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ゴー!ゴー!アタラント号!! 映画☆おにいさんのBlog

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.9「平手打ち」

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とくべつな道具が要らないこの原始的な暴力は、
ふだんの生活のなかで、親から子へ
躾のためになされることもあるでしょうし、
恋人同士が、喧嘩の際、
相手の無理解に憤ってなされることもあるでしょう。

接吻よりは遠く、しかし手が届く範囲からのみ
繰り出される「平手打ち」は、
二人の関係性をどのように変えてしまうのでしょうか。

映画において「平手打ち」が
物語にどのような衝撃を与えるのか、
いっしょに考えてみましょう。

 

◆時間
3月28日(土)19:30~21:30

 

◆予約受付
予約優先。当日参加可。
問い合わせ先に、イベント名、お名前、連絡先をお送りください。

 

ファシリテーター
内山丈史 a.k.a 映画☆おにいさん

 

◆会場
カフェ・うーるー http://ooloo.lolipotouch.com/access/
〒411-0847 静岡県三島市南本町13-30
※JR三島駅より徒歩 30分

 

◆駐車場
カフェ・うーるーの駐車場は1台です。なるべく公共機関を利用してお越し下さい。

 

◆近辺の駐車場
①近くのコロナのカメラ様 http://www.d-corona.com/sup_corpprofile.html
②シンコウパーク様 カフェ・うーるーまで源兵衛川沿い徒歩15分
 http://www.shinkopark.com/access.html


◆問い合わせ
takeyama.drifters★gmail.com  内山 宛
(迷惑メール防止のため、@を★としています。★を@にして送信ください)

◆参加費
500円+ 1 drink

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.8「並ぶこと」

並ぶこと

異なる人間が、向かい合うのではなく、
ただ並んで、同じ方向を向き、
ただ視線を投げかける。
それだけで感動的であることが
映画にはよくあります。

あれだけ自在に動き回っていた登場人物が
他者と並んで歩くとき。
あんなに喧嘩ばかりしていた二人が
並んで同じ方向を向くとき。
すこし考えれば容易にいろんな映画のいろんな場面を思い浮かべることができます。

そして、わたしたちもまた映画館で映画を見るとき、
順序よく並びながらスクリーンにむかって視線を注いでいます。
この不思議な相似形について映画を見ることで考えてみましょう。

ファシリテーター:映画☆おにいさん(内山丈史)

時間:2月28日(土)19:00~

場所:水曜文庫

料金:800円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-266-5376、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

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映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.7「本のある場所」

本日はお集まりいただきありがとうございます。映画☆おにいさんのシネマ・カフェ第7回「本のある場所」にお集まりいただきありがとうございます。今回、水曜文庫さんでシネマカフェを行うことになりましたので、店主の市原さんと相談しまして「本のある場所」としました。「本」が原作というのではなく、「本」そのものを映画ではどう扱っているか。印象的なものを集めてみました。言うまでもなく、本に掲載されているのは、写真や図もありますが、基本「文字」です。それに対して、「映画」は「映像」と「音」であって、異なるメディアです。そこで映画は本をどう扱っているのか。古今東西すべての映画を見れる訳ではないですが、印象的なものを集めましたので見ていきたいとおもいます。ではまず参加者の方々の自己紹介とテーマ「本のある場所」で思い浮かぶ映画を言っていただきましょう。

〈自己紹介+映画〉

ありがとうございます。では、映画を見ていきましょう。

●『三人の名付け親』(ジョン・フォード,1948)

 ジョン・フォードは『駅馬車』だったり『静かなる男』だったり、『男の敵』『怒りの葡萄』『荒野の女たち』『騎兵隊』『ドノバン珊瑚礁』...まだまだ面白い映画がいっぱいありますね。今日は『三人の名付け親』の、三人の銀行強盗が赤ちゃんの世話をするシーンを見てみましょう。三人は赤ちゃんの世話の仕方が分からない。なにか手がかりはないかと母親の荷物を漁っていたら一冊の育児本を見つけるんですね。

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書かれていることに翻弄される3人が面白いですね。本を読む、赤子を抱くことで見えてくる関係性も面白いですね。

もう一場面、『三人の名付け親』から見てみましょう。三人の中で一番若いキッド(ハリー・ケリー・ジュニア)がケガと砂漠での逃亡に消耗しきって死んでしまう場面を見てみましょう。

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銀行強盗が最後、聖書の朗読を頼むんですよ。自分が極限の状態において、死ぬ間際に望むことが赤ん坊の心配と詩篇の朗読、朗誦なんですね。宗教のことはよくわかりませんが、感動的ですね。泣けますね。

 

●『わが谷は緑なりき』(ジョン・フォード,1941)

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次も、ジョン・フォードの映画から抜粋を観てみましょう。『わが谷は緑なりき』です。炭坑町のお話なんですが、主人公は凍傷になってしまって、もう歩けないかもしれないとお医者さんに言われてしまいます。そこで、牧師は主人公に本を読むことを勧めます。『宝島』から始まって、いろんな本を読みます。窓際に本が増えていきます。参加者の方の意見にありました、だんだん暖かくなり鳥が窓辺にやってきて、主人公が家族に「春なの?」って聞くんですね。本を読むことで「春」を知ったんですね。鳥肌が立ちますね。すごいシーンです。

 

●『すべての革命はのるかそるかである』(ストローブ=ユイレ,1977)

 ここまでは、ジョン・フォードの映画で本のある場所を見てきました。次は、ストローブ=ユイレの映画『すべての革命はのるかそるかである』を見てみましょう。マラルメの詩「賽の一振り」を朗誦している映画です。読んでいる場所は墓地の芝生なんですが、このペール・ラシェーズ墓地(Cimetiere du Pere Lachaise | Visite virtuelle du Cimetiere | Cemetery's virtualtour)は、普仏戦争後の1871年にパリ・コミューンという市民軍の蜂起がなされて、その最後の拠点となった場所でもありますね。革命家達の聖地ですね。ここでいろんな言語を母語とする男女9人が交互に朗誦していきます。

 

 

原作の『賽の一振り』ですが、このようなテクストになっています。

 

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日本語訳されたものもあったので、載せておきます。

 

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フォント・サイズ・配置がばらばらで、どのように読むのが正しいのか分かりませんね。これを原作に映画を撮ろうと考える感性にまず驚いてしまいますが、この詩を原作として映画を撮ったと考えれば、あのような映画表現になるのが何となく分かりますね。

そういえば、誰が仰っていたか失念してしまったのですが、「ヘルダーリンの詩は原語で音読すると、言葉と言葉が呼応しているのが分かる」と評していていました。ストローブ=ユイレは、ソポクレスの「アンティゴネ」をヘルダーリンがドイツ語に訳し、それを基にブレヒトが1948年に改訂した版を使って、『アンティゴネ』を撮ってますから、そのようなこと考えた上での映画様式にしていると考えられます。さらにストローブは「カフカをフランス語でなくドイツ語で読むと明晰だ」と言っています。私には分かり兼ねますが、どうやらそういうところもあるようですね。

ちょっと画質も音もあんまりなので、もうひとつ観てみましょう。

●『アーノルト・シェーンベルクの《映画の一場面のための音楽》入門』(ストローブ・ユイレ,1973)

15分だけの作品ですのでこちらも全編見てみましょう。1927年、20世紀の西洋音楽に最も影響を与えたとされ、12音技法を確立した作曲家シェーンベルクが、友人の画家カンディンスキー反ユダヤ主義的な発言に怒って、書いた手紙の朗読がなされます。掛かっている音楽はシェーンベルクが架空の映画音楽として書いた曲であります。ブレヒトが1935年に行った反資本主義演説も引用されています。

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どちらもある場所でテキストがあって読んでいますね。演劇的でありながら、演劇的でないようにも聴こえますね。普段の発声とはちょっと違うように聴こえますね。この人はどんな人なんでしょうね。手や膝が官能的ですね。切り取られた石のようにこの人たちは音と映像になって存在していますね。ストローブは、「存在するものは存在し(ドライヤー『奇跡』)、存在しないもの(ドライヤーのイエス・キリスト)はまったく存在しないのである」と言っていますね。

 

●『セリーヌとジュリーは船でゆく』(ジャック・リヴェット,1974)

続いて、ジャック・リヴェットの『セリーヌとジュリーは船でゆく』から、『不思議の国のアリス』のような出会いの次の日、図書館でのシーンを見てみましょう。

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こんな司書や利用者がいたら嫌ですね。煙草は吸うわ、本にいたずら書きはするわ、破るわで。笑えますが同時に不安になってしまいますね。現実なのか幻想なのか分からなくなりますね。フィックスの画面と手持ちカメラ対比によって、よけい不安定な感じですね。

 

●『天国は待ってくれる』(エルンスト・ルビッチ,1943)

今度は『天国は待ってくれる』です。本屋という場所が物語を推進します。街で見かけた美女を追っていくうちに本屋へ入ります。女性が本を探しているようなので、本屋の店員を装い話しかけます。

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洒落ていますね。ここで女性が欲しがっていた『夫を幸せにする方法』という本が出て来ていますが、後半にも効いてくるんですね。途中、二人だけの世界になってしまうのも面白いですね。ルビッチと言えば、『青髯八人目の妻』にも本が出てきますね。妻を手なずけるためにどうすればいいか考えていたところ、主人公が『じゃじゃ馬ならし』を読んで「これだ!」と思うんですね。早速妻のところに行ってビンタするんですが、すぐにビンタ仕返されてしまうんですね。とっても可笑しいので、是非観て下さい。フォードの『三人の名付け親』もそうでしたが、How to本に従って行動すると大体可笑しなことになりますね。自分の頭で考えろということでしょうか。

 

●『ファウスト』(F・W・ムルナウ,1926)

サンライズ』でも有名なムルナウ監督ですが、ゲーテの『ファウスト』を原作にして撮っています。 


学者であるファウストがこれまでの知識を総動員しても病気を防げなかった。不甲斐なく感じ、本を次から次に燃やしてしまいます。まだ本が高価で貴重であった時代であったから余計に胸が熱くなりますね。燃やす最中にたまたま開いた本から悪魔を召還する方法を見つけます。召還するシーンの迫力は凄かったですね。サイレント映画だからといって侮れないんですね。逆に、むかしの映画の方が凄かったのではないかという気にさせられますね。

 

●『世界の全ての記憶』(アラン・レネ,1956)

では最後に、アラン・レネの『世界の全ての記憶』を見てみましょう。フランス国立図書館のドキュメンタリーです。アラン・レネは『二十四時間の情事』『夜と霧』の監督ですね。そういえば『断層紀』の波多野監督もアラン・レネが好きだと言っていましたね。プルーストみたいに記憶にまつわる映画を多く撮っているように思えるんですが、今回のドキュメンタリーもそのままタイトルに記憶と入っています。

独白と言っていいようなナレーションで映画は進んでいきましたが、最終的にどういうような建物なのかよく分かりませんでしたね。本を運ぶ人や仕組みが次から次に紹介されているはずなんですが!知識と同じように全体を掴むのは容易ではないということでしょうか。

以上で、映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.7「本のある場所」を終えたいと思います。ムルナウからストローブ=ユイレまで、今日だけで8本9シーンを観てきました。抜粋箇所だけでなく一本通してみると印象ががらりと変わると思いますので、ぜひレンタルビデオ店で借りる等してご覧になって下さい。また、これから映画をご覧になるときは「本のある場所」における様々なドラマを楽しんでくださればと思います。

 本日はありがとうございました。
(実際のシネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った)

 

●その上映候補だった作品、参加者から挙がった映画、話題に挙がった映画

素晴らしき放浪者』『ベルリン、天使の詩』『シャーシャンクの空に』『女は女である』『右側に気をつけろ』『ざくろの色』『ローラ』『青髯 八人目の妻』『中国女』『コルネイユブレヒト』『レディ・イン・ザ・ウォーター』『華氏451』『バートンフィンク』『三つ数えろ』『珈琲時光』『ノッティングヒルの恋人』『ビフォアサンセット』『バールーフ・デ・スピノザの仕事 1632–1677』『東京物語

『アンナ マクダレーナ バッハの年代記』



『ジャッカルとアラブ人』



サンライズ



『奇跡』

映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.6「駆ける」

 本日はお集まりいただき、ありがとうございます。今回のテーマは「駆ける」です。「走る」ってことですね。人間の基本動作の一つではあるけれども、ふつう人が走ることはあまりないですね。なぜならば、その前段階の「歩く」よりも疲れるからです。多くのエネルギーを消耗します。だから、人はなにかしらの理由がないと走らない。走るからには理由がありエモーションがあるはずで、そのエモーションが人を走らせます。

 映画でも人はよく走ります。あっちこっちへ走ります。なぜ走るのか。何に駆られて走るのか。その走りをどう撮れば伝わると判断して映画作家たちは撮影したのか。それを考えて正解があるわけではないけれど、意義深い細部であるかもしれません。まず、「駆ける」で思いつく映画でも、「駆ける」という言葉へのイメージでもいいですが、自己紹介を交えつつ参加者の方々に話していただければと思います。

参加者:自己紹介+「駆ける」について

ありがとうございます。それでは映画を観ていきましょう。

●『東への道』(D・W・グリフィス,1920)

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 D・W・グリフィスは「映画の父」といわれている監督ですね。クローズアップやクロスカッティング(並行モンタージュとも呼ばれています)等映画文法を発明したとされていますが(ちなみに小津安二郎監督はそもそも「映画に文法はない」と言っていますが)、グリフィスが得意としたとされる手法の一つに「最後の瞬間の救出」、「ラスト・ミニッツ・レスキュー」があります。主人公が最後の最後、間に合うか間に合わないかという演出で、観ている側はハラハラドキドキしてしまうんですね。では、『東への道』におけるラスト・ミニッツ・レスキューを観ましょう。

 いやー、凄まじいですね。俳優の大変さがわかります。極寒の中での撮影だったでしょうから、休憩も必要だったでしょう。また、氷がぶつかり合いながら、かなりの速さで流れているので演技をしている最中にもリリアン・ギッシュが横たわっている氷が割れたり、氷が急流に揉まれ命に関わるような状況になり、慌てて撮影を中断し別の氷に飛び移らねばならないというような緊迫した状況もあったと思われます。それに危機的な状況から命からがら逃げ出せたとしても、それで撮影が終わるわけではありませんから、撮影に適した別の氷を待ち撮影を続行するといった調子でもあったでしょう。1日では撮影が終わらず、複数日に渡った撮影であったのかもしれません、だから、お気づきの方も多いと思われますが、カットごとに異なる氷を使っているんですね。
 初期の映画の役者さんの役者魂には心が打たれます。女優の鏡ですね。近頃の女優さんにはこの演技はムリなのではないでしょうか。事務所から「ケガでもしたら次の仕事に差し支えがあるんで!」等言われているかどうかは知りませんが、このような根性をお持ちの女優はあまり思い浮かびませんね。リリアン・ギッシュは、この撮影によって凍傷になりかけたらしいですが、非常に高い評価を得ました。
 ただ今ご覧になったシーンでは、リリアン・ギッシュがあと少しで危ない、流されてしまいそうな危機的状況です。リリアン・ギッシュを助けるために主人公は走ります。ある場所でヒロインが危機的な状況になっており、早く行かなければ死んでしまう。目的地がありそこへ向かうために危険な場所へ「駆ける」。タイムリミットがあって、それに間に合うように駆ける「追いかけ」ですね。小津監督は映画の一番初めを「善玉と悪玉の追っかけ」と言っています。「追いかけ」は映画の基本なんですね。現在でも『ミッション:インポッシブル』の「追いかけ」シーンは定番ですし、カーチェイスは映画を盛り上げるために頻繁に使われていますね。

 

●『キートンのセブンチャンス』(バスター・キートン,1925)

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 「追っかけ」にもいろいろな種類があります。喜劇の「追っかけ」を観ましょう。バスター・キートン主演・監督『キートンのセブンチャンス』です。キートンはチャーリー・チャップリンハロルド・ロイドと並びアメリカの三大喜劇王の一人です。それぞれの特徴として、チャップリンは小さいジャケットに帽子にちょびヒゲ、だぼだぼのズボンと靴、ロイドはカンカン帽に丸ぶち眼鏡、キートンは鉄面皮といったトレードマークのようなものがあります。
 抜粋するところまでのストーリーですが、祖父の遺言によってキートンの27回目の誕生日の7時までに結婚すれば何百万ドルという遺産が入ることがわかります。それで最初は恋人にプロポーズするんですが、「今日中に結婚しなければいけない」と言い張るので、逆に何か隠し事があるのではないかと勘ぐられ断られてしまいます。とりあえず遺産は相続しなければならないと手当り次第女性に声をかけるのですが、断られてしまいます。そこで勝手に友達が新聞に“キートンと結婚すれば莫大な遺産が入る”と広告を出してしまうんですね。それを知って女性たちが次から次に集まってきてキートンに言い寄ります。欲に目が眩んだ、金目当ての女性がとても怖いです。では、映画を観ましょう。


(参加者からキートンへ拍手)

 これまたすごいですね。決して笑わないキートンがたくさんの女性に追いかけられるのが可笑しいですが、どんどん増殖してくる「女性」が怖いですね。「女性」が抽象的なものとなっていますから、いろんな場所からうじゃうじゃと出てきます。いろんなバリエーションが面白いですね。女性たちがアメフト選手をなぎ倒したり、なぜか電車や重機を操縦できたりと、やりたい放題で笑ってしまいますね。女性たちの迫力に取締りのお巡りさんも逃げ惑っていましたね。逆に、キートンが大勢のお巡りさんに追いかけられてしまう『キートンの警官騒動』という映画もあります。オチが切ない、でも面白い映画です。

 CMやPV等で、一人の人が大勢の人から追いかけられる演出をたまに見ますが、この『キートンのセブンチャンス』が元ネタなのではないでしょうか。この映画の「駆ける」は、ある対象から逃れる「駆ける」ですね。さらに誕生日の7時までとタイムリミットが決められていますから、それがサスペンスとなっています。同様の効果で作られた作品は、最近でいうと、海外ドラマの『24』がありますね。あの作品も時間が決められており、時間内に事件を解決しなければならないという制約がサスペンスを生み出しています。

 サスペンスを盛り上げる機能を持つ「追いかけ」には、加えて、時間調節の役割もあります。ジョン・フォードの『捜索者』では、馬に乗ったジョン・ウェインが走って逃げるナタリー・ウッドを追いかけるシーンがありますが、なかなか追いつかないんですね。競馬をする人ならばわかるかと思いますが、馬は1kmを大体1分で走ることができます。馬と人が「追いかけ」をすれば、すぐ追いつくのは目に見えています。しかし、ジョン・ウェインナタリー・ウッドに追いつくのに、かなり時間がかかっています。つまり、「追いかけ」は「現実」ではありえないことを時間調節し、「自然」に見せる手法でもあるんですね。「不自然」なことがわたしたちの目の前で起こっているにもかかわらず、「自然」に見えてしまう。不思議ですね。

 バスター・キートンらの他に、ハリウッドには喜劇の帝王としてマック・セネットという映画監督・プロデューサーがいます。ジャン・ルノワールサルヴァドール・ダリマルセル・デュシャンアンドレ・ブルトン谷崎潤一郎ら同時代人からの尊敬を集めているだけでなく、フランソワ・トリュフォージャン=リュック・ゴダールフェデリコ・フェリーニジャッキー・チェンといった次世代の映画人からも慕われていたそうです。
 1958年に『ぼくの伯父さん』でアカデミー外国語映画賞を授与されたジャック・タチが、式典に参加するためアメリカに滞在していた際、当時人気絶頂で面白い映画をたくさん撮っていたジェリー・ルイスとお会いになりませんか? と誘われたそうです。しかし、タチはジェリー・ルイスではなくマック・セネットに会いたがったそうです。マック・セネットはそれを喜び、キートンハロルド・ロイド、スタン・ローレルを呼び集めてタチを歓迎したという素敵なエピソードがあります。コメディアンたちはセンスがいいですね。アメリカでは今でもベン・スティラーアダム・サンドラー等が面白いコメディ映画を監督したり、製作していますね。日本でも例えば北野武ダウンタウン松本人志ウッチャンナンチャン内村光良品川庄司品川祐といった芸人さん達が映画を撮っていますね。ちなみに、アダム・サンドラーの学生の頃からの友人でフランク・コラチという監督がいまして、『Mr.ズーキーパーの婚活動物園』や『闘魂先生 Mr.ネバーギブアップ』といったコメディ映画を撮っています。

 それでは、マック・セネットの映画、アカデミー賞を受賞したときのジャック・タチのスピーチ(チャーリー・チャップリンと並んでマック・セネットの名前が出てきます)、セネットとは関係ありませんが、ジャック・タチがイギリスのTV番組に出演した際に披露した「イギリスの警官とフランスの警官の違い」という動画が面白いので紹介します。

 

●『大人は判ってくれない』(フランソワ・トリュフォー,1959)

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 間に合うか間に合わないかも、タイムリミットも決められていない、ただ走る、「駆ける」映画を観ましょう。『大人は判ってくれない』です。監督のフランソワ・トリュフォーヌーヴェル・ヴァーグの中心的な人物として有名です。ヌーヴェル・ヴァーグ映画批評家から映画監督になった人たちです。ビック5と呼ばれている人たちには、トリュフォーの他、ジャン=リュック・ゴダールエリック・ロメールクロード・シャブロルジャック・リヴェットがいますね。『大人は判ってくれない』はトリュフォーの初長編です。少年が主人公なのですが、お母さんは浮気している、学校では先生に虐められサボるようになる、親からネグレクトされると散々です。終いに少年院に入れられてしまいます。そして、最後のシーンで、少年は少年院から脱走します。そのシーンを観ましょう。

 主人公の少年「ドワネル」役のジャン=ピエール・レオーは、前回の「登山の映画史」で紹介したリュック・ムレの『ビリー・ザ・キッドの冒険』に出演していました。私は行けなかったのですが、レオーは先日、「没後30年フランソワ・トリュフォー映画祭」が開催されたとき舞台挨拶のため初来日しました。

 「駆ける」映画を考えたとき、駆ける姿が美しいので、真っ先にこの映画が浮かびました。これは前二本との「駆ける」とは異なった印象を受けます。レオーがフレームアウトして、海の方へパンしてまたフレームインするのも印象的です。長い「時間」走っているように感じます。この少年がどこに向かって走っているのか、目的地はわかりません。いちおう「少年院」から逃げるというのは言えるのかもしれませんが、さらに波打ち際の足跡が残らない場所まで走ったので逃げ切ったのだと言えるのかもしれませんが、そういう具体的な人や対象から逃げるということよりも、なにか観念的なものに触れてるような感じがします。どこまで行けば逃げ切れるのか、逃げ切ったことになるのかわからない不安さ、不安定さが描かれています。似たようなものとして、例えば、日本の青春映画によく用いられる、夕日に向かって走ることで青春の焦燥感を表しているというイメージもありますね。
   最後にレオーがカメラ目線になりますね。このカットはこの映像が撮影されたものだと観客に知らせる役割も持っていますね。レオー本人と向き合っているのかそれとも役柄である「ドワネル」と向き合っているのか、少し混乱してしまいますね。生々しくもありどこか理知的でありますね。こういった部分に、批評から創作活動へと移行していった若きトリュフォーの姿を見てとることができるのかもしれませんね。

 

●『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』(スティーヴン・スピルバーグ,2002)

 ヌーヴェル・ヴァーグはアメリカ映画から大きな影響を受けていますが、逆にヌーヴェル・ヴァーグに影響を受けたアメリカ映画を観てみましょう。ヌーヴェル・ヴァーグに影響を受けたアメリカ映画監督はたくさんいます。スティーヴン・スピルバーグもその一人です。スピルバーグの監督作『未知との遭遇』にトリュフォーが俳優として出演していますね。そして、スピルバーグの世代は現場の叩き上げというよりも、大学の映画学科で学んで監督になった初めての世代でもありますね。

 スピルバーグの映画には「駆ける」が印象的なものが多いですが、今回は『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』から「駆ける」を観てみましょう。原作がフランク・W・アバグネイルJr.の自伝小説「世界をだました男」(1980年)で、「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」はオニごっこの「オニさん、こちら」くらいの意味のようです。デカプリオ演じる主人公は天才詐欺師です。パイロット、医師、弁護士(弁護士資格は実際に取りました)に成り済まします。1960年代には小切手詐欺を世界中でします。しかし、トム・ハンクス演じるFBI捜査官に捕まってしまいアメリカへ輸送されます。空港に着陸する間際父が亡くなったことをトム・ハンクスから告げられ、デカプリオは悲しみのあまりトイレに籠ってしまいます。着陸するから出てこいとトム・ハンクスが言ってもデカプリオはウンともスンともいわないんですね。不審に思った捜査官達がトイレのドアを体当たりで開けようとします。そのシーンから観ましょう。(シネマ・カフェでは下の映像の少し前から上映)


 この「駆ける」もこれまでの「駆ける」とは違った「駆ける」です。空港から母親の家まで走ったのでしょうか。抜粋して観てみると笑ってしまいますが、映画を一本通して観ると意外と気にならずに、スっと観れてしまうと思います。
 このシーンだけでもおかしなディテールを指摘しようとすれば、揚げ足を取ろうとすればいくらでもできると思います。「爪であのネジは外せないっしょ?」とか、詳しく知りませんが「飛行機の構造上、トイレから脱走するのなんてムリ!」とか疑問点はいくらでも挙げられます。でもそういったことはすべて無視していますね。スピルバーグの映画は「普通」とはすこし違います。スピルバーグの映画は一般的に娯楽作として受け入れられ世界中で観られているにもかかわらず、このように抜粋で一部分観ただけでも「おかしい」「普通でない」とわかりますね。

 例えばスピルバーグが監督した『宇宙戦争』のクライマックスでは、地球人がトライポッドを倒したわけではなく、H・G・ウェルズの原作や1953年にバイロンハスキンが監督した『宇宙戦争』もそうであったように、トライポッドが勝手に自滅します。主人公のトム・クルーズが倒したわけではありません。しかもトム・クルーズはこの映画において、専門知識を持った学者でも捜査官でなく、ただの一般人です。離婚した二児の父親というブルーカラーに過ぎません。そのトム・クルーズが奔走する舞台はニューヨークといった大都市でなく現代のニュージャージー州の小都市なのですから、超人が出てきて活躍する「ヒーローもの」のイメージとはかなり異なっていることが、設定だけ見てもなんとなくわかりますね。このような設定でスピルバーグはどのようにスペクタルを描いたのか。また、どうやって観客の期待を越えようとしたのか。とても面白い映画ですので是非ご覧になってください。
 話を『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』に戻します。この映画は「駆ける」ことによって時間と場所をすっ飛ばして人を移動させています。現実にあり得ないことを映画でしていますね。こういうことをしている映画監督は、馬鹿の一つ覚えのように名前を連呼しているように思われるかもしれませんが、ジョン・フォード監督がいます。フォードは古典的で王道な映画監督と思われていますが、映画の中で時間や空間を違和感を感じさせずに変えています。『ドノバン珊瑚礁』では家を動かしています。「不動産」を動かしています。『リバティ・バランスを射った男』では、建物の構造や建物の配置をシーンによって変化させています。さらに『わが谷は緑なりき』では、アメリカへ行く兄弟とオーストラリアへ行く兄弟を別々の方向へ歩かせているんですね。こんな小さな炭坑町に、鉄道なのか馬車なのかわかりませんが駅が二つあるとは思えません。かといって、ウェールズからアメリカやオーストラリアへ歩いて、そのまま直進していくことはないでしょう。でも「かたち」はそのようになっています。不思議ですね。一体何故そのような表現にしているのでしょうか。
 おそらくなのですが、フォードが映画内においてリアリティよりも優先しているものがあるのではないでしょうか。それは「感情の方向性」と呼ぶことができるものだと思います。例えば演奏家が同じ「ド」の音でも曲の全体を考えて「音色」を変化させるように、映画作家も同様に多様なニュアンスを表現するためにシーンごとに建物の位置関係を変化させて、人物の動作の方向性を変えているのです。音楽家が「音色」を大切にしているように、映画作家は「感情の方向性」をリアリティよりも大切にしているのかもしれませんね。

 『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』の場合では、「駆ける」ことがより重要であって、空港からの脱出方法や母親の家までどう行ったかというリアリティは二の次になっています。そのような撮り方をしています。でも同時に、空間をすっ飛ばして人を走らせたり家を動かしたり、そんなありえないことをしているのになぜ「自然」に見えてしまうのでしょうか。不思議ですね。映画監督によって映画に「魔法」がかけられているかのようです。それとも、人間の想像力の賜物なのでしょうか。それとも、「映画」というメディアがヘンなのでしょうか。興味は尽きません。

 ちなみに、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』のタイトルバックはとてもお洒落です。

 これはアメリカのグラフィック・デザイナーのソール・バスに影響を受けていると思われます。ソール・バスはオットー・プレミンジャーアルフレッド・ヒッチコックの作品でタイトルバックを担当しています。とても印象的なのでどこかでご覧になったことがあると思います。ソール・バスは日本企業のデザインも多く手がけており、有名なものに京王百貨店の包装紙に使われている鳩のデザインがあります。女性の方ならばコーセーの企業ロゴが、健康に気を使われる方ならば紀文の企業ロゴがピンとくるのではないかと思います。
 では、ソール・バスが手がけた映画のタイトルバックを紹介します。まずは、アルフレッド・ヒッチコックの『北北西に進路を取れ』です。最後にヒッチコックが出演していますね。

 次に、オットー・プレミンジャー『黄金の腕』です。

 最後に、ソール・バスの有名なタイトルバックを集めた動画です。プレミンジャーからスコセッシまで観ることができます。『悲しみよこんにちは』、『めまい』、『カジノ』等があります。

 

 

●『青い青い海』(ボリス・バルネット,1935)

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 これまでアメリカ映画とフランス映画を観てきましたが、それ以外の国にも映画はあります。旧ソ連の映画監督ボリス・バルネットの『青い青い海』を観てみましょう。日本ではボリス・バルネットという監督はあまり知られていませんが、トリュフォーゴダールやリヴェットらが熱狂した監督ですし、蓮實重彦氏はバルネットを「映画の『貴公子』」と断定し「世界で走行中の馬のとれる監督はフォードとバルネットしかいない」と言っているくらいですので、皆様には是非名前を覚えていただきたい監督です。経歴も非常にユニークでして、1902年に印刷工の息子としてモスクワに産まれるんです。初めは建築家だったのですが、ロシア革命の最中に看護兵として赤軍に参加、その後アマチュアボクサーとして活躍します。ボクサーとして有名になり、ボクシングの教師としてメイエルホリドの劇団と並ぶ実験劇団であるマストフォル(クオレッゲル工房)などに招かれるんですね。この劇団にのちに『戦艦ボチョムキン』を撮ることになるエイゼンシュテインも出入りしていたというから驚きですね。いかに才能が集結していたかがわかりますね。そこでボクシングを見に来たレフ・クレショフがバルネットを俳優としてスカウトして、彼の映画業界でのキャリアがスタートします。サッカーで例えるなら、メッシがネイマールをスカウトするようなものでしょうか。それはともかく、バルネットはプドフキン、ドヴジェンコらとともに映画の息吹に立ち会った第一世代だと思います。ヒョードル・オツェップ監督との共同作品で『ミスメンド』(1926)で監督デビュー。『国境の町』(1933)が認められてソヴィエトを代表する監督の一人となります。『ゆたかな夏』(1950)や『アリョンカ』(1962)といった傑作を撮っていますが、晩年は不遇だったようで1965年に残念ながら自殺してしまいます。

 バルネットは、“言葉と音”について沢山の実験をしていますが、彼の映画はむつかしい「前衛映画」ではなく、ゴダールが「バルネットの映画をむくれた顔で観るには非情な心を持っていなければならない」と言うように、優れたコメディを数多く撮った監督です。

  

 冒頭から観ていきました。青い海と鳥、太陽と特に珍しいものが写っている訳ではないですが、とても生々しいですね。ドキュメンタリー映画の始祖ロバート・フラハティ監督の『アラン』を思わせる波ですね。


 ちなみに、フラハティの他の作品としては、イヌイット族を撮った『極北の怪異(ナヌーク)』、F・W・ムルナウと共同監督した『タブウ』という素晴らしい映画があります。

Nanuk z Północy. Nanook Of The North - YouTube

Tabu (1931) F. W. Murnau - Completo e Legendado - A Story of the South Seas - YouTube

 さて、『青い青い海』における「駆ける」ですが、どのシーンについて言いたかったというと、女性(エレーナ・クジミナ)が唄っていたシーンです。今回の準備のために見直したら全然走ってなくてズッコケたんですが、躍動感があるシーンです。この唄の前後で登場人物の関係性が驚くほど変わっています。物語が進む、加速する。物語が「駆ける」シーンですね。最初に参加者の方々に「駆ける」についてご意見をいただきましたが、その中で「駆ける」で思い出すのは吹奏楽の演奏で、ピッチが速い時そのことを「走る」といって、その印象があるとお話ししていただきました。この映画もそういった多義の「駆ける」シーンですね。
 とはいえ、我ながらたいへん苦しい説明でした。私は女性が歩きながら歌を歌っているシーンが大好きなんですね。こんな素敵な女性とお付き合いしてみたいというあこがれや妄想が、ついつい「走っていた」という間違った記憶に結びついてしまっただけのような気もします。 

 

●『勇者の赤いバッヂ』(ジョン・ヒューストン,1951)

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 私の暗い欲望にお付き合い頂いているうちに時間が押してしまったため、今回は上映できなくなってしまったのですが、皆さんに是非観ていただきたい「駆ける」映画があります。それは『勇者の赤いバッヂ』です。この映画はアメリカ南北戦争の戦場を舞台とした映画で、1895年に書かれたスティーヴン・クレインの小説『赤い武功賞』が原作です。実戦経験の無い主人公の若者が、志願兵として戦争に参加し試練を乗り越えていきます。ジョン・ヒューストンは、『勇者の赤いバッヂ』が封切られる前に『アフリカの女王』の撮影のためアフリカへ発ったそうで、その隙に映画が再編集されてしまい上映時間が69分と短くなってしまった、オリジナル・ヴァージョンの方が良かったと語っています。しかし、スピルバーグが『宇宙戦争』を撮る際に参考にしているのではないかと勘ぐりたくなるような傑作です。「駆ける」ことが逃げることではなく、困難へと向かっていく表現になっています。


 煙の中を走っていく姿が印象的ですね。これだけ銃弾が降り注ぐ中で、旗を持っていて目立つはずの主人公は撃たれる様子がありませんね。鼓舞する主人公と淡々と歩を進める兵士達の対比が印象的ですね。
 この69分という上映時間の中で、象徴的な「駆ける」シーンは2回あります。動画が無かったのでお見せすることができないのですが、このラストシーンと、もう一つが中盤で主人公が敵前逃亡するシーンです。少し前から説明しますと、戦場に行くぞ行くぞと言いながら訓練ばかりやっており、本当に戦場に行くのかなとだんだんと気が緩んでくる。どうやら戦場に行くことになるらしいと噂が流れるが、あまりにも気配がないので嘘ではないかと隊員同士で喧嘩になる。そこへ伝令がやってきて戦場へ行くことになる。いよいよ戦場が間近になります。主人公は友達や周囲の人々に対して「お前は乱戦になったら逃走するのではないか」と揶揄っていますが、主人公の顔が憂鬱を帯びていくのが見て取れます。戦場に着くと主人公達は、丘からの南軍の突撃に備え、一列に並んで銃を構えて待ちます。すると、丘の向こうから南軍が突撃してきます。主人公は逃げ出したい気持ちを我慢して南軍を迎え撃ちます。前線にいる味方が散り散りに退散してきます。混乱の最中、丘の方を映す実景カットが挟まれますが、誰の視線かよくわからないカットです。主人公の視線とも言い難い、「意味が限りなく開かれた」印象的なカットです。なんとか南軍の突撃を退け、主人公がホッとして空を見上げると、大きな木から木漏れ日が綺麗に見えます。突撃の恐怖を乗り越え理想の自分になれたと安心します。が、陣形を立て直した南軍が二回目の突撃をしてきます。今度は主人公のすぐそばまで敵が来るんですね。怖くなった主人公は逃げ出してしまいます。移動撮影によって撮られた脱走シーンは圧巻です。その後どのようにして主人公は軍隊に戻り、先ほど紹介した「駆ける」に至ったのか。是非ご覧になって下さい。

 

●『彼らはフェリーに間に合った』(カール・テオドア・ドライヤー,1948)

 人は足だけで走るわけではありませんね。車や自転車でも走りますね。最後に、バイクで駆けるシーンを観てましょう。街でバイクに乗る方を見掛けるとかっこいいなと思うのですが、私は免許を持っていないのでいつも羨ましく思います。
 この映画は、ドライヤーが1948年に撮った交通安全のPR映画です。ひたすらバイクで駆ける映画でかっこいい、とても好きな短編です。


 バイクの音がかっこいいですね。真空管アンプで聴くと余計かっこいいですね。しかし、事故を起こすところから雰囲気ががらりと変わりましたね。途端に恐怖映画のようになってしまいますね。サイレント映画のように鐘が鳴らされ、映画の調子が変わります。フェリーが出港し、フェリーの影と波紋からオーヴァーラップされ、死神のような船頭が二つの棺を運んでいきます。あれは二人の棺なのでしょうか。事故が起きた日と同一の日なのでしょうか。ということは、船頭は二人が亡くなるのを予期していたのでしょうか。影や雲も不気味ですね。高く高く飛ぶカモメも印象的です。バカンスのために訪れたこの島自体がこの世のものではないようにも見えてきます。事故が起きるまではバイクのPR映画のように気持ち良さそうに走っていたのに、あっという間に映画の雰囲気が変わり交通安全のPR映画になってしまいましたね。
 このような不気味な印象を受ける理由の一つに、ドライヤーが撮った『吸血鬼』という映画もそうですが、視点が変化することがあるのかもしれません。最初の方の前輪を俯瞰で撮るカットや、車を追い越すため迂回しようとするのを捉えたカットは、誰の目線かよくわかりませんね。Y字路で道を間違えたとき、バイクが戻ってきたのに合わせてカメラも途中から動き出していましたね。あのカットも誰の視線かよくわからないですよね。これらの場合において、映像が指し示すであろう意味をはっきりと断定することはできません。「未確定」なんですね。この「未確定性」というのは、『彼らはフェリーに間に合った』だけでなく、あらゆる映画表現にあると言えると思います。むしろ映像表現というものはもともと未確定なものだと言えるのかも知れません。ただ映像表現が未確定であるが故に、「意味が限りなく開かれている」(先ほども使用したこの言葉は小津安二郎監督作品について吉田喜重監督が『小津安二郎の反映画』という著作の中で用いた言葉です)と言えるのではないでしょうか。だからこそ、いろいろな意味を考えることができるので、この『彼らはフェリーに間に合った』は恐ろしさが際立っているのではないでしょうか。

 こういった、絶えず観客の想像力を刺激し喚起させる「画面の喚起力」の強さからなのか、ドライヤーを史上最高の映画監督と評している人もいます。例えば、ジャン=マリー・ストローブは、ドライヤーを「史上最高」とは謳っていませんが、「最終的にドライヤーがカラー作品を撮ることができなかったこと(彼は20年以上もカラー作品を撮ろうと考えていたのだ)やキリストについての作品を撮れなかったという事実(国家や反ユダヤ主義の起源に対する崇高な反抗)は、我々がカエルの屁ほども価値がない社会に生きているのだということを思い知らせる。」と言っています。カエルの屁ほどもという表現が可笑しいですが、それくらいドライヤーの作品が素晴らしいということですね。

 他の、バイクで『駆ける』のが印象的な映画に、レオス・カラックスの『ポーラX』があります。フェリーも出てくるこの映画では、涙を流しながらバイクで爆走するカトリーヌ・ドヌーヴが印象的です。彼女が事故を起こしてしまうかどうか是非ご覧になって確かめてください。

 最後になりますが、『青い青い海』でご紹介したボリス・バルネットが監督した『リャナ』にもバイクシーンがあります。女の子3人が三輪バイクに乗って走る、楽しいシーンがありますので、ご覧になってください。なお、この映画のラストシーンにも素晴らしい『駆ける』があります。

以上で、シネマ・カフェ第6回「駆ける」を終えたいと思います。これから映画をご覧になるときには、これまで以上に「駆ける」ことのニュアンスに触れ、楽しんで下さればと思います。

本日はありがとうございました。
(シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った)

 

 

●おまけ

・『キートンのセブンチャンス』が好評だったので、オススメをご紹介します。

・フランスのサイレント映画の喜劇王マックス・ランデーが出演している作品。マック・セネットの名前の由来となったという説があります。


・『カジノ・ロワイヤル』のタイトルバック。これもソール・バスの影響を受けていると思います。



【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.7「本のある場所」

テーマ『本のある場所』

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ジャン・ルノワールハワード・ホークスジャック・ドゥミフランソワ・トリュフォージャック・リヴェットエリック・ロメールジャン=リュック・ゴダールヴィム・ヴェンダースホウ・シャオシェン...その他多くの映画監督が書店、図書館など「本がある場所」を舞台として選んでいます。

「読書」という個人的な体験に用いられる「本」。

その「本のある場所」は、映画の中でどのように描かれてきた場所なのでしょうか?

出会いの場であったり交流の場であったり、隠れ家であったり。

「本のある場所」が出てくる映画の抜粋を観ながら考えてみましょう。

ファシリテーター:映画☆おにいさん(内山丈史)

時間:12月27日19:00~

場所:水曜文庫

料金:500円

予約・問い合わせ:水曜文庫 suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp

『断層紀』上映会@カフェ・うーるー

 11月17日、静岡県三島市源兵衛川沿いの時間がゆったりと流れ、通常のカフェ営業の他イベントも行っている、文化的にも非常に大らかな雰囲気のカフェ・うーるーさんにて、映画『断層紀』の上映会が行われた。

 上映会当日、三島駅に到着し、主催者である「にわ企画」のKさんと『断層紀』を監督された波田野さんと合流する。簡単な挨拶をすまし、三島駅からすぐ近くの楽寿園へ行ってみる。読書会で三島を訪れたときに何回か楽寿園の前を通っていたのだが、入るのは初めて。予想以上に動物園が充実しており、カピバラレッサーパンダ、アルパカ等もいてテンションが上がる。菊の展示もしていて綺麗だった。さらに進むと溶岩むき出しの枯山水の池がある。池の近くまで行くと、自分がいまどこにいるのかわからなくなるような感覚に陥る。楽寿園を出て歩いた源兵衛川沿いの道は、水がとてもきれいで気持ち良い。地図で確認したときは上映会場のカフェ・うーるーまですこし距離があると思っていたが、実際に歩いてみるとあっという間だった。袋井の宇刈川や原野谷川も堤防沿いを歩くと気持がいいが、源兵衛川の散歩道は川の中の飛び石を渡ることができて楽しい。今後、カフェ・うーるーさんにお邪魔するときは、少し遠回りになるけれど源兵衛川沿いの道を歩いていこう。上映会場に着き、待ち時間にごちそうになったコーヒーも美味しかった。

以下は、その日の写真とトーク前に準備しておいたメモ。

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楽寿園のアルパカ

 

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楽寿園

 

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(看板

 

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(カフェ・うーるー 入り口

 

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(トーク風景

 

(『断層紀』

 映画は懐中電灯で照らされた地層から始まる。濡れて白く光る断面は美しい。この映画の監督「ハタノ」が祖父の放浪癖についてナレーションで語る。祖父の放浪癖は自身にも受け継がれたという。祖父が残した遺鉱石に魅せられて、祖父の故郷秋田県大館市へ向かう。その道中を撮った監督「ハタノ」の映像と、東京へ思いを馳せながら地元大館市で暮らす「ユキ」が撮った映像とが交互に流れ物語が進む。「ハタノ」は大館の歴史を調べつつ自問自答しながら、自らを律するように構図が決まった白黒のカットを重ねるのに対し、中学生の「ユキ」は小型のデジタルカメラを使い、もちろんカラーの映像で、素直に見たいものへカメラを向け、自由にズームをする。

 この映画が「自分探しのために東京から祖父のルーツとなる土地を訪ね、一方田舎に住む中学生は監督とのやり取りから東京へのあこがれを強くしていく」といった紋切り型の、狭い世界をかろうじて逃れているのは、一見ドキュメンタリー風にその土地のショッキングな問題を扱う素振りを見せながら、徹底されたフィクショナルな語りの構造を取っていることにある。ほぼ全編で流れるナレーション自体が大いに演出されたものであることがすぐに分かるし、画と音声が別のものであるにもかかわらず”自然”に見えるように入念に画面は繋がれている。例えば、「ハタノ」は祭りを撮影しながら、カメラを向ける暴力性に悩む。例えば、「ユキ」自身の声によって、祖母が迎えにくることで自分の大人の時間が終わってしまうとナレーションされるとき、画面は公園の噴水で無邪気に遊ぶ「ユキ」を捉える。また、同年代とは話が合わないと悩みを打ち明けるナレーションが流れるときには、「ユキ」はスイカ割り(実際は、作り物のスイカの中にお菓子が入っている)を楽しむ同年代の子どもたちから、やや距離を取りカメラを向けている。こうして、語りと画面が互いに反射しながら、「ハタノ」と「ユキ」も互いに影響しあいつつ、自身の核を模索していく。

このように述べると、地域に滞在して取られた映画にありがちな「中央と地方の二項対立」の図式の映画と思われるかもしれないが、この作品をその図式に収めさせないのは産まれてからずっと大館に住んでいるシシ踊りの名人「篠村三之丞」の存在である。それまでほぼ全編手持ちによって撮られていたが、この「篠村三之丞」が話す場面は始終カメラは固定されている。方言が強いので精確に聴き取るのは難しいが、話し振りが魅力的で画面に見入ってしまう。彼が幼い頃を語るのを通して、私たちは大館の歴史を彼の言葉以上に感じている。そのとき、「映画」が東京と大館という平面の繋がりだけでなく、縦の時間軸を感じ、より立体的となって私たちの前に現れるのである。

そして、この映画にはとびきり美しいカットが二つある。一つは「ユキ」が撮った映像で、「ユキ」が物語る最初のカットである。雨の日に父のトラックの助手席から撮られ、降りつける雨とそれをかきわけるワイパー、フロントガラスから見える大館の風景がリズムを生み、とても抒情的に撮られている。先が見えない不安がそのまま画面に表れている希有なカットだ。もう一つは、それまで手持ちカメラによって肉体性を感じさせ、抑制が効いたナレーションを響かせていたが、一向に画面に姿を現さなかった「ハタノ」が映画に出現するエンドロールのカットである。このカットは車から撮られており右から左に流れる風景を撮っているのだが、エンドロール途中から車はスピードを上げる。風景は流れていき、横に長い線となる。このとき、地層を眺めていた「ハタノ」の主観ショットから始まったこの映画が、再び「ハタノ」の主観ショットで終わるのだと観客は理解する。つまり、地層を眺めていた「ハタノ」がこの映画の終わりにおいて自身も地層となってしまうのである。「断層紀」という題名に相応しくあろうと、祖父の故郷を訪れその土地の歴史・文化を追いかけるうち、その映像として記録され、堆積されることを望んでいるようにみえる。そして、この映画が未来において語られるとき、断層のように異なった文脈で、食い違いを産む映像として語られることを拒まず、むしろ、それを夢見ようとするかのように暗転することでこの映画は終わりを告げる。『断層紀』は郷愁といったセンチメンタルとは遠く離れた、未来に懸ける映画なのである。

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.6「駆ける」

わたしたちは日頃移動します。
たとえば、映画を観るために映画館へ。
たとえば、仕事をするために職場へ。
たとえば、一日の終わりに喫茶店へ。
 
わたしたちは、起きてから寝るまで
常に移動しつづけていると言えるでしょう。
 
もっと言えば、寝ているときでさえ、
夢の中で移動しつづけていると言えるかもしれません。
 
その移動手段は、走ったり、歩いたり、馬車だったり、飛行機であったり
実にさまざまです。
 
その中で、今回は「駆ける」ことに着目して
映画史を見渡してみましょう。
 
人間の基本所作ですが、
ふだん、人はなかなか走りません。
人が「駆ける」とき、
そこには何かしらの衝動があるはずです。
その衝動は、映画の中で、
どのように描かれているのでしょうか?
 
映画の抜粋を見比べながら考えてみましょう。
 
・テーマに沿った映画の抜粋を観て、
 参加者同士が感想を話し合います。
・映像はファシリテーターが用意します。

◆日時
12月20日(土) 19:30〜21:00(途中退席可)
 
◆料金
500円+1drink

◆予約受付
予約優先。当日参加可。
問い合わせ先に、イベント名、お名前、連絡先をお送りください。

ファシリテーター
内山丈史 a.k.a 映画☆おにいさん

◆会場
カフェ・うーるー http://ooloo.lolipotouch.com/access/ 
〒411-0847 静岡県三島市南本町13-30 
 ※JR三島駅より徒歩 30分

◆駐車場
カフェ・うーるーの駐車場は1台です。なるべく公共機関を利用してお越し下さい。

◆近辺の駐車場
①近くのコロナのカメラ様 http://www.d-corona.com/sup_corpprofile.html
②シンコウパーク様 カフェ・うーるーまで源兵衛川沿い徒歩15分
 http://www.shinkopark.com/access.html
◆問い合わせ
(迷惑メール防止のため、@を★としています。★を@にして送信ください)