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映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.15「倒れる」

本日はお集まりいただきまして、誠にありがとうございます。

 本日のテーマは「倒れる」です。今週の月曜日、目の前の信号が変わりそうだったので、急いだら見事に転んでしまいました。久しぶりに生傷を右手と両膝小僧に負ってしまい「倒れる」ことの危険さを身を持って感じることができました。

 さて、そのようなリスキーさも併せ持つ「倒れる」ですが、参加者の方々に「倒れる」についてイメージを伺ったところ、死ぬとき、病気、失神して意識を失ったときに倒れるとのことでした。具体的な映画でいうと、チャップリンサイレント映画のコメディや『グラン・トリノ』、『ミリオン・ダラー・ベイビー』、『ケロッグ博士』、細田守監督の『時をかける少女』等を挙げていただきました。
 二本の足でバランスを保つことが困難になり手をつけない状態のときに倒れてしまいます。それは、ご意見を頂いたとおり、例えば意識を失うといった非常事態のときに倒れます。普通ではなかなかない状態、状況をどのように作り出すのか。それがどのようなシチュエーションかによって喜劇にも悲劇にもなりうる「倒れる」という運動を、どのように演出するのか。今から映画をご覧いただいて一緒に話し合っていければと思います。

 

●『レディ・イヴ』(プレストン・スタージェス、アメリカ、1941)
 まずはたくさんの「倒れる」が出てくる映画をご覧いただきます。プレストン・スタージェス監督の『レディ・イヴ』です。
 スタージェス監督はもともとは作家としてキャリアをスタートし、劇を何本か書いた後、ハリウッドで脚本家、監督として活躍しました。『偉大なるマッギンディ』で映画史上初めて自身の脚本を監督した脚本家であるとされています。のちにジョン・ヒューストン監督やビリー・ワイルダー監督が同様の転身を遂げることができたのも、スタージェス監督のおかげだと言われています。また、スタージェス監督が亡くなった際、ワイルダー監督は次のように語りました。

 スタージェスのような人物に代わりはいません。彼が死んだとき、我々は敬愛する一人の人物を失っただけでなく、映画の一部門をそっくり失ったのです。ああいう独創的な精神の持ち主はざらにはいません。彼が逝って、一つの種族全部が絶えたんです。そして映画史が偏りなく書かれるとき、プレストン・スタージェスは栄誉ある位置を占めることでしょう。彼は映画づくりにおける超人です。

 日本におけるスタージェス監督作は敗戦直後に『パーム・ビーチ・ストーリー(結婚五年目)』と『殺人幻想曲』が封切られたのみで、90年代半ば頃に開催されたプレストン・スタージェス祭を機にだんだんと観られるようになったようです。いまでは有り難いことに500円DVDで幾つかの作品を観賞することができます。スタージェス好きとして有名な方で、三谷礼司氏や小林信彦氏、蓮實重彦氏がいます。
 今回はスタージェス監督作の中でも最も有名な映画の一つ『レディ・イヴ』を映画の始めからご覧いただきます。

 

 

 バーバラ・スタンウィックヘンリー・フォンダがソファーで理想の相手について話す場面までご覧いただきました。
 「倒れる」ことによって二人は出会い、ご覧いただいた最後の場面でもヘンリー・フォンダが尻もちをついていました。それ以外でも全編を通していたるところで倒れています。その都度汚れた衣装はヘビが脱皮するように変えられます。
 詐欺師であるバーバラ・スタンウィックにどんどんハマっていくヘンリー・フォンダが面白いです。しかし、彼がバーバラ・スタンウィックを好きになっていく理由は彼女が彼をオトすために提示した「大佐の娘」や「イギリスの貴族」といった肩書きによるものではありません。あくまでバーバラ・スタンウィックの運動がもたらす一瞬の儚さに彼が魅了されているためなのです。
 映画の最後まで二人の間には「真実」の共有がなされてないように、この映画は真実と嘘を対立させて嘘を乗り越えるという話でなければ、両者の真意が最終的に伝わる話でもありません。情報の誤解によるすれ違いが二人の別れた原因ではないからです。

 たしかにヘンリー・フォンダは詐欺師連中の手品や詐称といった嘘(誤った情報)にいともたやすく騙されてしまいます。小舟から客船に乗ろうとするときバーバラ・スタンウィックが落としたリンゴに見事に当たっていましたし、それ以後のすべての策略に対してこれほどまでに引っかかっていいのかと思うほど容易く引っかかっています。三悪人を詐欺師だと知りえたのも彼らの嘘を見破ったわけではなく、たまたま人から教えてもらったためであります。大企業の社長の息子でヘビの研究者という「設定」のため、浮き世に疎くある程度の純粋さを備えた馬鹿な男と考えることもできますが、もしそうだとしたらひとつの疑問が生じます。これほどまで騙されやすくただ頭が足りないのならば、彼はなぜ愛する女性を間違えないのでしょうか。
 ヘンリー・フォンダは愛する女性を決して間違えません。目の前にバーバラ・スタンウィックが現れれば間違えることなく彼女に恋をしてしまいます。ビール会社の御曹司である主人公のパイクは女性の羨望の的であり、レストランへ行けば続けざまに何人もの女性たちからアプローチされる様子はご覧いただきました。だから、彼は女性にモテないわけでは決してなく、例えばジェーンとの失恋から傷ついて他の女性へ走ることも簡単にできたはずです。実際イギリスから来た淑女と恋に落ちるのですが、それはジェーンが変装したイヴという女性であり、結局彼が愛する女性はバーバラ・スタンウィックなのです。このことが喜劇的に見える一因でもあるわけですが、それよりもむしろどう変装していても彼女を見つける彼の繊細な感受性に驚かされます。
 では、このような鋭い感受性を持つ彼がなぜ二度も彼女を振ってしまったのでしょうか。ジェーンが詐欺師と判明したときやイヴが過去の男性遍歴を披露したとき、ヘンリー・フォンダは強がって彼女(たち)の気持ちを解ろうともせずに突き放しました。そのときの根拠は、船員が持っていた写真、音や意味がどんどんずれていきながら次々に挙げられる固有名詞が原因となっていました。そのような情報に翻弄されて目の前の対象から眼を背けたとき、彼は間違えてしまう。しかし、バーバラ・スタンウィックの一挙手一投足、彼女の運動のうちに宿る一回性の儚さに魅了される限りでは、まるで白昼夢を見ているかのように明瞭でありながらそこに存在していること自体が奇跡のようであるバーバラ・スタンウィックそのものに魅了されている限りにおいては、彼はいつも愛する対象を間違えません。ここでは、愛する相手が同一人物か別人物かどうかは問題ではないのです。
 イヴと別れ、「倒れる」ことで再びジェーンと船上で再会した彼は、彼女の手を取りものすごい速さで部屋へと連れて行きます。このとき、ヘンリー・フォンダが彼女との再会によって再び惚れる心理的なエピソードがあるわけでもなく、彼女にうっとりすることを示すクローズアップのような劇的な構成があるわけでもありません。早口で言葉を交わしあうも、情報に惑わされ三たび離れまいと、言葉はキスで遮られ、部屋のドアが閉められます。Positively the Same Dame! 彼女が同一人物かどうかばかりに気を取られ彼女の魅力に気付けないマグジーが部屋から追い出されることで、この映画は終わります。
 一回一回まったく異なる彼女のかけがえのない表情、しぐさ、声の抑揚にまなざしを向けることによって、わたしたちはいま、まさに未知の存在に触れていると実感します。髪型や名前、肩書を自由に変える彼女の姿を目の当たりにする内にジェーンやイヴといった役柄のイメージをいつのまにか忘れ去りバーバラ・スタンウィックの存在そのものを見つめています。
 このとき、わたしたちは物語に安易に感情移入できる安寧な立場にはいません。彼女を固定化されたイメージとして消費するのではなく、儚く移ろい消えてはまたすぐに顕われ時には不整合でもある存在として彼女をつねに見つめ続けなければならないからです。「真意」や「意味」が不確定であるがゆえに、より鮮やかに彼女の姿がヘンリー・フォンダの眼には映ります。その彼らの姿が生と死のあわいを行き来するように光と影を織りなす映画の姿に似ているため、わたしたちはスクリーンを推移する彼らの姿に映画を見ることそのものにも似た快楽と戦慄を見出だすのではないでしょうか。

 

 

●『キートンの探偵学入門』(バスター・キートン、アメリカ、1924)

  次は、見事な倒れっぷりの映画をご覧いただきます。バスター・キートン監督は、「駆ける」の回で「キートンのセブンチャンス」を上映しました。今回の『キートンの探偵学入門』も体を張ったアクションが見ものです。

 『キートンの探偵学入門』も、映画の始めからご覧いただきます。

 主人公が映画の画面に入っていったあと暗転し、映画内映画が本格的に始まる場面までご覧いただきました。
 給水塔から大量の水が流され主人公が落っこちたとき、キートンは首の骨を折ってしまったそうです。当時は痛みがあっただけでそれほど気にしてなかったそうですが、後年身体検査をした際に骨折の痕がみつかったそうです。

 さて、二つの「倒れる」がありました。バナナの皮ですべる場面と映画の中へ入っていく場面です。バナナの皮ですべるところは足がピンと伸びており、まるでオーバーヘッドシュートのような、ものすごい「倒れる」でした。キートン監督は『キートンのハイ・サイン』の中で「バナナの皮はすべるもの」というイメージを逆手に取ったギャグを披露していますが、この映画では見事にバナナで滑ってみせています。
 もう一つはスクリーンに入っていった場面です。映画のカットが変わっても主人公だけがそのままアクションが続き転んだり地面に刺さったりする様子が可笑しい場面でした。
 この場面はひとつの比喩を思い出させます。それは「映画は夢である」という、あまりにも有名でそれゆえに使い古された例えです。
 一般的に「夢」というと眠っている最中に見る、現実では起こりえないようなことが次々と都合良く起こり、現実感を欠いた心的活動のことを指します。しかしこの映画の場合では、「夢」をそのような目を覚ましたあとに思い出し起こった出来事を再構成することで、現実にありえない自由奔放なものと捉えるのではなく、柄谷行人氏が『意味という病』で述べていたような、起こりそうもないことが起きているにもかかわらず一瞬一瞬を了解していく、何の疑いもなく受け入れる状態のことと考えた方がしっくりきます。
 例えば、映画の中に人が入っていくというありえないことが起こっています。主人公はスクリーンの中へ入っていき恋敵にけしかけます。が、逆に突き飛ばされ、またむかっていき...とスクリーンの内外を行ったり来たりするのですが、主人公はそのことをちっとも不思議がっておらず、むしろスクリーンの中へ入っていけることを当然のように考えています。
 カフカが「本当のリアリティはつねにリアリスティックではない」と言い、「生」をその外側から距離をとって書くのではなくあくまでも内側から「距離」を奪い取られた現実として小説を書いたように、『キートンの探偵学入門』ではまったく現実的ではない出来事が残酷なまでに明瞭に起こっています。そこでは「現実」「夢」「映画」の区別がなく、それらすべてをそのまま受け入れてしまう、「夢」のような「現実」が描かれています。
 すでに「現実」で起こった事件は解決しているにもかかわらず始まる主人公が映写をしながら居眠りをする場面は、回想形式として「こんな夢を見た」という構成にはなっておりません。直線的な時間の流れの中で、寝ている「現実の主人公」と動きだす「夢の中の主人公」が同時に一つの画面に収まっています。「現実」と「夢」が同居しており、どちらが優位であるということはありません。
 起き上がった「夢の中の主人公」は、恋人と恋敵の姿をスクリーンに見つけ駆けて行きます。主人公がスクリーンへ足を踏み入れてしばらくすると、「映画」の世界は玄関から塀、街中、崖、岩礁へ次々と変わってゆきます。
 登場人物がいて物語性の強い映画だったはずが、実景カットばかりとなり急に映画のスタイルが変わってしまいました。その場所ひとつひとつは特定の場所として示されてはいませんが、幻想的な効果などで審美的なイメージとして処理されることはなく、あくまでも具体的で明瞭な場所として描かれています。こうして次々現れる「現実」を了承しつつ行われるアクションとシチュエーションによる凄まじいギャグは、映画の世界に足を踏み入れ「映画」に感情移入し同化しようとするわたしたち観客への警告でもあるかのようです。
 暗転すると主人公も消えてしまい、「映画」は「夢」とは完全に別の物語を語り始めます。「夢」が「映画」に呑み込まれた瞬間です。先ほどはカットが変わっても画面に異物としてあれほど定着していた主人公が、暗闇に包まれただけであっけなく消えてしまいました。それをさほど違和感なく受け入れてしまうのは、映画という表現自体があまりにもちぐはぐであり「現実」の再構成というにはあまりにも明瞭で猥雑で過激な表現手段であるためでしょうか。わたしたち観客も「映画」と「現実」との距離を失い始めているのかもしれません。
 こうして始まった「映画」は、盗まれた品物を見つけ恋人を取り戻すという「現実」で起こった事件とそう違いはない話でした。「夢」から覚めた「現実」の主人公に、駆けつけた恋人が盗難事件の誤解を謝り始めます。恋人をなだめるもなかなか気を直さないことに困った主人公は、自らが映写している「映画」の真似をします。「映画」とそれを模倣する主人公が交互に映されていき、そうすることで徐々に彼女を慰めていきます。終いに映画では子どもができたカットが映されます。それを模倣することができずに困る主人公がラストカットであるこの映画は、最終的に「現実」と「映画」がすり替わり、自然と「現実」が「映画」の模倣をするようになってしまっていました。
 「現実」「夢」「映画」はそれぞれ別のものでありながらも、それらの世界の境界は曖昧でありました。境自体も明確にあるようなものではなく、自由に行き来でき、境を跨ぐことで世界がまったく変わってしまうようには描かれておりません。現在においてはCGを用いてこの先は別の場所であることを示すため「触れると波紋がおきる」というような表現がなされたり、またジャン・コクトー監督の『オルフェ』のような素晴らしい表現もありますが、この映画ではそれらの境自体がなく地続きになっており、それゆえに主人公はつねに「世界」との距離が奪われている「夢のような世界」を生きていることが強調されていました。その「世界」は、いかなる意味付けからも拒絶されています。それは、現実のありとあらゆる無秩序を受け入れカメラが現実をそのまま映し出してしまうという映像の凶暴性として画面のいたるところにあらわれています。そしてそれが示すものは、「現実の世界」こそ「夢の世界」であり、「夢の世界」こそ「映画の世界」であり、「映画の世界」こそ「現実の世界」であるというキートン監督の認識にほかなりません。

 もし何を描くのかという主題に思想が現れるのではなく、主題がどのように描かれていたのかその形式に思想が現れるのだとしたら、キートン監督はとんでもない危険思想の持ち主と言えるのではないでしょうか。映画が現実を覆い作り替えうると宣言しているようなものです。周囲からアブない奴、危険人物と判断されてもおかしくありません。これほど過激な映画を一日中観ていたら現実との区別がつきかねなくなるのではないでしょうか。映画を観すぎるとバカになる、廃人になると言われていた時代があったことが納得できます。また、独裁者が映画芸術を取り込もうもしくは押さえ込もうとしていた理由もなんとなくわかります。とても笑える、と同時に映画表現の恐ろしさを体感できる映画でした。

 

 ●『幌馬車』(ジョン・フォード、アメリカ、1950)

 続きまして、移動していく中で様々な「倒れる」が出てくる映画をご覧いただきます。ジョン・フォード監督の『幌馬車』です。
 ハリウッドでは大ヒット作が出るとボーナスとして興行収入を考えずに映画を撮れる権利が低予算ながらも与えられるそうです。『幌馬車』は『黄色いリボン』のボーナスとしてその半分にも満たない予算で撮られました。しかし、フォード監督のオリジナルストーリーで撮られており、フォード監督自身、『逃亡者』『太陽は光り輝く』と同じくらい気に入っている作品だと語っています。
 ベン・ジョンソンとハリー・ケリー・Jr.演じる二人の若い馬商人はモルモン教徒の一行から目的地までの案内兼護衛役を頼まれます。西部の砂漠地帯を横断する危険な旅であるため一旦は断るも、酒場でいかさまのロイヤルストレートフラッシュを決めたあと、そろそろ出発の時間だということで見物に出向き木の柵に腰をかけます。女、子どもが多いモルモン教徒の一行を眺める二人は会話の流れから自然と歌い始め、歌い終わるといつの間にか案内役を引き受けることに決めています。「コロス」の回でお話ししたように、歌うことが心理的なきっかけというより、それまでの二人が過ごしてきた時間を感じさせる場面です。
 そうして歩を進める一行が、インチキ医師たちと出会う場面からご覧いただきます。

 途中、クレッグ一味が合流する場面からインディアンに鞭で打たれる場面まで飛ばしまして、インチキ医師の一行と別れる場面までをご覧いただきました。
 たくさんの「倒れる」の変奏がありました。まず、喉の渇きのあまり気を失い倒れるジョアン・ドルー。次に、水が掛かって驚いた馬から落ちるベン・ジョンソン。何事かと白い肩を露わにして顔を出すジョアン・ドルーの愛らしい顔とともに、些細なケンカや水の使用方法をめぐって悪くなっていた空気が和らぎます。そして、川が近いことを知った興奮が馬たちに伝わり暴走してしまったあと、頭から川へ飛びこみ開放的な「倒れる」がありました。
 中でも、特別に素晴らしい「倒れる」は、最後にご覧いただいた「倒れる」ではないでしょうか。一旦別れるもののベン・ジョンソンはハリー・ケリー・Jr.に口説き忘れたと言ってインチキ医師の一行を追いかけます。そして、ジョアン・ドルーへ自分はいつか牧場を開こうと思っていてそのときは手伝ってほしいことを伝えます。ほぼプロポーズであるこの申し出に対して彼女は一瞬彼方を見つめます。何かを想像してしまいます。「さよなら」とだけ伝え、ジョアン・ドルーは走り出します。しかし、「気持ち」を抑えきれないで倒れてしまいます。思わず振り返るも、それでも、ここにとどまってはいけないんだという「気持ち」が彼女を再び走りださせます。
 解っていながら惹き付けられてしまうどうしようもない未知の自分に戸惑い、自分でも知らなかった、コントロールできない未知なる「気持ち」が彼女を倒れさせ、また走り出させました。映画では、同じ動作であっても「倒れる」が間に挟まれると表す意味が変わることがあります。
 ベン・ジョンソンを振り切り、馬車に腰掛け煙草を吸うジョアン・ドルーは、何を見つめているのでしょうか。彼女が吐き出す煙と舞う砂埃が画面を移ろいます。それらがまるで同調しているように画面を覆うもすぐ消えてしまいます。流浪の旅を続けるであろう二人は今後二度と出会うことはないのかもしれません。砂埃が一時舞うもすぐに消えるように、二人のいく道が一時交差しただけだったのかもしれません。彼女の視線は、徐々に遠ざかるベン・ジョンソンを見つめているのか、それとも過去の恋愛を想っているのか、もしくは今後奇跡的な再会を果たし牧場を手伝うことを夢想しているのでしょうか。彼方を見つめたままジョアン・ドルーはタバコを投げ捨てます。
 この短いシークエンスは時間にしてたった3分程度しかありません。にもかかわらず、一つの言葉で言い表すことができない複雑な感情が絡み合ったショットです。このあとクレッグ一味によって捕まってしまうため、二人はご都合主義的にもすぐに再会してしまいます。ですが、歓喜と調和をもたらすジェーン・ダウエルが吹く角笛、インディアンの領地を知らぬ間に侵してしまい追われるベン・ジョンソン、インディアンとの交歓会で子どもが浮かべる微笑みと同様に、決して無視することはできない貴重な場面です。

 それにしても、彼女が駆け出すこの場面における「気持ちの運動」は、なんと「日常生活」に似ていることでしょうか。日々の生活がそうであるように、人は一つの気持ちだけを抱えて生きているのではなく、つねに複数の気持ちがそれぞれ複雑に絡みあいながら矛盾を抱え生きています。
 フォード監督の映画は、たった一つの気持ちに収束せず、ある場面が他の場面に影響を与え、画面で直接語られていない物語をも内包しています。そうした物語で表される「気持ちの運動」の在り方が、まるで日々の生活そのもののようです。つまり、フォード監督の映画においては、ひとつの美しいカットがあるのではなく、ひとつひとつの場面が織りなす「気持ちの運動」の在り方が相互に作用していき、結果として言い表しようもない美しさを感じさせるのではないでしょうか。

 

●『ガートルード』(カール・テホ・ドライヤー、デンマーク、1964)

 移動していく中で起こる「倒れる」をご覧いただきましたが、今度はほぼ一場面一室のあまり移動がない中での「倒れる」映画をご覧いただきます。
 カール・テホ・ドライヤー監督の『彼らはフェリーに間に合った』を「駆ける」の回でご紹介しましたが、今回はドライヤー監督の遺作である『ガートルード』をご紹介します。
 『ガートルード』は、政治家の妻ガードルードが若い音楽家ヤンソンと不倫しており、夫に別れ話を切り出す場面から始まります。さらに大詩人となった元恋人リートマンも登場して四角関係になります。筋だけ聞くとまるで昼ドラのようですが、カメラが俳優と一定の距離を保つことで、赤坂太輔氏の言葉を借りれば「フィジカルな事物感」とでも呼べるものが画面に荒々しく漲り、愛に振り回されていたハムレットの母と同じ名を持つ女性が終に真実の愛を獲得する話です。
 大詩人となって故国に戻ってきた元恋人リートマンが、コンサートのある二次会でヤンソンと出会ったこと、そのとき、最近の獲物の話としてガートルードとのことが秘め事にいたるまで話されていたことを彼女に告げる場面からご覧いただきます。ちなみにこの二人は実生活では夫婦です。

  不倫相手のヤンソンと別れる場面までご覧いただきました。
 自分の美しい過去を穢されてしまったとむせび泣き、本来ならばガートルードの方が遥かに辛いであろうに、元恋人は伝えるだけ伝えて出て行ってしまいます。彼女がショックを受けているところへ、頭痛がひどく別室で休んでいることを知っているはずの夫が、「学長が聞きたがってるから歌ってくれないか」と気を遣っている振りをしつつ頼んできます。しかもその伴奏者は先ほど裏切りを知らされた最愛の男とのことです。このシチュエーションの悲惨さをあえて受け入れるも、やはりその負荷は大きく、ガートルードは歌の途中で反転しながら前方に倒れてしまいました。
 彼女が「倒れる」までは、ご覧いただいたとおり、停滞感にも似た彼らの重厚な存在感で覆われた画面が多くの時間を占めていましたが、歌うことを決めてから倒れるまでにみせる場面転換の速さに驚かされます。部屋の仕切りが開けられ空間が変容してから目にも留まらぬ速さで支度をし、歌い、倒れます。その後どのように介抱したのかわからないほどの速さです。こうした場面転換の速さによって、彼女の「気持ちの速さ」が表されています。
 事実、倒れたあとのガートルードはそれまでの彼女と異なっています。溺れるように相手に依存していた愛から、強さを伴った自立した愛をもつ女性へと変わったようにみえます。そして、その愛は「気持ちの速さ」となってあらわれます。
 ご覧いただいたように、ヤンソンを旅へと誘う際には、これまで下手に出ていた彼女では考えられないような積極性を見せます。倒れた次の場面でいきなりすっと立ち上がったかと思うと、眼にも留まらぬ速さで膝ごとくるっと身体の向きを変えたり、ヤンソンをベンチまで追いかけていきます。ガートルードの「気持ちの速さ」に、「自分のしたいように生きる」と宣言するもその実まったく自由でないヤンソンは付いていけず、とぼとぼ家路に就くしかありません。この後も鏡から急に姿を現したり、鐘の音とともにあっという間に家から姿を消したりと、彼女のスピードに男たちはまったく着いていけません。ガートルードの火の出るような速さは、プライドばかり気にする男たちを置き去りにしてしまいます。
 こうして、三人の男性を撒いてパリへと赴き、約40年余も時を進ませ白髪となった彼女を友人のアクセルが訪ねるラストシーンとなります。そこで「愛がすべて」と言い切る彼女に清々しささえ感じるのは、こうした愛からくる強さ、それに起因する「気持ちの速さ」によるためではないでしょうか。彼女を恭しく慕うアクセルでも彼女に追いつくのにこれほどの時間がかかりました。彼女を見失わないために、わたしたちはひたすら眼を凝らすしかありません。わたしたちは彼女を必死に追いかけながらも、どこかでこの「気持ちの速さ」に似たものを感じていました。ヘンリー・フォンダバーバラ・スタンウィックを再会をした途端に連れて行く姿、映画内映画でシチュエーションとアクションがすれ違うキートンの姿、ベン・ジョンソンに別れを告げて走り出すも倒れ、再び駆けるジョアン・ドルーの姿。彼らが見せる「気持ちの運動」の在り方は、ガートルードのそれととてもよく似ています。
 圧倒的な速さとともに目の前の景色はあっというまに変わっていきます。それまで見ていた景色を置き去りにして、次々と新しい景色が目の前に現れます。
 アクセルが帰るとき初めてカメラが手前の空間から隣の空間へと移動します。別れの手を振るアクセルとガートルードが切り返され、書斎のドアを閉める彼女はまるで棺の蓋を閉めるかのようです。鐘が鳴り、一つの密室に刻印された記憶の余韻とともに映画は終わります。

 4人の映画監督たちは、片や場面転換や時間の進み方によって緩急をつけることで、一方はアクションの速さによって緩急をつけることで、「気持ちの速さ」を表現しようとしていました。その契機として「倒れる」が重要な役割を演じていました。

 

以上で、映画☆おにいさんのシネマ・カフェvol.15「倒れる」を終えたいと思います。これからもさまざまな「倒れる」のニュアンスを楽しんで頂ければと思います。
どうもありがとうございました。
(以上、シネマ・カフェの原稿に加筆・修正を行った)

 

【おまけ】

●『アルコール先生海水浴の巻

 

●『キートンのハイ・サイン』

 

●『ロイドの福の神』

 

●『カイロの紫のバラ

 

●『詩人の血』