GO!GO!L'ATALANTE!!

ゴー!ゴー!アタラント号!! 映画☆おにいさんのBlog

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.15「倒れる」

本日はお集まりいただきまして、誠にありがとうございます。

 本日のテーマは「倒れる」です。今週の月曜日、目の前の信号が変わりそうだったので、急いだら見事に転んでしまいました。久しぶりに生傷を右手と両膝小僧に負ってしまい「倒れる」ことの危険さを身を持って感じることができました。

 さて、そのようなリスキーさも併せ持つ「倒れる」ですが、参加者の方々に「倒れる」についてイメージを伺ったところ、死ぬとき、病気、失神して意識を失ったときに倒れるとのことでした。具体的な映画でいうと、チャップリンサイレント映画のコメディや『グラン・トリノ』、『ミリオン・ダラー・ベイビー』、『ケロッグ博士』、細田守監督の『時をかける少女』等を挙げていただきました。
 二本の足でバランスを保つことが困難になり手をつけない状態のときに倒れてしまいます。それは、ご意見を頂いたとおり、例えば意識を失うといった非常事態のときに倒れます。普通ではなかなかない状態、状況をどのように作り出すのか。それがどのようなシチュエーションかによって喜劇にも悲劇にもなりうる「倒れる」という運動を、どのように演出するのか。今から映画をご覧いただいて一緒に話し合っていければと思います。

 

●『レディ・イヴ』(プレストン・スタージェス、アメリカ、1941)
 まずはたくさんの「倒れる」が出てくる映画をご覧いただきます。プレストン・スタージェス監督の『レディ・イヴ』です。
 スタージェス監督はもともとは作家としてキャリアをスタートし、劇を何本か書いた後、ハリウッドで脚本家、監督として活躍しました。『偉大なるマッギンディ』で映画史上初めて自身の脚本を監督した脚本家であるとされています。のちにジョン・ヒューストン監督やビリー・ワイルダー監督が同様の転身を遂げることができたのも、スタージェス監督のおかげだと言われています。また、スタージェス監督が亡くなった際、ワイルダー監督は次のように語りました。

 スタージェスのような人物に代わりはいません。彼が死んだとき、我々は敬愛する一人の人物を失っただけでなく、映画の一部門をそっくり失ったのです。ああいう独創的な精神の持ち主はざらにはいません。彼が逝って、一つの種族全部が絶えたんです。そして映画史が偏りなく書かれるとき、プレストン・スタージェスは栄誉ある位置を占めることでしょう。彼は映画づくりにおける超人です。

 日本におけるスタージェス監督作は敗戦直後に『パーム・ビーチ・ストーリー(結婚五年目)』と『殺人幻想曲』が封切られたのみで、90年代半ば頃に開催されたプレストン・スタージェス祭を機にだんだんと観られるようになったようです。いまでは有り難いことに500円DVDで幾つかの作品を観賞することができます。スタージェス好きとして有名な方で、三谷礼司氏や小林信彦氏、蓮實重彦氏がいます。
 今回はスタージェス監督作の中でも最も有名な映画の一つ『レディ・イヴ』を映画の始めからご覧いただきます。

 

 

 バーバラ・スタンウィックヘンリー・フォンダがソファーで理想の相手について話す場面までご覧いただきました。
 「倒れる」ことによって二人は出会い、ご覧いただいた最後の場面でもヘンリー・フォンダが尻もちをついていました。それ以外でも全編を通していたるところで倒れています。その都度汚れた衣装はヘビが脱皮するように変えられます。
 詐欺師であるバーバラ・スタンウィックにどんどんハマっていくヘンリー・フォンダが面白いです。しかし、彼がバーバラ・スタンウィックを好きになっていく理由は彼女が彼をオトすために提示した「大佐の娘」や「イギリスの貴族」といった肩書きによるものではありません。あくまでバーバラ・スタンウィックの運動がもたらす一瞬の儚さに彼が魅了されているためなのです。
 映画の最後まで二人の間には「真実」の共有がなされてないように、この映画は真実と嘘を対立させて嘘を乗り越えるという話でなければ、両者の真意が最終的に伝わる話でもありません。情報の誤解によるすれ違いが二人の別れた原因ではないからです。

 たしかにヘンリー・フォンダは詐欺師連中の手品や詐称といった嘘(誤った情報)にいともたやすく騙されてしまいます。小舟から客船に乗ろうとするときバーバラ・スタンウィックが落としたリンゴに見事に当たっていましたし、それ以後のすべての策略に対してこれほどまでに引っかかっていいのかと思うほど容易く引っかかっています。三悪人を詐欺師だと知りえたのも彼らの嘘を見破ったわけではなく、たまたま人から教えてもらったためであります。大企業の社長の息子でヘビの研究者という「設定」のため、浮き世に疎くある程度の純粋さを備えた馬鹿な男と考えることもできますが、もしそうだとしたらひとつの疑問が生じます。これほどまで騙されやすくただ頭が足りないのならば、彼はなぜ愛する女性を間違えないのでしょうか。
 ヘンリー・フォンダは愛する女性を決して間違えません。目の前にバーバラ・スタンウィックが現れれば間違えることなく彼女に恋をしてしまいます。ビール会社の御曹司である主人公のパイクは女性の羨望の的であり、レストランへ行けば続けざまに何人もの女性たちからアプローチされる様子はご覧いただきました。だから、彼は女性にモテないわけでは決してなく、例えばジェーンとの失恋から傷ついて他の女性へ走ることも簡単にできたはずです。実際イギリスから来た淑女と恋に落ちるのですが、それはジェーンが変装したイヴという女性であり、結局彼が愛する女性はバーバラ・スタンウィックなのです。このことが喜劇的に見える一因でもあるわけですが、それよりもむしろどう変装していても彼女を見つける彼の繊細な感受性に驚かされます。
 では、このような鋭い感受性を持つ彼がなぜ二度も彼女を振ってしまったのでしょうか。ジェーンが詐欺師と判明したときやイヴが過去の男性遍歴を披露したとき、ヘンリー・フォンダは強がって彼女(たち)の気持ちを解ろうともせずに突き放しました。そのときの根拠は、船員が持っていた写真、音や意味がどんどんずれていきながら次々に挙げられる固有名詞が原因となっていました。そのような情報に翻弄されて目の前の対象から眼を背けたとき、彼は間違えてしまう。しかし、バーバラ・スタンウィックの一挙手一投足、彼女の運動のうちに宿る一回性の儚さに魅了される限りでは、まるで白昼夢を見ているかのように明瞭でありながらそこに存在していること自体が奇跡のようであるバーバラ・スタンウィックそのものに魅了されている限りにおいては、彼はいつも愛する対象を間違えません。ここでは、愛する相手が同一人物か別人物かどうかは問題ではないのです。
 イヴと別れ、「倒れる」ことで再びジェーンと船上で再会した彼は、彼女の手を取りものすごい速さで部屋へと連れて行きます。このとき、ヘンリー・フォンダが彼女との再会によって再び惚れる心理的なエピソードがあるわけでもなく、彼女にうっとりすることを示すクローズアップのような劇的な構成があるわけでもありません。早口で言葉を交わしあうも、情報に惑わされ三たび離れまいと、言葉はキスで遮られ、部屋のドアが閉められます。Positively the Same Dame! 彼女が同一人物かどうかばかりに気を取られ彼女の魅力に気付けないマグジーが部屋から追い出されることで、この映画は終わります。
 一回一回まったく異なる彼女のかけがえのない表情、しぐさ、声の抑揚にまなざしを向けることによって、わたしたちはいま、まさに未知の存在に触れていると実感します。髪型や名前、肩書を自由に変える彼女の姿を目の当たりにする内にジェーンやイヴといった役柄のイメージをいつのまにか忘れ去りバーバラ・スタンウィックの存在そのものを見つめています。
 このとき、わたしたちは物語に安易に感情移入できる安寧な立場にはいません。彼女を固定化されたイメージとして消費するのではなく、儚く移ろい消えてはまたすぐに顕われ時には不整合でもある存在として彼女をつねに見つめ続けなければならないからです。「真意」や「意味」が不確定であるがゆえに、より鮮やかに彼女の姿がヘンリー・フォンダの眼には映ります。その彼らの姿が生と死のあわいを行き来するように光と影を織りなす映画の姿に似ているため、わたしたちはスクリーンを推移する彼らの姿に映画を見ることそのものにも似た快楽と戦慄を見出だすのではないでしょうか。

 

 

●『キートンの探偵学入門』(バスター・キートン、アメリカ、1924)

  次は、見事な倒れっぷりの映画をご覧いただきます。バスター・キートン監督は、「駆ける」の回で「キートンのセブンチャンス」を上映しました。今回の『キートンの探偵学入門』も体を張ったアクションが見ものです。

 『キートンの探偵学入門』も、映画の始めからご覧いただきます。

 主人公が映画の画面に入っていったあと暗転し、映画内映画が本格的に始まる場面までご覧いただきました。
 給水塔から大量の水が流され主人公が落っこちたとき、キートンは首の骨を折ってしまったそうです。当時は痛みがあっただけでそれほど気にしてなかったそうですが、後年身体検査をした際に骨折の痕がみつかったそうです。

 さて、二つの「倒れる」がありました。バナナの皮ですべる場面と映画の中へ入っていく場面です。バナナの皮ですべるところは足がピンと伸びており、まるでオーバーヘッドシュートのような、ものすごい「倒れる」でした。キートン監督は『キートンのハイ・サイン』の中で「バナナの皮はすべるもの」というイメージを逆手に取ったギャグを披露していますが、この映画では見事にバナナで滑ってみせています。
 もう一つはスクリーンに入っていった場面です。映画のカットが変わっても主人公だけがそのままアクションが続き転んだり地面に刺さったりする様子が可笑しい場面でした。
 この場面はひとつの比喩を思い出させます。それは「映画は夢である」という、あまりにも有名でそれゆえに使い古された例えです。
 一般的に「夢」というと眠っている最中に見る、現実では起こりえないようなことが次々と都合良く起こり、現実感を欠いた心的活動のことを指します。しかしこの映画の場合では、「夢」をそのような目を覚ましたあとに思い出し起こった出来事を再構成することで、現実にありえない自由奔放なものと捉えるのではなく、柄谷行人氏が『意味という病』で述べていたような、起こりそうもないことが起きているにもかかわらず一瞬一瞬を了解していく、何の疑いもなく受け入れる状態のことと考えた方がしっくりきます。
 例えば、映画の中に人が入っていくというありえないことが起こっています。主人公はスクリーンの中へ入っていき恋敵にけしかけます。が、逆に突き飛ばされ、またむかっていき...とスクリーンの内外を行ったり来たりするのですが、主人公はそのことをちっとも不思議がっておらず、むしろスクリーンの中へ入っていけることを当然のように考えています。
 カフカが「本当のリアリティはつねにリアリスティックではない」と言い、「生」をその外側から距離をとって書くのではなくあくまでも内側から「距離」を奪い取られた現実として小説を書いたように、『キートンの探偵学入門』ではまったく現実的ではない出来事が残酷なまでに明瞭に起こっています。そこでは「現実」「夢」「映画」の区別がなく、それらすべてをそのまま受け入れてしまう、「夢」のような「現実」が描かれています。
 すでに「現実」で起こった事件は解決しているにもかかわらず始まる主人公が映写をしながら居眠りをする場面は、回想形式として「こんな夢を見た」という構成にはなっておりません。直線的な時間の流れの中で、寝ている「現実の主人公」と動きだす「夢の中の主人公」が同時に一つの画面に収まっています。「現実」と「夢」が同居しており、どちらが優位であるということはありません。
 起き上がった「夢の中の主人公」は、恋人と恋敵の姿をスクリーンに見つけ駆けて行きます。主人公がスクリーンへ足を踏み入れてしばらくすると、「映画」の世界は玄関から塀、街中、崖、岩礁へ次々と変わってゆきます。
 登場人物がいて物語性の強い映画だったはずが、実景カットばかりとなり急に映画のスタイルが変わってしまいました。その場所ひとつひとつは特定の場所として示されてはいませんが、幻想的な効果などで審美的なイメージとして処理されることはなく、あくまでも具体的で明瞭な場所として描かれています。こうして次々現れる「現実」を了承しつつ行われるアクションとシチュエーションによる凄まじいギャグは、映画の世界に足を踏み入れ「映画」に感情移入し同化しようとするわたしたち観客への警告でもあるかのようです。
 暗転すると主人公も消えてしまい、「映画」は「夢」とは完全に別の物語を語り始めます。「夢」が「映画」に呑み込まれた瞬間です。先ほどはカットが変わっても画面に異物としてあれほど定着していた主人公が、暗闇に包まれただけであっけなく消えてしまいました。それをさほど違和感なく受け入れてしまうのは、映画という表現自体があまりにもちぐはぐであり「現実」の再構成というにはあまりにも明瞭で猥雑で過激な表現手段であるためでしょうか。わたしたち観客も「映画」と「現実」との距離を失い始めているのかもしれません。
 こうして始まった「映画」は、盗まれた品物を見つけ恋人を取り戻すという「現実」で起こった事件とそう違いはない話でした。「夢」から覚めた「現実」の主人公に、駆けつけた恋人が盗難事件の誤解を謝り始めます。恋人をなだめるもなかなか気を直さないことに困った主人公は、自らが映写している「映画」の真似をします。「映画」とそれを模倣する主人公が交互に映されていき、そうすることで徐々に彼女を慰めていきます。終いに映画では子どもができたカットが映されます。それを模倣することができずに困る主人公がラストカットであるこの映画は、最終的に「現実」と「映画」がすり替わり、自然と「現実」が「映画」の模倣をするようになってしまっていました。
 「現実」「夢」「映画」はそれぞれ別のものでありながらも、それらの世界の境界は曖昧でありました。境自体も明確にあるようなものではなく、自由に行き来でき、境を跨ぐことで世界がまったく変わってしまうようには描かれておりません。現在においてはCGを用いてこの先は別の場所であることを示すため「触れると波紋がおきる」というような表現がなされたり、またジャン・コクトー監督の『オルフェ』のような素晴らしい表現もありますが、この映画ではそれらの境自体がなく地続きになっており、それゆえに主人公はつねに「世界」との距離が奪われている「夢のような世界」を生きていることが強調されていました。その「世界」は、いかなる意味付けからも拒絶されています。それは、現実のありとあらゆる無秩序を受け入れカメラが現実をそのまま映し出してしまうという映像の凶暴性として画面のいたるところにあらわれています。そしてそれが示すものは、「現実の世界」こそ「夢の世界」であり、「夢の世界」こそ「映画の世界」であり、「映画の世界」こそ「現実の世界」であるというキートン監督の認識にほかなりません。

 もし何を描くのかという主題に思想が現れるのではなく、主題がどのように描かれていたのかその形式に思想が現れるのだとしたら、キートン監督はとんでもない危険思想の持ち主と言えるのではないでしょうか。映画が現実を覆い作り替えうると宣言しているようなものです。周囲からアブない奴、危険人物と判断されてもおかしくありません。これほど過激な映画を一日中観ていたら現実との区別がつきかねなくなるのではないでしょうか。映画を観すぎるとバカになる、廃人になると言われていた時代があったことが納得できます。また、独裁者が映画芸術を取り込もうもしくは押さえ込もうとしていた理由もなんとなくわかります。とても笑える、と同時に映画表現の恐ろしさを体感できる映画でした。

 

 ●『幌馬車』(ジョン・フォード、アメリカ、1950)

 続きまして、移動していく中で様々な「倒れる」が出てくる映画をご覧いただきます。ジョン・フォード監督の『幌馬車』です。
 ハリウッドでは大ヒット作が出るとボーナスとして興行収入を考えずに映画を撮れる権利が低予算ながらも与えられるそうです。『幌馬車』は『黄色いリボン』のボーナスとしてその半分にも満たない予算で撮られました。しかし、フォード監督のオリジナルストーリーで撮られており、フォード監督自身、『逃亡者』『太陽は光り輝く』と同じくらい気に入っている作品だと語っています。
 ベン・ジョンソンとハリー・ケリー・Jr.演じる二人の若い馬商人はモルモン教徒の一行から目的地までの案内兼護衛役を頼まれます。西部の砂漠地帯を横断する危険な旅であるため一旦は断るも、酒場でいかさまのロイヤルストレートフラッシュを決めたあと、そろそろ出発の時間だということで見物に出向き木の柵に腰をかけます。女、子どもが多いモルモン教徒の一行を眺める二人は会話の流れから自然と歌い始め、歌い終わるといつの間にか案内役を引き受けることに決めています。「コロス」の回でお話ししたように、歌うことが心理的なきっかけというより、それまでの二人が過ごしてきた時間を感じさせる場面です。
 そうして歩を進める一行が、インチキ医師たちと出会う場面からご覧いただきます。

 途中、クレッグ一味が合流する場面からインディアンに鞭で打たれる場面まで飛ばしまして、インチキ医師の一行と別れる場面までをご覧いただきました。
 たくさんの「倒れる」の変奏がありました。まず、喉の渇きのあまり気を失い倒れるジョアン・ドルー。次に、水が掛かって驚いた馬から落ちるベン・ジョンソン。何事かと白い肩を露わにして顔を出すジョアン・ドルーの愛らしい顔とともに、些細なケンカや水の使用方法をめぐって悪くなっていた空気が和らぎます。そして、川が近いことを知った興奮が馬たちに伝わり暴走してしまったあと、頭から川へ飛びこみ開放的な「倒れる」がありました。
 中でも、特別に素晴らしい「倒れる」は、最後にご覧いただいた「倒れる」ではないでしょうか。一旦別れるもののベン・ジョンソンはハリー・ケリー・Jr.に口説き忘れたと言ってインチキ医師の一行を追いかけます。そして、ジョアン・ドルーへ自分はいつか牧場を開こうと思っていてそのときは手伝ってほしいことを伝えます。ほぼプロポーズであるこの申し出に対して彼女は一瞬彼方を見つめます。何かを想像してしまいます。「さよなら」とだけ伝え、ジョアン・ドルーは走り出します。しかし、「気持ち」を抑えきれないで倒れてしまいます。思わず振り返るも、それでも、ここにとどまってはいけないんだという「気持ち」が彼女を再び走りださせます。
 解っていながら惹き付けられてしまうどうしようもない未知の自分に戸惑い、自分でも知らなかった、コントロールできない未知なる「気持ち」が彼女を倒れさせ、また走り出させました。映画では、同じ動作であっても「倒れる」が間に挟まれると表す意味が変わることがあります。
 ベン・ジョンソンを振り切り、馬車に腰掛け煙草を吸うジョアン・ドルーは、何を見つめているのでしょうか。彼女が吐き出す煙と舞う砂埃が画面を移ろいます。それらがまるで同調しているように画面を覆うもすぐ消えてしまいます。流浪の旅を続けるであろう二人は今後二度と出会うことはないのかもしれません。砂埃が一時舞うもすぐに消えるように、二人のいく道が一時交差しただけだったのかもしれません。彼女の視線は、徐々に遠ざかるベン・ジョンソンを見つめているのか、それとも過去の恋愛を想っているのか、もしくは今後奇跡的な再会を果たし牧場を手伝うことを夢想しているのでしょうか。彼方を見つめたままジョアン・ドルーはタバコを投げ捨てます。
 この短いシークエンスは時間にしてたった3分程度しかありません。にもかかわらず、一つの言葉で言い表すことができない複雑な感情が絡み合ったショットです。このあとクレッグ一味によって捕まってしまうため、二人はご都合主義的にもすぐに再会してしまいます。ですが、歓喜と調和をもたらすジェーン・ダウエルが吹く角笛、インディアンの領地を知らぬ間に侵してしまい追われるベン・ジョンソン、インディアンとの交歓会で子どもが浮かべる微笑みと同様に、決して無視することはできない貴重な場面です。

 それにしても、彼女が駆け出すこの場面における「気持ちの運動」は、なんと「日常生活」に似ていることでしょうか。日々の生活がそうであるように、人は一つの気持ちだけを抱えて生きているのではなく、つねに複数の気持ちがそれぞれ複雑に絡みあいながら矛盾を抱え生きています。
 フォード監督の映画は、たった一つの気持ちに収束せず、ある場面が他の場面に影響を与え、画面で直接語られていない物語をも内包しています。そうした物語で表される「気持ちの運動」の在り方が、まるで日々の生活そのもののようです。つまり、フォード監督の映画においては、ひとつの美しいカットがあるのではなく、ひとつひとつの場面が織りなす「気持ちの運動」の在り方が相互に作用していき、結果として言い表しようもない美しさを感じさせるのではないでしょうか。

 

●『ガートルード』(カール・テホ・ドライヤー、デンマーク、1964)

 移動していく中で起こる「倒れる」をご覧いただきましたが、今度はほぼ一場面一室のあまり移動がない中での「倒れる」映画をご覧いただきます。
 カール・テホ・ドライヤー監督の『彼らはフェリーに間に合った』を「駆ける」の回でご紹介しましたが、今回はドライヤー監督の遺作である『ガートルード』をご紹介します。
 『ガートルード』は、政治家の妻ガードルードが若い音楽家ヤンソンと不倫しており、夫に別れ話を切り出す場面から始まります。さらに大詩人となった元恋人リートマンも登場して四角関係になります。筋だけ聞くとまるで昼ドラのようですが、カメラが俳優と一定の距離を保つことで、赤坂太輔氏の言葉を借りれば「フィジカルな事物感」とでも呼べるものが画面に荒々しく漲り、愛に振り回されていたハムレットの母と同じ名を持つ女性が終に真実の愛を獲得する話です。
 大詩人となって故国に戻ってきた元恋人リートマンが、コンサートのある二次会でヤンソンと出会ったこと、そのとき、最近の獲物の話としてガートルードとのことが秘め事にいたるまで話されていたことを彼女に告げる場面からご覧いただきます。ちなみにこの二人は実生活では夫婦です。

  不倫相手のヤンソンと別れる場面までご覧いただきました。
 自分の美しい過去を穢されてしまったとむせび泣き、本来ならばガートルードの方が遥かに辛いであろうに、元恋人は伝えるだけ伝えて出て行ってしまいます。彼女がショックを受けているところへ、頭痛がひどく別室で休んでいることを知っているはずの夫が、「学長が聞きたがってるから歌ってくれないか」と気を遣っている振りをしつつ頼んできます。しかもその伴奏者は先ほど裏切りを知らされた最愛の男とのことです。このシチュエーションの悲惨さをあえて受け入れるも、やはりその負荷は大きく、ガートルードは歌の途中で反転しながら前方に倒れてしまいました。
 彼女が「倒れる」までは、ご覧いただいたとおり、停滞感にも似た彼らの重厚な存在感で覆われた画面が多くの時間を占めていましたが、歌うことを決めてから倒れるまでにみせる場面転換の速さに驚かされます。部屋の仕切りが開けられ空間が変容してから目にも留まらぬ速さで支度をし、歌い、倒れます。その後どのように介抱したのかわからないほどの速さです。こうした場面転換の速さによって、彼女の「気持ちの速さ」が表されています。
 事実、倒れたあとのガートルードはそれまでの彼女と異なっています。溺れるように相手に依存していた愛から、強さを伴った自立した愛をもつ女性へと変わったようにみえます。そして、その愛は「気持ちの速さ」となってあらわれます。
 ご覧いただいたように、ヤンソンを旅へと誘う際には、これまで下手に出ていた彼女では考えられないような積極性を見せます。倒れた次の場面でいきなりすっと立ち上がったかと思うと、眼にも留まらぬ速さで膝ごとくるっと身体の向きを変えたり、ヤンソンをベンチまで追いかけていきます。ガートルードの「気持ちの速さ」に、「自分のしたいように生きる」と宣言するもその実まったく自由でないヤンソンは付いていけず、とぼとぼ家路に就くしかありません。この後も鏡から急に姿を現したり、鐘の音とともにあっという間に家から姿を消したりと、彼女のスピードに男たちはまったく着いていけません。ガートルードの火の出るような速さは、プライドばかり気にする男たちを置き去りにしてしまいます。
 こうして、三人の男性を撒いてパリへと赴き、約40年余も時を進ませ白髪となった彼女を友人のアクセルが訪ねるラストシーンとなります。そこで「愛がすべて」と言い切る彼女に清々しささえ感じるのは、こうした愛からくる強さ、それに起因する「気持ちの速さ」によるためではないでしょうか。彼女を恭しく慕うアクセルでも彼女に追いつくのにこれほどの時間がかかりました。彼女を見失わないために、わたしたちはひたすら眼を凝らすしかありません。わたしたちは彼女を必死に追いかけながらも、どこかでこの「気持ちの速さ」に似たものを感じていました。ヘンリー・フォンダバーバラ・スタンウィックを再会をした途端に連れて行く姿、映画内映画でシチュエーションとアクションがすれ違うキートンの姿、ベン・ジョンソンに別れを告げて走り出すも倒れ、再び駆けるジョアン・ドルーの姿。彼らが見せる「気持ちの運動」の在り方は、ガートルードのそれととてもよく似ています。
 圧倒的な速さとともに目の前の景色はあっというまに変わっていきます。それまで見ていた景色を置き去りにして、次々と新しい景色が目の前に現れます。
 アクセルが帰るとき初めてカメラが手前の空間から隣の空間へと移動します。別れの手を振るアクセルとガートルードが切り返され、書斎のドアを閉める彼女はまるで棺の蓋を閉めるかのようです。鐘が鳴り、一つの密室に刻印された記憶の余韻とともに映画は終わります。

 4人の映画監督たちは、片や場面転換や時間の進み方によって緩急をつけることで、一方はアクションの速さによって緩急をつけることで、「気持ちの速さ」を表現しようとしていました。その契機として「倒れる」が重要な役割を演じていました。

 

以上で、映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.15「倒れる」を終えたいと思います。これからもさまざまな「倒れる」のニュアンスを楽しんで頂ければと思います。
どうもありがとうございました。
(以上、シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った)

 

【おまけ】

●『アルコール先生海水浴の巻

 

●『キートンのハイ・サイン』

 

●『ロイドの福の神』

 

●『カイロの紫のバラ

 

●『詩人の血』

 

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.15「倒れる」

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テーマ:倒れる

 わたしは何もないところでよくコケます。そんなときは恥ずかしくてたまりませんが、それを見た周りの方々は笑いこそすれ「映画的だ」と思うことはないでしょう。しかし、映画では、喜劇俳優がバナナの皮で滑ったり、銃弾を受けた俳優が倒れたときに、「これこそ映画だ!」と叫びたくなる瞬間があります。どうやらただ単に倒れればいいというものではないらしいのです。映画において、人が二足によって自立できなくなったとき、なにが起きているのか。映画を観ながらいっしょに考えましょう。

時間:2月13日(土)18:30~

場所:水曜文庫

   〒420-0839
   静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F

参加費:800円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-266-5376、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.14「コロス」

 本日はお集まりいただきありがとうございます。

 本日のテーマは「コロス」です。ギリシャ悲劇に出てくる合唱隊のことであり、コーラスの語源といわれています。コロスは、参加者の方々にイメージを伺った際に出てきたように、観客の気持ちを代弁したり状況説明をしたり、あるいは観客の視線誘導に用いられてきました。コロスによる観客の視線誘導は二通り考えられます。ひとつはコロス全員が一人の人物に注視することです。もうひとつはコロスが能の地謡のようにノイズを消す、存在を消すことで舞台上の人物に注目を集めさせることができます。片方は足すことで、もう片方は引くことによって、クローズアップのような効果をもたらし視線を誘導させます
 このような役割を持ったコロスですが、映画はどのようにコロスを取り入れていったのでしょうか? 

 先ほど述べたように、コロスの影響と思われる映画技法として、クローズアップやロングショット、ナレーション、BGMを挙げるができます。さらに、カメラポジションにまで話を拡げることができるのかもしれません。つまり「視線の誘導」がそこでは行われているのですが、しかしそこで誘導される「視線」とは登場人物や観客等誰の視線を指すのか一概に言えず、多様な意味を持ちます。ここではひとまず、参加者の方々からいただいた意見をまとめ、コロスを「観客を登場人物と同じ視点に立たせ、感情移入させながら語るもの」と考えましょう。

 そして今回は、コロスをいわゆる「ミュージカル」のような映画の語りがその瞬間にガラッと変わるものではなく、歌うことによって登場人物が”呼応”していく場面をご覧いただきながら考えていきたいと思います。

 

●『子連れじゃダメかしら?(原題:Blended)』(フランク・コラチ、2014)

 まずは、コロス的な立ち回りをする登場人物が出てくる映画をご覧いただきます。『子連れじゃダメかしら?』は、アダム・サンドラードリュー・バリモアのラブ・コメディです。
 互いに結婚したものの独り身であるアダム・サンドラー(妻とは死別)とドリュー・バリモア(夫とは離婚)はお見合い相談所の紹介でデートしたものの、最悪の印象に終わります。アダム・サンドラードリュー・バリモアの家を訪ねた際、アダム・サンドラーの上司とドリュー・バリモアの同僚が別れてアフリカ旅行のチケットが余っていることを知ります。子どもと旅行ができるとチケットを譲ってもらい旅立った南アフリカで、二家族は互いに何故いるのだと罵りあいます。当然同じ部屋に泊まることになるのですがアフリカを楽しんでいくなかで同性の親でしか分かってやれない悩み、問題を解決してゆき、互いに理解していきます。本日は、アダム・サンドラーが長女とバスケットをしている場面からご覧いただきます。

 アダム・サンドラーと長女がバスケットをしている場面から現地のダンサーたちとドリュー・バリモアや子どもたちが次々とダンスに加わる場面までご覧いただきました。
 南アフリカでの案内役である執事「ムファナ」と、客の出迎えやディナーショーで歌うコーラスグループ「タトゥー」が出てきますが、彼らはコロスの一つのかたちであるといえるのではないでしょうか。いたるところに顔を出し歌ったり踊ったりしながら、からかい茶々を入れることで盛り上がっていきます。
 ご覧いただいた、子どもたちが次々とダンサーらと踊っていく場面も、登場人物が呼応していく、最初はいがみ合っていた子どもたちが仲良くなっていく様子が観てわかる場面でした。「不在」や「欠落」を抱えた登場人物たちがお互いに助け合い、補完していくことによって乗り越えていく映画です。

 アフリカ繫がりでいえば、ハワード・ホークス監督の『ハタリ』にも登場人物が呼応していく、素晴らしいジャムセッションがあります。ジョン・ウェインは少し離れた所におり輪には加わらないのですが、彼が見せる笑顔は忘れられません。

 

 

●『アンティゴネ ソポクレスの《アンティゴネ》のヘルダーリン訳のブレヒトによる改訂版 1948年』(ストローブ=ユイレ、1991−1992)

 ポップコーン片手に二時間しっかりと楽しめるアメリカ映画をご覧いただきましたが、次にご覧いただく映画は、ただ今ご覧いただいた映画とは正反対のように思える、映画表現そのものがインディペンデントであるような映画をご覧いただきます。ストローブ=ユイレ監督の『アンティゴネ』です。ストローブ=ユイレ監督は、これまでのシネマ・カフェでも何回か取り上げています。「登山の映画史」で『セザンヌ』を、「本のある場所」で『すべての革命はのるかそるかである』『アーノルト・シェーンベルクの《映画の一場面のための伴奏音楽》入門 』をご覧いただきました。一見するとストローブ=ユイレ監督の映画はプロットや登場人物の感情よりもテクストを優先して撮影しているように思えます。しかし、文字から映像へ、作品の精神を大切にしながらもまったく異なるメディアへと産まれ変わるときに内包される「物語」を大事にして撮られています。画面を厳格な構図でおさめようとしながら、最後の最後のところでコントロールできない不決定な部分に賭けるという、製作過程そのもののドキュメンタリーであるかのような映画です。
 現代ドイツの代表的劇団であるシャウビューネ劇団の委嘱による舞台演出に基づいて映画化されたストローブ=ユイレ監督の『アンティゴネ』は、ソポクレスの戯曲をヘルダーリンが原作の精神に則ってかつ原作を凌駕することを目指しつつ、文法をある程度無視さえしつつ言葉を逐語的にはめ込み翻訳したものを、ブレヒトが戦後間もない不安定な情勢であった1948年に改作して発表した戯曲が用いられています。様々な時代的な層を持つ言葉を、いまや廃墟となっているシチリア島のセジェスタ古代円形劇場で、1991から1992年にかけて撮影された映画です。

 バッカス讃歌の第三のコロスから、アンティゴネの死出の道行きを見送る第四のコロスまでご覧いただきました。(上の動画は人間の不可思議さを歌う第一のコロス)
 長老たちがコロス役も務めることで立ち位置が明確になっています。立場がはっきりするということは、そこには偏りが生じます。そのため、コロスが普遍的、客観的ではない存在となっています。例えば、暴君を求めつつ拒み、拒みつつ求めるようなところがあり、長老らはクレオンのご機嫌取りをする権力の寄生者でありながら、都合が悪くなると手のひらを返し王を批判していました。それだけでなく、参加者の方が仰ったように、アンティゴネに批判されつつも長老らもアンティゴネを批判することで、絶対的な「英雄」がこの映画にはいないことがわかります。
 大昔にオルケストラだったと思しき場所に「現在」のコロスの声が響くことで、「不在」が結果として立ち上がってきます。そこでは、まさにアンティゴネが上演され、コロスたちが踊っていたかもしれません。姿をみせつつ画面からは身を隠す狂言回しのようなコロスは画面外からの「眼差し」を喚起します。俯瞰で捉えられた映像は、コロスの存在だけでなく、かつてそこにいた過去の人々の「眼差し」を喚び起こします。画と音を一体に記録する同時録音によって撮影当時の「現在(いま)」を記録し、同時に、画面は人物からパンしオルケストラと舞台の境を、音は肉感を伴ったコロスの声を主に捉えることによってフレームの内外を意識させます。まるで切り取られた岩石のようにカットが連なっていくことで、映画は1カット1カットが独立した音符のようでありながらも全体を通して観たときに、一つの作品として無数の調和=物語を内包しています。

 

 ●『タバコロード』(ジョン・フォード、1941)

 ストローブ=ユイレ監督によるインディペンデント映画のコロスをご覧いただきましたが、続いてはストローブ=ユイレ監督がとても影響を受けているジョン・フォード監督の映画をご覧いただきます。
 貧しい農夫が住み慣れた土地を維持するため資金繰りに奔走する話です。コールドウェルの小説『タバコロード』を、『黄金の馬車』をジャン・ルノワールとともに翻案したジャック・カークランドが戯曲化したものを基に脚本が書かれています。
 貧乏なレスター一家は空腹のあまり、訪ねてきた義理の息子からカブを強奪します。そこへ地主のティムが帰ってくることを知ったジーターは、金を借りてもう一度畑を耕すんだと意気込みます。しかし罪を犯したままではせっかく畑を耕しても収穫が少なくなると妻に促され「信心深い」ベッシーのところへ一家で告白しにいきます。そこへ、ティムが帰ってくるのですが、銀行員に日曜までに100ドル払わなければタバコロードから追い出されてしまうことが判明します。ティムから景気付けに1ダースのトウモロコシをもらうところからご覧いただきます。

 息子であるデュードに突き飛ばされた後、神に祈る場面までご覧いただきました。
 ベッシーたちが賛美歌を歌うとなぜか周りの人々までうっとりと歌い出してしまい、困難が解決されてしまうのが可笑しいですね。
 例えば「神の救済」という似たようなテーマを持つヴィンセント・ミネリ監督の『キャビン イン ザ スカイ』(1943)ほど宗教的な色合いを『タバコロード』から感じないのは、神が具体化した登場人物として出てこないということからくるのではありません。そしてそれが偶像崇拝の禁止から来るものというより、むしろフォード監督が「神」を観客へ明確に示さないことでかえって「神」の存在を感じさせ「神」が投げかける眼差しそのものが意識されるからではないでしょうか。画面には「神」を映さないことによって、「神」の「不在」が浮かび上がります。それはご覧いただいた場面の最後のところ、レスターの祈りの場面からもいえると思います。しかしわたしたちがこの映画で「不在」を最も感じるのは、反省の色をみせた途端に豪雨がおさまる瞬間でもなく、タバコロードに一陣の風が吹く瞬間でもなく、街で途方に暮れていた時、ジーターがだれかに見られているのに気付いたように振り向いて見つけたホテルにおいてです。
 デュードとベッシーが寝ている隣の部屋から車のキーが入ったオーバーオールを盗んできます。自室に戻ると、ベッドの位置が変わっていてカーテンが揺れています。明るい部屋には誰もいません。部屋の中の構図が変わっている違和感と誰にも見られていないことが「神」の存在を感じさせます。不在の眼差しに耐えきれなくなったジータは車のキーを取り出したあと、オーバーオールを元の位置に戻すのでもベッドの下に隠すのでもなく、タバコロードからの風が吹き込んでくる窓に向かって投げ捨ててしまいます。
 この場面にもコロスが登場しているように思えます。たとえばコロスがナレーションといった映画表現へとかたちを変えたように、この場合においてもコロスは映画表現へとかたちを変えています。画面目一杯に歌い上げ、神の不在を現前化させています。
 とはいえ、「不在」が「ある」ということは画面で明確に語ることができず、基本観客におもねられるものです。フォード監督が「神」をどの程度信じていたかは知る由もありませんが、映画それ自体の可能性、映画が観客に観られることによって完成する芸術だという意味において、フォード監督は観客をそして映画を限りなく信じていたのではないでしょうか。

 

●『彼岸花』(小津安二郎、1958) 

 フォード監督を好きな監督は世界中に多くいらっしゃいますが、日本でフォード監督の影響を受けている監督というとやはり小津監督ではないでしょうか。というわけで、最後に小津監督の作品をご覧いただきます。小津監督は歌う場面を多く撮っていらっしゃいますが、今回はその中から『彼岸花』をご覧いただきます。
 『彼岸花』は娘の結婚を認めない父親の話です。ある日、佐分利信演じる父親の職場に長女の同僚である佐田啓二が訪ねて来、長女の有馬稲子と結婚したいと言われます。自分なりに娘の結婚相手を考えていた父親は寝耳に水であり、自分抜きで話が進められていたことに納得がいかず、二人の結婚を認めません。しかし、行きつけの旅館の女将の娘によるトリックにひっかかり結婚を認めてしまいます。ところが、今度は結婚式に出ないと言い張ります。
 長女の結婚式の前日からご覧いただきます。

  笠智衆佐分利信が橋の上で語り合う場面までご覧いただきました。(動画は詩吟の場面のみ)
 同窓会にて、笠智衆太平記の名場面である楠木正成楠木正行が生涯の別れ場面をうたった「桜井の訣別」を吟じます。戦前の教科書には必ず載っていたそうです。
 その笠智衆の詩吟のあと、全員で唱歌を歌います。登場人物の気持ちが呼応しているようにみえます。詩吟の最中カメラは同窓会参加者のみを被写体とし、それ以外では宴会場の庭先のみです。次々と映されていく彼らが何を考えているのかはわかりません。結婚指輪をどこにしまったのか思い出しているのかもしれませんし、過去にした浮気のことを考えてるのかもしれませんし、防空壕に隠れていたときのことを思い出しているのかもしれません。結婚によって引き裂かれた親子の絆について考えていたのかもしれませんし、ただ単純に詩吟に感じ入っているのかもしれません。ある解釈を想像すれば、たちまちそれを打ち消すような新たな解釈が次々と生まれてきます。
 しかし小津監督は、画面にわかりやすく頭の中の空想を描き、意味を一つに狭めるような「再現」をしません。安易な再現の場面は観客の自由な視線を奪うことにつながると考えたにちがいありません。だから彼らのみでこのシーンを押し切ることに賭けたのだと思います。その結果、吉田喜重監督が指摘するように「意味が限りなく開かれた映像」であるかのような、「平山渉」という登場人物というよりも「佐分利信」という人間そのものの、存在そのもので成り立っているようなシーンとなっているのではないでしょうか。笠智衆が吟じるリズムや声の質感に合わせて、それ自体では
何を感じ考えているのかわからない彼らを、それぞれの映像の強度に従い結びつけ編集していくことで、観客は想像力を駆使して彼らの記憶を、そしてその記憶が移ろい変容してゆくさまをその時間の内にはっきり感じとることができます。映画は、画面は、たしかに物語っています。しかし、その声のひとつに耳を貸すとたちまち次の声が聴こえてくるような、ただ一つの映像があるだけであるのに無数のコロスが無数の物語を奏でています。
 ふと、『タバコロード』を思い出します。ジーターは明るく気は良いですが、善良な心を持っているとは言い難い農夫です。義理の息子からはカブを奪う、たまたま貰ったトウモロコシを子どもに見つからないよう『麦秋』のショートケーキのようにテーブルの下に隠す、息子の車を勝手に売ろうとする、夫婦で救貧農場へ行こうとするときも祖母と犬のことはまったく気にかけません。夫にしおらしく付いていくようにみえる妻も、カブを強奪したときはしっかり参加しており、物欲は強く、ベッシーの前で夫の罪をチクってはいたものの自分は懺悔していませんでした。救貧農場へ向かう途中、ティムの誘いに二人とも遠慮する素振りもみせません。
 しかし、救貧農場へ向かっている(と思っている)車の中で、二人をそれぞれ映すクローズアップには心を揺さぶられます。ジーターの頬の涙。彼岸を見つめるかのようなエイダの眼差し。ラブとの結婚の知らせを受けて身なりを整えるために駆けるエリー・メイをパンで捉えたカットとは、また異なる美しさです。
 ここで彼らが何を考えているのかは判りません。これが神の定めた運命なのか、もっと運命に抗えなかったのか、運のなさを悔いているのか、現実を受け入れた涙なのか、埋葬した5人の子を思っているのか、他人の方が知っているであろう存在さえも定かでない孫のことを思っているのか、それはわかりません。たとえどんなに心を入れ替えていたとしても、やさしい気持ちになっていてもそれはわかりません。それにそもそも「きもち」は見えません。残念ながらどんなに強くその人のことを思っていようと、私たちの眼には「きもち」は映りません。カメラも撮ることができません。映画にも映りません。わたしたちは行動することでしか「きもち」を表現することはできません。だからティムも車を走らせジーターたちを探しまわりました。思いを伝えるためには行動しなければ、「気持ち」は表すことができません。悲しいことですが、それが「現実」です。
 だけれども、特にものすごい出来事が画面で起こっているわけでもないのに、「世界」が劇的に変わっていく瞬間を目の当たりにしていると確信する瞬間が映画にはあります。二人が送り届けられるこの場面では、『彼岸花』の佐分利信たちのように、まさに、眼に見える彼らの映像から眼に見えない彼らの思考が可視化されるようにも思い、曖昧で儚い「現実」が劇的に、確かに、変わっていく様を目撃しているように見えます。

 『彼岸花』や『タバコロード』の不在を現前化させるコロスは、本日の始めに定めたコロスの定義「観客を登場人物と同じ視点に立たせ、感情移入させながら語ってゆく(補助的な)役割」とはすこし異なります。たしかに歌が歌われることで観客と登場人物が同化し、あたかも同一の視点を共有するように思えます。しかし、映像の意味は不確定で、一つの意味に決定するとたちまち他の意味を逃してしまいます。意味に囚われた「同調」は拒まれ、吉田喜重監督からの言葉を借りれば「意味が限りなく開かれている映像」ということでしか言い表すことができないような映像です。ひとつひとつの画面からあらゆる意味が剥奪され、登場人物としてではなく俳優の肉体がただそこに「ある」ことによって成立しているかのようです。この二本は、一見、登場人物に寄り添う契機となるようなコロス的な映像でありながら、実は意味の繋がりを拒みひとつひとつのカットが独立し浮遊している、いわば反コロス的ですらあるような、そのバリエーションのひとつなのではないでしょうか。

 今回ご紹介はできませんでしたが、「コロス」が出てくる面白い映画にウディ・アレン監督の『魅惑のアフロディーテ』や、コロスとは謳ってませんがコロスのような狂言回しが出てくる映画として、筒井武文監督の『オーバードライブ』、マックス・オフュルス監督の『輪舞』、マノエル・ド・オリヴェイラ監督の『カニバイシュ』等があります。今回扱った映画における「コロス」は限られた一部分でありますので、いろいろな映画にさまざまなコロスを感じ取られることと思います。これからも映画をご覧になる際に「コロス」のさまざまなかたち、バリエーションに注目して頂ければと思います。
 本日はありがとうございました。

(シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った)

 

・『輪舞』

・『カニバイシュ』

・『魅惑のアフロディーテ』冒頭

 

・『ザ・デッド』

 

 

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.14「コロス」

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今回のテーマは、「殺す」ではなく、コーラスの語源である「コロス」です。

コロスは、古代ギリシャ劇に出てくる合唱隊のことです。

コロスは、ときに踊ったりしながら、劇中場面の説明や登場人物の心境、観客の共感や反感を歌っていました。

長い歴史を持つ演劇のごく初期に表れたこの形式は、演劇だけでなく様々な芸術に波及しています。1600年頃のフィレンツェで、古代ギリシャ悲劇の復興運動から生まれたオペラはその最たるものといえるのかもしれませんが、映画も同様に影響を強く受けています。それはナレーションやカット割り等に見いだすことができるでしょう。

しかし今回は、いわゆる「ミュージカル」のような、映画の語りがその瞬間にガラッと変わるものではなく、「歌うこと」が地続きで起こっていながら登場人物が”呼応”していく、というコロスの機能に限定して扱いたいと思います。

映画における「コロス」とは何か? 
を共に映画を観ながら考えたいと思います。

テーマ:コロス(古代ギリシャの合唱隊)

時間:12月19日(土)18:30~

場所:水曜文庫

   〒420-0839
   静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F

参加費:800円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-266-5376、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

 

映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.13 『帽子』

本日はお集まりいただきありがとうございます。

本日のテーマは「帽子」です。まず、帽子のイメージを皆さんに伺ったところ「出かける時に被る」、しかし、「出先で忘れてしまう」といった意見が多くでました。中には、「母がシャンソン歌手のような派手な格好をいつもしていたので、遠くから帽子しか見えてないけれど母親だと認識できた」といったエピソードも伺えました。帽子は、直射日光などから頭を守るといった役割もありますが、それより「ファッション」として頭に被る装身具としてのイメージをお持ちの方が多かったです。

 

●『THOSE AWFUL HATS(迷惑帽子)』、D・W・グリフィス、アメリカ、1909年
 『THE NEW YORK HAT(ニューヨークの帽子)』、D/W・グリフィス、アメリカ、1912年

 最初に二本続けてご覧いただきます。どちらも帽子が「都市の流行の象徴」として描かれています。監督はクローズアップや並行モンタージュ等の映画技法を確立したことから”映画の父”と呼ばれるD・W・グリフィス監督です。1909年に撮られた『THOSE AWFUL HATS』は、シルクハットの男性と派手な大きい帽子を被った婦人らが映画館に入って来ますが、彼女らが帽子を取らないために強制的に排除されてしまうというとても可笑しい映画です。もうひとつの1912年に撮られた『THE NEW YORK HAT』は、ハーディング夫人が亡くなったとき、牧師へ「夫はケチだから娘が欲しいものがあるようだった買ってあげてほしい」といった内容の手紙とお金を送ります。地味な帽子しか持っていない娘は陳列窓に飾られたニューヨークの最新の帽子を欲しがります。それを見た牧師は買ってあげるのですが、それがゴシップとなって村中に広がり大騒ぎとなってしまう一巻物の映画です。主演は”アメリカの恋人”と謳われたメアリー・ピックフォードです。

 

『THOSE AWFUL HATS』は豪華絢爛な帽子を取らない女性をクレーンで強制的に排除する様子が面白いですね。映画館のスクリーンに映画がしっかりと映っており画面の奥行きが無いためのっぺりとした印象を受けますが、女性の帽子が登場し出すと画面に奥行きと運動がもたらされます。最後に、UFOキャッチャーのようにクレーンが上から降りてくることで、それまで弛緩していた空間が熱狂に包まれ映画は終わります。
 『THE NEW YORK HAT』は、蓮實重彦氏によると、帽子を通して初めて「都市と地方」を明確に主題にした作品とのことです。ご覧頂いたとおり、田舎娘がショーウインドウに飾られた帽子がお洒落な都会のイメージと結びついています。

 

●『その夜の妻』、小津安二郎、日本、1930

 メアリー・ピックフォードが都会の帽子に憧れたように、アメリカ映画に憧れた映画監督が日本にもたくさんいました。例えば、小津安二郎監督です。小津監督というと「カメラは固定」「ローアングル」「静か」「日本的」「様式美」といったワードで語られることもありますが、良い意味でそのようなイメージが覆す映画を撮っています。まるでギャング映画であって、それはヌーヴェル・ヴァーグよりもおよそ30年早い、アメリカ映画の真似、模倣となっております。
 主演の岡田時彦さんは、「並ぶ」で紹介した小津安二郎監督の『東京の合唱』でも主演していました。「傘」でご紹介した『秋津温泉』に、岡田時彦さんのご息女である岡田茉莉子さんが主演していましたが、抜粋でご覧いただいたシーンにも印象的な帽子がありました。
 『その夜の妻』は、病気である娘の治療費を捻出するため、強盗をしてしまうサラリーマンの話です。強盗を働いたあと、娘の元へ帰ろうとタクシーに乗ります。しかし、そのタクシーの運転手が刑事だったため、夫婦の住む家が見つかってしまう場面からご覧いただきます。

 八雲恵美子がベッドから銃を取り出し、刑事の背中に突きつけます。一度離してから再度突きつけ銃を奪い、2丁拳銃を構える八雲さんには鳥肌が立ちますね。刑事に銃を奪われたところまでご覧いただきました。八雲さんが「しまった!」とエプロンを握りしめたように、私たちも手に汗握る展開がこの後も続きますので、是非お時間あるときにご覧いただきたく思います。
 帽子についてですが、刑事は岡田時彦の帽子によって部屋にいることを突き止め、それを和服姿の八雲恵美子の頭に載せます。和服に白いエプロン姿の八雲恵美子がソフト帽を被せられた姿は、蓮實重彦氏が指摘しているように、『勝手にしやがれ』でジーン・セバーグがベルモンドのソフト帽を被った際に感じる魅力的なアンバランスさに似ています。ゴダールは『その夜の妻』を観ていないと思われますが、ゴダールが小津を真似したと言いたくなりますね。
 1930年の日本で、和服姿の女性が洋装の装身具であるソフト帽を被せられる。文化的には決してありえない組み合わせだからこそ、その不均衡さが刑事に追いつめられる八雲恵美子の感情とが相俟って、激しく動揺させられてしまいます。
 帽子という文化的な象徴を帯びたものが異なる文脈に置かれたときに起こる不均衡さをご覧いただきました。

 『その夜の妻』と同じく、小津監督は『非常線の女』というフィルム・ノワールを撮っています。こちらにも印象的な帽子が出てきますので、是非ご覧ください。

 

●『いぬ』、メルヴィル、フランス、1962

 先ほど話に挙がった『勝手にしやがれ』に出演しているジャン=ピエール・メルヴィル監督もアメリカ映画に強い影響を受けています。
 監督の本名は、メルヴィルではなく、グランバックといいます。当時のフランスは激しい反ユダヤ主義が政治的背景にあり、ユダヤ人である監督は名前を隠す必要があったそうです。そこで、敬愛していた、『白鯨』等で有名な作家ハーマン・メルヴィルから名前を頂き、メルヴィルと名乗ったそうです。
 メルヴィル監督は自主製作で多くの映画を撮りました。親族の遺産を用いるのでなく、加えて助監督の経験もなく、自主製作で商業的に成功した最初の監督ではないでしょうか。なおその後インディペンデントで映画を制作を行う監督は、例えば、シャブロル、トリュフォーゴダールキューブリック、カサヴェテス、スコセッシ等がいます。
 ご覧いただく場面は、ギャングであるセルジュ・レジアニはジル殺しとヌイイでの強盗を起こしますがその後、仕事仲間で友人のジャン=ポール・ベルモンドの密告によって捕まってしまいます。レジアニはなぜか裁判にかけられることなく釈放されるのですが、それは裏切ったと思われたベルモンドが裏で彼を助けるために尽力したおかげでした。その種明かしをベルモンドがレジアニへ説明する場面からご覧いただきましょう。

 ジャン=ポール・ベルモンドの帽子がころころと転がって終わります。登場する男たちはアウトサイダーとしてスーツにハットを恰好良く被っています。帽子は斜めに被られたり顔をすっぽりと覆ったりと、登場人物の表情に彩りを加えてきました。そのような帽子を被った男たちは、「この仕事は最後が悲惨だ」というベルモンドの言葉どおり一人の例外も許さず、死ぬなり捕まってしまいます。
 引退後気ままに暮らすため、ベルモンドが揃えていたであろう豪華な調度品が飾られた部屋を、帽子が転がって終わる。アウトサイダーを象徴してきた帽子が、頭から離れ、転がることを終えたとき映画も終わりを告げるのは、当然のようにも、終わりとしてこれ以外無いようにも思えます。

 

●『夕陽のガンマン』、セルジオ・レオーネ、イタリア、1965

 日本やフランスにアメリカ映画の信奉者がいたように、イタリアにもアメリカ映画の信奉者がいます。中でもレオーネ監督はイタリアで西部劇を撮ってしまいます。『夕陽のガンマン』の前作である『荒野の用心棒』はマカロニ・ウエスタンの大ブームを引き起こし、ヨーロッパで大スターとなったクリント・イーストウッドのギャラは、1.5万ドルから5万ドルまで3倍以上に跳ね上がったそうです。
 監督のセルジオ・レオーネは、映画監督の父を持ち、ラオール・ウォルシュウィリアム・ワイラー等アメリカ人監督のイタリアでの映画製作に関わっていました。クレジットが付かない映画を何本か監督した後、1961年に処女作を撮り上げると、1964年に『荒野の用心棒』、1964年に『夕陽のガンマン』、1966年に『続・夕陽のガンマン』を撮り上げます。
 ご覧いただく場面は、賞金稼ぎのイーストウッド演じるモンコとリー・ヴァン・クリーフ演じるモーティマー大佐はそれぞれ殺人鬼のエル・インディオを追いかけ街にやってきます。インディオの動向を探っている最中にお互いの存在に気付く場面からご覧いただきます。

 ジョン・フォードの映画に出てきそうな情報通の老人と中国人のウェイターが面白かったですね。そこから二人のやり取りが始まります。
 リー・ヴァン・クリーフ帽子を拾おうとすると、イーストウッドが帽子を撃って吹き飛ばす。帽子に近寄り拾おうとすると、また吹き飛ばす。次第にお互いの距離がどんどん離れていきます。これまでの衣装としての帽子とは異なり、帽子が力の誇示に使われています。帽子の本来の使い方とはまったく関係がありません。本当に帽子があのように吹き飛ぶのかわかりませんが、銃で撃った帽子が舞う様子はなぜか説得力があります。これがスカーフやブーツでは成立しない。帽子だから面白いシーンではないでしょうか。

 

●『天才スピヴェット』、ジャン=ピエール・ジュネ、フランス=カナダ、2013

 グリフィス監督が扱った、「都市と地方」を象徴する帽子が出てくる最近の映画をご覧いただいて終わりたいと思います。
 ジャン=ピエール・ジュネ監督の『天才スピヴェット』です。フランスと日本でヒットした『アメリ』で有名なこの監督が初めて3Dで撮影した作品です。
 予告編にあるように、モンタナの牧場に住む10歳の天才科学者スピヴェットが、ワシントンで行われる授賞式に出席するために家出をするお話です。無事に授賞式に出席しスピーチを終えたスピヴェットは、賞を与えたスミソニアン学術教会にコマーシャルに利用されメディアに頻繁に露出します。TV出演する場面からご覧いただきます。

 本日ご覧いただいたグリフィス監督や小津監督と比べてどちらが映画として3Dかわかり兼ねますが、観客を楽しませようとする想いが伝わる映画です。
 両親と和解し、父親におんぶされたスピヴェットは父の帽子を自分の頭に乗せます。現代において未だにカウボーイの恰好をしている父から帽子を取り、被ることで、弟の死を乗り越えつつ父の想いを継承するというシーンでした。

 今回ご覧いただいた映画は、グリフィス監督の作品以外はすべてアメリカ以外の国で撮られた作品です。日本やフランス、イタリア等で撮られています。ある場所で撮られているけれども、映画には「無国籍性」と呼べるようなものが宿っています。もちろん実際には「東京」なり「パリ」なりで撮られてたことは分かりますが、厳密に特定することはでき兼ねます。ある種、誰でも、どの場所でも成立するように思えます。映画の中では、時代も空間も抽象化されてしまっているということができるのかもしれません。しかし、「抽象化されている」とはどういうことなのでしょうか。映画であるからには、画面には具体的な「なにか」が映っているはずです。当たり前ですが、抽象化した概念はカメラで撮ることができないからです。抽象化された顔は撮れません。つねに具体的な俳優の顔しか撮ることができません。では、今回ご覧いただいた映画が私たちに与える「抽象化された」という印象はどこからくるのでしょうか?
 それは、監督たちが影響を受けたと述べる、グリフィスを始めとするアメリカ映画を根源とした「映画術」にあるように思えます。現在においても世界の多くの国でアメリカ映画は観られていますが、その根底にあることは「動き」や「かたち」でみせることではないでしょうか。そのイメージに影響を受けた各国の映画監督は、「椅子に座る」「物を拾う」「走る」といったありふれた動作を抽出し、自分なりに映画の中で表現している。西部劇なりフィルム・ノワールといった「ジャンル」の枠組みがありながら、またはそれがあるゆえに、「無国籍性」を宿した映画になってしまうのは、そういった「動き」でみせることをアメリカ映画から学んだからだと思われます。
 そして、「帽子」といった風俗性の指標となりうるようなものだからこそ、逆にそれを消すこともありえ、こうした「無国籍性」と強く結びついていると考えられるのではないでしょうか。

 以上で、映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.13「帽子」を終了したいと思います。これからも「無国籍性」に留まらない「帽子」の様々なニュアンスを感じながら、映画を楽しんでご覧頂ければ幸いです。本日はご来場いただきありがとうございました。

(シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った)

【告知】映画おにいさんのシネマ・カフェ vol.13「帽子」

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日射しを防ぐために頭に被る装身具として以上に、

お洒落であったり、個性を強調するためのものである帽子。

映画の中にも帽子はたくさん出てきます。

象徴的な意味を帯びてしまうものであるゆえに、

本来の用途でない使われ方をされたとき、

つよく印象に残ります。

なぜこれほど帽子によって心が乱されるのか。

この不思議な、艶めかしい体験を

映画の抜粋を観ながら考えてみましょう。

ファシリテーター:映画☆おにいさん(内山丈史)

時間:9月26日(土)18:30~

場所:水曜文庫

   〒420-0839
   静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F

料金:800円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-266-5376、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.11「傘」

本日はお集まりいただきありがとうございます。

今回のテーマは「傘」です。雨具としての傘は、梅雨のこの時期はよく使いますね。女性の方は春夏にかけて日傘を使われる方もおおいのではないでしょうか。このような身近な道具の傘が映画ではどのように用いられているのでしょうか。傘が印象的な映画をご覧頂きながら、考えてみましょう。

 

●『鏡の女たち』(吉田喜重、2002)

 吉田喜重監督は、大島渚監督、篠田正浩監督らとともに松竹ヌーヴェルヴァーグの一員とされています。吉田監督は松竹で木下惠介監督や大庭秀雄監督の助監督を経て監督になったのですが、映画監督になりたくて松竹に入社したわけではなく、生活のため、たんなる就職口としてだと仰っています。そのためでしょうか。吉田喜重監督の映画は、映画が自明に在るものとしてではなく、その存在を疑うようなものとして作られているように思えます。吉田監督がよく仰っている問い、「映画とは何か?」という問いが1カットごとになされつつ作られているように感じられます。
 吉田監督は映画に関する批評やエッセイも多く執筆されており、センター試験にも出題された『小津安二郎の反映画』という名著があります。会場である水曜文庫さんにも吉田監督が書かれた『自己否定の論理・想像力による変身』が置かれていました。

 『鏡の女たち』は、エミリ・ブロンテ原作の『嵐が丘』以来、13年ぶりの新作であり、今のところ吉田監督の最新作でもあります。『鏡の女たち』主演の岡田茉莉子は、吉田監督の奥様でもあり、シネマ・カフェvol.8「並ぶこと」のとき上映した『東京の合唱』で主演していた岡田時彦さんのご息女です。では、冒頭からご覧頂きましょう。

 (動画は映画の予告編)

 岡田茉莉子らが田中好子のアパートに入るまでの場面をご覧頂きました。閑静な住宅街から始まるこの映画では、冒頭からしばらく岡田茉莉子の顔が傘に隠れて見えません。どこかへ向かっている彼女からは、とくべつ急いでいるようには見えないものの、追い立てられる印象を受けます。そこへ、不審な車からの視線も絡んでくることでより一層緊迫した雰囲気をかたちづくっていきます。役所へ着くと失踪した娘がみつかったと説明をされ、警察へと向かう場面がつづきます。取り立てて何かが起こっているわけではないこの一連の流れの中でさえ、1カット毎どこかちぐはぐな、異様な印象を受けます。そもそも役所の受付で説明を受ける岡田茉莉子に「奥さん!」と声をかけて近よる室田日出男は、この2カットの間で瞬間移動しているようにも見えます。通常であれば違和感なく見せられるはずであるのに、吉田監督は若干の”ずれ”を映画に残すことによって、一連の動きを「自然」に見せるという映画の技法に疑いの眼差しを向けているようにも思えます。

 さて、「傘」ですが、冒頭から岡田茉莉子の顔へ視線が注がれるのを妨げ、サスペンスをかたちづくります。そして私がもっとも印象的だと感じる「傘」は、予告編にもあるように、田中好子を傘の縁でいったん隠したあと、失踪した娘かどうか確かめるように縁を再度上げていくカットです。視線そのものを映すことは映画にはできないけれど、傘の縁を上下させることによって視線が表されています。同時に、ほんとうに自分の娘かどうか確信を持てない岡田茉莉子の自信の無さも感じさせます。傘によって、私たちの眼差しと岡田茉莉子の眼差しが不意に一致してしまう瞬間が顕われるカットだと思います。

 

●『百年恋歌』(ホウ・シャオシェン、2005)

 日本にフランスのヌーヴェルヴァーグに対応するような運動があったように、台湾にもヌーヴェルヴァーグに対応する運動がありました。それは「台湾ニューシネマ」と呼ばれるものです。それは主に80年代から90年代にかけて展開されました。台湾ニューシネマに代表される監督は、先日シネマイーラで『恐怖分子』が上映されましたエドワード・ヤン監督や、本日ご覧頂くホウ・シャオシェン監督です。

『百年恋歌』は三編のオムニバス映画からなっています。それらのエピソードは1966年が舞台の「恋愛の夢」、1911年の「自由の夢」、2005年の「青春の夢」と、それぞれに年と名前が与えられており、三編に主演しているカップルはすべて同じ俳優によって演じられています。本日は第一話「恋愛の夢」から、スー・チーチャン・チェンから送られた恋文を読む場面から第一話の最後までご覧頂きましょう。

やっとのことで再会を果たし、スー・チーの仕事終わりに朦々とたつ湯気の向こうで食事を済ませた二人は、電車に乗ろうと駅を訪れるもすでに電車はなくバスを待つことにします。バス停には屋根がないため、二人は相合い傘をして待ちます。男性が傘を持つ手を変えたかと思うと、カメラは初めて人物の反対側へ周り、繋がれる手をクローズアップで収めます。女性が傘から少しはみ出て濡れていますが、バッグをパタパタさせて嬉しそうなのがいいですね。空間を限定したため、二人の距離が近しくなる。それが心的距離の変化とも反響しあい、より感動的である場面です。

 

●『秋津温泉』(吉田喜重、1962)

初めに吉田監督の『鏡の女たち』をご覧頂きましたが、次にご覧いただく映画は、ちょうど「松竹ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれていた頃の作品『秋津温泉』です。この映画で吉田監督と岡田茉莉子は初めてタッグを組みました。岡田茉莉子の映画出演百本記念作品として企画されたこの映画において、岡田茉莉子は企画・プロデューサー・衣装・主演を務めています。

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 戦争が終わり長門裕之の体調が良くなった場面から岡田茉莉子の入浴シーンまでご覧頂きました。「傘」は、バーから飛び出していった岡田を長門が追いかけていった場面で登場します。岡田が雨に濡れないように長門の傘へ入れようとしますが、岡田は長門の傘の下に入らず距離をとります。長門は何度も傘に入れようとしますが、岡田も繰り返し離れていく。『百年恋歌』では傘によって限定された空間を共有することで二人の距離が縮まったことが表現されていましたが、『秋津温泉』はその逆で、傘によって限定された空間を二人は共有せず、追いかけが行われます。訴えかける長門と拒む岡田の関係性が、二人の会話だけでなく、傘によっても表現されています。

 

●『海外特派員』(アルフレッド・ヒッチコック、1940)

 映画における傘がつねにカップルのためにあるわけではありません。傘そのものに目を凝らすことによってはっと驚くことがあります。『シェルブールの雨傘』のような色彩豊かな映画に出てくる、色とりどりの傘に魅了されるということもありますが、今回ご覧頂くヒッチコック監督の『海外特派員』には地味というか、没個性的なこうもり傘しか登場しません。そのような傘が、ヒッチコック監督にかかると途端に映画的な、新鮮な驚きを観客に与えてくれる舞台装置となります。

 『レベッカ』につづく渡米二作目の『海外特派員』は、前作に比べれば低予算でありながら、化かしあいの応酬がなされ、その中で不意に露わになる人間性に心を強く動かされる映画です。物語は、クビになりかけていた新聞記者である、ジョエル・マクリー演じるジョン・ジョーンズが、海外特派員に任命され戦争勃発間近のヨーロッパに派遣されるというように始まります。 ロンドンへ赴き、現地の先輩特派員と出会う場面からご覧頂きましょう。

 

  ヨーロッパの平和の鍵を握る人物アルバート・バッサーマン演じるヴァン・メアが撃たれてしまい、その犯人を追いかける場面までご覧頂きました。
 雨の中、現れたヴァン・メアの写真を撮影しようとカメラマンが近づきます。カメラマンの機材がクローズアップされると、拳銃が握られています。ここから物語が一気に加速するぞと観客に予告するような、目の覚めるクローズアップです。発砲するカメラマンと、階段を転げ落ちるヴァン・メア。犯人は人混みに紛れて逃げます。ここで逃げていく犯人のすがたは一切見えませんが、私たちはどこに犯人がいるのかはっきりと確認できます。それは弾む傘によってです。ご覧頂いた先の二作品の「傘」とは異なり、パーソナルスペースを表す傘ではありません。傘という”モノ”が持つ性質を活かし、人を押しのけていく犯人の運動が、魚が湖の水面を泳ぐときにおきる波紋のように、可視化されています。傘の持つ「役割」を扱ったのではなく、傘の「しなり」に注目したカットであり、画家が絵の具の物質性を活かした絵を描くように、ヒッチコックは「傘」の持つ性質を活かした表現をしています。

 

●『鴛鴦歌合戦』(マキノ正博、1939)

  『海外特派員』と同時期の日本では、1938年には国家総動員法が制定され、39年には映画製作が政府の管轄下におかれる映画法が施行されています。その1939年に撮られた映画『鴛鴦歌合戦』をご覧頂きます。と言っても堅苦しい映画ではなく、時代劇でしかもミュージカルという、とても楽しい映画です。
 監督のマキノ正博は「日本映画の父」と言われるマキノ省三の息子で、幼い頃から映画が身近にあったので子役として幼い頃から映画製作に関わり、監督になった方です。生涯に監督した本数は260本あまりと今では考えられないような本数です。扱ったジャンルも幅広く、喜劇からメロドラマ、時代劇、任侠、ミュージカルと様々なものを監督しています。早撮りが得意でかつ面白いものをなんでも撮るマキノ監督の映画は「早い、安い、当たる」と、いま聞くと牛丼のコピーのようですが、簡単に撮っているように見えるのに人気があったゆえか、そのように揶揄されてもいました。
 高倉健が主演していた『昭和残侠伝 死んで貰います』や、我等が次郎長親分を描いた『次郎長三国志』等が今でもレンタルビデオ店でご覧になることができます。

 なお、この映画の撮影監督は、マキノ監督と小学校の同級生でもあった宮川一夫です。小津安二郎監督の『浮草』や、『雨月物語』『山椒大夫』『近松物語』など溝口健二監督の作品の多くを撮影しています。

  映画の冒頭から、雨が降ってきたため急いで傘をしまおうとする場面までご覧頂きました。「ちぇ!」という市川春代がとても可愛らしいですね。片岡千恵蔵が出ているシーンは、片岡千恵蔵の体調が悪かったために数時間で撮り上げたというから驚きです。
 志村喬演じる貧しい武士の職業が、「絵日傘」作りでした。それによって社会的な階級をある程度説明するという役割をこの映画の「傘」は持っているのかもしれません。しかし、この映画で乾かしている傘の量はそれにしても多すぎます。乾かされている傘も影の方向や俳優の立ち位置から考えると、かならずしも南向きに置いてあるわけではないようです。むしろ傘はきれいにカメラの方向へ向けられており、あふれんばかりに画面を覆い尽くしています。それは最後には乱闘騒ぎが起きる家の前の広場だけでなく、建物の外観や室内にまで浸食しています。カメラが室内に入っても、傘は画面の多くに登場します。この過剰さはたんに階級の説明というだけでは不自然です。広場では、画面の手前に置かれた傘は固定されていますが、画面奥の傘は風に吹かれて時折揺れて画面を活性化させもし、傘がなくなれば同一の空間とは思えないほどすっきりして見えます。室内においては傘が置いてあることで貧乏人の簡素な長屋に奥行きをもたらします。「撮影の効率」と「画面の充実」を両立させるための「傘」なのではないでしょうか。

 以上で、映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.11「傘」を終了したいと思います。傘が持つ表現の一部分を観てきましたが、そこには収まらない「意味」は、ご覧いただいた映画、映像の一部分でさえ、溢れております。むしろ傘以外に惹かれた方も多くいらっしゃったように、映像の持つ多様性吉田喜重監督の言葉でいえば「限りなく開かれた映像」)の様々なニュアンスを、これからも傘に注目しつつ、楽しんでご覧頂ければ幸いです。本日はご来場いただきありがとうございました。

(シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った)

 

〈おまけ〉