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ゴー!ゴー!アタラント号!! 映画☆おにいさんのBlog

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.17「拾う」

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テーマ:拾う


落ちているものを拾う。


映画において、この単純な行為は、

思ってもみなかった事件を引き起こしたり、

登場人物らの関係性をがらっと

変えてしまうことがあります。


それは、拾う本人の意思と関係ありません。

それどころか拾ったことを意識していない場合さえあります。


拾うことを通して全体を覆う、

本来あるべきはずの場所へと

戻そうとする欲望、またはその否定、不在は、

画面にどのように表現されているのでしょうか?

映画を一緒に観ながら考えましょう。


時間:6月18日(土)18:00~(いつもより30分早い開始です)
場所:水曜文庫
   〒420-0839
   静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F
参加費:800円
予約・問い合わせ:水曜文庫(054-689-4455、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.16「橋」

本日はお集まりいただきありがとうございます。

今回は、人間のしぐさではなく、「橋」がテーマです。

 最初に、「橋」が出てくる映画で思い出すものや橋そのものに関するイメージを参加者の方々に伺いました。レオス・カラックス監督『ポンヌフの恋人』、先日逝去されたジャック・リヴェット監督『北の橋』、クリント・イーストウッド監督の『マディソン群の橋』が複数の方から挙げられました。その他に映画でよく見る橋として、ブルックリン地区とマンハッタン島を結びスティール製のワイヤーを使った世界初の吊り橋であるブルックリン橋、マザーグースの童謡でも有名なロンドン橋がありました。「橋」のイメージは、「出会い」や「別れ」の場、その中で橋を渡るか渡らないかがサスペンスとなっている作品もあるのではという意見がありました。

では具体的に作品を見ていきながら考えていきましょう。

・ブルックリン橋

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・ロンドン橋(13世紀〜18世紀)

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・ロンドン橋 落ちた

 

●『明治俠客伝 三代目襲名』(加藤泰、日本、1965)

 日本映画の中で、「橋」を印象的に撮る監督と言えば、加藤泰監督です。まずは、先ほど参加者の方が挙げておられました『明治俠客伝 三代目襲名』をご覧いただきたく思います。
 加藤泰監督は、叔父の山中貞雄監督を頼って映画界に入ります。戦中は文化映画を作り、戦後は伊藤大輔監督の下で『王将』などの助監督を務めましたが、レッドパージ大映を追われてしまい宝プロで劇映画を撮り始めます。その後、新東宝から東映に移り、時代劇や任侠ものを数多く監督しました。代表作に『瞼の母』『緋牡丹博徒 花札勝負』『皆殺しの霊歌』『男の顔は履歴書』『炎のごとく』等があります。
 『明治俠客伝 三代目襲名』は、浜松出身である鶴田浩二さん、寺島しのぶさんのお母様の藤純子さん(現在は「富士純子(ふじすみこ)」)が出演しております。

 鶴田浩二演じる木屋辰の菊池浅次郎は、親分の息子を探して街のあちこちを探し、遊郭へ寄ります。遊郭では、藤純子演じる初栄が父親が死に目に会いたいので実家へ帰りたいと訴えています。しかし、唐沢組長の唐沢の予約が今夜入っているため帰ってはならないとお内儀に諭されています。かわいそうに思った菊池はその場で金を払い、田舎に帰らせてやります。
 その後、藤山寛美演じる渡世人の石井仙吉が木屋辰を訪ねる場面からご覧いただきましょう。
 

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 この映画は、製作上の都合によりたった18日間で撮られたそうです。加藤監督は、倉田準二監督にB班を任せて、18日を45日くらいに使って撮影したと語っています。
 ご覧いただいた舞台は、精確には橋ではありません。すぐむこうに橋が架かっていますので橋のふもとでしょうか。
 岡山から帰ってきた初栄が庭の桃を捥いできたといいます。初栄が取出した何にも包まれず素のままに手渡される桃は、藤純子の手のうえで、夕焼け空の赤さにも染まらず無垢な白さを際立たせています。
 距離を隔てた岸を繋ぐ「橋」は、この場面では、離れた二つの点を繋いでいます。出会ったばかりで、まだ相手のことをよく知らない二人の間にあった距離が、桃が手渡されることで急速に縮まっていきます。二人の気持が通じ合うことがわかるシーンです。
 眼に見えない通じ合う「気持ち」は「かたち」として映像に表される必要があります。具体的なものしかカメラは映すことができず、抽象的な「気持ち」はカメラに映らないからです。そのため、父の死に目に会うために帰った際、捥いだ桃が手渡されます。情けを掛けてくれた人へ、故郷に帰ることができた御礼として手渡しているだけではありません。このとき桃は、概念的でもなければ無口でもない初栄の「気持ち」を語っています。表現力を持った「物」として、観客がまるで「自分自身の体験」のように思い出すことのできる経験を思わせてくれる、「思考のあらわれ」となっている「物」です。

 そして同時に、画面の奥に橋が二つ存在しています。参加者の方の指摘にありましたが、この場面の画面の構図は、浮世絵を思わせます。それは、この「橋」が超越論的なものだからではないでしょうか。
 加藤泰監督は大阪にある蛸の松あたりの橋がモデルと仰っていますが、あくまでもセットであり、実在の風景をそのまま再現したのではありません。この作られた風景は、現実の風景とは少々異なった歪な印象を受けます。
 なぜ「リアル」な風景ではなくヘンテコな風景な風景にわざわざしたのでしょうか? それは、このシーンにおいて加藤監督が「風景」としての「リアリティ」を持った場ではなく、むしろ先験的な、形而上学的な「橋」を背後に備えることを求めていたからではないでしょうか。ゆえに、ある種近代的な、空間を等質的に捉える西欧の遠近法から受けるものとは異なった印象が、この画面から想起されるのではないでしょうか。
 先ほどの「気持ち」を表すための「かたち」とはまたすこし異なり、伝えたい印象、感覚を伝達するために、「リアリティ」よりも知覚における精確さを優先させた「橋」が用いられたセットなのではないでしょうか。
 どうすれば「物語」をよりよく「表す」ことができるか? 加藤監督の情熱が迸る場面でした。

 

●『車夫遊侠伝 喧嘩辰』(加藤泰、日本、1964)

 加藤泰監督の作品からもう一本、「橋」の違った一面を感じて頂ける映画をご覧いただきたく思います。『三代目襲名』の前年に撮られた『車夫遊侠伝 喧嘩辰』です。
 今回ご覧いただく箇所には出てきませんが、先ほど出演していた藤純子さんが加藤泰監督の映画に初出演した作品でもあります。
 また、サブちゃんこと北島三郎さんが主題歌を歌い、売り子役として出演しております。

 内田良平演じる流れ者の車夫中井辰吾郎は、梅田駅前で商売を始めようと車を組み立て始めます。すると、地元の車屋がよそ者に商売をさせまいと因縁を付けられる場面からご覧いただきましょう。

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 車夫が川へ女を投げ、親分に詰問されていたはずが結婚を申し込むという怒濤の展開でした。
 桜町博子さん演じる喜美奴がとても可愛らしいです。川に投げられるシーンは腰にロープを縛り宙づりになって撮影したそうです。しかし、何テイクもやるうちにだんだんロープが緩んできたそうで、桜町さんはのちに「死ぬかと思った」と語っています。

 車に乗ったら人だろうとなんだろうと荷物とみなす。荷物は口をきかない。だからお前さんは喋っちゃいけない。それでも喋る奴は川に投げ込むんだという無茶苦茶な動機で、辰は喜美奴を川へと放り投げてしまいます。

 その場所が橋でした。岸と岸を結ぶ橋は本来ならば通ることができない水平方向への移動を可能としますが、垂直方向へも同様に移動を可能とします。橋の上と下、道と川面に「高さ」が生まれるからです。

 この場面で、橋の高さがわかるカットは一つだけです。そのカットがあるのは橋から落ちたあとです。つまり、「高さ」は落下後に明らかになり、逆に言えば、落下するまで「高さ」が隠されているともいえます。さらに、落ちる喜美奴のカットが二度あります。
 親分が旅館から喜美奴が投げられたと縁側で騒ぐカットから、落ちる喜美奴へと繋がり(1回目)、橋と川を横から捉えたカットへ至るまで宙に舞っている時間は、その後の橋を横から捉えたカットで明らかにされる高さから考えると、落ちる時間が長過ぎます。それに加えて、辰が落ちる喜美奴を回想し(2回目)、落ちる喜美奴が強調されます。
 これはお荷物様の看板の意味を何度も説明して観客に「物語」を分かりやすく伝えるための反復とは異なります。
 橋から落ちる喜美奴の時間は延長され、二重化されることで、喜美奴が落ちる様子というよりもむしろ「落ちること」自体が被写体となっています。加藤監督は「落ちること」を執拗に描くことで、剛直で一本気な漢が恋に落ちたときの「気持ち」を、恋に落ちたときにだれでも感じるあの奇妙な浮遊感を表現したかったのではないでしょうか。
 また、「喜美奴をなぜ川へ放り投げた?」「商売をしたかったら身内になれ」と詰問されていたはずが、いつの間にか二人の結婚へと至る次の長い長いワンカットは、ローポジションという技術的なことよりも、むしろワンカットの中で「気持ち」の揺れ動きをつかまえるんだという気概が小津監督を、そして「コロス」や「倒れる」で紹介したジョン・フォード監督を思わせます。

 建造物としての橋の高さと本来繋がるはずのないものを結ぶ性質によって、橋は二人の「気持ち」を決定的に変容させる舞台となっていました。

 

●『洲崎パラダイス 赤信号』(川島雄三、日本、1956)

 橋は、岸と岸を結んだり、高さを生み出す装置としてだけあるのではありません。宙づりの空間として、サスペンスの舞台ともなります。そうした橋が出てくる映画『洲崎パラダイス 赤信号』をご覧いただきます。
 川島雄三監督は松竹でキャリアをスタートし、1954年に日活に移ります。『愛のお荷物』『風船』等を監督したあと、1957年に東宝系の東京映画へ。東京映画の傍ら大映でも監督していました。
 川島監督は戦時下織田作之助と意気投合し、日本軽佻派を名乗っていたそうです。井伏鱒二のファンでもあり、井伏が訳した于武陵の『勧酒』の一節「ハナニアラシノタトヘモアルゾ/「サヨナラ」ダケガ人生ダ」を好み、自身の映画にも用いていました。川島監督というと『太陽幕末伝』が最も有名ですが、監督ご本人はこの『州崎パラダイス 赤信号』が最も好きだと語っておられます。
 『洲崎パラダイス 赤信号』は芝木好子さんの『洲崎パラダイス』が原作です。舞台は戦後、売春禁止法成立間近の赤線地帯洲崎です。栃木から上京してきた三橋達也演じる義治と新珠三千代演じる蔦枝は宛てもなく東京を彷徨っていましたが、洲崎遊郭へと続く橋の手前にある呑み屋で蔦枝が仕事を見つけます。そこの女将の紹介で、義治もそば屋の出前で働くことになりました。ところが、蔦枝は呑み屋の上客である落合に付いて出て行ってしまいます。二人を捜そうと義治は神田を歩き回りますが、見つかりません。疲れて呑み屋に戻ってくると、女を作り出て行った女将の旦那が帰ってきていました。やはり自分には堅気な生活が良かろうと義治はそば屋の出前をまじめに取り組むようになり、懇意にしてくれる芦川いづみ演じるそば屋の娘と仲良くなります。そのような中、蔦枝が呑み屋へ顔を出す場面からご覧いただきます。

 

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 映画の最後までご覧いただきました。
 印象的な橋が二場面ありました。新珠さんと芦川さんがそれぞれ塞いで川面を眺めているカットです。その場所が橋となっていました。
 この映画では、橋は境界線として描かれていました。こちら側から渡りきったら赤線地帯であり異世界です。あちら側へ渡ってしまったら容易には戻って来れない、不可逆的な変容が起こってしまうであろう場所として描かれています。
 新珠三千代さん演じる蔦枝の場合では、意を決してむこう側へと歩き出してしまいますが、知り合いの男とすれ違うことで引き返してきます。この若い男は田舎から連れられてきた若い娼婦をかわいそうに思い、貯金を切り崩して他に客を取らせないように囲っていました。が、その娼婦がいなくなってしまい探しに戻ってきたところだったのです。けっきょく、その娘は見つからず連れ出すことはできなかったのですが、かわりに蔦枝とすれ違い、一人の女性が橋を渡ってしまうことを食い止めました。助けようとしていたような無垢な女性ではなく、「あの子のかわりに遊んでやろうか」と誘ってきさえもする女性でしたが、救ったことにちがいありません。そして純朴な男は、探していた女性が見つからない腹立ちとあまつさえ自分を誘ってくることに憤りを感じ、蔦枝に平手撃ちをくらわせます。蔦枝は叩かれた頬をさすりながら、男を見遣ります。こうした宙づりの空間として橋は位置し、登場人物を支えています。

 芦川いづみさん演じる玉子の場合では、好意を持っていた義治が結局蔦枝とヨリを戻してどこかへ行ってしまい、ひとりでぼんやりと川面を見つめていました。そば屋に訪ねてきた蔦枝にも親切な対応をしていたこの娘は、ひょっとしたら自分の気持ちに気付いていなかったのかもしれません。同じような姿勢で川面を見遣る蔦枝を観ていたわたしたちは、同じポーズの蔦枝が娼婦に戻ろうとしていたことを知っているため、堅気の娘がこの失恋をきっかけにどうかなってしまうのではと不安に襲われます。ここでも橋は宙づりの空間として登場人物の不安定さを増す舞台として機能していました。

●『見えざる敵』(D・W・グリフィス、アメリカ、1912)

 桁橋、トラス橋、アーチ橋、斜張橋、吊り橋など沢山の種類の構造を持った橋がありますが、今度はくるくる回る可動橋「旋回橋」が出てくる映画をご覧いただきます。橋が回ることで物語へ具体的に影響を及ぼします。
 二本目にご覧いただいた『車夫遊侠伝 喧嘩辰』では印象的な銃口が出てきていましたが、これからご覧いただくグリフィス監督の『見えざる敵』へも強烈な銃口が出てきます。
 グリフィス監督の映画は、これまで「走る」の回で『東への道』、「帽子」の回で『迷惑帽子』『ニューヨーク・ハット』を紹介してきました。
 D・W・グリフィス監督は演劇の役者から映画監督となり、1908年に『ドリーの冒険』で映画監督デビューします。クローズ・アップやクロスカッティングといった映画文法を発明し、「映画の父」といわれています。グリフィス監督に影響を受けている監督はスタンリー・キューブリック監督、スティーヴン・スピルバーグ監督、黒澤明監督等多くの映画監督がいます。というよりも逆に、影響を受けていない監督を挙げるのが難しいほど映画史において多大な影響を与えている監督です。
 例えば、『男と女のいる舗道』で、グリフィス監督の『散り行く花』へオマージュを捧げているジャン=リュック・ゴダール監督は、撮影後に、

 今日筆を執る若い作家は、モリエールシェークスピアがいることを知っている。われわれはグリフィスがいたことを承知しいた最初の映画作家なのです。

と語っています。
 また、「走る」の回でご紹介した『大人は判ってくれない』のフランソワ・トリュフォー監督は、

 グリフィスは映画が女の芸術であること、女を美しく見せる芸術であることを最初に理解した映画作家だった。

と述べ、グリフィス監督と名コンビであった女優リリアン・ギッシュに、

 リリアン・ギッシュは両極端を見事に融和させる天賦の才を持っている、チェーホフT・S・エリオットを、成熟と幼稚を、自然さと気取りを。

との言葉を捧げています。さらに、リリアン・ギッシュの魅力を「世界のすべてを見つめる二つの大きな瞳」と語り、トリュフォー監督『アメリカの夜』の冒頭で、グリフィス監督『見えざる敵』のスチールを引用しています。
 今回はその『見えざる敵』をご覧いただきます。

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 『見えざる敵』はリリアン・ギッシュ、ドロシー・ギッシュ姉妹の映画デビュー作です。この映画では、グリフィス監督が発明したとされるクローズアップとラスト・ミニッツ・レスキューをご覧いただけます。
 映画は一巻もので、全編通してで15分しかないので一本丸々ご覧いただきます。

 

 

 グリフィス監督はギッシュ姉妹が似ていたため、髪に色違いのリボンをつけさせ、「赤いの、私の方を見ろ」「青いの、君も叫べ」等と指示を出していたそうです。
 ご覧頂いたとおり、姉妹のもとへ駆けつける最中、兄たちは旋回橋で足止めを食います。橋が画面からはみ出す程ダイナミックな動きを見せ、兄の行方を阻む障害物となります。それにより、わたしたちは妹の救出が間に合わないのではないかとハラハラしてしまい、橋がラスト・ミニッツ・レスキューの一助となっています。
 しかし、橋が旋回する契機となっている船は、この映画で一度も姿を見せません。ここで、グリフィス監督は「物語に橋が姿を見せる」というもっともらしいことは必要ないと判断したためです。この場面で優先されるべきものは「妹の救出が間に合うか否か」であって、「通るからことになっているから船を描かなければいけない」といった「リアリズム」ではありません。
 もしくは、お金がなくて船が用意できなかったり、スケジュール的に無理といった単純な理由かもしれません。しかしながら、船が通る描写などなくても「映画」は成立するんだとグリフィス監督は判断した。そのことが重要であるように思えます。
 『見えざる敵』には、船の他にも「見えない」「わからない」ものが多くあります。例えば、姉妹の家と兄の事務所との距離です。実際の距離がどれくらいであるのかは画面を見ていてもよくわかりません。描かれているのはあくまでも心理的な距離であり、それは作劇する上での「都合のいい」距離なのかもしれません。しかし、だからといってシラけることはなく、むしろ実際の距離がわからないことで焦りが生まれ、映画はより盛り上がりを見せます。
 また、二点の距離が「見えない」「わからない」ことは、家政婦と姉妹の関係においても言うことができます。壁一枚を挿み、銃で狙うー狙われる関係ですが、当事者たちはそれぞれ相手がどこにいるのかわからず、誰がどこにいて、どちらを撃とうとしているのかわからないという不安定な状態が続きます。
 そこへ再度、銃が壁の穴からぬっと出てくる。発砲と同時に硝煙がはげしく舞います。手と銃しか姉妹から見えないことが、この場面の恐ろしさを倍増させています。
 家政婦たちは姿を隠しつつ威嚇しようと穴へ手を入れます。逆に姉妹たちからすると、自分たちを狙っている狙撃者を確認できるのは手と銃のみであり、ある種の不気味さが際立ちます。この不気味さは狙撃者が部屋に入ってきたとしたら、つまり家政婦が全身を露わにして姉妹を脅した場合にはありえない怖さではないでしょうか。
 撃たれるかもしれないという恐怖だけでなく、「狙撃者が見えない」恐怖が合わさることによって、生々しくどこかいかがわしい恐怖が、眼をひんむくギッシュ姉妹たちが感じたのと同じように、私たちを襲います。
 しかしながらその一方で、初期映画にみられるような心躍る躍動感もこの映画は兼ねそろえています。たとえば、屋外で話す人物の様子よりも、荒々しく揺らす風、移ろう光の清々しい健全さに眼を奪われます。ここで、背景の木々の葉が風に生き生きと揺れる様子に『赤ん坊の食事』を、舞い上がる埃や煙からリュミエール兄弟『塀の取り壊し』を思い出す方がいらっしゃるかもしれません。
 「物語」のみを効率よく語ることだけを考えるならば、これほどの風や光は不要なものです。「物語」を「効率的」に撮影するためのみでしたら、刻一刻と変化する光や風はあまりにも不安定で扱いにくものだからです。そうしたものは画面からなるべく排除した方が「効率的」です。しかし、この映画における過剰な風や光は、明らかに「リアリズム」や「心理」を超えた荒々しい表現となっています。それは、人間がコントロールできないもの、同じものは二つとない動きを見せる一回性の儚さを、あえて積極的に映画へ取り込もうとしたからではないでしょうか。直線的な物語構造を取りながらも、グリフィス監督は「映画」を「実験」しています。映画の黎明期から監督として立ち会い、本当にフィルムに映っているのか現像するまで分からないまま撮影を続けるしかなかったであろう、当時のスタッフが行った映画製作という実験、試みの有り様が、見えないことを喚起する「想像力」と深く関係しているのかもしれません。

 私たちはテクノロジーの進歩によってCGや3D映画を目にしているけれども、百年以上前のグリフィス監督の映画ですら、得体の知れない魅力で私たちを惹き付けて止みません。

 


 

●『ポンヌフの恋人』(レオス・カラックス、フランス、1991)

 次は橋が動かない、というか橋は元来動かないものですが、その橋の存在感そのものによって映画が成り立っている、まるで橋が登場人物の一人であるかのような映画をご覧いただきます。その橋は「ポンヌフ」という名前を持ち、日本語に訳せば「新しい橋」となりますが、パリの中で最も古い橋であります。ちなみに、最初に「橋」の映画で思い浮かぶ映画を伺った際に、ほとんどの方が挙げてられていました。
 監督のレオス・カラックスは、23歳で『ボーイ・ミーツ・ガール』で長編デビューをするやいなや「ヌーヴェル・ヴァーグの恐るべき子ども」「ゴダールの再来」と評価されました。
 カラックス監督の長編三作目である『ポンヌフの恋人』は、オープンロケの設営のため予算が肥大化してしまい、さらにプロダクションの倒産やドニ・ラヴァンのケガによって二度の中断を経て完成しました。当初はパリでの撮影を予定しておりましたが、撮影が延期したため許可が切れてしまい、結局実物の4/5のオープンセットを建設することになり、制作費は当初の予算の約4倍まで膨らみフランス映画最大の制作費となったそうです。この映画で扱いにくい監督のイメージが付いてしまったカラックス監督は、『ポンヌフの恋人』から次作の長編映画『ポーラX』まで8年、『ポーラX』から次の『ホーリー・モーターズ』まで13年もの時間が空いてしまっています。
 主演は『ボーイ・ミーツ・ガール』『汚れた血』に続きドニ・ラヴァンが務めております。同じ主人公の「アレックス三部作」として『ポンヌフの恋人』は、80年代を締めくくる一本となるはずでしたが、先ほど申し上げたように撮影が長引いたために91年の公開となっております。
 相手役のジュリエット・ビノシュは当時カラックス監督と付き合っていたそうですが、この映画の難航がきっかけとなり別れてしまいました。この映画の結末がハッピーエンドに変わったのは監督がビノシュへの最後のプレゼントだといわれています。
 日本では単館系ミニシアターの最長期間上映記録を持っており、本日も多くの方が挙げられるなど皆さんの心に深く残っています。
  ポンヌフそのものは老朽化に伴い改築工事中(この期間は映画の製作期間でもあります)となっています。関係者以外立ち入り禁止にされており、フェンスで覆われています。にもかかわらず、浮浪者であるアレックス(ドニ・ラヴァン)と初老の浮浪者であるハンスはポンヌフを寝床としています。そこへ新たな闖入者としてミシェルという女性が加わります。ミシェルは画家志望でしたが眼病を患い、失明する運命となります。失意のあまり浮浪者となってしまったことが、風で吹き飛ばされる画用紙などによって画面に示されます。
 電車の中で元恋人を撃った夢(?)から覚めた場面から水上スキーの場面までご覧いただきます。

 

  踊る場面はハイスピードカメラで撮影され、横移動のショットは4、5台の移動車を使って撮影されたそうです。劇中の7月14日は革命記念日のため、花火が盛大に上がっています。この舞台はセットのため花火もすべて撮影のために上げています。水上スキーのシーンも相当な量の花火がセットされており、失敗してもすぐに止めることができないため、ビノシュはとてもプレッシャーがかかっていたそうです。撮影は、NGを一回出してしまったものの二回目で成功したそうです。
 この他、実際に俳優たちにホームレスとして生活させる等して役作りしたそうです。
 この映画における橋は舞台そのものでした。橋というそれ自体が不安定な場所にある建造物とあてもなくさまよう浮浪者たちは存在の根底が似ています。
 銃を撃つリズムと台詞のリズム、花火のリズムが画面に溢れており、物語上繋がっていくのではなくむしろイメージをもって繋がっています。物語を上手に語るためではなく、音色や色感、質感、ショットの質量を優先させて画面が構成されています。
 想像力に寄与しているという意味で、グリフィス監督とカラックス監督は通ずる部分があるのではないでしょうか。
 また、画面にたびたび現れる水の主題は、同じく「橋」の映画である『素晴らしき放浪者』や『アタラント号』を思わせます。移ろいながら川の流れに身を任しつつ確かな愛を手に入れたカップルの話でした。

 

●『黒い罠』(オーソン・ウェルズ、アメリカ、1958

 カラックス監督は「呪われた映画作家」と形容されることがあります。他に「呪われた映画作家」に、「登山の映画史」の回で『アルプス颪』をご覧いただいたシュトロハイム監督、「平手撃ち」の回で『ラルジャン』をご覧いただいたロベール・ブレッソン監督、そしてこれからご覧いただくオーソン・ウェルズ監督がいます。
 オーソン・ウェルズ監督は、最初、舞台俳優、演出家として活躍しました。1938年にラジオドラマ「宇宙戦争」があまりにも「リアル」だったため、火星人が襲来したと勘違いし全米がパニックになりました。そして、1941年、25歳のときに『市民ケーン』を監督します。映画史上のベストで1位になったこともある映画です。
 今回ご覧いただくのは『黒い罠』という映画です。この映画は、3つのバージョンがあります。最初にウェルズ監督が撮影し編集した試写会版、次にウェルズ監督に無断で映画会社が勝手に編集した劇場公開版、そして、ウェルズ監督が公開当時に映画会社へ提出した嘆願書を基に監督が亡くなったあと編集した修復版です。スタジオが勝手に編集した劇場公開版は、結局、批評的にも興行的にも失敗してしまいます。このようなハリウッドのスタジオ・システムに嫌気がさしたウェルズ監督はこの映画を最後にアメリカからヨーロッパに活躍の場を移すことになります。

 とはいえ、1958年のブリュッセル万国博覧会で劇場公開版が上映された際、トリュフォー監督やゴダール監督から絶賛されました。
 アメリカーメキシコ国境付近が『黒い罠』の舞台です。メキシコの麻薬捜査官バーガスが、国境付近のアメリカ側で発生した事件の捜査に立ち会ううちに、アメリカの刑事クインランの強引な操作方法に疑問を持ち対立していきます。国境付近を縄張りに持つマフィアのグランディは、翌週に控えた弟の裁判の前にバーガスを脅そうと、バーガスの妻を眠らせて麻薬パーティーに参加させたと見せかけます。しかし、グランディは、バルガスを煙たがっており共に彼を貶めようとしていたクインランに殺されてしまい、バルガスの妻と一緒に発見されます。
 バルガスが妻の下へ駆けつける場面から映画の最後までご覧いただきます。 

 最近の映画でいえばスピルバーグ監督の『ブリッジ・オブ・スパイ』がそうであったように、この映画では様々な「境界」が問題となっています。アメリカとメキシコの国境、刑事の管轄、英語とスペイン語、天才と凡人、アイドル刑事汚職刑事という境を巡る物語の最後の舞台が、橋でした。
 妻を絞殺した犯人をいつか逮捕するため好きだった酒を断ってまで仕事に打ち込み、同僚をかばって銃弾を受けたことで獲得した特殊能力「直感」を用いて、多くの事件を解決してきたアイドル刑事のクインランは、特殊能力を持つゆえに「直感」で犯人を見抜いてしまい、本来であれば必要な「証拠品の押収」を省略し「証拠のねつ造」によって容疑者を次々と検挙してきました。今回のリネカー殺人事件も同様に容疑者のサンチェスの部屋に持参したダイナマイトを置いて、相棒のピートに証拠品として見つけさせました。
 こうした汚職に勘づいたバーガスは検事のシュヴァルツとともに真相を探ります。そんなバーガスを煩く思うクインランへ、ピートにサンチェスの部屋まで連れられてきたグランディが、協力してバーガスを懲らしめようと話を持ちかけます。どこかから鐘の音が聴こえる中、二人は具体的な話をするために場所を移します。
 バーで話をしていると、クインランはいつのまにか酒を口にしてしまっています。そこへグランディの子分から電話がかかってきます。どうやらバーガスの妻をクスリで眠らせているらしく、グランディは彼女をホテルへ連れて来させます。
 グランディに案内され誰にも見られないようにバーガスの妻がいる部屋へ着いたクインランは、ピートへ麻薬の乱痴気パーティーがあったことを風紀課に匿名で電話するよう指示したのち、バーガスの妻が眠るすぐ傍でグランディを絞殺、バーガスの妻に預けてあったバーガスのピストルを持って部屋を後にします。
 一方バーガスは、クインランのダイナマイト購入の記録や汚職の疑いをクインランや上司に伝え、妻を迎えに行ったものの部屋がもぬけの殻であり、グランディ一味の若者たちが部屋から彼女を連れ去ったことを管理人から聞き逆上します。すぐさま若者たちがいるバーへ向かい、ジュークボックスが大音量で鳴り響く店内で彼らを見つけると妻はどこにいるかと詰め寄り、殴り合いの乱闘となります。
 そこへ駆けつけた検事のシュヴァルツが麻薬所持とグランディ殺人の容疑のためバーガスの妻が逮捕されたことを伝えます。バーガスは急いで留置場の妻の元へ駆けつけます。意識が朦朧としながらも妻は「家へ連れて帰って」と話し、バーガスを抱きしめます。抱きしめ返すバーガスの衣服は、ネクタイがほどけシャツもボタンがいくつも開いています。妻を労るバーガスと彼らに冷たく当たる上司との間で、これまでも無罪の人々をこのように逮捕していたのかもしれないとピートは良心の呵責に苛まれ、バーガスを呼び殺された
グランディの傍らにクインランの杖があったことを告げます。告訴はされないものの妻の名誉を取り戻すため、バーガスはピートを連れて「ねつ造」の証言を取るためクインランの元へ行きます。
 クインランがいるターニャの店付近で、自身の服の乱れを気にかける様子もないバーガスは、ピートに盗聴器をつけ身なりを整えさせます。盗聴器が受信することを確認したピートは、ピアノーラが鳴り響くターニャの店にいるクインランを呼び出します。先ほどバーガスが様子を伺いにきたのに気付いていていたクインランは、現れたピートに「お前をバーガスと見間違えた」と語るほど酔っています。
 こうして、酔ってはいるものの類い稀な直感を持つクインランと、彼に気付かれないように証言を聞き出したいピートと盗聴器を録音しているバーガスの探り合いが始まります。酔っているとはいえ、ピートの頭の上に浮かぶ天使の輪が見えると直感を働かせるクインランに油断はできません。
 ここでカメラは、道を歩きながら会話をする二人とそれを録音するバーガスをそれぞれ追うのですが、盗聴器が受信できる範囲がどの程度の距離までなのかよく分からない上に、バーガスが掘削現場の建物内を移動するため、この2+1の位置関係が容易に判断できません。
 そこでわたしたち観客は、画面によって2+1の位置関係が宙づりにされつつ(なお、二人が盗聴器を仕込んでいるとき、ピートはクインランへの深い友情から裏切る可能性があるとバーガスは彼を完全に信用しているわけではないことが語られ、この2+1の関係は1+2の関係になりうることが示唆されている)、クインランとピートの会話を追うことになります。クインランとピートを見張りながらまるで迷宮に迷い込んでしまったかのようにバーガスが建物の中を移動していくにつれ、2+1の位置関係を判断することがますます困難になり、かつ掘削機の轟音に掻き消される二人の会話は受信機を通して語られるようになります。そのため、画面内の登場人物の動きと会話を把握するためには、視覚と聴覚をカットに合わせて交替させながら、ひとつの画面から見えていない登場人物らの言動を想像することを強います。
 こうして最後の舞台となる橋へと辿り着きます。橋へ先に辿り着いたバーガスは上着を投げ捨て、橋の下へと降り河を横断しながら二人の会話を受信します。が、受信機が再生した二人の会話が橋に反響してクインランに気付かれてしまいます。さらに、クインランは直感によってバーガスが近くにおり、かつピートが裏切っていることに気付いて激昂し、バルガスの拳銃でピートを撃ってしまいます。クインランは必死に正気を保ちながら手に付いたピートの血を洗い流すために河辺に降りてきます。工場排水によって汚れた河で血を洗い流したあと、クインランは崩れ落ち、涙を流します。
 バーガスが「もう言い逃れはできない」とクインランに詰め寄りますが、まだクインランはピートを撃った罪をバーガスに擦りつけることができると考えており拳銃で脅します。そこへ検事のシュヴァルツとバーガスの妻が車でやってきます。クインランはお前を逮捕すると発砲して脅しますが、バーガスは、銃口を向けらているにもかかわらず、もはや今のクインランでは自分に命中させることはできないだろうと意にも掛けず、河辺から車へ向かいます。クインランがもう一度撃とうとしたとき、ピートが橋の上からクインランを撃ち、そのまま事切れてしまいます。倒れたピートの帽子が風に吹かれ、意識がなくなったピートの手からは拳銃が零れ、河に落ちます。
 橋の上では、駆けつけたシュヴァルツがバーガスへ車に妻がいることを、バーガスは現場の状況を伝えます。
 河辺に置いてあった盗聴器のテープをシュヴァルツが再生し、ピートを撃つ場面の二人の会話が反復されます。それを聞いたクインランは橋で倒れているピートを見上げながら「お前のために受けた二度目の銃弾だ」と呟きます。
 描かれた場面を通してひとつの大きな物語を語る映画のように、現場の(時にはねつ造した)証拠から動機や犯行の様子を推理し「事件」という大きな物語を解明してきた刑事は、ここでも物語を作り上げてフィクションを成立させようとしています。かつて他人のためにつねに懸命であったはずの刑事は、いつしか自分に都合の良いフィクションを仕立て上げることに必死となっています。
 そこへ、再びピートの血がクインランの手に滴り落ちます。ここでようやく彼は物語に固執するあまり大事な友を失った重大さにおののき、崩壊したフィクションの裂け目に落ちるように、ゴミまみれの河へ落ちてしまいます。
 自身で作り上げる物語の心地よさに浸るあまり、友まで手にかけてしまったクインランは、手に滴る友の血の生温かさを感じることで、つまり自分にとって偽りようがなく、あくまで個人的な体験である「触覚」を刺激されることによって、自身の罪を自覚し、それまでの汚職を認めるかのようにドブ河へと身を沈めてしまいました。
 テープが再生されたのを確認し、「家へ帰ろう」と車でその場を離れたバーガス夫妻と入れ替わりに駆けつけたターニャは、死んでしまった二人の刑事について「人がなんといおうと関係ない、結果としてお互いを撃ち合って死んでしまった二人だが深い友情で結ばれていたのだ」とシュヴァルツへ語ります。「アディオス」とシュヴァルツに別れを告げたターニャは、来た道とは違う方角へと歩いていき、ピアノーラの音とともに闇へと消えてゆきます。果たして"home"とは何を指していたのでしょうか? ターニャは一体どこへ歩いていったのでしょうか?

 橋は、建造物として、声を反響させ二重化します。さらに、人の行き交う舞台を自ら降りてしまったクインランは、それまでのキャリアを断絶され、終いには工場排水とともに流されていました。

 『黒い罠』は、本日ご覧いただいた映画の舞台として橋が喚起するイメージーー境界、上下構造、宙づり、建造物、河川ーーが詰まった映画でした。

以上で、映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.16「橋」を終わりたいと思います。これからも、映画における橋のさまざまなニュアンスを楽しんで頂ければと思います。

本日はどうもありがとうございました。

(シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った。)

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.16「橋」

テーマ:橋

 「このはし わたるべからず」

一休さんは言葉の意味を捉えなおして、

橋の「端」ではなく「真ん中」を歩いてみせました。

一休さんは「真ん中」を強調することで、

意識的に、「端」の存在を消したのです。

そうすることで「橋」を渡ることができました。

つまり、「端」が消えれば、渡ってはいけない対象である「橋」そのものも消えてしまうというのです。

このお話は橋の性質をわたしたちに考えさせてくれます。

箸や梯子がそうであるように、

橋は、「端」と「端」を結びます。

つまり、距離を隔てたものをつなぎます。

そして、橋の「真ん中」は端と端の境界部分、中間部分であるといえるでしょう。

このことは橋そのものにも当てはまるかもしれません。

 

このような建築物=「橋」は、映画において、

画面にどのように登場し、

またどのような舞台であるのでしょうか?

 

いっしょに映画を観ながら考えてみましょう。

 

 

 

時間:4月30日(土)18:00~(いつもより30分早い開始です)
場所:水曜文庫
   〒420-0839
   静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F
参加費:800円
予約・問い合わせ:水曜文庫(054-266-5376、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.15「倒れる」

本日はお集まりいただきまして、誠にありがとうございます。

 本日のテーマは「倒れる」です。今週の月曜日、目の前の信号が変わりそうだったので、急いだら見事に転んでしまいました。久しぶりに生傷を右手と両膝小僧に負ってしまい「倒れる」ことの危険さを身を持って感じることができました。

 さて、そのようなリスキーさも併せ持つ「倒れる」ですが、参加者の方々に「倒れる」についてイメージを伺ったところ、死ぬとき、病気、失神して意識を失ったときに倒れるとのことでした。具体的な映画でいうと、チャップリンサイレント映画のコメディや『グラン・トリノ』、『ミリオン・ダラー・ベイビー』、『ケロッグ博士』、細田守監督の『時をかける少女』等を挙げていただきました。
 二本の足でバランスを保つことが困難になり手をつけない状態のときに倒れてしまいます。それは、ご意見を頂いたとおり、例えば意識を失うといった非常事態のときに倒れます。普通ではなかなかない状態、状況をどのように作り出すのか。それがどのようなシチュエーションかによって喜劇にも悲劇にもなりうる「倒れる」という運動を、どのように演出するのか。今から映画をご覧いただいて一緒に話し合っていければと思います。

 

●『レディ・イヴ』(プレストン・スタージェス、アメリカ、1941)
 まずはたくさんの「倒れる」が出てくる映画をご覧いただきます。プレストン・スタージェス監督の『レディ・イヴ』です。
 スタージェス監督はもともとは作家としてキャリアをスタートし、劇を何本か書いた後、ハリウッドで脚本家、監督として活躍しました。『偉大なるマッギンディ』で映画史上初めて自身の脚本を監督した脚本家であるとされています。のちにジョン・ヒューストン監督やビリー・ワイルダー監督が同様の転身を遂げることができたのも、スタージェス監督のおかげだと言われています。また、スタージェス監督が亡くなった際、ワイルダー監督は次のように語りました。

 スタージェスのような人物に代わりはいません。彼が死んだとき、我々は敬愛する一人の人物を失っただけでなく、映画の一部門をそっくり失ったのです。ああいう独創的な精神の持ち主はざらにはいません。彼が逝って、一つの種族全部が絶えたんです。そして映画史が偏りなく書かれるとき、プレストン・スタージェスは栄誉ある位置を占めることでしょう。彼は映画づくりにおける超人です。

 日本におけるスタージェス監督作は敗戦直後に『パーム・ビーチ・ストーリー(結婚五年目)』と『殺人幻想曲』が封切られたのみで、90年代半ば頃に開催されたプレストン・スタージェス祭を機にだんだんと観られるようになったようです。いまでは有り難いことに500円DVDで幾つかの作品を観賞することができます。スタージェス好きとして有名な方で、三谷礼司氏や小林信彦氏、蓮實重彦氏がいます。
 今回はスタージェス監督作の中でも最も有名な映画の一つ『レディ・イヴ』を映画の始めからご覧いただきます。

 

 

 バーバラ・スタンウィックヘンリー・フォンダがソファーで理想の相手について話す場面までご覧いただきました。
 「倒れる」ことによって二人は出会い、ご覧いただいた最後の場面でもヘンリー・フォンダが尻もちをついていました。それ以外でも全編を通していたるところで倒れています。その都度汚れた衣装はヘビが脱皮するように変えられます。
 詐欺師であるバーバラ・スタンウィックにどんどんハマっていくヘンリー・フォンダが面白いです。しかし、彼がバーバラ・スタンウィックを好きになっていく理由は彼女が彼をオトすために提示した「大佐の娘」や「イギリスの貴族」といった肩書きによるものではありません。あくまでバーバラ・スタンウィックの運動がもたらす一瞬の儚さに彼が魅了されているためなのです。
 映画の最後まで二人の間には「真実」の共有がなされてないように、この映画は真実と嘘を対立させて嘘を乗り越えるという話でなければ、両者の真意が最終的に伝わる話でもありません。情報の誤解によるすれ違いが二人の別れた原因ではないからです。

 たしかにヘンリー・フォンダは詐欺師連中の手品や詐称といった嘘(誤った情報)にいともたやすく騙されてしまいます。小舟から客船に乗ろうとするときバーバラ・スタンウィックが落としたリンゴに見事に当たっていましたし、それ以後のすべての策略に対してこれほどまでに引っかかっていいのかと思うほど容易く引っかかっています。三悪人を詐欺師だと知りえたのも彼らの嘘を見破ったわけではなく、たまたま人から教えてもらったためであります。大企業の社長の息子でヘビの研究者という「設定」のため、浮き世に疎くある程度の純粋さを備えた馬鹿な男と考えることもできますが、もしそうだとしたらひとつの疑問が生じます。これほどまで騙されやすくただ頭が足りないのならば、彼はなぜ愛する女性を間違えないのでしょうか。
 ヘンリー・フォンダは愛する女性を決して間違えません。目の前にバーバラ・スタンウィックが現れれば間違えることなく彼女に恋をしてしまいます。ビール会社の御曹司である主人公のパイクは女性の羨望の的であり、レストランへ行けば続けざまに何人もの女性たちからアプローチされる様子はご覧いただきました。だから、彼は女性にモテないわけでは決してなく、例えばジェーンとの失恋から傷ついて他の女性へ走ることも簡単にできたはずです。実際イギリスから来た淑女と恋に落ちるのですが、それはジェーンが変装したイヴという女性であり、結局彼が愛する女性はバーバラ・スタンウィックなのです。このことが喜劇的に見える一因でもあるわけですが、それよりもむしろどう変装していても彼女を見つける彼の繊細な感受性に驚かされます。
 では、このような鋭い感受性を持つ彼がなぜ二度も彼女を振ってしまったのでしょうか。ジェーンが詐欺師と判明したときやイヴが過去の男性遍歴を披露したとき、ヘンリー・フォンダは強がって彼女(たち)の気持ちを解ろうともせずに突き放しました。そのときの根拠は、船員が持っていた写真、音や意味がどんどんずれていきながら次々に挙げられる固有名詞が原因となっていました。そのような情報に翻弄されて目の前の対象から眼を背けたとき、彼は間違えてしまう。しかし、バーバラ・スタンウィックの一挙手一投足、彼女の運動のうちに宿る一回性の儚さに魅了される限りでは、まるで白昼夢を見ているかのように明瞭でありながらそこに存在していること自体が奇跡のようであるバーバラ・スタンウィックそのものに魅了されている限りにおいては、彼はいつも愛する対象を間違えません。ここでは、愛する相手が同一人物か別人物かどうかは問題ではないのです。
 イヴと別れ、「倒れる」ことで再びジェーンと船上で再会した彼は、彼女の手を取りものすごい速さで部屋へと連れて行きます。このとき、ヘンリー・フォンダが彼女との再会によって再び惚れる心理的なエピソードがあるわけでもなく、彼女にうっとりすることを示すクローズアップのような劇的な構成があるわけでもありません。早口で言葉を交わしあうも、情報に惑わされ三たび離れまいと、言葉はキスで遮られ、部屋のドアが閉められます。Positively the Same Dame! 彼女が同一人物かどうかばかりに気を取られ彼女の魅力に気付けないマグジーが部屋から追い出されることで、この映画は終わります。
 一回一回まったく異なる彼女のかけがえのない表情、しぐさ、声の抑揚にまなざしを向けることによって、わたしたちはいま、まさに未知の存在に触れていると実感します。髪型や名前、肩書を自由に変える彼女の姿を目の当たりにする内にジェーンやイヴといった役柄のイメージをいつのまにか忘れ去りバーバラ・スタンウィックの存在そのものを見つめています。
 このとき、わたしたちは物語に安易に感情移入できる安寧な立場にはいません。彼女を固定化されたイメージとして消費するのではなく、儚く移ろい消えてはまたすぐに顕われ時には不整合でもある存在として彼女をつねに見つめ続けなければならないからです。「真意」や「意味」が不確定であるがゆえに、より鮮やかに彼女の姿がヘンリー・フォンダの眼には映ります。その彼らの姿が生と死のあわいを行き来するように光と影を織りなす映画の姿に似ているため、わたしたちはスクリーンを推移する彼らの姿に映画を見ることそのものにも似た快楽と戦慄を見出だすのではないでしょうか。

 

 

●『キートンの探偵学入門』(バスター・キートン、アメリカ、1924)

  次は、見事な倒れっぷりの映画をご覧いただきます。バスター・キートン監督は、「駆ける」の回で「キートンのセブンチャンス」を上映しました。今回の『キートンの探偵学入門』も体を張ったアクションが見ものです。

 『キートンの探偵学入門』も、映画の始めからご覧いただきます。

 主人公が映画の画面に入っていったあと暗転し、映画内映画が本格的に始まる場面までご覧いただきました。
 給水塔から大量の水が流され主人公が落っこちたとき、キートンは首の骨を折ってしまったそうです。当時は痛みがあっただけでそれほど気にしてなかったそうですが、後年身体検査をした際に骨折の痕がみつかったそうです。

 さて、二つの「倒れる」がありました。バナナの皮ですべる場面と映画の中へ入っていく場面です。バナナの皮ですべるところは足がピンと伸びており、まるでオーバーヘッドシュートのような、ものすごい「倒れる」でした。キートン監督は『キートンのハイ・サイン』の中で「バナナの皮はすべるもの」というイメージを逆手に取ったギャグを披露していますが、この映画では見事にバナナで滑ってみせています。
 もう一つはスクリーンに入っていった場面です。映画のカットが変わっても主人公だけがそのままアクションが続き転んだり地面に刺さったりする様子が可笑しい場面でした。
 この場面はひとつの比喩を思い出させます。それは「映画は夢である」という、あまりにも有名でそれゆえに使い古された例えです。
 一般的に「夢」というと眠っている最中に見る、現実では起こりえないようなことが次々と都合良く起こり、現実感を欠いた心的活動のことを指します。しかしこの映画の場合では、「夢」をそのような目を覚ましたあとに思い出し起こった出来事を再構成することで、現実にありえない自由奔放なものと捉えるのではなく、柄谷行人氏が『意味という病』で述べていたような、起こりそうもないことが起きているにもかかわらず一瞬一瞬を了解していく、何の疑いもなく受け入れる状態のことと考えた方がしっくりきます。
 例えば、映画の中に人が入っていくというありえないことが起こっています。主人公はスクリーンの中へ入っていき恋敵にけしかけます。が、逆に突き飛ばされ、またむかっていき...とスクリーンの内外を行ったり来たりするのですが、主人公はそのことをちっとも不思議がっておらず、むしろスクリーンの中へ入っていけることを当然のように考えています。
 カフカが「本当のリアリティはつねにリアリスティックではない」と言い、「生」をその外側から距離をとって書くのではなくあくまでも内側から「距離」を奪い取られた現実として小説を書いたように、『キートンの探偵学入門』ではまったく現実的ではない出来事が残酷なまでに明瞭に起こっています。そこでは「現実」「夢」「映画」の区別がなく、それらすべてをそのまま受け入れてしまう、「夢」のような「現実」が描かれています。
 すでに「現実」で起こった事件は解決しているにもかかわらず始まる主人公が映写をしながら居眠りをする場面は、回想形式として「こんな夢を見た」という構成にはなっておりません。直線的な時間の流れの中で、寝ている「現実の主人公」と動きだす「夢の中の主人公」が同時に一つの画面に収まっています。「現実」と「夢」が同居しており、どちらが優位であるということはありません。
 起き上がった「夢の中の主人公」は、恋人と恋敵の姿をスクリーンに見つけ駆けて行きます。主人公がスクリーンへ足を踏み入れてしばらくすると、「映画」の世界は玄関から塀、街中、崖、岩礁へ次々と変わってゆきます。
 登場人物がいて物語性の強い映画だったはずが、実景カットばかりとなり急に映画のスタイルが変わってしまいました。その場所ひとつひとつは特定の場所として示されてはいませんが、幻想的な効果などで審美的なイメージとして処理されることはなく、あくまでも具体的で明瞭な場所として描かれています。こうして次々現れる「現実」を了承しつつ行われるアクションとシチュエーションによる凄まじいギャグは、映画の世界に足を踏み入れ「映画」に感情移入し同化しようとするわたしたち観客への警告でもあるかのようです。
 暗転すると主人公も消えてしまい、「映画」は「夢」とは完全に別の物語を語り始めます。「夢」が「映画」に呑み込まれた瞬間です。先ほどはカットが変わっても画面に異物としてあれほど定着していた主人公が、暗闇に包まれただけであっけなく消えてしまいました。それをさほど違和感なく受け入れてしまうのは、映画という表現自体があまりにもちぐはぐであり「現実」の再構成というにはあまりにも明瞭で猥雑で過激な表現手段であるためでしょうか。わたしたち観客も「映画」と「現実」との距離を失い始めているのかもしれません。
 こうして始まった「映画」は、盗まれた品物を見つけ恋人を取り戻すという「現実」で起こった事件とそう違いはない話でした。「夢」から覚めた「現実」の主人公に、駆けつけた恋人が盗難事件の誤解を謝り始めます。恋人をなだめるもなかなか気を直さないことに困った主人公は、自らが映写している「映画」の真似をします。「映画」とそれを模倣する主人公が交互に映されていき、そうすることで徐々に彼女を慰めていきます。終いに映画では子どもができたカットが映されます。それを模倣することができずに困る主人公がラストカットであるこの映画は、最終的に「現実」と「映画」がすり替わり、自然と「現実」が「映画」の模倣をするようになってしまっていました。
 「現実」「夢」「映画」はそれぞれ別のものでありながらも、それらの世界の境界は曖昧でありました。境自体も明確にあるようなものではなく、自由に行き来でき、境を跨ぐことで世界がまったく変わってしまうようには描かれておりません。現在においてはCGを用いてこの先は別の場所であることを示すため「触れると波紋がおきる」というような表現がなされたり、またジャン・コクトー監督の『オルフェ』のような素晴らしい表現もありますが、この映画ではそれらの境自体がなく地続きになっており、それゆえに主人公はつねに「世界」との距離が奪われている「夢のような世界」を生きていることが強調されていました。その「世界」は、いかなる意味付けからも拒絶されています。それは、現実のありとあらゆる無秩序を受け入れカメラが現実をそのまま映し出してしまうという映像の凶暴性として画面のいたるところにあらわれています。そしてそれが示すものは、「現実の世界」こそ「夢の世界」であり、「夢の世界」こそ「映画の世界」であり、「映画の世界」こそ「現実の世界」であるというキートン監督の認識にほかなりません。

 もし何を描くのかという主題に思想が現れるのではなく、主題がどのように描かれていたのかその形式に思想が現れるのだとしたら、キートン監督はとんでもない危険思想の持ち主と言えるのではないでしょうか。映画が現実を覆い作り替えうると宣言しているようなものです。周囲からアブない奴、危険人物と判断されてもおかしくありません。これほど過激な映画を一日中観ていたら現実との区別がつきかねなくなるのではないでしょうか。映画を観すぎるとバカになる、廃人になると言われていた時代があったことが納得できます。また、独裁者が映画芸術を取り込もうもしくは押さえ込もうとしていた理由もなんとなくわかります。とても笑える、と同時に映画表現の恐ろしさを体感できる映画でした。

 

 ●『幌馬車』(ジョン・フォード、アメリカ、1950)

 続きまして、移動していく中で様々な「倒れる」が出てくる映画をご覧いただきます。ジョン・フォード監督の『幌馬車』です。
 ハリウッドでは大ヒット作が出るとボーナスとして興行収入を考えずに映画を撮れる権利が低予算ながらも与えられるそうです。『幌馬車』は『黄色いリボン』のボーナスとしてその半分にも満たない予算で撮られました。しかし、フォード監督のオリジナルストーリーで撮られており、フォード監督自身、『逃亡者』『太陽は光り輝く』と同じくらい気に入っている作品だと語っています。
 ベン・ジョンソンとハリー・ケリー・Jr.演じる二人の若い馬商人はモルモン教徒の一行から目的地までの案内兼護衛役を頼まれます。西部の砂漠地帯を横断する危険な旅であるため一旦は断るも、酒場でいかさまのロイヤルストレートフラッシュを決めたあと、そろそろ出発の時間だということで見物に出向き木の柵に腰をかけます。女、子どもが多いモルモン教徒の一行を眺める二人は会話の流れから自然と歌い始め、歌い終わるといつの間にか案内役を引き受けることに決めています。「コロス」の回でお話ししたように、歌うことが心理的なきっかけというより、それまでの二人が過ごしてきた時間を感じさせる場面です。
 そうして歩を進める一行が、インチキ医師たちと出会う場面からご覧いただきます。

 途中、クレッグ一味が合流する場面からインディアンに鞭で打たれる場面まで飛ばしまして、インチキ医師の一行と別れる場面までをご覧いただきました。
 たくさんの「倒れる」の変奏がありました。まず、喉の渇きのあまり気を失い倒れるジョアン・ドルー。次に、水が掛かって驚いた馬から落ちるベン・ジョンソン。何事かと白い肩を露わにして顔を出すジョアン・ドルーの愛らしい顔とともに、些細なケンカや水の使用方法をめぐって悪くなっていた空気が和らぎます。そして、川が近いことを知った興奮が馬たちに伝わり暴走してしまったあと、頭から川へ飛びこみ開放的な「倒れる」がありました。
 中でも、特別に素晴らしい「倒れる」は、最後にご覧いただいた「倒れる」ではないでしょうか。一旦別れるもののベン・ジョンソンはハリー・ケリー・Jr.に口説き忘れたと言ってインチキ医師の一行を追いかけます。そして、ジョアン・ドルーへ自分はいつか牧場を開こうと思っていてそのときは手伝ってほしいことを伝えます。ほぼプロポーズであるこの申し出に対して彼女は一瞬彼方を見つめます。何かを想像してしまいます。「さよなら」とだけ伝え、ジョアン・ドルーは走り出します。しかし、「気持ち」を抑えきれないで倒れてしまいます。思わず振り返るも、それでも、ここにとどまってはいけないんだという「気持ち」が彼女を再び走りださせます。
 解っていながら惹き付けられてしまうどうしようもない未知の自分に戸惑い、自分でも知らなかった、コントロールできない未知なる「気持ち」が彼女を倒れさせ、また走り出させました。映画では、同じ動作であっても「倒れる」が間に挟まれると表す意味が変わることがあります。
 ベン・ジョンソンを振り切り、馬車に腰掛け煙草を吸うジョアン・ドルーは、何を見つめているのでしょうか。彼女が吐き出す煙と舞う砂埃が画面を移ろいます。それらがまるで同調しているように画面を覆うもすぐ消えてしまいます。流浪の旅を続けるであろう二人は今後二度と出会うことはないのかもしれません。砂埃が一時舞うもすぐに消えるように、二人のいく道が一時交差しただけだったのかもしれません。彼女の視線は、徐々に遠ざかるベン・ジョンソンを見つめているのか、それとも過去の恋愛を想っているのか、もしくは今後奇跡的な再会を果たし牧場を手伝うことを夢想しているのでしょうか。彼方を見つめたままジョアン・ドルーはタバコを投げ捨てます。
 この短いシークエンスは時間にしてたった3分程度しかありません。にもかかわらず、一つの言葉で言い表すことができない複雑な感情が絡み合ったショットです。このあとクレッグ一味によって捕まってしまうため、二人はご都合主義的にもすぐに再会してしまいます。ですが、歓喜と調和をもたらすジェーン・ダウエルが吹く角笛、インディアンの領地を知らぬ間に侵してしまい追われるベン・ジョンソン、インディアンとの交歓会で子どもが浮かべる微笑みと同様に、決して無視することはできない貴重な場面です。

 それにしても、彼女が駆け出すこの場面における「気持ちの運動」は、なんと「日常生活」に似ていることでしょうか。日々の生活がそうであるように、人は一つの気持ちだけを抱えて生きているのではなく、つねに複数の気持ちがそれぞれ複雑に絡みあいながら矛盾を抱え生きています。
 フォード監督の映画は、たった一つの気持ちに収束せず、ある場面が他の場面に影響を与え、画面で直接語られていない物語をも内包しています。そうした物語で表される「気持ちの運動」の在り方が、まるで日々の生活そのもののようです。つまり、フォード監督の映画においては、ひとつの美しいカットがあるのではなく、ひとつひとつの場面が織りなす「気持ちの運動」の在り方が相互に作用していき、結果として言い表しようもない美しさを感じさせるのではないでしょうか。

 

●『ガートルード』(カール・テホ・ドライヤー、デンマーク、1964)

 移動していく中で起こる「倒れる」をご覧いただきましたが、今度はほぼ一場面一室のあまり移動がない中での「倒れる」映画をご覧いただきます。
 カール・テホ・ドライヤー監督の『彼らはフェリーに間に合った』を「駆ける」の回でご紹介しましたが、今回はドライヤー監督の遺作である『ガートルード』をご紹介します。
 『ガートルード』は、政治家の妻ガードルードが若い音楽家ヤンソンと不倫しており、夫に別れ話を切り出す場面から始まります。さらに大詩人となった元恋人リートマンも登場して四角関係になります。筋だけ聞くとまるで昼ドラのようですが、カメラが俳優と一定の距離を保つことで、赤坂太輔氏の言葉を借りれば「フィジカルな事物感」とでも呼べるものが画面に荒々しく漲り、愛に振り回されていたハムレットの母と同じ名を持つ女性が終に真実の愛を獲得する話です。
 大詩人となって故国に戻ってきた元恋人リートマンが、コンサートのある二次会でヤンソンと出会ったこと、そのとき、最近の獲物の話としてガートルードとのことが秘め事にいたるまで話されていたことを彼女に告げる場面からご覧いただきます。ちなみにこの二人は実生活では夫婦です。

  不倫相手のヤンソンと別れる場面までご覧いただきました。
 自分の美しい過去を穢されてしまったとむせび泣き、本来ならばガートルードの方が遥かに辛いであろうに、元恋人は伝えるだけ伝えて出て行ってしまいます。彼女がショックを受けているところへ、頭痛がひどく別室で休んでいることを知っているはずの夫が、「学長が聞きたがってるから歌ってくれないか」と気を遣っている振りをしつつ頼んできます。しかもその伴奏者は先ほど裏切りを知らされた最愛の男とのことです。このシチュエーションの悲惨さをあえて受け入れるも、やはりその負荷は大きく、ガートルードは歌の途中で反転しながら前方に倒れてしまいました。
 彼女が「倒れる」までは、ご覧いただいたとおり、停滞感にも似た彼らの重厚な存在感で覆われた画面が多くの時間を占めていましたが、歌うことを決めてから倒れるまでにみせる場面転換の速さに驚かされます。部屋の仕切りが開けられ空間が変容してから目にも留まらぬ速さで支度をし、歌い、倒れます。その後どのように介抱したのかわからないほどの速さです。こうした場面転換の速さによって、彼女の「気持ちの速さ」が表されています。
 事実、倒れたあとのガートルードはそれまでの彼女と異なっています。溺れるように相手に依存していた愛から、強さを伴った自立した愛をもつ女性へと変わったようにみえます。そして、その愛は「気持ちの速さ」となってあらわれます。
 ご覧いただいたように、ヤンソンを旅へと誘う際には、これまで下手に出ていた彼女では考えられないような積極性を見せます。倒れた次の場面でいきなりすっと立ち上がったかと思うと、眼にも留まらぬ速さで膝ごとくるっと身体の向きを変えたり、ヤンソンをベンチまで追いかけていきます。ガートルードの「気持ちの速さ」に、「自分のしたいように生きる」と宣言するもその実まったく自由でないヤンソンは付いていけず、とぼとぼ家路に就くしかありません。この後も鏡から急に姿を現したり、鐘の音とともにあっという間に家から姿を消したりと、彼女のスピードに男たちはまったく着いていけません。ガートルードの火の出るような速さは、プライドばかり気にする男たちを置き去りにしてしまいます。
 こうして、三人の男性を撒いてパリへと赴き、約40年余も時を進ませ白髪となった彼女を友人のアクセルが訪ねるラストシーンとなります。そこで「愛がすべて」と言い切る彼女に清々しささえ感じるのは、こうした愛からくる強さ、それに起因する「気持ちの速さ」によるためではないでしょうか。彼女を恭しく慕うアクセルでも彼女に追いつくのにこれほどの時間がかかりました。彼女を見失わないために、わたしたちはひたすら眼を凝らすしかありません。わたしたちは彼女を必死に追いかけながらも、どこかでこの「気持ちの速さ」に似たものを感じていました。ヘンリー・フォンダバーバラ・スタンウィックを再会をした途端に連れて行く姿、映画内映画でシチュエーションとアクションがすれ違うキートンの姿、ベン・ジョンソンに別れを告げて走り出すも倒れ、再び駆けるジョアン・ドルーの姿。彼らが見せる「気持ちの運動」の在り方は、ガートルードのそれととてもよく似ています。
 圧倒的な速さとともに目の前の景色はあっというまに変わっていきます。それまで見ていた景色を置き去りにして、次々と新しい景色が目の前に現れます。
 アクセルが帰るとき初めてカメラが手前の空間から隣の空間へと移動します。別れの手を振るアクセルとガートルードが切り返され、書斎のドアを閉める彼女はまるで棺の蓋を閉めるかのようです。鐘が鳴り、一つの密室に刻印された記憶の余韻とともに映画は終わります。

 4人の映画監督たちは、片や場面転換や時間の進み方によって緩急をつけることで、一方はアクションの速さによって緩急をつけることで、「気持ちの速さ」を表現しようとしていました。その契機として「倒れる」が重要な役割を演じていました。

 

以上で、映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.15「倒れる」を終えたいと思います。これからもさまざまな「倒れる」のニュアンスを楽しんで頂ければと思います。
どうもありがとうございました。
(以上、シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った)

 

【おまけ】

●『アルコール先生海水浴の巻

 

●『キートンのハイ・サイン』

 

●『ロイドの福の神』

 

●『カイロの紫のバラ

 

●『詩人の血』

 

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.15「倒れる」

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テーマ:倒れる

 わたしは何もないところでよくコケます。そんなときは恥ずかしくてたまりませんが、それを見た周りの方々は笑いこそすれ「映画的だ」と思うことはないでしょう。しかし、映画では、喜劇俳優がバナナの皮で滑ったり、銃弾を受けた俳優が倒れたときに、「これこそ映画だ!」と叫びたくなる瞬間があります。どうやらただ単に倒れればいいというものではないらしいのです。映画において、人が二足によって自立できなくなったとき、なにが起きているのか。映画を観ながらいっしょに考えましょう。

時間:2月13日(土)18:30~

場所:水曜文庫

   〒420-0839
   静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F

参加費:800円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-266-5376、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)

映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.14「コロス」

 本日はお集まりいただきありがとうございます。

 本日のテーマは「コロス」です。ギリシャ悲劇に出てくる合唱隊のことであり、コーラスの語源といわれています。コロスは、参加者の方々にイメージを伺った際に出てきたように、観客の気持ちを代弁したり状況説明をしたり、あるいは観客の視線誘導に用いられてきました。コロスによる観客の視線誘導は二通り考えられます。ひとつはコロス全員が一人の人物に注視することです。もうひとつはコロスが能の地謡のようにノイズを消す、存在を消すことで舞台上の人物に注目を集めさせることができます。片方は足すことで、もう片方は引くことによって、クローズアップのような効果をもたらし視線を誘導させます
 このような役割を持ったコロスですが、映画はどのようにコロスを取り入れていったのでしょうか? 

 先ほど述べたように、コロスの影響と思われる映画技法として、クローズアップやロングショット、ナレーション、BGMを挙げるができます。さらに、カメラポジションにまで話を拡げることができるのかもしれません。つまり「視線の誘導」がそこでは行われているのですが、しかしそこで誘導される「視線」とは登場人物や観客等誰の視線を指すのか一概に言えず、多様な意味を持ちます。ここではひとまず、参加者の方々からいただいた意見をまとめ、コロスを「観客を登場人物と同じ視点に立たせ、感情移入させながら語るもの」と考えましょう。

 そして今回は、コロスをいわゆる「ミュージカル」のような映画の語りがその瞬間にガラッと変わるものではなく、歌うことによって登場人物が”呼応”していく場面をご覧いただきながら考えていきたいと思います。

 

●『子連れじゃダメかしら?(原題:Blended)』(フランク・コラチ、2014)

 まずは、コロス的な立ち回りをする登場人物が出てくる映画をご覧いただきます。『子連れじゃダメかしら?』は、アダム・サンドラードリュー・バリモアのラブ・コメディです。
 互いに結婚したものの独り身であるアダム・サンドラー(妻とは死別)とドリュー・バリモア(夫とは離婚)はお見合い相談所の紹介でデートしたものの、最悪の印象に終わります。アダム・サンドラードリュー・バリモアの家を訪ねた際、アダム・サンドラーの上司とドリュー・バリモアの同僚が別れてアフリカ旅行のチケットが余っていることを知ります。子どもと旅行ができるとチケットを譲ってもらい旅立った南アフリカで、二家族は互いに何故いるのだと罵りあいます。当然同じ部屋に泊まることになるのですがアフリカを楽しんでいくなかで同性の親でしか分かってやれない悩み、問題を解決してゆき、互いに理解していきます。本日は、アダム・サンドラーが長女とバスケットをしている場面からご覧いただきます。

 アダム・サンドラーと長女がバスケットをしている場面から現地のダンサーたちとドリュー・バリモアや子どもたちが次々とダンスに加わる場面までご覧いただきました。
 南アフリカでの案内役である執事「ムファナ」と、客の出迎えやディナーショーで歌うコーラスグループ「タトゥー」が出てきますが、彼らはコロスの一つのかたちであるといえるのではないでしょうか。いたるところに顔を出し歌ったり踊ったりしながら、からかい茶々を入れることで盛り上がっていきます。
 ご覧いただいた、子どもたちが次々とダンサーらと踊っていく場面も、登場人物が呼応していく、最初はいがみ合っていた子どもたちが仲良くなっていく様子が観てわかる場面でした。「不在」や「欠落」を抱えた登場人物たちがお互いに助け合い、補完していくことによって乗り越えていく映画です。

 アフリカ繫がりでいえば、ハワード・ホークス監督の『ハタリ』にも登場人物が呼応していく、素晴らしいジャムセッションがあります。ジョン・ウェインは少し離れた所におり輪には加わらないのですが、彼が見せる笑顔は忘れられません。

 

 

●『アンティゴネ ソポクレスの《アンティゴネ》のヘルダーリン訳のブレヒトによる改訂版 1948年』(ストローブ=ユイレ、1991−1992)

 ポップコーン片手に二時間しっかりと楽しめるアメリカ映画をご覧いただきましたが、次にご覧いただく映画は、ただ今ご覧いただいた映画とは正反対のように思える、映画表現そのものがインディペンデントであるような映画をご覧いただきます。ストローブ=ユイレ監督の『アンティゴネ』です。ストローブ=ユイレ監督は、これまでのシネマ・カフェでも何回か取り上げています。「登山の映画史」で『セザンヌ』を、「本のある場所」で『すべての革命はのるかそるかである』『アーノルト・シェーンベルクの《映画の一場面のための伴奏音楽》入門 』をご覧いただきました。一見するとストローブ=ユイレ監督の映画はプロットや登場人物の感情よりもテクストを優先して撮影しているように思えます。しかし、文字から映像へ、作品の精神を大切にしながらもまったく異なるメディアへと産まれ変わるときに内包される「物語」を大事にして撮られています。画面を厳格な構図でおさめようとしながら、最後の最後のところでコントロールできない不決定な部分に賭けるという、製作過程そのもののドキュメンタリーであるかのような映画です。
 現代ドイツの代表的劇団であるシャウビューネ劇団の委嘱による舞台演出に基づいて映画化されたストローブ=ユイレ監督の『アンティゴネ』は、ソポクレスの戯曲をヘルダーリンが原作の精神に則ってかつ原作を凌駕することを目指しつつ、文法をある程度無視さえしつつ言葉を逐語的にはめ込み翻訳したものを、ブレヒトが戦後間もない不安定な情勢であった1948年に改作して発表した戯曲が用いられています。様々な時代的な層を持つ言葉を、いまや廃墟となっているシチリア島のセジェスタ古代円形劇場で、1991から1992年にかけて撮影された映画です。

 バッカス讃歌の第三のコロスから、アンティゴネの死出の道行きを見送る第四のコロスまでご覧いただきました。(上の動画は人間の不可思議さを歌う第一のコロス)
 長老たちがコロス役も務めることで立ち位置が明確になっています。立場がはっきりするということは、そこには偏りが生じます。そのため、コロスが普遍的、客観的ではない存在となっています。例えば、暴君を求めつつ拒み、拒みつつ求めるようなところがあり、長老らはクレオンのご機嫌取りをする権力の寄生者でありながら、都合が悪くなると手のひらを返し王を批判していました。それだけでなく、参加者の方が仰ったように、アンティゴネに批判されつつも長老らもアンティゴネを批判することで、絶対的な「英雄」がこの映画にはいないことがわかります。
 大昔にオルケストラだったと思しき場所に「現在」のコロスの声が響くことで、「不在」が結果として立ち上がってきます。そこでは、まさにアンティゴネが上演され、コロスたちが踊っていたかもしれません。姿をみせつつ画面からは身を隠す狂言回しのようなコロスは画面外からの「眼差し」を喚起します。俯瞰で捉えられた映像は、コロスの存在だけでなく、かつてそこにいた過去の人々の「眼差し」を喚び起こします。画と音を一体に記録する同時録音によって撮影当時の「現在(いま)」を記録し、同時に、画面は人物からパンしオルケストラと舞台の境を、音は肉感を伴ったコロスの声を主に捉えることによってフレームの内外を意識させます。まるで切り取られた岩石のようにカットが連なっていくことで、映画は1カット1カットが独立した音符のようでありながらも全体を通して観たときに、一つの作品として無数の調和=物語を内包しています。

 

 ●『タバコロード』(ジョン・フォード、1941)

 ストローブ=ユイレ監督によるインディペンデント映画のコロスをご覧いただきましたが、続いてはストローブ=ユイレ監督がとても影響を受けているジョン・フォード監督の映画をご覧いただきます。
 貧しい農夫が住み慣れた土地を維持するため資金繰りに奔走する話です。コールドウェルの小説『タバコロード』を、『黄金の馬車』をジャン・ルノワールとともに翻案したジャック・カークランドが戯曲化したものを基に脚本が書かれています。
 貧乏なレスター一家は空腹のあまり、訪ねてきた義理の息子からカブを強奪します。そこへ地主のティムが帰ってくることを知ったジーターは、金を借りてもう一度畑を耕すんだと意気込みます。しかし罪を犯したままではせっかく畑を耕しても収穫が少なくなると妻に促され「信心深い」ベッシーのところへ一家で告白しにいきます。そこへ、ティムが帰ってくるのですが、銀行員に日曜までに100ドル払わなければタバコロードから追い出されてしまうことが判明します。ティムから景気付けに1ダースのトウモロコシをもらうところからご覧いただきます。

 息子であるデュードに突き飛ばされた後、神に祈る場面までご覧いただきました。
 ベッシーたちが賛美歌を歌うとなぜか周りの人々までうっとりと歌い出してしまい、困難が解決されてしまうのが可笑しいですね。
 例えば「神の救済」という似たようなテーマを持つヴィンセント・ミネリ監督の『キャビン イン ザ スカイ』(1943)ほど宗教的な色合いを『タバコロード』から感じないのは、神が具体化した登場人物として出てこないということからくるのではありません。そしてそれが偶像崇拝の禁止から来るものというより、むしろフォード監督が「神」を観客へ明確に示さないことでかえって「神」の存在を感じさせ「神」が投げかける眼差しそのものが意識されるからではないでしょうか。画面には「神」を映さないことによって、「神」の「不在」が浮かび上がります。それはご覧いただいた場面の最後のところ、レスターの祈りの場面からもいえると思います。しかしわたしたちがこの映画で「不在」を最も感じるのは、反省の色をみせた途端に豪雨がおさまる瞬間でもなく、タバコロードに一陣の風が吹く瞬間でもなく、街で途方に暮れていた時、ジーターがだれかに見られているのに気付いたように振り向いて見つけたホテルにおいてです。
 デュードとベッシーが寝ている隣の部屋から車のキーが入ったオーバーオールを盗んできます。自室に戻ると、ベッドの位置が変わっていてカーテンが揺れています。明るい部屋には誰もいません。部屋の中の構図が変わっている違和感と誰にも見られていないことが「神」の存在を感じさせます。不在の眼差しに耐えきれなくなったジータは車のキーを取り出したあと、オーバーオールを元の位置に戻すのでもベッドの下に隠すのでもなく、タバコロードからの風が吹き込んでくる窓に向かって投げ捨ててしまいます。
 この場面にもコロスが登場しているように思えます。たとえばコロスがナレーションといった映画表現へとかたちを変えたように、この場合においてもコロスは映画表現へとかたちを変えています。画面目一杯に歌い上げ、神の不在を現前化させています。
 とはいえ、「不在」が「ある」ということは画面で明確に語ることができず、基本観客におもねられるものです。フォード監督が「神」をどの程度信じていたかは知る由もありませんが、映画それ自体の可能性、映画が観客に観られることによって完成する芸術だという意味において、フォード監督は観客をそして映画を限りなく信じていたのではないでしょうか。

 

●『彼岸花』(小津安二郎、1958) 

 フォード監督を好きな監督は世界中に多くいらっしゃいますが、日本でフォード監督の影響を受けている監督というとやはり小津監督ではないでしょうか。というわけで、最後に小津監督の作品をご覧いただきます。小津監督は歌う場面を多く撮っていらっしゃいますが、今回はその中から『彼岸花』をご覧いただきます。
 『彼岸花』は娘の結婚を認めない父親の話です。ある日、佐分利信演じる父親の職場に長女の同僚である佐田啓二が訪ねて来、長女の有馬稲子と結婚したいと言われます。自分なりに娘の結婚相手を考えていた父親は寝耳に水であり、自分抜きで話が進められていたことに納得がいかず、二人の結婚を認めません。しかし、行きつけの旅館の女将の娘によるトリックにひっかかり結婚を認めてしまいます。ところが、今度は結婚式に出ないと言い張ります。
 長女の結婚式の前日からご覧いただきます。

  笠智衆佐分利信が橋の上で語り合う場面までご覧いただきました。(動画は詩吟の場面のみ)
 同窓会にて、笠智衆太平記の名場面である楠木正成楠木正行が生涯の別れ場面をうたった「桜井の訣別」を吟じます。戦前の教科書には必ず載っていたそうです。
 その笠智衆の詩吟のあと、全員で唱歌を歌います。登場人物の気持ちが呼応しているようにみえます。詩吟の最中カメラは同窓会参加者のみを被写体とし、それ以外では宴会場の庭先のみです。次々と映されていく彼らが何を考えているのかはわかりません。結婚指輪をどこにしまったのか思い出しているのかもしれませんし、過去にした浮気のことを考えてるのかもしれませんし、防空壕に隠れていたときのことを思い出しているのかもしれません。結婚によって引き裂かれた親子の絆について考えていたのかもしれませんし、ただ単純に詩吟に感じ入っているのかもしれません。ある解釈を想像すれば、たちまちそれを打ち消すような新たな解釈が次々と生まれてきます。
 しかし小津監督は、画面にわかりやすく頭の中の空想を描き、意味を一つに狭めるような「再現」をしません。安易な再現の場面は観客の自由な視線を奪うことにつながると考えたにちがいありません。だから彼らのみでこのシーンを押し切ることに賭けたのだと思います。その結果、吉田喜重監督が指摘するように「意味が限りなく開かれた映像」であるかのような、「平山渉」という登場人物というよりも「佐分利信」という人間そのものの、存在そのもので成り立っているようなシーンとなっているのではないでしょうか。笠智衆が吟じるリズムや声の質感に合わせて、それ自体では
何を感じ考えているのかわからない彼らを、それぞれの映像の強度に従い結びつけ編集していくことで、観客は想像力を駆使して彼らの記憶を、そしてその記憶が移ろい変容してゆくさまをその時間の内にはっきり感じとることができます。映画は、画面は、たしかに物語っています。しかし、その声のひとつに耳を貸すとたちまち次の声が聴こえてくるような、ただ一つの映像があるだけであるのに無数のコロスが無数の物語を奏でています。
 ふと、『タバコロード』を思い出します。ジーターは明るく気は良いですが、善良な心を持っているとは言い難い農夫です。義理の息子からはカブを奪う、たまたま貰ったトウモロコシを子どもに見つからないよう『麦秋』のショートケーキのようにテーブルの下に隠す、息子の車を勝手に売ろうとする、夫婦で救貧農場へ行こうとするときも祖母と犬のことはまったく気にかけません。夫にしおらしく付いていくようにみえる妻も、カブを強奪したときはしっかり参加しており、物欲は強く、ベッシーの前で夫の罪をチクってはいたものの自分は懺悔していませんでした。救貧農場へ向かう途中、ティムの誘いに二人とも遠慮する素振りもみせません。
 しかし、救貧農場へ向かっている(と思っている)車の中で、二人をそれぞれ映すクローズアップには心を揺さぶられます。ジーターの頬の涙。彼岸を見つめるかのようなエイダの眼差し。ラブとの結婚の知らせを受けて身なりを整えるために駆けるエリー・メイをパンで捉えたカットとは、また異なる美しさです。
 ここで彼らが何を考えているのかは判りません。これが神の定めた運命なのか、もっと運命に抗えなかったのか、運のなさを悔いているのか、現実を受け入れた涙なのか、埋葬した5人の子を思っているのか、他人の方が知っているであろう存在さえも定かでない孫のことを思っているのか、それはわかりません。たとえどんなに心を入れ替えていたとしても、やさしい気持ちになっていてもそれはわかりません。それにそもそも「きもち」は見えません。残念ながらどんなに強くその人のことを思っていようと、私たちの眼には「きもち」は映りません。カメラも撮ることができません。映画にも映りません。わたしたちは行動することでしか「きもち」を表現することはできません。だからティムも車を走らせジーターたちを探しまわりました。思いを伝えるためには行動しなければ、「気持ち」は表すことができません。悲しいことですが、それが「現実」です。
 だけれども、特にものすごい出来事が画面で起こっているわけでもないのに、「世界」が劇的に変わっていく瞬間を目の当たりにしていると確信する瞬間が映画にはあります。二人が送り届けられるこの場面では、『彼岸花』の佐分利信たちのように、まさに、眼に見える彼らの映像から眼に見えない彼らの思考が可視化されるようにも思い、曖昧で儚い「現実」が劇的に、確かに、変わっていく様を目撃しているように見えます。

 『彼岸花』や『タバコロード』の不在を現前化させるコロスは、本日の始めに定めたコロスの定義「観客を登場人物と同じ視点に立たせ、感情移入させながら語ってゆく(補助的な)役割」とはすこし異なります。たしかに歌が歌われることで観客と登場人物が同化し、あたかも同一の視点を共有するように思えます。しかし、映像の意味は不確定で、一つの意味に決定するとたちまち他の意味を逃してしまいます。意味に囚われた「同調」は拒まれ、吉田喜重監督からの言葉を借りれば「意味が限りなく開かれている映像」ということでしか言い表すことができないような映像です。ひとつひとつの画面からあらゆる意味が剥奪され、登場人物としてではなく俳優の肉体がただそこに「ある」ことによって成立しているかのようです。この二本は、一見、登場人物に寄り添う契機となるようなコロス的な映像でありながら、実は意味の繋がりを拒みひとつひとつのカットが独立し浮遊している、いわば反コロス的ですらあるような、そのバリエーションのひとつなのではないでしょうか。

 今回ご紹介はできませんでしたが、「コロス」が出てくる面白い映画にウディ・アレン監督の『魅惑のアフロディーテ』や、コロスとは謳ってませんがコロスのような狂言回しが出てくる映画として、筒井武文監督の『オーバードライブ』、マックス・オフュルス監督の『輪舞』、マノエル・ド・オリヴェイラ監督の『カニバイシュ』等があります。今回扱った映画における「コロス」は限られた一部分でありますので、いろいろな映画にさまざまなコロスを感じ取られることと思います。これからも映画をご覧になる際に「コロス」のさまざまなかたち、バリエーションに注目して頂ければと思います。
 本日はありがとうございました。

(シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った)

 

・『輪舞』

・『カニバイシュ』

・『魅惑のアフロディーテ』冒頭

 

・『ザ・デッド』

 

 

【告知】映画☆おにいさんのシネマ・カフェ vol.14「コロス」

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今回のテーマは、「殺す」ではなく、コーラスの語源である「コロス」です。

コロスは、古代ギリシャ劇に出てくる合唱隊のことです。

コロスは、ときに踊ったりしながら、劇中場面の説明や登場人物の心境、観客の共感や反感を歌っていました。

長い歴史を持つ演劇のごく初期に表れたこの形式は、演劇だけでなく様々な芸術に波及しています。1600年頃のフィレンツェで、古代ギリシャ悲劇の復興運動から生まれたオペラはその最たるものといえるのかもしれませんが、映画も同様に影響を強く受けています。それはナレーションやカット割り等に見いだすことができるでしょう。

しかし今回は、いわゆる「ミュージカル」のような、映画の語りがその瞬間にガラッと変わるものではなく、「歌うこと」が地続きで起こっていながら登場人物が”呼応”していく、というコロスの機能に限定して扱いたいと思います。

映画における「コロス」とは何か? 
を共に映画を観ながら考えたいと思います。

テーマ:コロス(古代ギリシャの合唱隊)

時間:12月19日(土)18:30~

場所:水曜文庫

   〒420-0839
   静岡市葵区鷹匠町2丁目1の7 つるやビル1F

参加費:800円

予約・問い合わせ:水曜文庫(054-266-5376、suiyou-bunko@lily.ocn.ne.jp)