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「工場というダンス」について

 山形国際ドキュメンタリー映画祭に行ってきました。映画祭公式ガイドブック「スプートニク」に、青山真治監督が『天竜区奥領家大沢 別所製茶工場』について「工場というダンス」という文章を寄せて下さっています。自分の名前が載っていたのが気恥ずかしく、山形では途中で読むのをやめてしまいましたが、帰りの電車で拝読しました。「工場というダンス」という舞台もしくはその場がもたらすリズムをそのまま映画に取り込むことを、「映画とはなにか?」と同義の問いとして、「間」という言葉とともに「切り返し」を重要な”概念”として提起されていました。このとても刺激的な文章と、映画祭運営スタッフの方々による細やかな対応、配慮もあって、映画祭特有の熱気を帯びた観客に、それも二回とも立ち見が出るほど多くの方々に『天竜区奥領家 別所製茶工場』をご覧いただき大変嬉しく思います。


 「切り返し」というと、『魔法少女を忘れない』の素晴らしい切り返しを思い出す方もいらっしゃると思うが、一般的な映画技法にとどまらない堀監督が試みた「切り返し」は、『天竜区奥領家大沢 別所製茶工場』の後、『天竜区水窪町 祇園の日、大沢釜下ノ滝』、『天竜区奥領家大沢 夏』、『天竜区奥領家大沢 冬』へと受け継がれ、絶対的な新しさを宿している『天竜区水窪町 山道商店前』へといたる。そしてこの一連の試みは、堀監督がユリイカ「蓮實重彥特集」に寄せた文章で、「魔法を使っているのは、「イニスフリー」という娘なのかもしれない」と述べていたこととそう遠くない話だと思う。
 人類史上初めて作られた映画『工場の出口』から「工場の一部」へ。「編集」という概念を手に入れたわたしたちに、『別所製茶工場』は、「説明責任」や「問題意識」といった身振りとは遠く離れた「工場というダンス」を通じて、没入とも異なるかたちで、本来ならば眼球を切り裂かれるほどの背徳行為であった「見る」という快楽を与える。例えば、今となっては出荷するためにかかる費用の方が売値より高くなってしまった植林された樹々。山あいから立ちこめる霧をたっぷり吸い込んだ集落の大半の面積を占める茶畑。四時間半も彼の人を待つ汽車のように蒸気を吹き上げる製茶工場。橋を駆ける騎兵隊のように地の揺れとともに画面手前へ迫り来る茶葉。「ヨウ兄!」と家族からの声が聞こえカットが変わるとモノレールに乗ったヨウ兄が斜面を登っていく。『夏の娘たち〜ひめごと〜』に繋がっていくと思われる、それまで散り散りに摘んでいた女性たちが同一画面に現れ休憩するために準備をする姿。モノレールの陰で休むジョン。投げられる出がらしのお茶っ葉、木札。葉の状態を確かめる大沢の方々の指の美しさ。その地に受け継がれてきた集団的記憶が具現化されている。
 集落中を、そして生活圏を実際に歩いてみて距離感を体感することで、身体感覚として納得がいった「実景カット」を積み重ねていく。結果、手前の山から向いの山へと大きな「切り返し」となり、そうした切り返されているのかもよくわからないほどのロングショットの「切り返し」は、カットとカットをどうつなぐか、本来つながるはずのないものがどうすればつながるのか、どうすればそうであってもいいのかという当たり前のように思っていた問いを生じさせる。その答えは時に音であったり光であったり風であったりするのかもしれないが、そうしたコントロールが利かず瞬間瞬間に思ってもみないように姿を変える対象がもたらす驚きにカットが替わるごとに遭遇する。そうした映画が作られる過程も含めた過激な「おおらかさ」が「十四の漢字の連なり」をおおっている。
 それは工場の中にカメラが移動しても変わらない。青山監督が指摘されているように、製茶作業の工程の速度に身を寄せ、工場全体が脈動されるリズムで画面を繋いでいく。そうした速度によって、いつの間にか工場に轟く機械音や老朽化により生じるカメラのモーター音さえ豊かな調和をうむ。「心理」に寄り添うことはけっしてなく、その「音色」は自然化されることを拒む。
 「中野くんは明日も来てくれるか?」
 あくまで身体的な、現在の瞳の記憶が、知るはずもない「不在」を呼び寄せ物語を紡ぐ。生々しく、禍々しい映像。『アメリカン・スナイパー』のブラッドリー・クーパーのごとく「触れる」ように撮ることによって、撮ることが搾取ではないかたちとなり「等価性」を持った映像として『天竜区』シリーズはある。今回の上映で興味を持たれた方は是非その他の『天竜区』シリーズもご覧になってほしい。堀監督の、というより映画の、と言うべきかもしれないが、「魔法」がそ知らぬ貌でスクリーンにありつづけている。堀監督がよく言っていた「映像言語」とはどのような意味だったのだろう。堀監督は別所さんの言葉に、しぐさに、そして後ろ姿にどのような物語を託したのだろう。私はそのことをこれからも考えつづけていくだろう。『天竜区』シリーズに終わりはない。