請求書にサインして莫大な借金を背負ってしまってもいます。そんな中、いつものように漁をする場面からご覧いただきます。

 



 マタヒが夜中抜け出して真珠取りをする場面までご覧いただく予定でしたが、いきおい最後までご覧いただきました。
 ご覧いただきたかった「拾う」は二つです。レリが島の老首長からの手紙を拾う箇所とマタヒが禁忌を犯し真珠を採る、「拾う」、箇所です。そのどちらの行為もパートナーに隠された行為となっておりました。
 レリは老首長からの手紙のことを告げればマタヒが抵抗して殺されてしまうだろうと予期して、マタヒは切り出せないでいる借金のために稼ぎを捻出しようと、禁じられていた海域へと真珠採りへ出かけます。

 ここでは、二つの社会構造が彼らを引き裂いています。未開地である島の掟と港町の経済によってです。これらの社会構造が二人を受け入れられないという恐ろしさとそういった構造自体のくだらなさがこの映画全体を漂っており、あれほど朗らかに暮らしていた二人に「拾う」という秘密を作らせました。

 

●『赫い髪の女』(神代辰巳、日本、1979)

  「拾う」ことが恋人たちを引き裂く映画をご覧いただきましたが、次は「拾う」ことで、恋人同士となる、カップルが形成される映画をご覧いただきます。日活ロマンポルノの作品『赫い髪の女』です。
 かつてはビックファイブの一つとして数えられていた日活でしたが、1960年代の日本映画産業の衰退とともに深刻な経営不振となり、1969年には撮影所を、1970年には本社ビルを売却し、1971年末に「日活ロマンポルノ」という路線をスタートさせます。これは、性愛風俗を題材とし低予算かつ短い撮影期間の中編を量産する、というものでした。製作本数が多くなったことに加え、日活はアクション映画が主流であったこともあって、演出経験の少ない監督にも撮る機会が回り、新しい才能が次々と現れました。たとえば、曽根中生監督や小沼勝監督、田中登監督等がいらっしゃいますが、その中でも最も代表的な監督は神代辰巳監督ではないでしょうか。神代監督は日活ロマンポルノを撮るまでには一般映画を一本しか撮っておらず、それが興行的に当たらなかったため4年も干されていた最中でした。そうして監督した『一条さゆり 濡れた欲情』(1972)が大ヒットとなります。そのため、しばらくタイトルに「濡れた」が冠せられるようになったほどでした。翌年の73年には4本、74年には6本監督し、たった3年で日本を代表する映画監督となります。
 『赫い髪の女』は、中上健次さんの『赫髪』が原作、脚本は、現在は雑誌『映画芸術』の編集長もされている荒井晴彦さんです。石橋蓮司さん、宮下順子さん、阿藤快(当時:阿藤海)さんが出演されています。
 それでは、映画の冒頭から土方の二人が喫茶店でお茶しているところへ社長の娘が訪ねるところまでご覧いただきます。

 

 トラックを運転していた光造と孝男が雨宿りをしている女を見つけ拾います。その女と光造の性愛がこの映画の多くの時間を占めています。
 拾った動機は、雨で明日も仕事が休みであり、その間の暇つぶし、性欲の捌け口にとという程度でしかありません。
 女の名前が最後まで分からないのは、原作の小説もそうですが、社会的な固有名詞とはまったく別のところで二人が繋がっているからです。男が女を好きなのか最初はよく分かりません。決して一目惚れしたというはなく、品が良いわけでも家事ができるというわけでもなく、一緒にいて心が安らぐというわけでもないようです。
 それでも男は化粧品のにおいや、食材が一円二円安いというような話を新鮮に感じているようです。女はもっと単純で、夫と二人の息子を捨てて何をしているかと言えば、自身の性欲を満たしているだけで男と交わり続けています。
 しかし、ほぼ狂っているように見える赫い髪の女は、まるで空いた腹を満たすように、もしくは食欲以上に性への欲求を満たそうとしています。セックスがまるで生きると同義となっているかのようです。
 そして、所長の娘らも含めたこの映画に出てくる女たちには暴力は意味をなしません。経済力も同様です。それらよりも性欲が優先される、ある種フラットな、性別によらない世界を生きています。
 では、男たちはどうでしょうか?
 女を拾う前、同じ女を回し、股間をまさぐりあい、食欲を満たすため一緒にトラックに乗り、等方向に視線を向けていた二人でしたが、光造は赫い髪の女を拾い、孝男は社長の娘からアプローチされ、二人の関係性は変わっていきます。あれほど仲が良かった二人が今後等方向を向くことはありません。
 映画の中頃、赫い髪の女と相合傘をしているところを見たと光造は孝男にからかわれます。犬と一緒でたまたま居着いただけだと答えた光造は、「ならヤらせろ、犬と一緒やろ」と重機を操縦する光造の隣に来た孝男にせがまれます。二人が横並びになり等方向を向きかけますが、ここで映画が始まって初めて「かまへんことあるかい」と申し出を断ります。それまで「かまへんか?」「かまへん」と何かのゲームであるかのように互いの申し出を受け入れてきた登場人物たちでしたが、所有の意識が芽生えたのか、光造は初めて申し出を断ります。それが原因で二人は取っ組み合いの喧嘩となります。カモメが飛び立つ映像とコンロに火をつける女の映像が一瞬挿入され、何かを観念したかのように、「わかった、夜来い」と受け入れます。
 夜になり、光造は新しいガスコンロを喜んでいた女に体勢を変えさせバックでセックスを始めます。男は女に目隠しをさせて、耳元で「好きやで」と愛の言葉を呟きます。女に気付かれないように光造は孝男と交替しようとして等方向をまたも向きかけますが、案の定、女はすぐに気付いて拒み逃れようとします。「嫌や、こんなことされるくらいならもとの旦那のところへ帰る」と泣き叫ぶも、孝男に犯されてしまいます。光造に突き飛ばされ、この状況に耐えられなくなった光造は部屋から出、「最初は嫌やというんじゃ」とつぶやき、近くに転がっていた三輪車に跨がってその場から離れ街へと逃げていきます。女は、光造の言葉通り、次第に男を受け入れ快楽を感じるようになります。

 このように、男たちは女を力によって押さえ込もうとしますが、この映画ではそのような抑圧はとことん無力化されます。例えば、仕事から帰ってきた光造に対して「夕方まであんたが帰ってこなんだら他の男のとこ行ってしまおと思ってたんよ」と話すなど、女は男に従属しているわけではなく、赫い髪の女にとって男はつねに代替可能な存在でした。
 経済力や暴力等見かけの力では、女たちを屈服させることはできず、男はつねに振り回されてしまいます。男が女を拾うということで表されていた力関係は、性交を重ねるうちにいつの間にか逆転し、無化されてしまいました。

 

●『スリ』(ロベール・ブレッソン、フランス、1959)

 これまでさまざまな「拾う」映画をご覧いただきましたが、「拾う」(pick up)の変化形として、ロベール・ブレッソン監督の『スリ(原題:Pickpocket)』をご覧いただき、今回のシネマ・カフェを終えたいと思います。
 ジャン=リュック・ゴダール監督はブレッソン監督に対して「ドストエフスキーがロシアの小説に、モーツァルトがドイツの音楽に対して占める位置を、ブレッソンはフランス映画に対して占める」と話しています。
 ロベール・ブレッソン監督は、過去には「平手撃ち」の回で『ラルジャン』をご覧いただいています。今回ご覧いただくドストエフスキー原作の『スリ』は、パリ市内やリヨン駅構内などで撮影されました。
 この映画においても、ブレッソン監督は職業俳優をキャスティングしていません。ブレッソン監督は自作へ出演する人物に対して、なにかを演技して本当らしく見せかける「俳優」ではなく、そこへ物質的に在ることを求めており、これらを区別するために後者を「モデル」と呼んでいました。そのため今作も演じている方々は皆素人です。ただし、この映画におけるスリの演技指導を行い、スリの頭目役として出演しているアンリ・カッサジは元スリ師の当時有名なプロの奇術師であり、ブレッソン監督が演技において何を優先していたのか考えさせられます。

 貧しい大学生のミシェルは、ある日、競馬場でスリを試み成功します。能力があるならば例えそれが悪でも活かすべきだとの考え方から、その後スリをするようになります。ミシェルには一人暮らしの母がいますが、彼女の体調は悪くなる一方です。同じアパートのジャンヌが看病してくれていましたが、ある日ついに亡くなってしまいます。それを機に、ますますスリの世界へ身を浸す主人公は、より安全に、より効率よくスリを行うため仲間を見つけ、三人組でスリを行うようになります。
 以前から目を付けられていた警察官に改めて釘を刺されて自宅へ帰る場面からご覧いただきます。

 今回ご覧いただいた場面では、信じられないような連係プレーでスリが行われいました。カバンの代わりに新聞が脇に挟まれ、カバンは仲間の手から手へと渡りあっという間に胸元へ隠されます。財布の間に挟まれた紙幣は、スリ師の新聞紙で隠されると次の瞬間には消えています。仲間が標的の肩に手に置き、標的が振り向いた隙を狙ってもう一人が胸元にしまってある財布を掏る。荷物を列車の荷棚に置く瞬間にポケットの財布を掏る。車内の狭い廊下を横になって通る乗客の胸元から掏って紙幣を抜き取り、その人物が戻ってきたときに何事もなかったかのように胸元へ戻す。列車に載ろうとする人を腕を掴んで手伝うも、その際に腕時計を外す。スリ仲間から華麗に手渡された財布は紙幣が抜き取られた後は、証拠隠滅のため、人目の付かないところへ捨てられる。あまりにも見事な技の数々に惚れ惚れしてしまいます。
 ブレッソン監督の著書『シネマトグラフ覚書』で次のように語っています。

 シネマトグラフの映画。そこにおいては、表現が獲得されるのは映像と音響との諸関係によってであり、物真似によって、身振りや声の抑揚(俳優のそれであれ、非=俳優のそれであれ)によってではない。それは分析しない、説明しない。
 それは組み立て直す。

 この映画では「足音」がとても印象的です。街中では複数の足音が重ねられていますが、画面に映る人物全員分の足音が重ねられているわけではありません。その中でも、主要登場人物の足音が主に鳴り響いています。そのため、私たち観客は次第に足音からどの人物が画面でフューチャーされるのか判断していくようになります。例えば、スリをする人物とされる人物というように。もちろん物語的に必ずしも重要でない環境音も入っていますので、つねに画面と音を追っていかなくてはなりません。
 ご覧いただいた場面でいえば、三人組による華麗なスリが披露されていました。ここでは表情や視線は映りません。なぜなら、スリが成功するか否かに重きは置かれていないからです。この場面では、財布や金品がスられる瞬間、つまり盗品の誕生する瞬間が次々と映されるのみです。
 そこでは金品が掏られる瞬間が、待ちポジであったり逆にカメラの動きを追い越したりすることによって撮られています。これまでの場面が「シーンが交わらない視線の」や「音と画面の均衡」によって緊迫した印象を与えていたのに比べ、この場面では、ある種箸休め的な、スリが行われることが観る者にその見事さによって快楽を与える場面となっていました。

以上で、映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.17「拾う」を終了したいと思います。これからも映画に出てくるさまざまな「拾う」を楽しんで、映画をご覧いただければと思います。どうもありがとうございました。

 

(シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った。)

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.17「拾う」

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テーマ:拾う


落ちているものを拾う。


映画において、この単純な行為は、

思ってもみなかった事件を引き起こしたり、

登場人物らの関係性をがらっと

変えてしまうことがあります。


それは、拾う本人の意思と関係ありません。

それどころか拾ったことを意識していない場合さえあります。


拾うことを通して全体を覆う、

本来あるべきはずの場所へと

戻そうとする欲望、またはその否定、不在は、

画面にどのように表現されているのでしょうか?

映画を一緒に観ながら考えましょう。


時間:6月18日(土)18:00~(いつもより30分早い開始です)
場所:水曜文庫
   〒420-0839
   静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F
参加費:800円
予約・問い合わせ:水曜文庫(054-689-4455、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.16「橋」

本日はお集まりいただきありがとうございます。

今回は、人間のしぐさではなく、「橋」がテーマです。

 最初に、「橋」が出てくる映画で思い出すものや橋そのものに関するイメージを参加者の方々に伺いました。レオス・カラックス監督『ポンヌフの恋人』、先日逝去されたジャック・リヴェット監督『北の橋』、クリント・イーストウッド監督の『マディソン群の橋』が複数の方から挙げられました。その他に映画でよく見る橋として、ブルックリン地区とマンハッタン島を結びスティール製のワイヤーを使った世界初の吊り橋であるブルックリン橋、マザーグースの童謡でも有名なロンドン橋がありました。「橋」のイメージは、「出会い」や「別れ」の場、その中で橋を渡るか渡らないかがサスペンスとなっている作品もあるのではという意見がありました。

では具体的に作品を見ていきながら考えていきましょう。

・ブルックリン橋

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・ロンドン橋(13世紀〜18世紀)

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・ロンドン橋 落ちた

 

●『明治俠客伝 三代目襲名』(加藤泰、日本、1965)

 日本映画の中で、「橋」を印象的に撮る監督と言えば、加藤泰監督です。まずは、先ほど参加者の方が挙げておられました『明治俠客伝 三代目襲名』をご覧いただきたく思います。
 加藤泰監督は、叔父の山中貞雄監督を頼って映画界に入ります。戦中は文化映画を作り、戦後は伊藤大輔監督の下で『王将』などの助監督を務めましたが、レッドパージ大映を追われてしまい宝プロで劇映画を撮り始めます。その後、新東宝から東映に移り、時代劇や任侠ものを数多く監督しました。代表作に『瞼の母』『緋牡丹博徒 花札勝負』『皆殺しの霊歌』『男の顔は履歴書』『炎のごとく』等があります。
 『明治俠客伝 三代目襲名』は、浜松出身である鶴田浩二さん、寺島しのぶさんのお母様の藤純子さん(現在は「富士純子(ふじすみこ)」)が出演しております。

 鶴田浩二演じる木屋辰の菊池浅次郎は、親分の息子を探して街のあちこちを探し、遊郭へ寄ります。遊郭では、藤純子演じる初栄が父親が死に目に会いたいので実家へ帰りたいと訴えています。しかし、唐沢組長の唐沢の予約が今夜入っているため帰ってはならないとお内儀に諭されています。かわいそうに思った菊池はその場で金を払い、田舎に帰らせてやります。
 その後、藤山寛美演じる渡世人の石井仙吉が木屋辰を訪ねる場面からご覧いただきましょう。
 

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 この映画は、製作上の都合によりたった18日間で撮られたそうです。加藤監督は、倉田準二監督にB班を任せて、18日を45日くらいに使って撮影したと語っています。
 ご覧いただいた舞台は、精確には橋ではありません。すぐむこうに橋が架かっていますので橋のふもとでしょうか。
 岡山から帰ってきた初栄が庭の桃を捥いできたといいます。初栄が取出した何にも包まれず素のままに手渡される桃は、藤純子の手のうえで、夕焼け空の赤さにも染まらず無垢な白さを際立たせています。
 距離を隔てた岸を繋ぐ「橋」は、この場面では、離れた二つの点を繋いでいます。出会ったばかりで、まだ相手のことをよく知らない二人の間にあった距離が、桃が手渡されることで急速に縮まっていきます。二人の気持が通じ合うことがわかるシーンです。
 眼に見えない通じ合う「気持ち」は「かたち」として映像に表される必要があります。具体的なものしかカメラは映すことができず、抽象的な「気持ち」はカメラに映らないからです。そのため、父の死に目に会うために帰った際、捥いだ桃が手渡されます。情けを掛けてくれた人へ、故郷に帰ることができた御礼として手渡しているだけではありません。このとき桃は、概念的でもなければ無口でもない初栄の「気持ち」を語っています。表現力を持った「物」として、観客がまるで「自分自身の体験」のように思い出すことのできる経験を思わせてくれる、「思考のあらわれ」となっている「物」です。

 そして同時に、画面の奥に橋が二つ存在しています。参加者の方の指摘にありましたが、この場面の画面の構図は、浮世絵を思わせます。それは、この「橋」が超越論的なものだからではないでしょうか。
 加藤泰監督は大阪にある蛸の松あたりの橋がモデルと仰っていますが、あくまでもセットであり、実在の風景をそのまま再現したのではありません。この作られた風景は、現実の風景とは少々異なった歪な印象を受けます。
 なぜ「リアル」な風景ではなくヘンテコな風景な風景にわざわざしたのでしょうか? それは、このシーンにおいて加藤監督が「風景」としての「リアリティ」を持った場ではなく、むしろ先験的な、形而上学的な「橋」を背後に備えることを求めていたからではないでしょうか。ゆえに、ある種近代的な、空間を等質的に捉える西欧の遠近法から受けるものとは異なった印象が、この画面から想起されるのではないでしょうか。
 先ほどの「気持ち」を表すための「かたち」とはまたすこし異なり、伝えたい印象、感覚を伝達するために、「リアリティ」よりも知覚における精確さを優先させた「橋」が用いられたセットなのではないでしょうか。
 どうすれば「物語」をよりよく「表す」ことができるか? 加藤監督の情熱が迸る場面でした。

 

●『車夫遊侠伝 喧嘩辰』(加藤泰、日本、1964)

 加藤泰監督の作品からもう一本、「橋」の違った一面を感じて頂ける映画をご覧いただきたく思います。『三代目襲名』の前年に撮られた『車夫遊侠伝 喧嘩辰』です。
 今回ご覧いただく箇所には出てきませんが、先ほど出演していた藤純子さんが加藤泰監督の映画に初出演した作品でもあります。
 また、サブちゃんこと北島三郎さんが主題歌を歌い、売り子役として出演しております。

 内田良平演じる流れ者の車夫中井辰吾郎は、梅田駅前で商売を始めようと車を組み立て始めます。すると、地元の車屋がよそ者に商売をさせまいと因縁を付けられる場面からご覧いただきましょう。

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 車夫が川へ女を投げ、親分に詰問されていたはずが結婚を申し込むという怒濤の展開でした。
 桜町博子さん演じる喜美奴がとても可愛らしいです。川に投げられるシーンは腰にロープを縛り宙づりになって撮影したそうです。しかし、何テイクもやるうちにだんだんロープが緩んできたそうで、桜町さんはのちに「死ぬかと思った」と語っています。

 車に乗ったら人だろうとなんだろうと荷物とみなす。荷物は口をきかない。だからお前さんは喋っちゃいけない。それでも喋る奴は川に投げ込むんだという無茶苦茶な動機で、辰は喜美奴を川へと放り投げてしまいます。

 その場所が橋でした。岸と岸を結ぶ橋は本来ならば通ることができない水平方向への移動を可能としますが、垂直方向へも同様に移動を可能とします。橋の上と下、道と川面に「高さ」が生まれるからです。

 この場面で、橋の高さがわかるカットは一つだけです。そのカットがあるのは橋から落ちたあとです。つまり、「高さ」は落下後に明らかになり、逆に言えば、落下するまで「高さ」が隠されているともいえます。さらに、落ちる喜美奴のカットが二度あります。
 親分が旅館から喜美奴が投げられたと縁側で騒ぐカットから、落ちる喜美奴へと繋がり(1回目)、橋と川を横から捉えたカットへ至るまで宙に舞っている時間は、その後の橋を横から捉えたカットで明らかにされる高さから考えると、落ちる時間が長過ぎます。それに加えて、辰が落ちる喜美奴を回想し(2回目)、落ちる喜美奴が強調されます。
 これはお荷物様の看板の意味を何度も説明して観客に「物語」を分かりやすく伝えるための反復とは異なります。
 橋から落ちる喜美奴の時間は延長され、二重化されることで、喜美奴が落ちる様子というよりもむしろ「落ちること」自体が被写体となっています。加藤監督は「落ちること」を執拗に描くことで、剛直で一本気な漢が恋に落ちたときの「気持ち」を、恋に落ちたときにだれでも感じるあの奇妙な浮遊感を表現したかったのではないでしょうか。
 また、「喜美奴をなぜ川へ放り投げた?」「商売をしたかったら身内になれ」と詰問されていたはずが、いつの間にか二人の結婚へと至る次の長い長いワンカットは、ローポジションという技術的なことよりも、むしろワンカットの中で「気持ち」の揺れ動きをつかまえるんだという気概が小津監督を、そして「コロス」や「倒れる」で紹介したジョン・フォード監督を思わせます。

 建造物としての橋の高さと本来繋がるはずのないものを結ぶ性質によって、橋は二人の「気持ち」を決定的に変容させる舞台となっていました。

 

●『洲崎パラダイス 赤信号』(川島雄三、日本、1956)

 橋は、岸と岸を結んだり、高さを生み出す装置としてだけあるのではありません。宙づりの空間として、サスペンスの舞台ともなります。そうした橋が出てくる映画『洲崎パラダイス 赤信号』をご覧いただきます。
 川島雄三監督は松竹でキャリアをスタートし、1954年に日活に移ります。『愛のお荷物』『風船』等を監督したあと、1957年に東宝系の東京映画へ。東京映画の傍ら大映でも監督していました。
 川島監督は戦時下織田作之助と意気投合し、日本軽佻派を名乗っていたそうです。井伏鱒二のファンでもあり、井伏が訳した于武陵の『勧酒』の一節「ハナニアラシノタトヘモアルゾ/「サヨナラ」ダケガ人生ダ」を好み、自身の映画にも用いていました。川島監督というと『太陽幕末伝』が最も有名ですが、監督ご本人はこの『州崎パラダイス 赤信号』が最も好きだと語っておられます。
 『洲崎パラダイス 赤信号』は芝木好子さんの『洲崎パラダイス』が原作です。舞台は戦後、売春禁止法成立間近の赤線地帯洲崎です。栃木から上京してきた三橋達也演じる義治と新珠三千代演じる蔦枝は宛てもなく東京を彷徨っていましたが、洲崎遊郭へと続く橋の手前にある呑み屋で蔦枝が仕事を見つけます。そこの女将の紹介で、義治もそば屋の出前で働くことになりました。ところが、蔦枝は呑み屋の上客である落合に付いて出て行ってしまいます。二人を捜そうと義治は神田を歩き回りますが、見つかりません。疲れて呑み屋に戻ってくると、女を作り出て行った女将の旦那が帰ってきていました。やはり自分には堅気な生活が良かろうと義治はそば屋の出前をまじめに取り組むようになり、懇意にしてくれる芦川いづみ演じるそば屋の娘と仲良くなります。そのような中、蔦枝が呑み屋へ顔を出す場面からご覧いただきます。

 

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 映画の最後までご覧いただきました。
 印象的な橋が二場面ありました。新珠さんと芦川さんがそれぞれ塞いで川面を眺めているカットです。その場所が橋となっていました。
 この映画では、橋は境界線として描かれていました。こちら側から渡りきったら赤線地帯であり異世界です。あちら側へ渡ってしまったら容易には戻って来れない、不可逆的な変容が起こってしまうであろう場所として描かれています。
 新珠三千代さん演じる蔦枝の場合では、意を決してむこう側へと歩き出してしまいますが、知り合いの男とすれ違うことで引き返してきます。この若い男は田舎から連れられてきた若い娼婦をかわいそうに思い、貯金を切り崩して他に客を取らせないように囲っていました。が、その娼婦がいなくなってしまい探しに戻ってきたところだったのです。けっきょく、その娘は見つからず連れ出すことはできなかったのですが、かわりに蔦枝とすれ違い、一人の女性が橋を渡ってしまうことを食い止めました。助けようとしていたような無垢な女性ではなく、「あの子のかわりに遊んでやろうか」と誘ってきさえもする女性でしたが、救ったことにちがいありません。そして純朴な男は、探していた女性が見つからない腹立ちとあまつさえ自分を誘ってくることに憤りを感じ、蔦枝に平手撃ちをくらわせます。蔦枝は叩かれた頬をさすりながら、男を見遣ります。こうした宙づりの空間として橋は位置し、登場人物を支えています。

 芦川いづみさん演じる玉子の場合では、好意を持っていた義治が結局蔦枝とヨリを戻してどこかへ行ってしまい、ひとりでぼんやりと川面を見つめていました。そば屋に訪ねてきた蔦枝にも親切な対応をしていたこの娘は、ひょっとしたら自分の気持ちに気付いていなかったのかもしれません。同じような姿勢で川面を見遣る蔦枝を観ていたわたしたちは、同じポーズの蔦枝が娼婦に戻ろうとしていたことを知っているため、堅気の娘がこの失恋をきっかけにどうかなってしまうのではと不安に襲われます。ここでも橋は宙づりの空間として登場人物の不安定さを増す舞台として機能していました。

●『見えざる敵』(D・W・グリフィス、アメリカ、1912)

 桁橋、トラス橋、アーチ橋、斜張橋、吊り橋など沢山の種類の構造を持った橋がありますが、今度はくるくる回る可動橋「旋回橋」が出てくる映画をご覧いただきます。橋が回ることで物語へ具体的に影響を及ぼします。
 二本目にご覧いただいた『車夫遊侠伝 喧嘩辰』では印象的な銃口が出てきていましたが、これからご覧いただくグリフィス監督の『見えざる敵』へも強烈な銃口が出てきます。
 グリフィス監督の映画は、これまで「走る」の回で『東への道』、「帽子」の回で『迷惑帽子』『ニューヨーク・ハット』を紹介してきました。
 D・W・グリフィス監督は演劇の役者から映画監督となり、1908年に『ドリーの冒険』で映画監督デビューします。クローズ・アップやクロスカッティングといった映画文法を発明し、「映画の父」といわれています。グリフィス監督に影響を受けている監督はスタンリー・キューブリック監督、スティーヴン・スピルバーグ監督、黒澤明監督等多くの映画監督がいます。というよりも逆に、影響を受けていない監督を挙げるのが難しいほど映画史において多大な影響を与えている監督です。
 例えば、『男と女のいる舗道』で、グリフィス監督の『散り行く花』へオマージュを捧げているジャン=リュック・ゴダール監督は、撮影後に、

 今日筆を執る若い作家は、モリエールシェークスピアがいることを知っている。われわれはグリフィスがいたことを承知しいた最初の映画作家なのです。

と語っています。
 また、「走る」の回でご紹介した『大人は判ってくれない』のフランソワ・トリュフォー監督は、

 グリフィスは映画が女の芸術であること、女を美しく見せる芸術であることを最初に理解した映画作家だった。

と述べ、グリフィス監督と名コンビであった女優リリアン・ギッシュに、

 リリアン・ギッシュは両極端を見事に融和させる天賦の才を持っている、チェーホフT・S・エリオットを、成熟と幼稚を、自然さと気取りを。

との言葉を捧げています。さらに、リリアン・ギッシュの魅力を「世界のすべてを見つめる二つの大きな瞳」と語り、トリュフォー監督『アメリカの夜』の冒頭で、グリフィス監督『見えざる敵』のスチールを引用しています。
 今回はその『見えざる敵』をご覧いただきます。

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 『見えざる敵』はリリアン・ギッシュ、ドロシー・ギッシュ姉妹の映画デビュー作です。この映画では、グリフィス監督が発明したとされるクローズアップとラスト・ミニッツ・レスキューをご覧いただけます。
 映画は一巻もので、全編通してで15分しかないので一本丸々ご覧いただきます。

 

 

 グリフィス監督はギッシュ姉妹が似ていたため、髪に色違いのリボンをつけさせ、「赤いの、私の方を見ろ」「青いの、君も叫べ」等と指示を出していたそうです。
 ご覧頂いたとおり、姉妹のもとへ駆けつける最中、兄たちは旋回橋で足止めを食います。橋が画面からはみ出す程ダイナミックな動きを見せ、兄の行方を阻む障害物となります。それにより、わたしたちは妹の救出が間に合わないのではないかとハラハラしてしまい、橋がラスト・ミニッツ・レスキューの一助となっています。
 しかし、橋が旋回する契機となっている船は、この映画で一度も姿を見せません。ここで、グリフィス監督は「物語に橋が姿を見せる」というもっともらしいことは必要ないと判断したためです。この場面で優先されるべきものは「妹の救出が間に合うか否か」であって、「通るからことになっているから船を描かなければいけない」といった「リアリズム」ではありません。
 もしくは、お金がなくて船が用意できなかったり、スケジュール的に無理といった単純な理由かもしれません。しかしながら、船が通る描写などなくても「映画」は成立するんだとグリフィス監督は判断した。そのことが重要であるように思えます。
 『見えざる敵』には、船の他にも「見えない」「わからない」ものが多くあります。例えば、姉妹の家と兄の事務所との距離です。実際の距離がどれくらいであるのかは画面を見ていてもよくわかりません。描かれているのはあくまでも心理的な距離であり、それは作劇する上での「都合のいい」距離なのかもしれません。しかし、だからといってシラけることはなく、むしろ実際の距離がわからないことで焦りが生まれ、映画はより盛り上がりを見せます。
 また、二点の距離が「見えない」「わからない」ことは、家政婦と姉妹の関係においても言うことができます。壁一枚を挿み、銃で狙うー狙われる関係ですが、当事者たちはそれぞれ相手がどこにいるのかわからず、誰がどこにいて、どちらを撃とうとしているのかわからないという不安定な状態が続きます。
 そこへ再度、銃が壁の穴からぬっと出てくる。発砲と同時に硝煙がはげしく舞います。手と銃しか姉妹から見えないことが、この場面の恐ろしさを倍増させています。
 家政婦たちは姿を隠しつつ威嚇しようと穴へ手を入れます。逆に姉妹たちからすると、自分たちを狙っている狙撃者を確認できるのは手と銃のみであり、ある種の不気味さが際立ちます。この不気味さは狙撃者が部屋に入ってきたとしたら、つまり家政婦が全身を露わにして姉妹を脅した場合にはありえない怖さではないでしょうか。
 撃たれるかもしれないという恐怖だけでなく、「狙撃者が見えない」恐怖が合わさることによって、生々しくどこかいかがわしい恐怖が、眼をひんむくギッシュ姉妹たちが感じたのと同じように、私たちを襲います。
 しかしながらその一方で、初期映画にみられるような心躍る躍動感もこの映画は兼ねそろえています。たとえば、屋外で話す人物の様子よりも、荒々しく揺らす風、移ろう光の清々しい健全さに眼を奪われます。ここで、背景の木々の葉が風に生き生きと揺れる様子に『赤ん坊の食事』を、舞い上がる埃や煙からリュミエール兄弟『塀の取り壊し』を思い出す方がいらっしゃるかもしれません。
 「物語」のみを効率よく語ることだけを考えるならば、これほどの風や光は不要なものです。「物語」を「効率的」に撮影するためのみでしたら、刻一刻と変化する光や風はあまりにも不安定で扱いにくものだからです。そうしたものは画面からなるべく排除した方が「効率的」です。しかし、この映画における過剰な風や光は、明らかに「リアリズム」や「心理」を超えた荒々しい表現となっています。それは、人間がコントロールできないもの、同じものは二つとない動きを見せる一回性の儚さを、あえて積極的に映画へ取り込もうとしたからではないでしょうか。直線的な物語構造を取りながらも、グリフィス監督は「映画」を「実験」しています。映画の黎明期から監督として立ち会い、本当にフィルムに映っているのか現像するまで分からないまま撮影を続けるしかなかったであろう、当時のスタッフが行った映画製作という実験、試みの有り様が、見えないことを喚起する「想像力」と深く関係しているのかもしれません。

 私たちはテクノロジーの進歩によってCGや3D映画を目にしているけれども、百年以上前のグリフィス監督の映画ですら、得体の知れない魅力で私たちを惹き付けて止みません。

 


 

●『ポンヌフの恋人』(レオス・カラックス、フランス、1991)

 次は橋が動かない、というか橋は元来動かないものですが、その橋の存在感そのものによって映画が成り立っている、まるで橋が登場人物の一人であるかのような映画をご覧いただきます。その橋は「ポンヌフ」という名前を持ち、日本語に訳せば「新しい橋」となりますが、パリの中で最も古い橋であります。ちなみに、最初に「橋」の映画で思い浮かぶ映画を伺った際に、ほとんどの方が挙げてられていました。
 監督のレオス・カラックスは、23歳で『ボーイ・ミーツ・ガール』で長編デビューをするやいなや「ヌーヴェル・ヴァーグの恐るべき子ども」「ゴダールの再来」と評価されました。
 カラックス監督の長編三作目である『ポンヌフの恋人』は、オープンロケの設営のため予算が肥大化してしまい、さらにプロダクションの倒産やドニ・ラヴァンのケガによって二度の中断を経て完成しました。当初はパリでの撮影を予定しておりましたが、撮影が延期したため許可が切れてしまい、結局実物の4/5のオープンセットを建設することになり、制作費は当初の予算の約4倍まで膨らみフランス映画最大の制作費となったそうです。この映画で扱いにくい監督のイメージが付いてしまったカラックス監督は、『ポンヌフの恋人』から次作の長編映画『ポーラX』まで8年、『ポーラX』から次の『ホーリー・モーターズ』まで13年もの時間が空いてしまっています。
 主演は『ボーイ・ミーツ・ガール』『汚れた血』に続きドニ・ラヴァンが務めております。同じ主人公の「アレックス三部作」として『ポンヌフの恋人』は、80年代を締めくくる一本となるはずでしたが、先ほど申し上げたように撮影が長引いたために91年の公開となっております。
 相手役のジュリエット・ビノシュは当時カラックス監督と付き合っていたそうですが、この映画の難航がきっかけとなり別れてしまいました。この映画の結末がハッピーエンドに変わったのは監督がビノシュへの最後のプレゼントだといわれています。
 日本では単館系ミニシアターの最長期間上映記録を持っており、本日も多くの方が挙げられるなど皆さんの心に深く残っています。
  ポンヌフそのものは老朽化に伴い改築工事中(この期間は映画の製作期間でもあります)となっています。関係者以外立ち入り禁止にされており、フェンスで覆われています。にもかかわらず、浮浪者であるアレックス(ドニ・ラヴァン)と初老の浮浪者であるハンスはポンヌフを寝床としています。そこへ新たな闖入者としてミシェルという女性が加わります。ミシェルは画家志望でしたが眼病を患い、失明する運命となります。失意のあまり浮浪者となってしまったことが、風で吹き飛ばされる画用紙などによって画面に示されます。
 電車の中で元恋人を撃った夢(?)から覚めた場面から水上スキーの場面までご覧いただきます。

 

  踊る場面はハイスピードカメラで撮影され、横移動のショットは4、5台の移動車を使って撮影されたそうです。劇中の7月14日は革命記念日のため、花火が盛大に上がっています。この舞台はセットのため花火もすべて撮影のために上げています。水上スキーのシーンも相当な量の花火がセットされており、失敗してもすぐに止めることができないため、ビノシュはとてもプレッシャーがかかっていたそうです。撮影は、NGを一回出してしまったものの二回目で成功したそうです。
 この他、実際に俳優たちにホームレスとして生活させる等して役作りしたそうです。
 この映画における橋は舞台そのものでした。橋というそれ自体が不安定な場所にある建造物とあてもなくさまよう浮浪者たちは存在の根底が似ています。
 銃を撃つリズムと台詞のリズム、花火のリズムが画面に溢れており、物語上繋がっていくのではなくむしろイメージをもって繋がっています。物語を上手に語るためではなく、音色や色感、質感、ショットの質量を優先させて画面が構成されています。
 想像力に寄与しているという意味で、グリフィス監督とカラックス監督は通ずる部分があるのではないでしょうか。
 また、画面にたびたび現れる水の主題は、同じく「橋」の映画である『素晴らしき放浪者』や『アタラント号』を思わせます。移ろいながら川の流れに身を任しつつ確かな愛を手に入れたカップルの話でした。

 

●『黒い罠』(オーソン・ウェルズ、アメリカ、1958

 カラックス監督は「呪われた映画作家」と形容されることがあります。他に「呪われた映画作家」に、「登山の映画史」の回で『アルプス颪』をご覧いただいたシュトロハイム監督、「平手撃ち」の回で『ラルジャン』をご覧いただいたロベール・ブレッソン監督、そしてこれからご覧いただくオーソン・ウェルズ監督がいます。
 オーソン・ウェルズ監督は、最初、舞台俳優、演出家として活躍しました。1938年にラジオドラマ「宇宙戦争」があまりにも「リアル」だったため、火星人が襲来したと勘違いし全米がパニックになりました。そして、1941年、25歳のときに『市民ケーン』を監督します。映画史上のベストで1位になったこともある映画です。
 今回ご覧いただくのは『黒い罠』という映画です。この映画は、3つのバージョンがあります。最初にウェルズ監督が撮影し編集した試写会版、次にウェルズ監督に無断で映画会社が勝手に編集した劇場公開版、そして、ウェルズ監督が公開当時に映画会社へ提出した嘆願書を基に監督が亡くなったあと編集した修復版です。スタジオが勝手に編集した劇場公開版は、結局、批評的にも興行的にも失敗してしまいます。このようなハリウッドのスタジオ・システムに嫌気がさしたウェルズ監督はこの映画を最後にアメリカからヨーロッパに活躍の場を移すことになります。

 とはいえ、1958年のブリュッセル万国博覧会で劇場公開版が上映された際、トリュフォー監督やゴダール監督から絶賛されました。
 アメリカーメキシコ国境付近が『黒い罠』の舞台です。メキシコの麻薬捜査官バーガスが、国境付近のアメリカ側で発生した事件の捜査に立ち会ううちに、アメリカの刑事クインランの強引な操作方法に疑問を持ち対立していきます。国境付近を縄張りに持つマフィアのグランディは、翌週に控えた弟の裁判の前にバーガスを脅そうと、バーガスの妻を眠らせて麻薬パーティーに参加させたと見せかけます。しかし、グランディは、バルガスを煙たがっており共に彼を貶めようとしていたクインランに殺されてしまい、バルガスの妻と一緒に発見されます。
 バルガスが妻の下へ駆けつける場面から映画の最後までご覧いただきます。 

 最近の映画でいえばスピルバーグ監督の『ブリッジ・オブ・スパイ』がそうであったように、この映画では様々な「境界」が問題となっています。アメリカとメキシコの国境、刑事の管轄、英語とスペイン語、天才と凡人、アイドル刑事汚職刑事という境を巡る物語の最後の舞台が、橋でした。
 妻を絞殺した犯人をいつか逮捕するため好きだった酒を断ってまで仕事に打ち込み、同僚をかばって銃弾を受けたことで獲得した特殊能力「直感」を用いて、多くの事件を解決してきたアイドル刑事のクインランは、特殊能力を持つゆえに「直感」で犯人を見抜いてしまい、本来であれば必要な「証拠品の押収」を省略し「証拠のねつ造」によって容疑者を次々と検挙してきました。今回のリネカー殺人事件も同様に容疑者のサンチェスの部屋に持参したダイナマイトを置いて、相棒のピートに証拠品として見つけさせました。
 こうした汚職に勘づいたバーガスは検事のシュヴァルツとともに真相を探ります。そんなバーガスを煩く思うクインランへ、ピートにサンチェスの部屋まで連れられてきたグランディが、協力してバーガスを懲らしめようと話を持ちかけます。どこかから鐘の音が聴こえる中、二人は具体的な話をするために場所を移します。
 バーで話をしていると、クインランはいつのまにか酒を口にしてしまっています。そこへグランディの子分から電話がかかってきます。どうやらバーガスの妻をクスリで眠らせているらしく、グランディは彼女をホテルへ連れて来させます。
 グランディに案内され誰にも見られないようにバーガスの妻がいる部屋へ着いたクインランは、ピートへ麻薬の乱痴気パーティーがあったことを風紀課に匿名で電話するよう指示したのち、バーガスの妻が眠るすぐ傍でグランディを絞殺、バーガスの妻に預けてあったバーガスのピストルを持って部屋を後にします。
 一方バーガスは、クインランのダイナマイト購入の記録や汚職の疑いをクインランや上司に伝え、妻を迎えに行ったものの部屋がもぬけの殻であり、グランディ一味の若者たちが部屋から彼女を連れ去ったことを管理人から聞き逆上します。すぐさま若者たちがいるバーへ向かい、ジュークボックスが大音量で鳴り響く店内で彼らを見つけると妻はどこにいるかと詰め寄り、殴り合いの乱闘となります。
 そこへ駆けつけた検事のシュヴァルツが麻薬所持とグランディ殺人の容疑のためバーガスの妻が逮捕されたことを伝えます。バーガスは急いで留置場の妻の元へ駆けつけます。意識が朦朧としながらも妻は「家へ連れて帰って」と話し、バーガスを抱きしめます。抱きしめ返すバーガスの衣服は、ネクタイがほどけシャツもボタンがいくつも開いています。妻を労るバーガスと彼らに冷たく当たる上司との間で、これまでも無罪の人々をこのように逮捕していたのかもしれないとピートは良心の呵責に苛まれ、バーガスを呼び殺された
グランディの傍らにクインランの杖があったことを告げます。告訴はされないものの妻の名誉を取り戻すため、バーガスはピートを連れて「ねつ造」の証言を取るためクインランの元へ行きます。
 クインランがいるターニャの店付近で、自身の服の乱れを気にかける様子もないバーガスは、ピートに盗聴器をつけ身なりを整えさせます。盗聴器が受信することを確認したピートは、ピアノーラが鳴り響くターニャの店にいるクインランを呼び出します。先ほどバーガスが様子を伺いにきたのに気付いていていたクインランは、現れたピートに「お前をバーガスと見間違えた」と語るほど酔っています。
 こうして、酔ってはいるものの類い稀な直感を持つクインランと、彼に気付かれないように証言を聞き出したいピートと盗聴器を録音しているバーガスの探り合いが始まります。酔っているとはいえ、ピートの頭の上に浮かぶ天使の輪が見えると直感を働かせるクインランに油断はできません。
 ここでカメラは、道を歩きながら会話をする二人とそれを録音するバーガスをそれぞれ追うのですが、盗聴器が受信できる範囲がどの程度の距離までなのかよく分からない上に、バーガスが掘削現場の建物内を移動するため、この2+1の位置関係が容易に判断できません。
 そこでわたしたち観客は、画面によって2+1の位置関係が宙づりにされつつ(なお、二人が盗聴器を仕込んでいるとき、ピートはクインランへの深い友情から裏切る可能性があるとバーガスは彼を完全に信用しているわけではないことが語られ、この2+1の関係は1+2の関係になりうることが示唆されている)、クインランとピートの会話を追うことになります。クインランとピートを見張りながらまるで迷宮に迷い込んでしまったかのようにバーガスが建物の中を移動していくにつれ、2+1の位置関係を判断することがますます困難になり、かつ掘削機の轟音に掻き消される二人の会話は受信機を通して語られるようになります。そのため、画面内の登場人物の動きと会話を把握するためには、視覚と聴覚をカットに合わせて交替させながら、ひとつの画面から見えていない登場人物らの言動を想像することを強います。
 こうして最後の舞台となる橋へと辿り着きます。橋へ先に辿り着いたバーガスは上着を投げ捨て、橋の下へと降り河を横断しながら二人の会話を受信します。が、受信機が再生した二人の会話が橋に反響してクインランに気付かれてしまいます。さらに、クインランは直感によってバーガスが近くにおり、かつピートが裏切っていることに気付いて激昂し、バルガスの拳銃でピートを撃ってしまいます。クインランは必死に正気を保ちながら手に付いたピートの血を洗い流すために河辺に降りてきます。工場排水によって汚れた河で血を洗い流したあと、クインランは崩れ落ち、涙を流します。
 バーガスが「もう言い逃れはできない」とクインランに詰め寄りますが、まだクインランはピートを撃った罪をバーガスに擦りつけることができると考えており拳銃で脅します。そこへ検事のシュヴァルツとバーガスの妻が車でやってきます。クインランはお前を逮捕すると発砲して脅しますが、バーガスは、銃口を向けらているにもかかわらず、もはや今のクインランでは自分に命中させることはできないだろうと意にも掛けず、河辺から車へ向かいます。クインランがもう一度撃とうとしたとき、ピートが橋の上からクインランを撃ち、そのまま事切れてしまいます。倒れたピートの帽子が風に吹かれ、意識がなくなったピートの手からは拳銃が零れ、河に落ちます。
 橋の上では、駆けつけたシュヴァルツがバーガスへ車に妻がいることを、バーガスは現場の状況を伝えます。
 河辺に置いてあった盗聴器のテープをシュヴァルツが再生し、ピートを撃つ場面の二人の会話が反復されます。それを聞いたクインランは橋で倒れているピートを見上げながら「お前のために受けた二度目の銃弾だ」と呟きます。
 描かれた場面を通してひとつの大きな物語を語る映画のように、現場の(時にはねつ造した)証拠から動機や犯行の様子を推理し「事件」という大きな物語を解明してきた刑事は、ここでも物語を作り上げてフィクションを成立させようとしています。かつて他人のためにつねに懸命であったはずの刑事は、いつしか自分に都合の良いフィクションを仕立て上げることに必死となっています。
 そこへ、再びピートの血がクインランの手に滴り落ちます。ここでようやく彼は物語に固執するあまり大事な友を失った重大さにおののき、崩壊したフィクションの裂け目に落ちるように、ゴミまみれの河へ落ちてしまいます。
 自身で作り上げる物語の心地よさに浸るあまり、友まで手にかけてしまったクインランは、手に滴る友の血の生温かさを感じることで、つまり自分にとって偽りようがなく、あくまで個人的な体験である「触覚」を刺激されることによって、自身の罪を自覚し、それまでの汚職を認めるかのようにドブ河へと身を沈めてしまいました。
 テープが再生されたのを確認し、「家へ帰ろう」と車でその場を離れたバーガス夫妻と入れ替わりに駆けつけたターニャは、死んでしまった二人の刑事について「人がなんといおうと関係ない、結果としてお互いを撃ち合って死んでしまった二人だが深い友情で結ばれていたのだ」とシュヴァルツへ語ります。「アディオス」とシュヴァルツに別れを告げたターニャは、来た道とは違う方角へと歩いていき、ピアノーラの音とともに闇へと消えてゆきます。果たして"home"とは何を指していたのでしょうか? ターニャは一体どこへ歩いていったのでしょうか?

 橋は、建造物として、声を反響させ二重化します。さらに、人の行き交う舞台を自ら降りてしまったクインランは、それまでのキャリアを断絶され、終いには工場排水とともに流されていました。

 『黒い罠』は、本日ご覧いただいた映画の舞台として橋が喚起するイメージーー境界、上下構造、宙づり、建造物、河川ーーが詰まった映画でした。

以上で、映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.16「橋」を終わりたいと思います。これからも、映画における橋のさまざまなニュアンスを楽しんで頂ければと思います。

本日はどうもありがとうございました。

(シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った。)

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.16「橋」

テーマ:橋

 「このはし わたるべからず」

一休さんは言葉の意味を捉えなおして、

橋の「端」ではなく「真ん中」を歩いてみせました。

一休さんは「真ん中」を強調することで、

意識的に、「端」の存在を消したのです。

そうすることで「橋」を渡ることができました。

つまり、「端」が消えれば、渡ってはいけない対象である「橋」そのものも消えてしまうというのです。

このお話は橋の性質をわたしたちに考えさせてくれます。

箸や梯子がそうであるように、

橋は、「端」と「端」を結びます。

つまり、距離を隔てたものをつなぎます。

そして、橋の「真ん中」は端と端の境界部分、中間部分であるといえるでしょう。

このことは橋そのものにも当てはまるかもしれません。

 

このような建築物=「橋」は、映画において、

画面にどのように登場し、

またどのような舞台であるのでしょうか?

 

いっしょに映画を観ながら考えてみましょう。

 

 

 

時間:4月30日(土)18:00~(いつもより30分早い開始です)
場所:水曜文庫
   〒420-0839
   静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F
参加費:800円
予約・問い合わせ:水曜文庫(054-266-5376、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)